秋:怪物の名前 3
踊り場ですれ違った誰かを突き落として墜殺する。
紐状の飾りつけの近くにいる誰かを飾りつけで絞殺する。
使われなかった角材を掴んで通りかかった誰かを撲殺する。
そうして頭の中で赤の他人を殺しても、次から次へと見知らぬ誰かが現れる。
(ああ、殺したい)
文化祭二日目。
膨れ上がってきた殺人欲求を持て余しながら、夏目は人でごった返す廊下を歩いていた。
廊下ほどではないものの、教室の方も人の出入りが多い。そちらの方にいても殺人欲求が疼く一方だったので、裏方のノルマを果たした後、残りはクラスメートに任せて人気のないところへ行くことにしたのだった。一日目は勤勉に働いたのと、去年も同じクラスだった者は夏目の人ごみ苦手を知っていたのが幸いし、申し出は快く受諾された。
今は適当に食べられそうなものを買い、図書室へと向かっていた。
一般開放はされていないが、中に司書教諭がいることは知っている。読書好きで勤勉な生徒には甘いので、頼めば入れて休ませてくれるだろう。
(……ついでに先輩にも声かけてみるかな)
ふと、そんなことを考える。
一日目に少し覗いた時は、エプロンをつけて接客に難儀しているようだった。おざなりに浮かべられた笑みはたいそうぎこちないものだったが、それでも客足は他のバザーよりも多かったのは、決して気のせいではないだろう。
二日連続で売り子に駆り出されるとしても、さすがに一日通しではないはずだ。あちらも人の出入りがある教室で休むのは避けたいだろうと、同類に対する気遣いが足を動かした。
三年の教室は、別棟ではあるものの図書室と同じ三階にある。渡り廊下を通れば図書室はすぐになるので、遠まわりにもならない。人ごみの中をしばらく進み、雪町が所属する三年三組の教室に辿り着いた。
客のふりをして中に入り、机の上に陳列された品々に視線を走らせながら、教室の中をぐるりと見渡す。一週目で雪町にラブレターを渡していた女子生徒と目が合いかけたので慌ててそらし、二週目を経て目的の人物がいないことが判明した。
裏方スペースを確保する段ボール紙でできた衝立もどきはあるものの、その向こうにいるような気配もない。視線を三巡させたところで、雪町の不在を確信した。
(もう休憩入って、どっか行っちゃったかな)
それならそれで構わないがと思いながら、再び机の上に目を向ける。
さすがに上級生の店に来て、何も買わずに出て行くのは印象が悪い。何か適当なものはないかと物色していると、一つのものが目に留まった。
それは袋詰めされた、五本入りの青いヘアピンだった。
おそらく、買ったはいいが使う機会がなかったものを持ってきたのだろう。ひゃくえんと可愛らしく書かれた値札がついたそれを手に取って、まじまじと見た。
夏目は髪が長いので、こういったアイテムはよく使う。
だが、今脳裏に浮かべたのは、このヘアピンをつけた自分ではなかった。
(雪町先輩に合いそうだな、この色)
思い出すのは、夏休み前のやりとり。
男性にしては長い髪の理由を聞いた時、人に散髪されるのが苦手だから自分で取り返しがつく範囲で切っているのだと答えられた。
その時は散髪されるのが苦手という言葉に同意しただけだったが、鬱陶しそうに摘み上げていた前髪も、こういったもので留めれば楽ではないだろうか。邪魔と感じていても、性別ゆえにこういったものを自分で買う発想もあまりないだろう。
青みがかったヘアピンは、人形めいた顔立ちにも映えるに違いない。
(人殺しする時、前髪が邪魔で殺し損ねたら笑い話にもならないし)
そう、これは同類への気遣いだ。それ以外に意図なんてないのだと。
まるで言い聞かせるように思いながら、ヘアピンを会計場所へと持って行った。
銀色の硬貨を一枚出して、品物の所有権を買い取る。小さいものなので袋は断り、ポケットに突っ込んで教室を出ようと踵を返した。
「あれっ、そういや雪町は?」
「ああ、あいつなら女子に呼ばれてどっか行ったぞ」
そんな夏目の背中に、男子生徒たちのやりとりが届いた。
「またかよ。ほんとモテるなあいつ……」
「むかつくけどツラが良いのは確かだし、女子はああいう物静かな奴が好きだからなあ」
「んで、どんな子だった?」
「二年の校章つけてて、まあ普通に可愛い子?」
「普通か……よし!」
「美人がフリーだとしてもお前に脈はないんだよなあ」
「こらそこっ、ちゃんと呼び込みする!」
他愛もないやりとりは、売り子と思われる女子の一喝で終わる。男子生徒たちが慌てて持ち場に戻っていく中、夏目もまた、いつの間にか止まっていた足を動かした。
そのまま教室を出て、渡り廊下を歩く。
図書室がある特別棟は催し物が下の階に集中しているので、歩を進めるにつれて喧騒は離れていく。殺人欲求をくすぐる赤の他人の群れもまた、同様に遠ざかった。
「……先輩も大変だな」
道中、ぽつりとそんな言葉が零れる。
恋も愛もわからないのに、見目麗しいというだけで人間の恋や愛に付き合わされる。
大変だ。大変だろう。望まぬものに臨まされる同類に、同情を寄せる。
それだけのはずなのに、夏目の胸中にはなぜか小さなわだかまりがあった。
時折不意に走る痛みと同じ、不快とまではいかないが、無視もしにくいささやかな違和感。理由に思い至ることができない、不可思議な何か。
不意に走る痛みだけでも持て余しているのに、これ以上変なものが増えてはたまらないと。
夏目はそのわだかまりを、意識して排除しようと努める。
しかし、少女の殺人鬼に対して、運命と呼ばれるものは悪意的だった。
「――私、雪町先輩が好きなんです」
「――――」
図書室に向かう道中。
使われていない空き教室から聞こえてきた声に、足も思考も、止まった。
「去年の春、先輩に図書室で本を探すの手伝ってもらって」
(……早く行こうよ)
「その時から先輩のこと、気になっていたんです」
(立ち聞きなんて、趣味が悪いでしょう)
「図書委員にはなれなかったけど、それでも先輩に会いたくて図書室に通ってました」
(ほら、早く、行こう。離れよう)
「先輩のことを見るたびに、どんどん想いが大きくなって」
(足、動けって……!)
