第15話 闇と光の対峙

 鉄柵の間からふと見上げた青い空に、一朶の白い雲が流れていた。

 風に吹かれるまま流れてゆく様子は牧歌的で、それはティーガーに牽引されたトロッコののどかな歩みを想起させた。

 今日までの穏やかで楽しかった旅の日々が突如として終わり、絶望を突きつけられ……泣き疲れたアリスティアの頬には、荒野に置き去りにされた少年を思って流した涙の跡がまだ残っている。


(テツオ……)


 それでも、もしかしたら……という、かすかな希望を捨てることが出来なかった。

 出来ることなら今すぐにでもここから西へ駆け出して彼を介抱してあげたかった。助けられないのならせめて最期を看取ってあげたかった。

 だが、囚われた身ではそれすら叶わない。

 そういえば、あの惨劇の中で主を失ったティーガーはそのまま前進を続け、どこかへ去ってしまった。どうなってしまったのだろうか。知る術はない。

 だが、自分達が辿ってきた道を連れ戻される今、その先に何が待ち受けているのかは想像に難くなかった。


 自分も、あの雲のように自由に生きることが出来たなら……


 悲しい思いにうなだれた王姫を嘲笑うでもなく同情するでもなく、巨大な邪神騎の肩に腰かけた少女は、ずっと黙ったまま東を見つめている。

 王姫の隣の檻では、魔物達が何とか鉄柵を破ろうと試みたものの徒労に終わり疲れ果て、こちらもぼんやりとうずくまっていた。

 黙り込んだ耳に聞こえるのは巨大な邪神騎が膝行いざる気味の悪い音と、自分達が閉じ込められた鉄の檻が引き摺られてゆく音ばかり。

 と、少女がふいに立ち上がり、檻の中の魔物達へ呼びかけた。


「私のこと、さぞかし恨んでいるでしょうね……」


 応えはなく、魔物達からは憎しみに満ちた視線が返って来ただけだった。アリスティアは、誇り高い魔族の威厳を損なったとでもいうように、少女へずっと顔を向けようとすらしない。


「でも、こうなるしかなかったの。貴方達は悪を演じる役目を背負ってこの世界に創られた。運命からは逃れることは出来ないのよ……」


 何を勝手な事を……と、言わんばかりの魔物達へ向かって、少女は虚無感に囚われた口調で静かに諭そうとする。


「貴方達はきっと知らないでしょうけど、この異世界を創った神様は他にもたくさん似たような世界を創っているはずよ」


 こともなげに少女はこの世界のことわりを語り始める。彼女の言うことは本当なのか? と、魔物達は顔を見合わせた。自分達のいるこの異世界リアルリバーの外のことなど、彼等は考えたこともなかった。知っていることといえば、せいぜいチート勇者や少年がいた世界が別にあるということくらいだった。


「それはね、チート勇者にがいっぱいいるから。チート勇者の英雄譚をがいっぱいいるから。変わった魔法や錬金術で世の中をひっくり返したり、まったり農業なんかしたり、仲間や王国に裏切られて今度はそいつらをぎゃふんと言わせたり……数え切れないくらいのチート勇者に見合う異世界が必要だから、創る神様もさぞかし大忙しのてんてこまいだったでしょうね」


 ドレスの袖を口許に当てて少女はクスクス笑ったが、その笑いはどこか虚ろに病んでいた。


「このリアルリバーも多分そんな風に創られた内のひとつなのでしょう。大急ぎで仕立てた、色んなところがいいかげんな安普請の異世界だもの。でも、ここはもう見捨てられようとしている。何故って?」


 詩でも朗読するように、少女は続ける。


「魔物が悪者をやめて、人間は社会を作って平和になったから。すっかり浮いた存在になったチート勇者はハーレムごっこにうつつを抜かし、魔物討伐はただの弱い者イジメ。胸のすくような痛快なチート英雄譚なんかどこにもないから、この異世界を覗き見る人読者はもうほとんどいない。不要になった世界なら、いずれ消されてゆくでしょう。ねえ、どうせ無くなってしまうのなら……」


 丁寧な口調で、だがどこか冷酷さを滲ませ少女は淡々と告げた。


「貴方達にもう一度、悪に染まっていただきたいの」

「……」

「平和な世の中にチート勇者はもういらない……そんな人間達を襲って後悔させて欲しいの。“要らないなんて言ってごめんなさい、もう一度助けて下さい”って言わせて欲しいの。でも助けなんか二度と来やしない。そうやって身勝手な己を呪い、後悔に泣き叫んで……」


