第14話 逢魔が時
彼等の旅はその後も平穏だった。
そして、それはこれからもずっと続いてゆくかのように思われた。
後にした故国とはもう遥かに遠い距離を隔てているのだ。
(チート勇者だって、こんな地の果てまではさすがに追ってこないだろう……)
西へと進む彼等の心の中に、いつしかそんな安心感が芽生えていた。
ただ、そんな旅路の中で一人だけ、揺れ動く想いに胸を震わせている少女がいる。
「テツオ……」
まだ身体が弱いから無理をしないように、とティーガーに設けられた安楽椅子から、澄んだ、そして不安そうな声が呼びかける。
「テツオ……どこ?」
「ああ、ここだよ」
予備のキャタピラを引っ掛けているラックが壊れていないかと走行中に覗き込んでいた砲塔の反対側から、少年が慌てて顔を出した。
「よかった」
寂しげに翳っていたアリスティアの顔が彼を見るなりぱっとほころぶ。
「どこかに行っちゃったのかと思ったの。ごめんなさい」
「いなくなったらティーガーは動かないよ。心配することなんてないのに」
照れたように笑った少年に、王姫が秘めた心の内など読み取れるはずもない。
微笑み返したアリスティアは、目を伏せるとこっそりため息をついた。
本当は当てなどない悲しい旅路であることは誰にも明かせない。
それだけでも胸の中は苦しみでいっぱいだというのに、この異邦人の少年と触れあい共に旅をするうちに、彼に惹かれてゆく想いが日々膨れ上がってゆく。
最近では毎日のようにティーガーに同乗し、少年の傍にいるようになってしまった。
ほんのちょっとでも彼の姿が見えないとアリスティアは不安に駆られた。そして姿を見ると安心するのに、今度は胸が締めつけられそうになる。
苦しみと切なさで、彼女の小さな胸は破裂してしまいそうだった。
(わたし、どうしたらいいの……)
魔物達に生きろと手を差し伸べてくれた少年を誰もが頼りにし、今では魔族の一員のように接している。
チート勇者から守ってくれたばかりか、希望を持って生きようと皆に呼びかけ、前を向かせてくれた。旅の為にトロッコまで作り、道中では様々なことを教えてくれた。
辛く苦しいはずのこの旅が明るく楽しいものになったことを、アリスティアは心の中でどんなに彼へ感謝したことだろう。
このままチート勇者に怯えることもなく、ずっと旅を続けられたら。
だが、彼は異邦人なのだ。
(みんなきっと待ってる。僕、帰らなくちゃ……)
彼はこの異世界の住人ではない。本来なら自分のいるべき世界に帰らなければならないのだ。自分達の逃避行に加わっていても、かりそめの同行者に過ぎない。いつまでも一緒にいてくれる訳ではなく、いつか別れの時が来るはずなのだ。
そう思うと、アリスティアの胸は切なく痛む。
(彼が元の世界に還ることを諦めてくれたら……)
しかし、それは身勝手な願望に過ぎないことをアリスティア自身が分かっていた。彼がいた元の世界にも、自分達と同じように彼を必要としている人がいるのだ。
いっそ、彼の世界に二人だけで一緒に行けたら……思い余ってそう考えてみたこともあったが、もちろん出来るはずがなかった。
自分は、この異世界の高貴な血を受け継ぐ最後の一人なのだ。彼のことが好きだからといって、王族の責務を捨てることなどどうして出来よう。
(でも……でも……)
そうとも知らず、俯いたアリスティアの様子を見た少年が「寒い?」と、マントを脱いで彼女の肩にそっと掛けてくれた。
「風が少し冷たいね。肩を冷やすといけないから……」と、彼の言葉を聞いた時、彼女の瞳からは涙がもう零れ落ちそうだった。
「アリスティア、どうかしたの?」
「……」
「まだ寒い? ティーガーを止めて休もうか」
「……」
「……どうしたの?」
――もうこれ以上、自分の気持ちを抑えきれない……
唇を震わせていたアリスティアは、やがて決心したように伏せていた顔を上げ、少年をまっすぐ見つめた。
「テツオ、わたし、あなたを愛しています」
突然の愛の告白だった。
少年は、あっけにとられてアリスティアを見つめ返した。
「お願い、どうか帰らないで」
