最終話 めぐり逢い 

 そこは、本来自分がいるべき場所のはずだった。

 なのに……


 警察署から一歩外へ踏み出すと、人々のざわめきすらどこか気に触って仕方がなかった。

 ずっと聞いていなかった交通信号機のシグナル音、街頭モニターから流れるCM音楽……不快に感じる必要などないものでさえ。


 ここはもうあの異世界ではなかった。

 魔法など何処にもなく、科学が全てを支配し、法律で秩序が守られた世界。異世界などという存在は空想の産物として否定され、厳然たるヒエラルキーの前に弱者の声など一顧だにされない冷たい現実社会だった。

 還ってきた彼を歓迎する者はいない。喝采する者はもちろん「おかえりなさい」を言ってくれる者すらいない。

 誰も彼も一瞥もせず、無表情に傍を通り過ぎてゆくばかり。


(そんな世界って分かってて、帰ってきたはずなのに)


 心の中に言いようのない寂しさが込み上げる。

 ようやく事情聴取から解放された時にはもう陽も傾いていて、外へ出てきた少年は疲れ切っていた。

 事情聴取といっても彼が犯罪を犯した訳ではない。恐喝と暴行を受けた被害者として、話を聞かれたのだ。

 それでも、その時のことを思い出して話すことは辛かった。「金だけ寄越して失せろっつってんだよ!」と理不尽な暴力を受けた瞬間が何度もフラッシュバックし、悔しさが蘇った。汗を流して得たお金を奪われ負傷した立場で、何故こんな惨めな思いをなおもしなければならないのか……そんなやり切れない気持ちが嵐のように胸の中で渦巻いた。

 だが、そんな屈辱感で傷ついた彼を慰めてくれる人はいなかった。

 捨て子の彼に親はいない。彼は病院から一人で退院し、警察の事情聴取にすら付き添いもなく一人で赴くしかなかった。

 気の毒に思ったのか、エントランスまで見送りに出た老年の刑事が慰労の言葉を掛けてくれたが、少年はただ黙って頭を下げて警察署を後にした。


「……」


 こども食堂の為に稼いだアルバイト代を奪われかけて不良共と揉み合いになり、道路に突き飛ばされ、そこで折わるく通りかかったダンプに撥ねられ……病院で目が覚めた時、少年は自分が奇跡的に怪我もなく、ただ二ヶ月近くも昏睡状態だったことを知った。

 入院中に見舞いに来る人はいなかった。兄弟も、友達も、恋人も彼にはいなかったのだから。


「仕方ないじゃないか。僕は一人なんだから……」


 思わず独り言をつぶやいた彼は、唇を噛みしめて込み上げる寂しさに耐えた。今まで幾度もそうしてきたように。

 それでも特異な体験を経た身には、孤独がひときわ辛く感じられた。

 去ったばかりの異世界が、もう恋しく思い出される。


(みんな、どうしているだろう)


 異世界で出会った魔物達。容姿こそ怪物じみた異形だったが彼等は皆、思いやりに満ちた心優しい種族だった。彼等の輪の中に迎えられた日から孤独の寂しさを感じたことは一度もなかった。血は繋がっていなくても、彼等は自分にとって紛れもなく家族だった。孤児である自分に、それがどれほど嬉しかったことか。だからこそ己の生命を投げ打って戦えたのだ。

 異世界を去る時は泣いて別れを惜しまれ、子供達には引き留められ……それほど彼等は自分を慕ってくれた。

 それに比べたら、この世界の何と冷ややかなことか。


(こんな思いをするくらいなら、あの世界に残れば良かったかも知れない……)


 一瞬そう思ったが、彼は頭を振った。

 どんなに冷たい世界であってもこの場所で生まれたのなら、やはりここで生きてゆかねばならないのだ。

 ふと見ると、同じように警察署から出てきた数人の大人達がいた。皆、不機嫌そうな顔をしている。少年に暴行を加えた不良の保護者達だった。

 少年に気がつくと彼等は眉をしかめ、睨みつける。彼は思わず下を向いた。

 そのとき。


(顔を上げろ)


 そんな声が聞こえたような気がして、少年はハッとなった。


(お前は恐れ、俯かなければならないことをしたのか?)

