第13話 空に歌、地には祈りを
西へ、西へ……
人の住まう場所から離れた地に築いた王国。その地をもチート勇者に奪われたリアルリバーの魔族は安住の楽園を目指し、ひたすらに進んでゆく。
今までと同じだったら、その歩みは苦しく遅々としていただろう。
だが少年が苦心して作ったトロッコによって、徒歩だった頃より彼等の旅は大きく様変わりした。
身体の弱くなった王姫を気遣ったゆるやかな速さではあったが、足を痛めながらも歩き続けるしかなかった今までの苦しい逃避行が嘘のように快適になったのだ。
アリスティアの療養で留まっていた森を離れて以来、どこまでも続く荒野をティーガーは轍を残しながら連々と進む。
道なき荒野といっても時には僅かに生えた木々や水の湧き出る緑地、小川に出遭うこともある。そこへ立ち寄っては憩ったり、一夜の宿とした。
木々や草花には食料を、泉や川からは水を求めたが、充分な数や量はなかなか得られない。それでも今のところは節約して何とかやり繰り出来ていた。
心配ごとの種は尽きなかったが、それでも魔物達の表情はどこか明るい。彼等の顔からは、敬慕する王姫を自分達が支え旅路を拓いてゆくのだ、という強い意思が見て取れた。
そして、そんな気持ちを呼び起こさせた少年……今も鋼鉄の王虎を従えて一行を先導する彼には限りない信頼を寄せていた。
「テツオ、疲れただろう。冷たい水を汲んできたから飲んでくれ」
「ありがとう。ちょうどのどが渇いてたんだ」
「アリスティア様、これを召し上がってみて下さい。樹に傷を入れて染み出た樹液が固まったものです。甘くて柔らかくて疲れも取れますよ」
「まあ、ありがとう。でも先に子供たちへ……」
「みんなの分はちゃんと取り分けてますよ。テツオも食べてくれ」
ティーガーを止めて休憩を取るたび、魔物達は少年を労わり、アリスティアを気遣った。
休憩や宿泊で停止すると、トロッコから降り立った魔物達は交代で担った役目をきびきびとこなした。ある者は見張りに立ち、ある者は水や食料を探し、ある者はトロッコに故障や損壊がないか調べ……少年がキャタピラの緩み具合を調べると「力仕事なら任せろよ」と手伝ってくれる。
もう、アリスティアは何も言う必要がなかった。
自分の代わりに彼等自身が色々なことを心配し気がついてくれる。彼女は、ただ微笑んで見守るだけでよかった。その笑顔はいつも感謝を告げていて、それだけで魔物達の心は喜びに満たされた。
「さあ、そろそろ出発しようか」
ひとときの休息で疲れを癒した頃に少年が声を掛けると、魔物達は次々とトロッコに乗り込んだ。
準備が出来たと一匹のドワーフが合図すると、少年は高々と上げたを右手を振り下ろし号令を掛ける。
「
マイバッハエンジンの音も高らかに、ティーガーは再び「ゴウンッ――」と、鉄のキャタピラを軋ませ、ゆっくりと動き始めた。
巨大な起動輪が重い鉄のキャタピラを一枚、また一枚と地面に降ろすたび、そこに轍が出来る。鋼鉄の塊が異世界の大地へ打ち付けた刻印である。ティーガーの履帯交換用ワイヤーに引っ張られたトロッコの車輪がその轍をなぞるように踏み、後を追ってゆく。
この旅が始まってからどれくらいの日々が過ぎていったのか、誰も正確な日数をもう覚えていなかった。
(あの地平線の先には何があるのだろう……)
彼等の敬慕する王姫が指し示した方角を見つめるたび、何か奇妙な、言葉に言い表しにくい予感めいたものがひたひたと魔物達の胸に迫ってくる。
だが、それが安らぎで満たされた未来なのか、暗闇に閉ざされた絶望なのかは彼等自身にもわからない。
それでも、もう魔物達は王姫が生死の境を彷徨っていた時のように泣いてはいなかった。それぞれが自分達のささやかな責務を果たしながら、期待や不安に揺れる心を己の中で抑えている。