声を震わせ、魔族の王姫はしぼり出すように「ずっと
「好きなの……一緒にいて欲しいの……」
王姫の心は千々に乱れていた。もしそうでなかったら彼女は、そのとき忍び寄っていた闇の魔手に、あるいは気づけたかも知れない。
「素敵な告白ね。私もそんな恋がしたかった……」
――それは
彼女の背後から誰かが耳元へささやきかけた声だった。
揶揄した響きと……そして虚無の闇に囚われた声。
「!!」
驚愕の表情を浮べて振り返ると、一人の少女が虚空に腰かけ、悲し気にこちらを見つめている。
色褪せた真っ赤なドレスは、悪魔の血で染めたとでもいうように異臭を放っていた。膝の上には死神が使うような大鎌を乗せている。
だが、何よりもアリスティアを惹きつけたのは、赤黒く染まった彼女の大きな瞳だった。人形のように整った美しい顔の中で、生命を吸い込む虚無に魅入られた二つの瞳が闇と血の色に染まっている。悪魔と契約を交わした証のように。
「貴女は誰……?」
「顧みる人もいない私の名を聞くの? 楽しかったことも、悲しかったことも、魔物達も、人間達も、チート勇者も、これから何もかもなくなってしまうのに……」
それは、応えともつかない鬱ろなつぶやきだった。
陰鬱な詩でも暗唱しているような、抑揚のない声が響く。
「誰なの?」
再び問いただすアリスティアの震える声に、少女は初めて王姫の声が聞こえたとでもいうようにハッとなって、まじまじと見返した。
そして、腰かけていた虚空から下がった虚空へ飛び降りるとドレスの裾を摘まみ、優美な仕草で丁寧にお辞儀した。
「初めてご挨拶させていただきます、異世界の姫君。私は
顔を上げた少女は、そこで、にぃ……とアルカイックな笑みを浮かべた。
「皆さまを、世界の終焉へお迎えに参りましたの」
アリスティアの身体が無意識のうちに震えだした。
今まで自分達魔族を迫害してきたチート勇者達は皆、傲慢で気障で、だが考えていることは浅はかで単純だった。
だが、彼女は明らかに彼等とは全く異質の何かだった。その華奢な身体から、どこか禍々しい瘴気じみたものを感じる。
そしてそれを裏付けるかのように、少女の背後で揺らめくものがうっすらと見えた。
陽炎の向こうで、何か巨大でおぞましいものがうずくまり、じっとこちらを窺っている。
(あれは……何?)
赤く瞬く単眼は、明らかに獲物を狙う捕食者のそれだった。甲羅のような甲冑を身に纏い、手には彼女の持つ大鎌をそのまま巨大化させたものを握っている。足はなく、
そして、その先は……
アリスティアは、背後にいた少年の気配が全くないことに気がついた。
(まさか……)
恐ろしい予感がした。
真っ青な顔で、恐る恐る振り返る。
その毒針のような先端は……背後から少年の胸を刺し貫き、彼の身体を宙釣りにしていた!
「テツオ……」
束の間の、だが楽しかった日常が突如として断ち切られ、惨劇へと一変したことがアリスティアには、にわかに信じられなかった。
震える声で呼びかけるが、応えはない。宙釣りになった彼の表情はがっくりと項垂れ、前髪に隠れて窺うことが出来なかった。
(――!)
声にならぬ叫びがふいにアリスティアののどに突き上げ――
だが、それはのどに貼りついたようにつかえて言葉にならなかった。
毒針が彼の身体を高く掲げ、血飛沫を顔に浴びた時、アリスティアの口から初めて絶叫のような悲鳴がほとばしった。
「いやああああああああああああああっ!」
アリスティアは手を伸ばし、少年に駆け寄ろうとした。
だが二人を引き離すように、彼を刺し貫いた毒針は大きく弧を描き、その身体を玩具でも放り投げるように遠くへ振り飛ばした。
「テツオォォォォォォォォォォ!」
投げ飛ばされた少年を追ってアリスティアは足を踏み外し、ティーガーから転がり落ちた。
まだ拷問の傷も癒えぬ身体で立ち上がると、彼へ向かって駆け出そうとする。遥か彼方で地面に叩きつけられた少年の身体は、そのまま無造作に転がって動かなくなった。そこからじわじわと彼の身体から噴き出た鮮血が広がり、赤い池を作ってゆく。
(死んでは駄目! 私の生命の全てを差し出しても回復魔法を……!)
