春:殺人鬼たちの邂逅 2
(あー、憂鬱だ)
放課後。授業が終わった解放感に浸れるはずの時間だが、夏目の表情は浮かなかった。
彼女が今いるのは、校内にある図書室。
ライトノベルの所蔵は少なく、漫画の所蔵は無いに等しい。つまりよほど本が好きな生徒か静かな場所で自習がしたい真面目な生徒でも無い限り、オリエンテーリングか授業利用以外で来ることが無い場所だ。
しかし今、室内は十数人以上の生徒がいて、それぞれが交わす雑談で騒々しい。
夏目のクラスメートも先ほどまで隣にいたのだが、もっと仲が良い生徒のいるグループに混じって雑談に興じていた。夏目としても、無理に話をしていると殺人欲求の抑えが弱くなりそうなので、そういう対応は願ってもないことではあったが。
男女比率は均等では無いものの、それぞれの学年の生徒が等しい人数で揃っている。図書室だというのに本を読んでいる生徒は少なく、話をしている生徒の方が圧倒的に多い。戸に貼り出されている『私語禁止』の張り紙が哀愁を漂わせていた。
そんな図書室の戸には、今はこんな看板がかけられている。
すなわち、図書委員会使用中、と。
「君たち、いい加減静かにしなさい!」
騒々しい図書室の中で、一際大きな声が響く。自主的に静かになるのを待つのが不毛と気づいた若い女教師は、手を叩く音で生徒たちの意識を無理やり自分の方へと向けさせた。
ようやくそれで、いったんは静かになる。
口を閉じた瞬間に死んでしまうとばかりに、一部の女子は懲りずに小声で雑談を再開する。女教師はそれにこめかみをひくつかせたものの、今度は注意せず、本題を話し始める。
「それでは、今週の図書委員会を始めます。先週通達したように、今日は今年度の図書室カウンター当番の班決めです。一年生から順番にくじを引きに来てください!」
(……はあ)
そうして告げられた言葉に、夏目の憂鬱はさらに高まった。
今年赴任してきたばかりの女教師は、良く言えば理想が高く、悪く言えば周りが見えていないタイプの教師だった。
担当教師の転勤で空席になった図書委員会顧問。その後釜に収まった彼女は、持ち前の志の高さを遺憾なく発揮した。今までクラスごとに担当していた図書室のカウンター当番を、親交を深めるというお題目のもと、くじ引きで決めると言い出したのだ。
無論、先週は大ブーイングだった。
月二回の当番も、人によってはわずらわしい責務だ。
その上それを、ある程度気心が知れたクラスメートとではなく、ろくに言葉を交わしたこともないような先輩や後輩とやれというのだから、嫌がる声が多いのも当然と言えよう。
夏目は当番自体を厭うてはいなかったが、それでも知らない相手と組むのは嫌だった。
あまり面識がない人間には、殺人欲求の歯止めがききにくいのだ。
殺したくないというわけではない。
やれるものなら、今すぐ隠し持っているフォークを誰かの喉に突き立てたいくらいだ。
ただ、自分が所属するコミュニティーの空気を、自分の手で悪くしてしまうのは避けたかった。未成年から被害者が出てしまうと、市内全体の警戒レベルが上がるので、しばらく殺人がやりづらいから困るというのもある。
(夏休みの当番の時に、うっかり殺しちゃったらどうしよう)
物騒なことを、献立に悩むような軽さで考える。
殺人鬼としては正しく、人としては間違っていた。
「あー、やだな」
「面倒くさい……」
「かっこいい人がいいなあ」
「せめて可愛い子……」
一緒に班を組む候補の中に人殺しが混じっているとは露知らず、この班決めを最も嫌がっている一年生たちが順番にくじを引いては、席に戻りながらそれぞれの思いを零している。面識がない相手と組む可能性が一番高い彼らにとっては、それは切実な呟きだろう。
交換が発生しないようにか、女教師は引いた端からくじを開かせ、そこに書いてあるアルファベットを、クラスと氏名とともにホワイトボードに書き込む。神経質そうな文字を眺めてから、自分は果たして誰と組まされるのだろうと、何気なく図書室の中を見渡した。
図書委員会を選択する者の半分は、さらに厳しい業務が待っている委員会よりマシだからという消去法で選んでいる。だがもう半分は、夏目のように本を読むことが大なり小なり好きなため、この委員会を選んでいる者たちだ。
そのため、会話こそしたことはないものの、見知った顔自体はちらほらいる。あくまでも顔を知っている程度で、把握していてもせいぜい学年までだが。
しかし、その中で唯一、名前も知っている者がいた。
窓際の席に座り、周囲の喧騒がないもののように無表情を浮かべている男子生徒。
今年の三学年であることを示す緑色の校章を、ブレザーの胸元につけている。彼は去年も図書委員会に所属しており、図書室自体にもよく通っている生徒の一人だった。