チート勇者の襲撃はあれ以来なく出現する兆しすら見えないが、平穏な旅だからといって決して気を緩めることは出来ない。
周囲に目を光らせながら、それでも鋼鉄の王虎に護られている安心感と王姫の慈しむような微笑みに包容され、彼等の旅は続いた。
いつ平穏が破られるか分からない逃避行ではあったが、緊張し目を光らせるだけの日々ではなかった。オークの子が風邪を引いたり、トロッコの車軸が歪んで補修したり、メデューサ婆が魔物達に新しい服を仕立ててあげたり……道中には、小さな出来事が色々とあった。
ごく稀に諍いが起きることもあったが、アリスティアが目に涙を浮かべて仲裁に入ると不和はたちまち解消した。魔物達はひとときでも王姫の心を痛めたことを平身低頭して謝罪した。
また、旅路の中で少年は魔物達へ様々なものを教えた。
それは、何か意図したものではなかったが、異世界に生きる彼等にとって様々な驚きや感動を伴う新しい発見となった。
そしてその後に月日が経ち、長く苦しかった
少年から形のない、美しいものを授かったことを……
** ** ** ** ** **
旅の中で、雨や風が酷い日もある。そんなときは移動を控え、トロッコへマストのように立てた棒を支柱にして例の布地で作ったテントを張った。その中で身を寄せ合い、雨風がおさまるのをじっと待つしかない。自然には逆らえないのだ。
激しい雨の降る、ある日のこと。
雨音を聞きながらテントの中で黙りこくっていた魔物達を見て、少年はふっと笑いかけた。
「みんな、歌でも歌おうか」
「歌……?」
魔物達は互いに顔を見合わせた。
「テツオ、『歌』ってなんだ?」
「みんな……歌ったことはないの?」
怪訝そうな魔物達は顔を見合わせる。驚いた少年が振り向くと、アリスティアは自分も知らない、というように首を横に振った。
「そうか。君たち、歌も知らないんだね……」
ちょっとした退屈しのぎに持ち掛けたことだったが、娯楽らしいものを彼等が何も知らないことを知って彼は胸を痛めた。
きっと、この異世界の創造者は魔物達へチート勇者の敵としての役だけを背負わせ、生きる楽しみについて知識らしいものをろくに与えなかったのだろう。生きていて楽しいことはこの異世界の中にもたくさんあるのに……少年は彼等を不憫に思った。
「じゃあ、僕がまず歌ってみせるよ。あんまり上手くないけど……」
外では風がうなり、テントには叩きつける雨の礫がバラバラと音を立てている。
そんな中で神妙にしている魔物達を前に、少年は子供の頃によく歌っていた『故郷を離るる歌』を歌ってみせた。
それは遠慮しいしいの恥ずかしそうな歌い方だったが、魔物達はみな口をあんぐりと開けて聴いた。アリスティアは口に手を当てて驚愕の表情を浮べている。
「今のはなんだ! 魔法か?」
「何か、不思議な気持ちになったぞ。こんなの初めてだ」
「テツオ、もう一度歌って! もう一度……」
「う、うん。わかった。わかったから……」
まだ身体の弱い王姫が身を乗り出して興奮しているので、少年は体調を崩さないか心配しながら今度は『今日の日はさようなら』を歌った。
魔物達もアリスティアも、半ばぼう然となって聴き入っている。
「これが『歌』というのか……心が洗われるようだな」
聴き終わった一人のドワーフが項垂れて深いため息をつくと、少年は「僕は歌が下手なんだけど、それでもよかったら」と、苦笑しながら手を振った。
「みんなもこれくらい歌えるよ。じゃあ、今から歌い方を教えるね……」
こうして、少年は休息の度に魔物達へ歌を教えることになった。
といっても彼自身が音楽に詳しい訳でもないので、出来ることといったら声の出し方や発声、正しい音階の練習といったくらいのものである。
