第17話 勇者の証

 咆哮した邪神騎は、だがすぐには動き出さなかった。

 たった今起こった異変が何をもたらしたのか、探るように遠巻きにティーガーを観察する。

 エンジンも停止し、砲身を下げた鋼鉄の王虎は死んだように沈黙している。

 満身創痍となったその姿は、チート魔法を与えられて無敵化したようには到底見えない。


(だけど、こんな時に慢心した悪は大抵油断する)

(そしてわざわざ近寄ってトドメを刺そうとして、不意を突かれ敗北する)


 そんな展開の漫画やライトノベルなら、数えきれないくらい読んできたのだ。


(だから最後まで容赦しない)

(私の絶望で必ず、この異世界を滅ぼして……)


 少女は、気を凝らして魔力を練り上げた。手を緩めたり油断するつもりはない。「浮遊……」とつぶやき、付近の岩塊を再び宙に浮べる。

 檻の中ではアリスティアが手に汗握り、未だ動かないティーガーを見守っていた。中の少年は無事だろうか。ティーガーはまだ動かない。邪神騎が再び攻撃しようとしているのに……

 ようやく気がついた、とでもいうように掠れた音を立ててスターターが回った。咳き込むようにエンジンが動き出し、それまで項垂れていた八八ミリ砲の砲身が、騎士が槍をもたげるようにゆっくりと持ち上がった。


「おお、ティーガー……」


 息を吹き返したように動き出した王虎を見て、アリスティアは胸の前で両手を固く握り合わせた。

 ティーガーの中で、何度も衝撃に小突かれ打ち倒された少年が、それでも再び立ち上がったと思ったのだ。きっと、疲れ切り傷ついた身体に鞭打って……


(私の魔法が、ほんの少しでも何か力になれただろうか)

(テツオ、死なないで……)


 もちろん、アリスティアは自分の魔法が一体何をもたらしたのか、知る由もない。

 一方、邪神騎はのろのろと前進を始めた王虎を見て、今ならこれも避けようがあるまいと巨大な岩石を砕かずそのまま投げつけた。


「ああっ!」


 アリスティアは思わず目を覆った。あれほどの巨大な質量に直撃されては、ティーガーとて今度こそただでは済むまい!

 ゆっくりと砲塔を旋回させ、王虎は長い砲身を向ける。

 その滑らかな動作は、明らかに今までの機械的な動きとは違っていた。


(おや?)


 邪神騎の眼を通じて見た少女は、それが冷静沈着に標的を狙った動作のように思えて、まさか……という顔になった。

 轟然と八八ミリ砲が火を噴く。次の瞬間、岩石は空中で木っ端微塵に四散した。


「!!」


 さすがに少女は驚いた。

 巨大とはいえ、高速で飛来する物体を空中で正確に捉えて破壊するというパトリオットミサイルまがいの神業をティーガーはやってのけたのだ!


(これって、もしかしたらたった今あの王姫が与えた、謎の魔法の手妻なの?)


 狼狽したものの、彼女はすぐに気を取り直した。


(落ち着きなさい、沙遊璃。たかがまぐれ当たりのような一撃くらいで気後れしてどうするの)


 動けない人質の檻を盾に戦う限りこちらの優位は揺るがない。その上、邪神騎は鈍重な戦車より二回りは早く動けるのだ。

 少女は自分を落ち着かせるために二度、深呼吸した。


「派手な開幕の演出ですこと。では、絢爛舞踏第二幕を始めさせていただきます」


 邪神騎は再び周囲の岩石を空中に浮かべた。こちらへ向かって来る鋼鉄の王虎も加速してゆくのが見える。

 それは自分に対して不敵に挑戦する姿のようで少女には不快だった。劣勢を強いられていたティーガーが俄然、猛虎の面を突き出したのだ。彼女は王虎のスピードがさっきより上がっていることにも気がついた。