人形めいて見えるほど整った顔立ちをしており、男性にしては長めの髪もあいまって、中性的な美形だ。時折女子生徒が、彼に熱っぽい目を向けている。それに気づいた男子生徒が嫉妬の目を向けるが、女子の眼差しにも男子の視線にも、彼は等しく凪のような態度であった。
(……雪町宗介、先輩)
そんな彼の名前を頭の中で転がしながら、頬杖をつく。
名前を知ったのは、去年のカウンター当番で彼の貸出手続きをした時だ。
かっこいい人の名前はかっこいいのだなと。最初にその名を聞いた時、世俗的な感想を感慨もなく抱いたのを覚えている。つまり、夏目は彼の容姿自体にはさほど関心はなかった。
殺人鬼にとって人間は、今殺すか、いずれ殺すかの二種類だけだ。
老若男女、美醜、人格の善悪、はては血の繋がりも問わない。
実の両親すら、いずれは殺す相手として見ているひとでなし。
そんな彼女が同じ委員会に所属しているだけの先輩の名前を覚え、その存在を記憶に留めている理由。それにもやはり、殺人という事象が関わっていた。
ポケットに忍ばせているフォークを、眼球に突き立てる――そこで終わる。
後ろからそっと忍び寄り、頸動脈に指をかける――そこで終わる。
同じく後ろから忍び寄って、ハードカバーの角を後頭部に振り下ろす――そこで終わる。
窓の傍らに立ったところを、後ろから突き飛ばす――そこで終わる。
頭の中で、思いつくありったけの殺人方法を、雪町に実行しようと試みる。
しかし、そこから先が続かない。この空間にいる他の人間を殺し尽くす想像はできるのに、雪町が死体になっている姿だけは、夏目は欠片も思い浮かべることができなかった。
今まで、誰であろうと頭の中で一回は殺してきた。
それなのに、雪町だけはなぜか殺すことができない。
(殺したくない……ってわけじゃないんだけど)
それどころか、実際に手をかけてしまいたいと殺人欲求が疼いてすらいる。
代替行為の未遂でたまったフラストレーションは、ずっと夏目の中でくすぶっていた。
「――――夏目! 二年四組、夏目柚木!」
不意に甲高い声で呼ばれ、思考に沈んでいた夏目の両肩がびくりと跳ねた。
「っ、はい!」
「貴方の番です、早く前に出てくじを引きなさい!」
反射的に返事をしながら顔を上げれば、肩をいからせた女教師がヒステリック手前の声で告げる。ホワイトボードを見れば、確かに次は夏目が所属する二年四組の番だった。
子供のように叱りつけられた夏目に、心ない小さな笑い声と不躾な視線が向けられる。羞恥で熱くなっていく頬を掻いていると、少し離れた場所でクラスメートが申し訳なさそうに手を合わせているのが目に留まった。
フォローができなかったことを詫びるクラスメートに気にするなと笑いかけてから、席を立ってホワイトボードの方へと向かう。そして、女教師の咎める視線を受けながら、段ボールで作られた箱の中から一枚の紙を抜き出した。
書かれていたアルファベットはF。
まだ誰の名前も宛がわれていないことに内心眉を顰めつつ、席へと戻った。
その際、気取られないよう、もう一度だけ雪町を見やる。
うっすらと突起が浮いた喉に、頭の中でフォークを突き立てようとする。その想像もまた、フィルムが途中で切れた映画のように続かない。思わず溜息が零れた。
(……雪町先輩とだけは、組みたくないな)
彼だけは、うっかりではなく、本当に殺してしまいかねない。
早く誰かの名前が書かれますようにと願いながら、今度は思案に浸らずくじ引きを眺めた。
二年生の番が終わると、残った三年生が順番に席を立ってくじを引き始める。
さすがに三年生の番ともなると空白のアルファベットはなく、穴抜けのパズルを埋めるように班が決まっていく。そのたびに溜息や安堵の声が上がる中、ゆっくりと席を立った雪町は、変わらず我関せずと言った様子でくじを引いた。
彼が差し出した紙を受け取った女教師が、その名前をホワイトボードに書き込んでいく。
――――Fの文字の、下に。
(……フラグ回収、早くない?)
雪町と組みたかったのか、何人かの女子生徒が嫉妬の眼差しを夏目に向ける。
代われるものなら代わってやりたい。痛さすら感じる視線にそう思っていると、ホワイトボードを見ていた雪町が、ゆるりと体の向きを変えた。
周囲に対して無関心そうだった青年も、さすがに自分の名前の隣に書かれているのが先ほど叱責を受けていた後輩なのはわかったらしい。一年間顔を突き合わせることになる相手を見定めるように、冷徹な目を夏目に向けてくる。
その眼差しに居心地の悪さを感じ、同時に殺したいとも思ってしまう。
それでもやはり、頭の中で雪町を殺すことはできなくて。
「……あは」
先行きの不安さを感じながら、半ば自暴自棄の思いで雪町に笑みを向ける。
引き攣ってないことを祈るばかりであった。
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