(顔を上げるんだ)


 それは自分を勇者と呼んでくれた、「あの人」の声に似ていた。


(さあ……)


 その声に励まされ、彼は顔を上げた。弱者を庇って勇気を奮い起こした時と同じように。

 睨みつけていた大人達は生意気なと言わんばかりに目を剥いたが、ティーガーを駆って異世界の戦場を幾度もくぐり抜けた少年の鋭い眼光に敵うはずもなく、気まずそうに視線を逸らし、去っていった。

 少年の口許に小さな笑みが浮かぶ。

 それは、傲岸不遜な怒りを捻じ伏せたという勝利を浅ましく喜んだからではなかった。


(どんなに辛くともその生き方を貫くがいい)


 首元に手をやるとそこには何もないが確かに感じた。ずっと憧れ続けてきた人が自分に授けてくれた「勇気ある者の証」を。

 自分がどこにいてどんな冒険を経てきたのか、話す相手はいない。話したところで「病院で昏睡していた間に見た長い夢」と一笑に付されるだけだろう。

 だが、彼は思った。

 誰からも信じてもらえなくてもいい。誰かに話す必要もない。真実は自分自身が知っているのだ。それだけでいい。

 誰も知らない世界で鋼鉄の王虎と共に戦い、生きる希望を失った者達を楽園の地まで守り抜いた。その記憶と誇りは自分の中で燦然と輝き、息づいている。


(みんな僕の中に生きている。魔族の皆、ティーガー、ヴィットマン……)


 そして高貴な血を引く身分にもかかわらず、自分を愛していると告げた美しい王姫。


(アリスティア……)


 寂しさを振り払うように顔を上げた。少年は歩き出す。ひとりでも、自分らしく生きてゆこうと。

 その顔から、さきほどまでの暗い影は消えていた。

 自分の家ともいうべき養護施設へこのまま帰る前に、どこか立ち寄れるところはないかと考えた少年は、思わず口にした。


「そうだ、こども食堂へ行こう」


 事故に遭い、異世界へ行くまで足繁く通っていた「こども食堂」。そこには自分を待っている人達がいる。貧困で食事に窮した子や仕事で親が不在の子。皆、幼い心に悲しみや寂しさを抱えている子供達だった。そして赤字も厭わず、そんな子供達に無償で食事を振る舞う陽気なオッチャン。

 こども食堂は、訪れる人を優しく迎え、どんな人にも分け隔てなく団欒の温もりを与えてくれる場所だった。

 こんな自分にも居場所はあった……と思い出した少年は、嬉しそうに一人笑った。

 手伝ったりアルバイトで稼いだお金で差し入れしたり。自分は助けているつもりだったが、本当は助けることで自分が助けられていたのかも知れない……しばらく離れてみると、少年はそんな風にも思えるのだった。


(行こう)


 足取りも軽く彼は歩き出した。



**  **  **  **  **  **



 年季の入った暖簾をくぐり扉を開けると、美味しそうな匂いと温かい湯気が彼を包み、挨拶する前に「おーっ!」という陽気なドラ声が出迎えた。


「来たか、テツ! お前が来るのを首を長くして待ってたぞ」

「オッチャン、お久しぶり」

「まったくだ。今までどこをほっつき歩いていた?」


 でっぷりした図体に汚い前掛けをした、いかにもラーメン屋らしい風体の中年親父がカウンターの向こうからニヤリと笑いかけた。


「今流行の異世界にでも行ってたか!」


 まさしくその通りだった少年が息を呑んで目を白黒させると、親父はガーハハハハ! と、豪快に笑い飛ばした。店内にはカウンター席に品の良さそうな中年の夫婦がいるきりだったが、彼等も釣られたように笑いだした。