 まるで悪夢のような光景を思い浮かべながら少女はうっとりとして語る。

 狂気と憎悪に満ちた少女の夢を聞かされ、魔物達は怖気を震った。


「地獄絵図が再現出来たら、私が総仕上げをするわ。そうやって死ぬの、チート勇者も、人間達も、貴方達魔物も、私も、みんなみんな……」


 檻に揺られながら黙って聞いていたアリスティアの瞳に鋭い光が瞬いたが、少女は気がつかない。顔を上気させ、半ば狂ったように笑いながら妄想じみた未来図を滔々と語り続ける。


「せいぜい楽しく滅ぼしてあげる。私の憎しみで燃やした炎の中に、みんなみんな無様に踊り狂って死ねばいい! それでね!……それでね!……」


(どんな生命だって大切なんだ。それを簡単に奪うなんて絶対にやっちゃいけないんだ)


 少年の言葉が脳裏に浮かんだとき、アリスティアの唇から魔族達でさえ今まで聞いたことのない、激しい怒りの声がほとばしった。


「勝手なことを言わないで!」


 まなじりを裂くようなアリスティアの怒りに、少女はさほど驚かなかった。目を剥き、血走った眼球がきろりと動いて王姫を睨む。

 だが、魔族が守り続けた矜持は、奇行じみた威嚇くらいで揺らぐようなものではなかった。王姫は怒りを漲らせた眼差しで睨み返す。


「勝手? ……そうね、勝手かも知れない」


 反発するかと思いきや、ため息をついた少女は肩を落としてアリスティアの言葉に神妙に頷いてみせたが、今度は媚びるようないやらしい声色でけしかける。


「勝手と言うのなら、その怒りをこの異世界に叩きつけて欲しいの。悪としての役を担うために創られ、理不尽な目に遭って悔しいと何度も思ったでしょう? その憎しみを叩き返したいと思わないの?」

「……そんな怒りに駆られたことは何度もあったわ。でもそれは間違っている」

「おや、面白い理屈ね」


 一方は自由を奪われ囚われた檻の中から。

 一方は邪悪なる巨大な魔神の肩の上から。

 異世界の王姫と闇に魅入られた魔少女は、鉄格子を挟んで遂に対峙した。視線がぶつかり合い、見えない火花が虚空に散る。互いに譲れぬものを賭けて……


「異世界のお姫様、貴女は遊び半分で虐げられても我慢して泣き寝入りするの? よくもまあ、それで平気でいられますこと」

「憎しみからは憎しみしか生まれない。だから私達魔族は人を支配することをやめたの。自分の悔しさを晴らしたいから誰かを不幸にしてもいいと言うのなら、貴女も所詮チート勇者と一緒よ」

「な……!」


 少女には、目に見えない手で思い切り頬を打たれたような衝撃だった。

 さっきまでめそめそ泣いていた王姫が、これほどの誇り高さを見せつけ拒絶するとは思ってもいなかったのだ。

 千切れそうなくらい、真っ赤なドレスの端を握りしめる。

 それでも、少女は精一杯虚勢を張って見せた。


「……同じで結構よ。どうせ誰も理解してくれないもの。嫌でも貴方達には悪を演じてもらうわ」

「私達魔族は、貴女の身勝手な遊具になんてならない。脅しても無駄よ」


 屹然として言葉を返すアリスティアの瞳を、少女は正面から見返すことが出来なかった。


「私達魔族は二度と悪には染まらないわ。もう誰も傷つけない。どんな生命だって軽々しく奪ってはいけないと教えられたもの」


 あの少年が教えてくれたのだ。

 どんな生命にも生きる資格があるのだと。どんな生命だって大切にしなければならないのだと。


(助けちゃいけない生命なんてあるもんか!)

(この異世界の異形がお前らにどんな悪いことをした!)

(生きろ。生きてくれ。お願いだから……)

(『いただきます』は『あなたの生命を大切にいただきます』という意味なんだ)


 旅路の中で少年の語った言葉が思い浮かぶ。快い心の疼きを感じて彼女は思わず胸を押さえた。


(そう、そんな人だからこそ私は愛してしまったの……)


 少女は一見何でもなさそうに「ふん、まぁ勝手に自己完結してなさい。私にはどうでもいいわ……」と、肩をすくめた。

 だが、内なる怒りを抑えきれず、唇は歪み、かすかに肩が震えている。


「所詮は綺麗ごとね。私のいた世界じゃ、そんな優しい生き方をする人はみんないいように利用され、捨てられる。そんな、残酷で冷たい世界なのよ」

「貴女のいた世界のことならあの人が教えてくれた。知っているわ」


 アリスティアはつんと顎を上げ、容赦なく彼女の虚勢を切り捨てた。


「それでも、弱い人に手を差し伸べる心を持った優しい人だっている。あの人はこの異世界でも私達に手を差し伸べてくれた。私達を悪ではないと、胸を張って生きてよいのだと言ってくれた。あなたにだって、きっと同じように手を差し伸べてくれたでしょうに」