「どうしてもこの想いを伝えたくて、先輩にも共有して欲しくて。だから、雪町先輩」
私と付き合ってくれませんか、と。
この場から離れようとしない自分を叱責している間に、告白の言葉は終わった。
沈黙が落ちる。文化祭の喧騒からはそこまで離れていないはずなのに、まるで遥か遠くにあるかのように、ざわめきはほとんど耳に入ってこない。
その代わり、早鐘を打ち始めた鼓動の音が、やけに大きく感じられる。
抑えてないと誰かに、教室にいる二人に聞こえてしまいそうで。思わず前かがみになって胸に手を押し当てた夏目の耳に、今度は雪町の声が聞こえた。
そして。
「……君の気持ちは、嬉しいけど。ごめん」
(――――)
耳に届いた彼の声色に、思考と、今度は鼓動が止まりかけたのを感じた。
(……なん、で)
脳裏によぎるのは、数日前のやりとり。
受け取ったラブレターを見て、雪町は困った様子ではあったものの、そこには一片の惜しみはなかった。あまりにも脈がなかった。そしてそれはきっと、他の誰に対しても同じなのだろうと。夏目は無意識のうちに、そう判断していた。
恋も愛もわからない殺人鬼は、誰の想いも惜しむことはないだろうと。
そう、思っていたのに。
(なんで)
無意識のうちに頬に触れる。
引っ掻くような手つきで、傷跡の存在を確かめる。
(なんで、そんな)
未練があるような声で断るのだ。
本当なら応じていたかもしれないような、断ることを惜しむような声で喋るのだ。
(そんなの、まるで)
まるで、目の前の相手に好意でも寄せていたようではないか。
「……私じゃ、先輩に釣り合わないからですか?」
「君は可愛いとは思うけど……容姿は関係ないよ。僕は君のことをよく知らないし、例え知ったとしても、君が抱く想いを共有できるとは思えない。だから、ごめん」
「そう、ですか。わかりました……」
少女と同じくらい、ともすれば少女以上に打ちのめされた思いで立ち尽くす中、一つの恋があえなく散っていく。玉砕は覚悟だったのだろうか。ふられた少女は悲しげな声ではあったものの、食い下がることはせず雪町の言葉を受け入れていた。
恋の終わりを憐れむ気持ち以上に、なぜか夏目は心から安堵していた。
その安堵の理由はわからず、けれどそれが乱れた心を落ち着かせようとしていた。
されど、世界はひとでなしに容赦がなく。
「……先輩」
「なんだい?」
「最後に……。最後に一回だけ、抱きしめてもらってもいいですか?」
落ち着きかけた心は、再び激しく掻き乱された。
ずっと廊下の方に向いていた顔が、思わずといった風に教室の方を向く。ちゃんと閉めておかなかったのか、引き戸式のドアはわずかに開いていた。
運命の悪意は重なる。
その隙間から見える光景を、夏目の目は捉えてしまった。
「――――」
背丈の低い少女が、一歩踏み出す。
雪町は困ったように頬を掻きながらも、そっと腕を浮かせる。
少女がさらに近づき、雪町の胸に顔を寄せる。
そんな少女の肩を、雪町はぎこちなく抱きしめた。
「――――ぁ」
声が、出た。
それが酷く傷ついたような声だったことには、ついぞ気づくことはなく。
逃げるように、夏目はようやくその場から立ち去った。
「……?」
その直後。
足音に気づいた雪町が顔を上げたが、それは一拍ほど遅かった。
たった一拍。されどそれは、殺人鬼たちには致命的な分岐点だった。
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