(よかった。オッチャン、事件のことは知らないんだ)


 少年はホッとした。一見ガサツだが陽気で心優しいこの親父に、彼は心配を掛けたくなかったのだ。


「うん、異世界に行ってた行ってた。それよりココ、相変わらず繁盛してないね」

「うるせえ、余計なお世話だ!」


 心安立てにからかわれた親父は、気を悪くした様子もなく再び哄笑した。

 そこは、庶民的だが清潔で清掃もきちんと行き届いた気持ちの良い店だった。それでいて中に入れば長い間この街に馴染んだ雰囲気を感じさせてくれる。

 その日一日不快な思いに晒されていた少年は、店内の温かい雰囲気に触れてようやく安心感を覚え、冗談も言えるくらい気持ちも緩んだ。

 店内の客に軽く会釈すると、彼は店の邪魔にならないように「僕、こども食堂の方に行ってるね」と、店の離れへ行こうとしたが。


「あ、待て待て」


 呼び止めた親父は、にっこり笑ってラーメンのドンブリを少年の前にどんと置いた。実は店の外に彼の姿を見た時から麺を茹で始めていたのだ。


「あれ? 僕、頼んでないよ。お金も持ってないし」

「水臭いこと言うなよ。ウチのラーメン久しぶりだろ、食ってけ食ってけ」

「本当にいいの? うわぁ、ありがとう!」


 一瞬躊躇したものの、そこは食欲旺盛な年頃の少年である。鶏ガラと魚粉、海藻が織りなす絶妙なスープの匂いに、ラーメンから長らく遠ざかっていた彼はたちまち降参してしまった。割りばしを挟んで「いただきます」と嬉しそうに手を合わせる。ドンブリから立ち上がる湯気の中に顔を突っ込むとそこには美味しく濁ったスープに漬かった中太の麺、少々の青ネギとゴマ、それに小さなチャーシューが一枚。

 ラーメンを夢中で啜りだした少年を見て目を細めた親父は、それまでカウンター席で雑談していた夫婦と話の続きを始めた。


「それにしても不思議な話だねぇ。亞璃澄ありすちゃんの子供の頃の写真すらないなんて」

「そればかりか私も主人も娘に関して最近までの記憶がないんです。でも二人揃って記憶喪失なんて……」


 品の良さそうな婦人は不思議そうに語る。


「最近になって養女を迎えたような感じで……まぁ、本当に養女だったって構わないんですが」


 首を捻る中年の夫も婦人も困惑した様子ではあったが、それを敢えて解消しようという様子は見受けられない。

 何故なら、二人にとって困惑よりも嬉しさの方がずっと大きいからだった。


「結局、娘がかわいいから二人揃ってオツムが飛んじゃったんだろうって笑い話にされてしまいました。まぁ、言われても仕方ありませんわ。主人なんて最近は『亞璃澄の顔が早く見たいから』って会社から定時で帰って来るし、私は私で毎日娘を外へ連れ出しちゃうし……」

「ははは、まさに親ばか万歳! さね。二人揃って亞璃澄ちゃんと結婚したみたいだな」


 親父はニコニコ笑いながら聞いている。少年もラーメンを食べながら聞くともなしにその話を聞いていた。

 それは、この夫婦に「いつのまにか一人娘がいた」という奇妙な話だった。

 二人には最近まで「自分達には娘がいる」という自覚がなかったのだという。二人揃って家族の記憶がないので不審に思い、さすがにカウンセラーへ相談したが笑われ、すごすごとここへ立ち寄ったものらしい。