それでも歌というものをそれまで知らなかった魔物達は歌う楽しさに目を輝かせ、熱心に練習した。メデューサ婆の蛇髪は口を開けて歌う真似をよくするようになり、魔物達の笑いを誘った。
魔物の中で唯一人声の出せない石人形のゴーレムは、ただ黙って練習を見ているしか出来なかったが、そんな彼の為に少年は楽器を作ってくれた。それは空になった木の実に水を入れて音が出るようにし、それを音階毎に木の枝に幾つも吊るしたものだった。ごく簡単な楽器だったが、演奏までついた彼等の歌はより楽しいものになった。
更に、少年がそれぞれ異なった音階の歌声を重ねる「ハーモニー」を教えると、彼等は自分たちの声を重ねることで織りなす旋律の美しさに自ら驚くことになった。
「歌っていうのはいいもんだなぁ! 魔力は要らないのに何て楽しい魔法なんだろう。嫌な気持ちもイライラもみんな消えてしまう」
しみじみとつぶやいたオークに、ゴブリンがうなずいた。
魔物達は少年からは様々な歌を教わったが、中でも彼が最初に歌って聞かせた『故郷を離るる歌』は、彼等の一番のお気に入りになった。
物悲しく美しい旋律もそうだったが、歌詞を辿ってゆくとそれはそのまま彼等が後にした王国の思い出に繋がって郷愁を誘うのである。
歌うたびに涙を流す者もいた。それを笑う者は誰もいない。
魔王や王妃のいた城はいつも家庭のような温かさで彼等を迎えてくれた。周辺の森や山や谷や川にも長年生活し親しんだ思い出が幾つもあった。
チート勇者が現われてからは追われる日々……故郷を捨てて去ることになった時にも寂しさを感じる余裕すらなかった。
この歌は彼等に、遥か遠くになったそんな故国を想起させてくれた。
歌うごとに蘇る懐かしい情景で心が満たされてゆく。夕陽が色濃くなり、西へと進むトロッコから遥かな東を見つめて思い出すと、誰からともなく彼等は歌いだすようになった。
少年とアリスティアは顔を見合わせ微笑み合うと、身体の弱くなった王姫は小さな声で、少年はハミングで、彼等もまた合唱へと加わってゆくのだった。
そして、少年が魔物達へ教えたのは歌だけではなかった。
ある晴れた日。
川を見つけ、一行がその傍で憩っていた時のことだった。
水を汲み、喉を潤していると、離れた場所でぱしゃんと水の撥ねる音がした。
「あっ、魚だ。魚がいるぞ!」
少年は顔を輝かせて「魚釣りをしよう!」と魔物達に呼びかけた。
「魚釣り?」
『歌』に続き、異世界の住人にとって未知の言葉が少年の口から飛び出した。
魔物達は顔を見合わせたが、その表情は困惑しながらも「何かまた素敵なことを教えてくれるのだろうか」と、どこかワクワクしている期待感が伺える。
それを知ってか知らずか、少年は「まぁ、釣りキチテツオの腕前を見ててくれよ!」と得意そうに胸を張った。
まず、丈夫な木の枝を用意して釣り竿にする。そこへ綻びた服の裾から縫い目がほどけかけた糸を取り、結び付けて釣り糸にした。浮き代わりの小枝を付け、更に錘代わりの小石も括り付ける。釣り針は自分の髪の毛を「し」の字に曲げた状態でメデューサ婆に睨んでもらい、硬化させて作った。
エサを探して平たい石で川岸の湿った土を掘る。するとミミズが出てきたので、少年は「異世界にもミミズがいるとはありがたいな」と、嬉しそうに釣り針へ刺した。かくして即席の釣り道具が完成した。
彼は早速、興味津々の魔物達が見守る中で釣り糸を水面に放つ。
しばらくは何も変わらなかったが、これから一体何が起きるのかと魔物達は少年の垂らした糸の先から目が離せない。
やがて、川の穏やかな流れの中に浮いていた小枝が突然ピクピクッと震えて沈んだ。一匹のドワーフが「あっ」と思わず声を上げ、少年が得たりとばかりに竿を上げると、釣り糸の先に小さな魚が付いている。