そう思って駆け寄ろうとしたアリスティアの身体は、しかし次の瞬間、地面に突き立てられた鉄の柵に阻まれた。
「ああっ!」
気が狂ったように「テツオ! テツオ!」と、柵の間から手を伸ばし呼び続けるが、うつ伏せになった彼の身体はぴくりとも動かない。
叫び続けるアリスティアの後ろでは、異変に気がついた魔物達が「テ、テツオが!」「アリスティア様がティーガーから落ちた!」「何だ、あの怪物は!」と、驚愕と混乱の中でトロッコから飛び降りてアリスティアと少年を救おうとしていた。
だが次の瞬間、王姫を捕らえたものと同じ鉄の檻が空から地面に落ちてきて、魔物達をトロッコごと捕らえてしまった。
「みんな!」
思わず呼びかけたアリスティアの向こうで、少女がつまらなさそうにつぶやいた。
「最初からこうすれば良かったのよ。戦車と戦う必要なんてなかったのに空威張りして強がったり、馬鹿正直に名乗りを上げて格好つけたり……愚かなチート勇者達」
どこか虚ろな瞳のまま、少女は唇の端を釣り上げて笑った。
「さあ、みんな帰りましょう。果たすべき役割を担わされた、居るべき地へ。貴方達に楽園なんていらない。こんな安普請の異世界でそんなものを探そうなんて無益なことを……」
少女が手を振ると、爬虫類が這いずるような湿った音を立て、陽炎の中から巨大な悪魔『邪神騎』が、そのおぞましい姿を現した。
小さな山ほども高さのある闇の化身はその肩に少女を乗せ、二つの檻を引き摺って
引き摺られる檻の中で、少年と魔物達が力を合わせて作ったトロッコはバリバリと音を立てて崩れ、砕けてしまった。
「テツオ……」
父母を無くした時もそうだった。
どうして、大切なものはある日突然奪い取られ、なくなってしまうのだろう……
囚われたアリスティアは、檻の中から遠く離れてゆく少年へ悲しく目を向ける。
そして、檻の端から魔物達の檻へ向かって呼びかけた。
「みんな、魔力を私にちょうだい。せめてテツオに……」
涙に顔を濡らしたアリスティアはそれ以上何も言う必要はなかった。魔物達は、黙ってそれぞれの魔力を王姫へ差し出し、彼女は泣きながらそれを一つに集めた。更にそこへ自分の魔力のすべてを加え、祈りの詠唱を唱えながら凝縮する。
やがて、透き通るような小さな魔法の球が出来上がった。中には治癒と蘇生の魔法がいっぱい詰まっている。それをあの少女に見つからないように、柵の間からそっと少年へ向かって押し出した。
透明な魔法球は風船のようにフワフワと進み始める。
邪神騎の肩から少女はちらりとアリスティアへ眼を向けたが、幸い、透明な魔法球は遠目に見つからずに済んだらしく、彼女はふんと鼻で笑っただけだった。
きっと、何かこそこそ企んだところで何も出来やしまいと思ったのだろう。
(私達に出来ることはもうこれだけ……)
(テツオ、どうか生きて……)
もし、彼に僅かでも息が残っていて、魔法球が運よく彼に届けば、もしかしたら生命が助かるかも知れない。
そんな願いを込めて送り出した、密かな救護だった。
「母なる地よ、リアルリバーの大地よ、どうか我が願いを聞き届け給え。我らに希望を与えし者に生きる力を届けたまえ……」
引き摺られてゆく檻の中で、アリスティアは膝を折り、頭を垂れて祈りを捧げる。
これが、最後の祈りになるかも知れない、と彼女は思った。
希望はもう、どこにもなかったのだから……
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