 エンジンがチューンナップされた訳ではない。

 それは操縦者が砂地や凹凸の少ない地形を巧みに選んで乗り入れ、速さを殺さぬよう走らせていたのだった。

 そうとは知らず、これも魔法で与えられた能力なのかと少女は訝しんだ。


「投擲……震盪刃!」


 苛立ちを振り払うように大鎌を振った衝撃波で砕いた岩石弾がティーガーへ襲い掛かる。

 だが、そのほとんどは軽快に走るティーガーを捉えることが出来なかった。


「ちっ。でも……」


 逃げるだけでは勝てまい、と少女はまだ己の優位を確信していた。


「私が檻を盾にしている限り、そちらは撃てないでしょう? ふふ……」


 だが、猛速のティーガーはその長砲身の八八ミリ砲を地表に向けると轟然、砲弾を放った。


「え?」


 砲弾は地表の岩地で弾かれて飛び魚のように宙に躍り上がる。そして空中で爆発した。


「ギャアアアアアアアアア!」


 榴弾を真っ向から浴びた邪神騎は、絶叫にも似た悲鳴を上げてのけぞる。

 人質を恃んだ隙を衝いた一撃は、地上から跳ねて上へ向かって爆発させた跳弾射撃だった!

 魔物や王姫の囚われた檻に被害は及ばないが、それは並外れた技量の砲手でしか出来ない射撃だった。


(正確さやスピードだけじゃない。戦い方も変わっている……)


 少女はそこでようやく思い至った。

 あの戦車を、少年ではない「誰か」が操っている。王虎を己の手足のように扱い、戦車の戦い方を知り尽くした誰かが!


「離脱……」


 檻を盾に出来ない以上、その場に留まっていたら再び被弾するだろう。手痛い一撃を受けた邪神騎は、一旦その場から離れようとした。


(リュード、痛い目に遭わせてごめんなさい)

(でも、すぐに相手にも同じ苦しみを味わせてやるわ)


 ティーガーの中では、召喚された男が檻から離れて距離を取る邪神騎を見て目を細めた。


「ほう、いい判断だが……撃てフォイエル!」


 そちらが容赦しなかったように、こちらも戦いを仕切り直す隙など与えぬ……と、ばかりに停止した王虎から八八ミリ砲が再び火を吐く。


「防御……」


 邪神騎が大鎌をかざすと、そこに重力を歪めた空間が形成された。砲弾は空間にぶつかって爆散すると、弾片は邪神騎へ届く前に押し潰されて消え去ってしまう。


「図に乗らないことね。こんな遮蔽術もあるのよ」


 少女は見下すように笑った。

 再び自分が優位に立ったと思った彼女は、もう一度巨岩を宙に浮かべティーガーへ散弾で攻撃しようとする。

 だが、対峙するティーガーからそれを見た男は、唇の端を釣り上げた。


「弾種を変えろ。装填」


 八八ミリ砲弾が砲腔へ吸い込まれるように装填された。鉄のスプリングが弾かれ、尾栓が金属音と共に閉ざされる。


撃てフォイエル!」


 邪神騎が巨岩を投げつけるより砲弾を素早く装填したティーガーの発砲が早かった。少女は「ちっ!」と構えを解き、再び防御せざるを得ない。


「でも、同じことを繰り返すだけ。無駄よ」


 嘲笑った少女の声がまるで聞こえていたかのように、ティーガーの中で男は「甘いな」と切り捨てた。


「えっ!?」


 今度の砲弾はすぐには爆発しなかった。重力空間を突き破った砲弾は、邪神騎の脇腹を抉り取った後で爆発した。

 爆発力の高い「榴弾」ではなく、貫徹力の高い「徹甲弾」を使ったのだ。

 二千メートルの距離でも一八センチの装甲すら撃ち抜く八八ミリ砲弾に直撃されては、硬く鎧った邪神騎の甲冑も簡単に突き破られてしまった。


「ギガァァァッ!」


 獣じみた叫びをあげ、邪神騎は打ち倒される。今度は少女も悲鳴をあげた。


「こいつ!」


 唇を噛んで、牙を剥いて反撃してきた王虎を睨みつける。

 今まで圧倒されていたはずのティーガーが劣勢を覆し、邪神騎を逆に追い詰めている。今度はかなりの深手を負ってしまった。

 傷口から緑色の体液を噴出させながら、邪神騎は苦しげに身を起こす。

 少女の顔にふと、弱気な、哀しい感情が浮かんだ。


(もしかしたら、このまま敗れ去ってしまうのかしら)

(敗れたら、私どうなるんだろう。元の世界でも死んだから消えてしまうのだろうか)


 もともと親に顧みられぬ己の悲しみを憎悪に歪め、この異世界と共に滅ぼうという身勝手な欲望なのだ。


(敗れたら、誰にも私の悲しみを理解してもらえないまま消えてしまうの……?)


 死ぬことより孤独なまま消える寂寥感に一瞬気持ちが囚われた。


(いいえ、まだ負けた訳じゃない!)