「よっしゃぁぁ!」
あらかじめ用意していたバケツに魚を入れると、感嘆する魔物達の視線を浴びた少年はガッツポーズをして「見たかい!」と言わんばかりに自慢気に振り返った。
「それが『釣り』というものなのか」
「そうだよ。楽しいよ」
「何か面白そうだな」
「これも魔法は使わないんだな。小さい罠みたいなものか」
興味津々といった様子で言い合う魔物達へ少年が呼びかけた。
「みんなで釣ろう。今晩は焼き魚だ。ご馳走だよ!」
少年の嬉しそうな声と好奇心に後押しされ、彼等は木の枝や棍棒などを釣り竿にして見よう見まねで同じように準備にかかる。少年は釣り竿へ糸を上手に付けられない者やウキや錘を括り付けられない者を手伝って回った。
やがて、にわか太公望が川縁にずらりと並び、不器用に釣り糸を垂らした。
彼等の端にはなんと王姫もいる。アリスティアは「自分も釣りがしたい」と、言い出したのだ。
もちろん、周囲は制止したのだが彼女は言うことを聞かず、少年も止めに入ったので「何よ、テツオまで私を仲間外れにして!」と泣きそうになり、そんな彼女の我儘に結局押し切られてしまったのだった。
「ごめんね、お婆ちゃん。僕が釣りだなんて言い出したもんだから……」
「いいえ、テツオ様は少しも悪うございませんよ。言うことを聞かない姫様がいけないんです」
困ったように謝る少年を宥めるように笑いかけたメデューサ婆は、嬉しそうに釣り糸を垂れる王姫を眺め、やれやれというようにため息をついた。
「でもまぁ、これくらいならお身体のご負担にはならないだろうし……」
メデューサ婆はブツブツと自分を納得させるように言うしかなかった。
しばらくすると魔物達の中から「釣れた!」「しまった、逃げられた!」「エサだけ食い逃げされちまった!」と、釣果を喜ぶ声やトラブルなど悲喜こもごもの声が上がり始めた。
魚を釣り針から外せない魔物も多く、あちこちから「テツオ、来てくれ!」「こっちも頼む!」と助けを乞う声が掛かる。少年は魔物達の間を回ってエサを付け直したり、釣り針を外したりと大忙しである。
「僕も釣りたいのに……」
ボヤいてる向こうで、今度はアリスティアが「テツオ、助けて! 針が髪に絡まっちゃったの!」と悲鳴を上げている。
少年は「……ああもう言わんこっちゃない」と頭を抱えた。
「だから止めときなよってあれほど言ったのに……」
「そんな意地悪言わないで! 髪が引っ張られて……お願い、早く早く!」
「はいはい……」
そんなこんなで大騒ぎの末、魔物達と少年は王姫の髪から絡まった糸をようやく解いて外すことが出来た。
だがメデューサ婆が「姫様、もうお止めなさいませ」と窘めても、アリスティアは「イヤよ。まだ一匹も釣れていないもの」と懲りもせず、再び糸を川面に垂らし始める。
肩をすくめた少年と呆れ顔のメデューサ婆は顔を見合わせ、苦笑するしかなかった。
やがて、日が暮れる頃には魚籠代わりのバケツに入りきれないくらいの魚が釣れたのだった。
釣れた者も釣れなかった者も魔物達は魚釣りを心ゆくまで楽しんだが、彼等の世話に追われて自分の釣りがちっとも出来なかった少年は、ちょっぴり不満顔だった。
一匹も釣果のなかったアリスティアはもっと不満そうだった。しまいには明日もここで釣りをしたいと言い出し、メデューサ婆に「姫様、いい加減になさいまし!」と叱られてシュンとなってしまった。
だが、釣り竿をそのまま薪にして魚が焼かれ美味しそうな匂いが漂い出すと、そんな不満やいざこざなどどこかへ消えてしまい、嬉しそうな顔が焚き火の周りに並んだ。
「美味しそうだなぁ!」
木の枝を串にして焼かれた魚を前に、魔物達は思わず舌なめずりした。