 しかしバツが悪い思いをしたと言うものの、夫婦はとても幸せそうだった。


「もうこんな年齢になってしまったからって主人と二人で子供を諦めてたような気がするんです。変ですよね、私達には宝物のようなあの子がいるのに」

「娘さんがいるなら寂しくなんかないはずなのになぁ」

「昨日は寝ている間にあの子が消えてしまわないか怖くなって、三人で川の字になって寝ました」

「……」

「あの子は私達が眠るまで手を握ってくれたんです。本当に優しい子……起きたらやっぱり娘がいて。ああ良かったって、主人と二人で寝顔をずっと見ていました」


 娘への溺愛振りを聞かされ、親父は苦笑混じりに相槌を打つしかない。


「まぁ、あんないい娘だもの、親ばかになったっておかしくないさ」

「この年齢でお恥ずかしい。でも一緒に買い物に出掛けると、通りかかる皆が驚いて娘を見るんですよ。『どこの御令嬢?』『お忍びで来たどこかの国のお姫様?』って。もう、こそばゆくて嬉しくて足が宙に浮いてしまいそうで……」


 夫の方も緩みそうな顔を懸命に顰めて口を挟んだ。


「今日なんて、声を掛けたそうにしている男を見かけたんですよ。それでつい、『娘はまだ一六だ、俺の目の黒いうちは嫁になんかやらんぞ!』って聞こえよがしに言ってしまいました」

「はっはっは、旦那もまだ当分子離れ出来そうにないね」


 親父はとうとう腹を抱えて笑った。夫婦は子供が欲しいと願っていたにも関わらず得られずにいた長い歳月のぶん、積もり積もった愛情を降り注ぐように娘を可愛がっているようだった。


「まぁ親ばかは幸せでいいことだよ。今は子供を虐待する酷い親だって珍しくない世の中だからなぁ」


 こども食堂にはそんな境遇の子も来るのだろう。親父はため息をついた。


「娘が嫁に行くのはまだずっと先のことでしょうけど、考えただけで寂しくなってしまって。出来たらお婿さんが来てくれたら嬉しいのだけど……そしたら亞璃澄が『私には心に決めた人がいるの。いつか必ず連れて来るから待ってて』って」

「へーえ」


 親父は「まだ十六なのに。俺がその年齢の頃なんざ、毎日悪さばっかりしてゲンコツ喰らってたがなぁ……」と、腕組みした。


「あの子はどうしてます?」

「今、離れのこども食堂で子供たちの世話をしてくれてるよ。亞璃澄ちゃんだけじゃない、最近『手伝いたい』と来てくれた奴が二人もいてね。ありがたいこった、細々やってるこんな子ども食堂に……。最近客も増えてな。誰かがSNSとかいう奴でウチを美味いと宣伝してくれたらしい」


 親父は照れくさそうに笑って鼻をこすった。


「こども食堂に来る子達も亞璃澄ちゃん達が勉強を教えたり一緒に昼寝したりデザートを作ったり……凄く楽しそうでいい顔をするようになった。本当に助かってら。世の中、捨てたもんじゃないねぇ……」

「まぁ」

「あの娘、よく気が付くし世話好きだが何というか……凄く大人びてて気品があるね。小さい子なんか『姫しゃま』って呼んでるよ」

「もしかしたら本当にそうかも知れません。知らない間にどこかの国から私達に遣わされたお姫様……もしそうならどんなに感謝してもしきれません」


(姫様、か……)


 少年の胸に嫋やかな異世界の王姫の姿が浮かび、胸に痛みを感じた。

 きっとこの離れの奥で子供達の面倒を見ている少女も、王姫に似た美しい容姿と優しい心の持ち主なのだろう……

 それからしばらくよもやま話が続き、やがて夫婦は「では、娘をよろしくお願いいたします」「あまり遅くならないようにと伝えて下さい」と席を立った。

 彼等が支払いを済ませている間に少年もラーメンを啜り終え、席を立った。本当は食べ終わったらこども食堂へ顔を出すつもりだったのだが、そこで子供達の相手をしている少女がいると知って邪魔すまいと思ったのだ。