(リュード、私に力を貸して!)


 少女の想いに応えるように邪神騎が再び咆哮した。負傷も顧みず、口から眩い光線を放ちティーガーを直撃する。

 だが、魔法攻撃を受け付けないティーガーにまったくダメージはない。

 しかし、それは破れかぶれの無意味な攻撃ではなく目眩ましだった。その間に岩石を宙に浮かべ、投げつけたのだ。


「震盪刃!」


 衝撃波で砕かれた岩石の散弾のうち幾つかがティーガーに命中した。


(当たった。まだ戦える!)


 幾度も被弾し傷ついた身では、さすがに以前のように素早く動くことはもう出来ない。

 しかし、それくらいで少女の闘志はまだ折れてなどいなかった。


(ここで倒れて終わったら、私は……私たちは……)

(負けるわけにはいかないの。必ずこの異世界を巻き添えに滅びて……)


 攻守所を変えた鋼鉄の王虎の猛攻を邪神騎は正面から受けて立った。

 荒野に王虎の砲声と邪神騎の咆哮がこだまする。真っ赤な火炎がまくれ上がり、黒煙が奔騰した。

 離れた檻の中から見守るアリスティアや魔物達の眼に、その戦いぶりは切れ切れに垣間見えるだけだった。それでも互いに一歩も譲らない死闘を演じていることだけはわかった。

 両者は雌雄を決するまで、その矛を収めるつもりはないのだ。


(テツオ……)


 王姫は跪くと、静かに祈りを捧げ始めた。

 彼等をよそに、彼方では激しい攻撃の応酬が交わされていた。殴り合うように砲弾と硬い岩石が互いの身体を叩き合う。

 だが、次第に優劣がはっきりと現れてきた。

 出血しながら戦い続け、甲冑を割られ、何度も痛打を受けた邪神騎の動きは目に見えて鈍ってきたのだ。


「まだよ、接近戦なら……」


 その大鎌で鋼鉄の装甲を貫くべく迫ったが、鋼鉄の王虎は後退しながら砲塔の同軸機銃を乱射して接近を阻み、容易に近づけさせない。


(おのれ……!)


 焦れて再び咆哮すると、それに呼応したかのようにティーガーから八八ミリ砲が吠えた。

 それは、ティーガーへ刺突しようと振り上げた毒針の尾に直撃し、邪神騎の尾部は無惨に千切れ飛んだ。


「ギャオオオオオオオオ!」


 絶叫し、のたうつ邪神騎をティーガーの中から男は冷静に観察していた。

 敵は深手を負い、半ば気力だけで向かってきている。もう、そんな長くは戦えまい。


「敵は二時方向。鉄鋼弾装填」

「了解……装填完了」

「速度そのまま。射角二度下」


 狂おしくハンドルを回して照準を微調整する砲手、重い砲弾を素早く込める装填手。レシーバーを付けた戦車長の命令下、速回しの映画のように目まぐるしく彼等が動き回る様子を、後ろでうずくったまま、少年はじっと見つめた。

 本を読んで想像するしかなかった、神話のような光景を今自分は目の当たりにしている……


撃てフォイエル!」


 男の鋭い叫びに八八ミリ砲が呼応した瞬間、ティーガーの全身は前方から怪力で叩かれたように震えた。待避した装填手のすぐ横を砲尾が巨大なハンマーのように五〇センチも後方へ反動する。


「ぼ、防御……!」


 ついに少女は冷静さを失った。大鎌をとっさにかざす。

 だが、盾代わりのそれをも砕いて砲弾が命中した。

 大音響と共に炸裂すると、胸を撃ち抜かれた邪神騎は大きくよろめく。致命傷に近い一撃だった。

 それでも、折れかけた大鎌を大地に突き立ててかろうじて持ちこたえ、倒れようとはしない。


「まだ……まだよ……」


 もう、立っているだけでやっという有様だった。チート勇者の数倍は所持していた膨大な魔力もついに尽き果てた。

 それでも付近の岩石を再び浮遊させようとするが、ゆらゆらと宙に浮きかけた岩は途中で地上へ落ちてしまった。

 そして、邪神騎も大鎌を杖のように捧げ持ちながらずるずるとうつぶせに倒れ込んだ。


「次で決着がつくようだな。前進停止、装填」


 車内に白煙がけぶる中で、装填手は尾栓を開けて薬筒を滑り落とし、素早く次発を込めた。

 だがどうしたことか、男はふいに天を振り仰いだ。


「いや、ここまでだ……」


 彼等は……戦うのをそこで止めた。

 仮初めに与えられた時間、召喚の刻限が迫ったのだ。


「……我らが去らねばならぬ時が来た」


 彼は静かに言うと、レシーバーを外し指揮官席から立ち上がった。砲弾は装填されたまま、兵士達もそれぞれの席から離れてしまった。彼等の身体は、透き通るように消えはじめている。