一番美味しそうに焼けたものがアリスティアの前に置かれ、少年は「焼きたてが美味しいんだよ。冷めないうちに食べよう」と呼びかけた。
「いただきます!」
手を合わせるのももどかしく、ふうふう息を吹きかけて真っ先にかぶりついた彼は「アッチチチ!」と舌を火傷してしまい、魔物達の哄笑を誘った。続いて彼等も焼かれた魚を次々頬張り、舌鼓を打った。
焚火に照らされながら和やかな夕食が始まる。
「今日は楽しかったな!」「この先にも魚のいる川が見つかるといいな」と、魔物達は食べながら楽しそうに語らいあった。
アリスティアは、彼等の談笑している様子を微笑んで眺めていたが、魔物達の話を楽しそうに聞き入っている少年に目をとめると、ふと思った疑問を彼へ投げた。
「そういえばテツオはいつも食事のたびに『いただきます』って言うのね。それは何かのおまじないなの?」
「……いや、これは違うよ」
笑顔だった少年の表情に、敬虔めいたものが浮かんだ。
「『いただきます』って云うのは、この魚に対する感謝の言葉なんだ」
「感謝?」
少年は頷いた。
「この魚は僕達に殺された……そして、その肉を食べて僕達は今日を生きることが出来た。『いただきます』というのは、この魚に対して『あなたの生命を大切にいただきます』という意味なんだ」
僕達に殺された……という言葉にアリスティアはハッとなり、談笑していた魔物達も話を止めた。
彼等の顔から笑いが消える。幼い魔物の子供達も静かに少年の話へ聞き入った。
「そうね……私達はたくさんの生命を今日、奪ってしまったのだわ」
楽しい釣りは、また魚の生命を奪うことでもあったのだ。それを忘れ、はしたなくもはしゃいでしまったことを恥じたアリスティアは下を向いた。
王姫を慰めるように少年は「でも、食べなきゃ僕達は飢えるしかなかったんだよ。仕方がないんだ」と、応える。
「僕達は毎日、何かを食べなくちゃ生きていけない。今日こうやって食べた魚のおかげで生きることが出来た一日を、だから大切に生きなくちゃいけないんだ」
「……」
「それでこそ食べられた魚も許してくれると思うんだ。エサになったミミズもね。自分達の生命が誰かを生かすために立派に役立ったんだから。最後まできちんと食べて、いただいた生命に感謝しなくちゃいけない……僕のいた世界ではそう教わった」
「……」
「チート勇者みたいに相手を笑顔で『あー俺またやっちゃいましたぁ!』なんて殺したり、『死ね』って呪文ひとつで瞬殺して平然といられるなんて絶対間違っている。殺された生命だってそれまで生きていたんだ、死にたくなかったんだ。どんな生命だって大切なんだ。それを簡単に奪うなんて、笑うなんて、絶対にやっちゃいけないんだ」
思わず真剣に己の想いを語った少年は、シンとなって聞き入っている魔物達に気が付くと我に返った。
「ご、ごめん。何かお説教みたいなこと言っちゃって」と慌てて謝まり、小さくなる。王姫は笑顔で首を横に振った。
「いいえ、とても大切な話を聞かせてもらったわ」
枝に刺した食べかけの魚を静かに皿の上へ置いたアリスティアは、目をつぶって両手を合わせた。
「いただきます……」
ゴブリンやドワーフ、メデューサ婆、ドルイド爺、オーク……他の魔物達も同じように食べかけた魚を目の前に置くと「いただきます」と手を合わせた。
自分達の生命を繋いだ糧へ、感謝の祈りを捧げるために……
「今日から私達魔族も、食事の時はこうして感謝を忘れないようにしましょう」
アリスティアが告げると、魔物達は一様にうなずいた。
それは小さなことであったが、『生命を大切にする言葉』が異世界の一族の心に触れ、彼等の礼節のひとつとして新たに加わった瞬間だった。
「ごめんね。何だか湿っぽくなっちゃった」