「僕もお暇するよ……ラーメン、ごちそうさま」

「おい、テツ。ちょっと待っ……」


 店の外へ出ようとした少年は、ちょうど暖簾を掻き分けて入ってきた青年と「オッ」と、ぶつかりそうになった。


「あっ、ごめ……」

「よう!」


 見知らぬ顔から突然親し気に声を掛けられ、どこかで会っただろうか? と、少年は相手を見た。


「ええと……誰?」

「さて、オレ様は誰でしょう?」


 どこかずる賢そうで皮肉っぽい笑みをした青年だった。

 だが、それが彼の為人を現わしている訳ではなかった。親し気な様子からは、明らかに少年への好意が感じられる。どこか見覚えがあるような気もするが、どうも思い出せない。


「あれ? どこ行くんだよ。こども食堂に用があるんだろ」


 首を傾げている間に青年に馴れ馴れしく肩を掴まれ、そのまま回れ右で強引に店内へ押し戻されてしまった。

 どうやら彼は、こども食堂を手伝っている一人らしい。「オッチャン来たよー。これ、土産だぁ」と、手にした小さなバケツを差し出した。近くの海岸で釣りをしていたらしく、中には魚が何匹も泳いでいる。


「いやぁ、大物を狙ったんだけど、結局釣れたのは小物ばっかりだった。悪ィ」

「何言ってやがる。今日は食材がほとんど余らなくてな。こども食堂の晩御飯はどうしようかって思ってたんだ。助かるぜ」

「そりゃ良かった。でもガキ共、魚なんて食うかなぁ」


 ボヤいた青年に、親父は「おい、料理の鉄人をナメてんじゃねえぞ」と凄んでみせた。


「どれどれ、アジとメジナか。ふむ……よーし、コイツらは唐揚げにしてやる」

「唐揚げ?」

「カラッと揚げた上に三杯酢を掛けるウチの特製だ。味も匂いも絶品だぜ。どんな魚嫌いでもヨダレを垂らして食いつくぞ。まぁ見てろ」


 自信満々の宣告を聞いた青年が「聞いてるだけで何か美味そうだなぁ」と漏らすと親父は「おうよ!」と、得意そうに胸を叩いて見せた。

 少年はすっかり置いてきぼりにされ、ポカンとして見ている。


「そういや、オレの相棒は?」

「お前の彼女ならこども食堂にいらぁ。あの娘器用だね、お姫様みたいなドレス作って亞璃澄ちゃんに着せて例の絵本を朗読させてるよ。おかげで子供達、絵本の世界にすっかり入り込んでる。夢中になって聞いてるぜ」