 男は、後ろに蹲って自分達の戦いぶりを見守っていた少年に近寄るとその眼をじっと見つめ、ドイツ人特有の強い言い回しで告げた。


「後はお前の果たすべきことを為せ」


 果たすべきこととはなんだろう、と少年は思った。

 僅かに体力が回復していたが、どうしたことか、立つことも喋ることも、何故か出来ない。


「我らは多くの敵を倒し、この手を血に染めた」

「……」

「だが、この王虎とお前の手はまだ汚れていない」


 男の言葉に、少年はハッと我に返った。

 そうだ、殺したいほど憎み、怒りに燃えた時もあったが……自分はまだ一つの生命も奪っていない。


「それは間違っていない。お前は正しいのだ。生命を奪った者は、もう修羅の世界から引き返すことは出来ないのだから」


 男の鋭い目は、自分を見上げる少年の瞳が潤むのを見て、ふっと和んだ。


「そうだ。どんなに辛くともその生き方を貫くがいい」


 男は、首許から勇者の証である騎士鉄十字章を外すと少年の首に掛けた。

 そして、頬を優しく叩いて微笑んだ。……お前はこれにふさわしい勇者だ、というように。


「さあ行け……弱き者を守る為に」


 少年が下から見上げるキューポラのハッチから青空が見えた。鋼鉄から丸く切り出されたような、魂を吸い込みそうなほどの青い青い空。

 彼等は一人、また一人とハッチから出てゆく。そして外に広がるその蒼穹へ溶けるように消えていった。


(待って、僕の英雄……)

(僕は……僕は……)


 少年は彼等の後を追い、ティーガーの外へよろばうように這い出た。


「ヴィットマン……」


 鋼鉄の王虎を駆った彼の姿はもうどこにもない。少年はその場にへたり込んだ。


(せめて一言……あの人と言葉を交わしたかった)


 何も言わなくても伝わっていたかもしれない。

 それでも言葉にして言いたかったのだ。貴方にずっと憧れていたと。

 だが、彼はもう去ってしまった。

 少年はふいに子供のように顔を歪め、泣きだした。


「テツオー!」


 呼び掛ける声に顔を向けると離れた場所で檻に囚われていたアリスティアが懸命に手を振っていた。あの少女の魔力が尽きかけたおかげなのか、鉄の檻も透き通るように消えかかっている。


(そうだ、あいつはどうなった?)


 少年が思ったとき、アリスティアが悲鳴をあげた。


「テツオ、あぶない!」


 それまでティーガーの前でのたうち回っていた邪神騎が残った力を振り絞って身体を高く持ち上げ、少年とティーガーへ伸し掛かるように迫っていたのだ!


「お前も……一緒に、滅び……!」

撃てフォイエル!」


 そのとき少年は、ずっと憧れていた伝説の英雄ヴィットマンに一瞬、自分もなれたような気がした。

 彼の叫びと共に一閃、八八ミリ砲が火を噴く。

 至近距離からの砲撃では避けられようはずがなく、砲弾は邪神騎の前頭部を直撃し、粉砕した。


「グワゴガァァァァァァァァァァッ!」


 お腹の底から絞り出すような断末魔の叫びをあげた悪魔の化身は、その巨体をぐらりと傾かせると、ビルが倒壊するように地響きを立てて崩れ落ちる。

 その巨体は二度と起き上がらなかった。

 鋼鉄の王虎は異世界を滅ぼそうとしていた邪神騎をついに倒したのだ。

 遠くから魔物達の大歓声があがった。彼等を捕えている檻も、もうほとんど消えかかっている。


「……」


 少年は勝利の高揚感も感じないまま、敗れ去った邪神騎をぼんやりと見下ろした。力が抜け、身体から魂が抜けそうなほどの疲労が押し寄せてくる。

 敗れたはずの邪神騎がもう一度立ち上がるのではないかと警戒心を緩めることが出来なかったが、それは杞憂だった。

 邪神騎はあちこちから瘴気を吹き出し、その姿をボロボロと崩していった。ぼろ雑巾のようになった身体は、腐肉とも巨大な粘菌ともつかない姿に変貌しながら大地へ染みのように拡がってゆく。顔をしかめずにいられないほどの悪臭が漂った。