少年が「ほら、冷めないうちに食べよう」と、きまり悪そうに言うと、魔物達も笑顔で再びそれぞれの焼魚を手にした。
「テツオは何でも知ってるのね」
アリスティアが感心したように話しかけると、少年は「僕、別にそんな物知りじゃないよ」と、困ったように笑う。
彼にとって褒められることや敬われることは不得手らしく、そんな場面ではいつも赤面したり不器用に誤魔化したりしていることを彼女は思い出した。
それでも言わずにいられなかった。
「歌に、釣りに、『いただきます』……私達の知らなかったことや気づいていなかったことばかりですもの」
「僕、この異世界とは違う世界から来たからね……」
「その世界でもテツオはよく歌ったり、釣りをしていたの?」
「うん」
少年は、少し陰のある笑みを浮かべた。
「歌うのも釣りも一人で出来る。僕は、親も友達もいなかったからね……」
「……」
思わず言葉を失った王姫を宥めるように彼は「あ、でもね」と続けた。
「寂しくなると僕、よく『こども食堂』に行ってたなぁ」
「こども食堂?」
「貧しくてご飯が食べられない人達や、親が仕事で一緒にご飯が食べられない子供がそこへ行けば、
「まぁ」
「そこはラーメン屋の親父さんが一人でやっててね。よく手伝いに行ってたんだ。ラーメン屋も赤字なのに、やって来る人にいつも美味しいものをお腹いっぱい食べさせてくれる。いつも汚い前掛けをして中華鍋をグワーングワーンって鳴らす愉快なオッチャンでね。そこで学校の宿題をする子もいて、僕、なんちゃって家庭教師なんかもやってたなぁ」
少年の言う「ラーメン屋」や「家庭教師」が何のことか、赤字というのはどういう意味なのか、異世界の彼等はその言葉の大半が理解出来なかった。
それでも、これだけは分かったのだった。そこに心優しい人がいて、困った人や悲しい人へ手を差し伸べていたことを。少年がそれを助けていたことを。
「食材がいつも足りなくてね。僕、よく釣りに出掛けて魚をオッチャンのところへ届けてたんだ。だから釣りは慣れてるし得意なんだよ」
「……」
「そういえばこの異世界に来たのも、こども食堂の為にアルバイトしたお金を取られそうになったからなんだ」
アリスティアも魔物達も驚いて目を丸くした。少年がどうやってこのリアルリバーへ来たのか知りたいとは思っても、その辛い身の上を慮って彼等は聞かずにいた。それを、彼は初めて語ったのだ。
「取りかえそうとして道路に突き飛ばされた時、ダンプが目に入った。そして、気がついたらこの
「……そうだったの」
アリスティアは少年に気づかれないよう、俯いてそっと涙を拭った。
(テツオ……)
森の中で初めて出会ってから焚き火に照らされたこの夜まで、彼女は彼の様々なことを知ってきた。
高貴な血を受け継ぐ身であることを忘れたことはなかったが、アリスティアは、少年のことを知るたびに、次第に惹かれてゆく己を抑えることが出来なくなっていた。
今では、もうその悲しい生い立ちも、勇気も、怒りも、優しさも、どこか子供っぽいところも情けないところも、彼の何もかもが愛しく思える。
(テツオ。わたし……)
……想いが溢れ出しそうになった。
(このまま私達魔族の一員になってくれませんか? ずっと一緒にいて欲しいの。ティーガーと共に……)
(わたし、あなたのことを……)
彼女は思わず、ずっと胸に秘めていたその想いを少年に告げてしまいそうになった。
だが。
少年のつぶやきが耳に入ったとき彼女はハッとなり、それを言葉にすることが出来なかった。
「そうだ、こども食堂のオッチャンや子供たち……みんなきっと待ってる。僕、帰らなくちゃ……」
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