「へぇ、道理で向こうの部屋がえらく静かな訳だ」


 青年と顔を見合わせて笑うと、親父は早速バケツの魚を捌き始めた。


「沙遊璃ちゃんだっけ? お前、いい娘を彼女にしたなぁ」

「お、おう」


 青年は照れくさそうに笑い、少年は二人のやりとりを聞いているうちに疎外感を感じて俯いた。

 このこども食堂は、自分の居場所のつもりだった。

 だが、自分がずっと支えてきたつもりでいた場所に、今は見知らぬ青年が食材を届け、彼の恋人や親から宝物のように思われている少女が子供達を世話しているという。

 もうここは別に自分がいなくてもいい場所になってしまったのだろうか……そんな寂しさを覚えた少年は思わず「僕、また来るよ」と、逃げるように去ろうとする。

 すると、青年が驚いて「おい、どこへ行くんだよ!」と引き留めた。


「まさか変な勘違いでもしてんじゃねえだろうな。みんな、お前のことを待ってたのに」

「みんな?」

「そうだよ。お前がオレ達をここへ連れて来たんじゃねえか」


 見知らぬ彼をどうして自分がここへ連れてきたというのだろう……キョトンとする少年の両肩を掴み、青年は熱っぽく語りかける。


「誰かを踏みつけて優越感に浸る世界なんかじゃない、誰かを支えることが出来るなら、そこが居場所になるんだって、ここへよ……」


 一瞬躊躇すると……彼は、自分の正体を告げた。


「俺に言っただろ? “困った人や悲しい人を救ってみせろ、本当の勇者になってみせろ”って……」

「……!」


 思い出すと同時に、それまで掛かっていた認識阻害の魔法が霧のように消えていった。

 バツが悪そうな、それでいてどこか得意気な青年の笑顔が、異世界で自分と何度も対峙したチ-ト勇者の顔と次第に重なってゆく。


「お前……勇者リュード……!」

「よせやい。自称勇者は返上したぜ」


 倉沢くらさわ竜人りゅうどは苦笑した。その顔に、チートを駆使して優越感に浸った傲慢な面影などもうどこにもない。

 過去を悔い、新しい一歩を踏み出した爽やかな笑みと共に「待ってたぜ。おかえり」と、かつての自称勇者は肩を叩く。


「でもな、お前を一番待ってるのは……」


 異世界を去った時の意趣返しのようにリュードは少年を、こども食堂のドアに向かって「さあ」と、ゆっくり押し出した。

 ドアの向こうからは、子供達へ童話を読み聞かせているらしい少女の声が聞こえてくる。


「……神様は魔物達へ謝りました。そしてそこを安全な世界にしてくれました。もう二度と襲われることはありません。乗っていた戦車は壊れてしまいましたが、勇者はかわいそうな魔物達を楽園までとうとう守り抜いたのです」

「よかったぁぁ!」


 シンとなって聞いていた子供達から一斉に無邪気な歓声があがる。


「もうすぐ戻れなくなると神様に言われ、勇者は魔物達にさよならを告げて元の世界へ帰ることになりました。お姫様は勇者と別れるのが辛くて泣きました。すると魔物達は勇者と一緒に幸せになりなさい、と背中を押してくれました。こうしてお姫様は勇者を追いかけて旅立ってゆきました」

「それで? それで?」

「……それからその……楽園に残った魔物達はいつまでも楽しく暮らしたのでした。おしまい」


 唐突に物語を締めくくられ、それまでの子供達の歓声は「ええー!?」と、不満の声に取って代わった。


「それでおしまいなんておかしいでしょ? ねぇ、元の世界に帰った勇者はそれからどうしたの?」

「それは……」

「お姫様は? 勇者を追いかけていったお姫様はそれからどうなったの?」

「ええと……」


 子供達から物語の「その後」を聞きたいとしきりにねだられ、読み聞かせていた少女は返答に窮してしまった様子だった。

 それまで彼等は毎日のように、彼女の語る童話を笑ったり泣いたりハラハラしたり、時には怒ったりしながら聞いていたのだった。そんな思い入れを持って聞いていた物語が突然、尻切れトンボのように終わってしまっては到底納得ゆくはずがない。

 だが、この物語に「続き」はないのだ。少女は途方に暮れてしまった。

 そんなところへ、音をたてないようにリュードはドアを開ける。

 最初に気がついたのは、途方に暮れている少女の傍で「まぁまぁ、みんな落ち着いて」と、苦笑気味に宥めていたもう一人の少女だった。

 ツインテールの髪を揺らして顔を上げた彼女……本物河ほんものかわ沙遊璃さゆりは、リュードと目が合うと、ふっと微笑んだが、彼の隣にいる少年に気がつくと、驚いてその小さな口をいっぱいに開いた。迸りかけた叫びを、しかし彼女は慌てて自分の両手で塞いで抑える。


「お姫しゃまも、ゆうしゃも、どこかに消えちゃったの? いなくなっちゃったの?」


 幼い子が今にも泣きそうな顔になって「そんなのやだぁ!」と、朗読していた少女のドレスに縋りついた。


「かわいそう……お姫しゃまは、ゆうしゃのことが好きじゃなかったの?」

「いいえ、そんなことはないわ。その人をずっと待って……」


 ドレス姿の少女は優しくその背中を撫でて慰めながら、ふと自分への視線を感じて顔を上げ……


(……!)