 そして。

 溶け落ちた肉塊の中から、臓物のような塊が、ぬめり粘着きながらずるずると這い出てきた。しかし、それは邪神騎の臓物ではなく……


「リ、リュ……ド」


 被膜を破り、気を失った男を引き摺るようにして少女が現われた。

 二人ともヘドロのような体液と緑色の血に塗れ、泥人形のようだった。


「ごめんなさい。あなたと一緒にこの異世界を滅ぼしたかったのに……」


 邪神騎から顕現した少女、本物河ほんものかわ沙遊璃さゆりは震える手で、気を失ったリュードの頬に触った。


「私、とうとう何も出来なかった。この世界を滅ぼすことも、爪痕ひとつ残すことも。でも……」


 震える手で魔法円を描く。残った僅かな魔力で作った帰還魔法だった。


「あなたは元の世界へ還してあげる。死ぬのは私だけでいい……」


 魔法円に弱々しい光が宿った。


「元の世界へ戻っても私のこと、忘れないでね」


 ティーガーの上の少年に冷たく背中を向けて……彼のことなどどうでもよかったのだ、少女は自分が苗床にしたチート勇者へ優しく頬ずりした。


「さよなら……」


 名残を惜しむように唇を押し付けると、魔法円へリュードの身体を押し出そうとする。

 その手を、ガッと掴んだ腕があった。


「駄目だ……」

「リ、リュード!」


 かろうじて意識が戻ったリュードが、少女へ笑いかけていた。

 ほとんど開けられないくらい眼が腫れている。少女同様、身も心もボロボロで半死半生だったが、少女の手を押しとどめると、逆に彼女を魔法円の中へと押し出した。


「あっ……!」


 円の中に入ってしまった少女に反応して、光が中のサークル内部に刻まれた呪文を読み解き出した。


「お前が還るんだ……」

「そんな……私は元の世界へ還れないのよ! どうせ死んでるんだもの!」

「いいや……」


 リュードはニヤリと笑った。


「還れるさ。もしかしたら邪神騎にはもっと凄い力があってあの戦車に勝てたかも知れねえ。でも、それを邪魔しやがった奴がいたんだ」

「え……?」

「死にかけたお前を助けようと命を賭けた奴が」


 思わぬ告白に唖然となった少女は「そんな、誰が……」と、つぶやく。

 そのとき、魔法円から浮かんだ四つの大きな手が彼女の手を抱き留めた。


(沙遊璃ちゃん、死んじゃ駄目!)


 ふいに、次第に弱くなる心電図の電子音と泣き叫ぶ声が聞こえてきた。


(沙遊璃……こんなに苦しんでいたのに甘えていたパパを許してくれ)

(沙遊璃ちゃん、ごめんなさい! ママが馬鹿だったわ!)

(パパとママ、やり直すから! お前が生きてさえくれたら……だから死なないでくれ!)


 病室で、今しも生命の灯火の消えかけた娘の手を握り、必死に呼びかける両親の声。一度は諦めたはずの親子の絆……


「パパ……ママ……」


 温かい、大きな手が少女の身体を包み込む。

 異世界で悪へ染まりかけた我が子を、そうと知らずに懸命に現世へ引き戻そうとする両親の必死の想いが、本当なら異世界を滅ぼせるほどの力を阻んだのだ。


「でも、私……」


 これまでのことを思い出して罪の呵責に声が震える。俯いた少女へ、リュードは「いいんだ。お前には帰る場所がある。行くんだ」と微笑んだ。


「あとは、オレに任せろ」

「でもあなたは……あなたの帰る場所は……?」


 あるはずがない。トラックの前に自ら飛び込んだ自分なんかには……そう思ったリュードは、聞こえない振りをして「大丈夫だ、後は任せろ……」と嘯いた。


「この異世界との決着は、オレがつける」

「リュード……」

「還るんだ。お前が命懸けで掴み取った両親の許へ……」

「リュード、リュード! あなたも一緒に……!」


 何度も呼びかけ、涙ながらに手を伸ばした少女の姿は透き通るように魔法円の中で消えてしまった。


(そうだ、これでいい)