「あの人?」


 アリスティアは応えなかった。檻の中から憐れむような眼差しで少女を見上げた。


「貴女はきっと、本当は哀れな、かわいそうな人なのね……」

「馬鹿にしないで!」


 狼狽を隠すように少女は叫んだ。その端正な顔が醜く歪む。


「……勘違いしないで、異世界の悪を演じるべきお姫様。貴女はね、誰かを憐れむ資格なんてないの!」


 アリスティアは応えなかった。生命を弄ぶ詭弁に応える言葉などない、と言わんばかりの蔑みと共に少女を睨め付ける。侮蔑を受けた少女は怒りに震え、その顔を真っ赤に染めた。

 自分の心情に理解や共感を求めていた訳ではない。

 だが、自分が世界を滅ぼそうとしていることを知ったこの期に及んでもなお、演じるべき悪を頑なに拒絶する態度に、もう我慢ならなかった。

 親に見捨てられ、居場所すら失くした自分の最後の我儘。それすら冷たく拒み、一蹴するなんて……


「わかったわ」


 悲し気に下を向いた少女の顔は次の瞬間、憎しみを解き放った悪鬼のそれに豹変した。

 手にした大鎌を振り上げ、邪神騎の肩から大きく身を躍らせる。


「じゃあ、一足先に貴女へ私の望む地獄を見せてあげる!」


 隣の檻では魔物達が「アリスティア様!」と悲鳴をあげたが、振り返った王姫は青ざめた顔で、それでも微笑んでみせた。


(悔いはないわ。彼が教えてくれたものをこの胸に抱いて死ねるなら……)


 落下しながら虚空で少女のかざした大鎌の鋭い切先が王姫に向かって、今まさに振り下ろされようとした。それは鉄の檻ごと彼女を切断するに違いない。

 その時だった。


撃てフォイエル!」


 アリスティアの耳に、かすれ声の雄叫びが聞こえた。


「えっ?」


 振り向いた彼女の頭上に宙を切る鋭い砲声がこだまし、数瞬前に少女が身を躍らせた邪神騎の肩が吹き飛んだ。

 肩を鎧っていた強固な甲冑は卵の殻同然に叩き割られ、骨を砕かれた邪神騎は怪獣のような咆哮をあげる。


「ひあっ!」


 爆風に吹き飛ばされかけた少女は思わず悲鳴をあげたが、そのまま空中でくるりと回転して体勢を立て直すと、近くにあった大岩の上にふわりと降り立った。


「ティーガー! 鋼鉄の王虎よ!」


 アリスティアは思わず救世主の名を呼び、両手を差し伸べた。

 聞き覚えのあるその砲声は紛れもなく、魔物達の危機を今まで幾度も救ってきた鋼鉄の牙、ティーガーの八八ミリ戦車砲に他ならなかった!

 離れた場所にあった岩地に目を凝らすと……そこに、鋼鉄の王虎がその雄姿を現した。

 絶望の闇に囚われていた魔物達から怒号にも似た歓喜の雄叫びが上がる。


「ティーガー!」

「ティーガーが来てくれた! だがテツオは……」

「見ろ、あそこに!」


 荒野を驀進し、汚れきったティーガーの砲身に真っ青な顔の少年がしがみついていた。

 気息奄々といった様子で血塗れのままだった。瀕死だった状態からかろうじて蘇生し、攫われた魔物達を救おうとそのまま全速で追って来たに違いない。


「ああ……」


 アリスティアは、涙で少年の姿が見えなくなりそうだった。

 生きているだけでも嬉しかった。

 しかし、彼は辛うじて繋ぎ止めたその生命を自分達の為に再び投げ出そうとしている。


(鋼鉄の王虎よ、どうかテツオの生命を護って……!)


 大岩の上に降り立った少女は、取り出した小さなオペラグラスでティーガーと少年の姿を認めると「なるほど。お姫様があそこで何かこそこそしていたのは、そういうことだったのね」と、感心したように頷いた。

 しかし、気力だけで立っているような少年の様子を見てすぐに己の有利を確信し、顎を上げて嘲笑った。


「ふふふ、死にぞこないが……面白い。遊んであげようじゃないの」


 そう言うと少女は「あら、私としたことがはしたない」と、口元に手を当てた。


「これって、楽勝のつもりが激戦になって私が負ける流れになっちゃう場合の前台詞よね。失言だったわ」


 苦笑した少女は、アリスティアや魔物達の視線を浴びる中で、ティーガーと少年に向かって「かかる場合は……」と肩をすくめ、真っ赤なドレスで優雅に舞うと裾を摘まみ、丁寧に一礼した。


「鋼鉄の王虎を駆る勇者様、お誘いありがとうございます。おもてなしの御用意は何も出来ておりませんが、わたくし精一杯お相手を務めさせていただきますわ……」

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