 少女の眼が大きく見開かれた。

 少年は石化したように硬直したまま、さっきから戸口に立ち尽くしている。

 少女の視線の先を見た子供達は「あ、テツ兄!」「テツ兄ちゃん!」と、口々に声を上げた。ここ二ヶ月近く顔を見ずにいたが、それまでいつも何くれとなく世話を焼いてくれた少年を彼等はそう呼んで慕っていたのだ。


「アリスティア……どうしてここに……」


 自分が目にしているものが信じられないというように、少年はつぶやく。

 彼を見つめる少女の瞳が見る見るうちに潤み、熱いものが溢れ出した。

 やがて、静かに立ち上がり……


「お姫様はこの世界で、待っていました。勇者のことを愛していたからです。何故って?」


 彼女は、を語り始めた。


「その人が、生きる希望を無くした私に光をくれたからです」


 花の蕾がほころぶように、その口もとはゆるやかにほころび染め、それまで読み聞かせていた口調が変わった。子供達はおや? という顔で少女を見る。語り部のはずだった少女が物語のお姫様を今、「私」と呼んだ……


「悪者と嫌われ生きることを諦めかけた私に、生きろと、生きてくれと言ってくれました……」


 子供達は見た。少女の頬に美しい涙の筋が伝ってゆくのを……


「貴方は強い人じゃない。でも、いつも勇気を奮って無力な私達を庇い、希望を与えてくれました。親も家族もいない寂しさを心に秘めて、悲しい人がいればきっと手を差し伸べる優しい人……私はそんな貴方を独りぼっちにしたくない、いつまでも傍に寄り添って一緒に生きてゆきたい……」


 少女は彼をまっすぐに見つめ、静かに己の想いを告白している。

 少女と立ち尽くす少年を交互に見つめ、一体何が……と困惑していた子供たちの顔に、次第にまさか……という驚愕の色が浮かんでゆく。


「そう思って……とうとうこの世界へ来てしまいました」

「アリスティア……」

「待っておりました、鋼鉄の王虎を駆る勇者……愛しています……」


 吸い寄せられるように近づくと「テツオ……」と彼の胸に顔をうずめ、王姫はわっと泣き出してしまった。

 少年は、驚きも冷めやらぬ中で彼女の細い肩を抱きながら周章狼狽している。


「な、何で……どうして……」

「私、とうとうこんなわがままを……ごめんなさい。でも私、どうしてもテツオと一緒にいたい……だから……だから……」

「……いや、いいんだ。その、わがままだなんて思ってないし……」


 そうじゃない! お前がここで言うべき言葉はひとつしかないだろ! と、傍から見ていたリュードは地団太を踏まんばかりだった。思い余ってどやしつけそうにしている彼を、沙遊璃が後ろから必死に抑えつけている。

 だが、そんな気持ちが伝わったのか、落ち着きを取り戻した少年は「ごめんなさい……」と泣きじゃくっている王姫の耳元でささやいたのだった。


「迷惑なんかじゃない。嬉しい……ぼ、僕も……」

「テツオ?」

「ありがとう、リアルリバーのみんな……独りで生きるしかなかった僕に、異世界からこんな素晴らしい贈り物を……」


 その言葉を聞くや――王姫は喜びを顔に浮べた。少年の胸に顔をうずめていたアリスティアは、宥めるような優しさではなく強い意思で自分が抱きしめられていることに気がついた。君が僕を愛してくれているように、僕も愛している……というように。

 次の瞬間、高貴な血を引く身と己を抑えていた心の枷が外れたように、王姫は少年の背中に手を回して、彼の唇に自分の唇を重ねた。


「――!」


 幼い子供達は、小さな目をこれ以上出来ないくらい大きく見開き、その衝撃的な光景を見ている。

 一方で、ホッとしたようにリュードと沙遊璃は視線を交わした。

 異世界で悪事の限りを尽くした彼等は、二人を何とか逢わせてあげたい……それが自分達の罪滅ぼしのひとつだと思い、こうなることを願っていたのだ。


「……」


 うなずき合うと、彼等は無言で子供達の前で唇の前に指を立ててみせた。音を立てないように……と、彼等を促して部屋の外へ連れ出してゆく。

 そして、静かに扉を閉めた。


(二人きりにしてあげよう……)