(これで良かったんだ。オレは……)


 この異世界に来て、今ほど自分は無様な姿はしていないだろうとリュードは思った。血泥と腐肉に塗れた惨めな敗者。

 だが、不思議と自称チート勇者として振る舞った頃の、燻るような自分への嫌悪感を感じなかった。

 誰かの罪を背負って、これからもっと惨めな思いをするはずのエセ勇者。魔力も枯れ、剣を握る力さえ覚束ないのに、気持ちだけが何か清々しかった。

 情けない敗者を演じ、このまま醜い最期を迎えれば、ゴミクズのようなこの命が捨て石となり、皆が幸せになれる。


「さあ、最後の勝負だ。鋼鉄の王虎……」


 少女の遺した大鎌を拾うと、リュードは足を引き摺るようにしてティーガーへ近寄った。斬りかかる……と、いうより疲れ切った鉱夫がつるはしを振うように打ち下ろす。ティーガーの厚い装甲は、蟷螂の斧のような一撃を冷たく弾き返した。


(さあ、撃て……)

(オレのような三下じゃラスボスには役不足だろうが……撃て。それで全てが丸く収まる)


 だが、ティーガーの銃口は沈黙したままだった。


「何だよ、撃てよ。撃たなきゃオレの最終奥義ファイナルアセンションが炸裂するぞ……」


 そんな技などあるはずがない。魔力は枯れ果て残ってなどいない。少年はティーガーの上から何か痛ましそうに、道化を演じるチート勇者を見つめていた。

 自分の身体が透きとおり始めたのを見て、リュードは涙混じりの罵声を浴びせた。


「撃てよ! オレを惨めなまま最後まで晒すつもりか?」

「……」

「撃てよ! 頼む、撃ってくれ……元の世界に還ったってオレは……オレは……」


(お前の果たすべきことを為せ。お前の手はまだ汚れていない)

(どんなに辛くとも、その生き方を貫くがいい……)


 去っていった偉大な戦車兵の言い残した言葉が、ふいに少年の脳裏をよぎる。

 彼は黙ってティーガーから降り立った。

 傷つき疲れ果て、今にも倒れそうになりながら少年は、しきりに自分を撃てとせがむリュードへよろよろと近づき……その肩を掴むや、力一杯抱擁した。


「あ……!」

「そんな見え透いた芝居で自分を貶めたら駄目だ、勇者リュード」


 耳元で少年はささやき、リュードはハッとなった。

 今まで数え切れないくらい勇者を自称し、仲間やこの世界の人々からも勇者と呼ばれた。

 だが、このとき少年から言われた「勇者」という言葉には、今までとは違うずっしりとした重みがあった。身体がカッと熱く反応した。


「勇者って……困った人や悲しい人を助けるんだろ?」

「でも、オレは……」

「勇者ごっこで人を助ける振りじゃなくて、還った世界で今度こそ誰かを救ってみせろ。本当の勇者になるんだ」

「出来るもんかよ! こんな底辺の引き篭もりニートがよ!」


 泣きながら首を横に振るリュードに少年は「出来るさ」と笑いかけた。


「今、あの娘を救ってあげたじゃないか」

「え……?」


 己の行為が誰かの罪を庇い救ったのだと言われ、ぼう然となったリュードは「オレが、助けた?」……俄かには信じられないという顔になった。


「そうだよ。それが出来る人こそ、きっと勇者なんだ」


 恥ずかしさと困惑と、そして生まれて初めて感じる何か誇らしい気持ちが綯い交ぜになり、リュードは顔を奇妙に引き攣らせた。


 「オレに……そんなことが……」とつぶやくリュードの姿は、もう消えかかっている。

 そんな彼の背中を力強く叩いて、少年は励ました。


「さあ行け……弱き者を守る為に」


 「彼」が最後に言った言葉を少年は真似た。困惑が消えないリュードは頷くことが出来ず、「オ、オレは……」と俯いたままスッと消えていった。


「……」


 リュードが消えると、半ば彼にもたれかかっていた少年は、そのままふらりと前のめりになった。


(疲れた……もしかしたら、僕もこのまま消えて……)

(消えたら、死ぬんだろうか……)


 だが、倒れかかった少年をそのとき、アリスティアが背中から抱きしめた。

 そして次の瞬間、たくさんの魔物達の腕が周囲から伸びて、崩れ落ちそうになった彼の身体を支えたのだった……

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