 扉の向こうでは、なおもアリスティアが泣きながら己の想いを訴えている。少年の方は、たどたどしくも懸命にそれを受け止めている様子が窺えた。

 辛いことがあまりに多かったのだ。幸せにとまどっているのだろう……と、リュードは思った。彼等の苦しかったことや悲しかったことの中には、自分がチート勇者として加担したこともある。彼等が許しても、それが消える訳ではない。

 それでも、こうして小さな償いを重ねてゆこう……そう思って俯いたリュードの肩に、ふいに沙遊璃がしがみついて泣き出した。彼女も闇の眷属として異世界でしてしまったこと、リュードに救われたことを思い出し、感極まってしまったのだろう。


「リュード……私、私はあの異世界リアルリバーで……」

「言うなよ。今さら言わなくていい。でも、これでよかったんだ……」


 沙遊璃の震える肩を抱いてあげながら、リュードは独り言のようにつぶやいた。

 救われたのは彼等だけではない、自分達もまた救われたのだ。

 親に見捨てられ社会から蔑まれ、生きる価値などないゴミだと思っていた自分に、今こうして縋って泣く少女がいる、慕ってくれる子供達がいる。

 頼りにされ、感謝され、それを生きがいに出来るこの場所へ辿りつけなかったら、自分は今どこでどうしていただろう……


沙遊姉さゆねえ、泣いてるの? 悲しいの? 泣かないで。いいこいいこしてあげるから」

「まぁ、優しい子ね」


 小さな子が泣いている沙遊璃を見て、懸命に慰めようとしてくれている。彼女は泣き笑いの表情を浮べた。

 過去に傷ついた心は無邪気な思いやりに優しくくすぐられ、癒されてゆく。


「さ、向こうに行きましょうね。二人の邪魔をしてはいけないわ」


 涙を拭いて、ようやく落ち着いた沙遊璃が子供達の背中をそっと押す。


「みんな、びっくりしたでしょ? この本の中に書かれていなかったお話は、まだいっぱいあるのよ」

「本当?」

「ええ。これからそれをお話ししてあげる」


 沙遊璃はそう言って、子供達を促して歩き出した。

 王姫と勇者の行く末を心配してアリスティアに縋った女の子は、沙遊璃の手にした本と扉の向こうをしきりに見比べていたが、おずおずと尋ねかけた。


「沙遊姉、姫ちゃまと、てちゅにぃは……」


 もしかして本当に……と言いだしそうなその子の唇に指を当て、沙遊璃は片目をつむった。それは私達だけの秘密、口にしちゃだめよ……と、いうように。

 彼女は自分が手作りした本を子供達がじっと見つめていることに、ふと気がついた。

 それは、いかにも素人が作ったのだと傍目にも丸分かりの不格好な本だったが、子供達はそれを世界に二つとない宝物のように思っている。彼女は目を細めて彼等を優しく見つめた。


「話してあげるわ。異世界のこと、私達のこと……嫌な奴をやっつける英雄譚は本屋にいっぱいあるけれど、そんな本では決して書かれない物語。悲しい人に手を差し伸べてあげることで世界は変わるんだって、人は一人で生きてはいけないんだって……」


 半ば独り言のように言っただけなのに目の奥から、ふーっとまた涙がわいてきた。

 それを振り払うように、沙遊璃は本を広げた。

 そして……まるで諳んじるように、空白のページにまだ書かれていない物語の最後を子供達へ向かって、こう結んだのだった。




「お姫様は、愛する人とこうして再びめぐり逢うことが出来ました。悲しい嘘をついても小さな希望を紡ぎ続けた異世界の王姫は鋼鉄の王虎を駆る勇者と結ばれ、二人はいつまでも、いつまでも、幸せに暮らしたのでした……」

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