第19話 見捨てられた異世界の片隅で
息絶えた鋼鉄の王虎を悼む心が簡単に消える訳ではない。
だが、魔族達は生き続けてゆかねばならなかった。悲しみに囚われて生きるばかりではいけない……かつて王姫が生死を彷徨い魔物達が悲嘆に暮れていた時に、少年が諭した時と同じように。
それでも王虎の傍から離れ難かった魔物達は、そのままそこを宿営地として森を探索して回ることになった。
そして数日が経ち……
「アリスティア様、ここは素晴らしいところですよ」
長旅に疲れた王姫は魔物達に乞われるまま静養していたが、そこへもたらされる知らせは、素晴らしいものばかりだった。
「森の奥に泉がありました。川の水はとても綺麗で魚もいます。また魚釣り出来ますよ」
「木の実がたくさん成っています。果物も。試しに食べてみましたがどれも美味しいものばかりでした」
「お湯の出る泉がありました。湯浴みが出来るくらいの熱さでした」
「食べられる草や草の実がありました。食べきれないくらいいっぱい生えています」
「貯蔵庫にも隠れ場所にもなりそうな洞穴がありました」
「広い葉をいっぱい抱えた大木が群れているところがありました。雨が降っても少しも濡れません」
旅路の中で幾度も苦難を味わった彼等には、信じられないような自然の恵みの数々だった。
「テツオ、聞いた?」
「よかったねぇ! 休める場所ばかりか水も食糧もこんなに……」
「ティーガーはこんな素晴らしい場所まで私達を連れてきてくれて、息を引き取ったのね……」
アリスティアはティーガーを振り返り、ドレスの袖でそっと涙を拭った。
砲身を下に向け擱座した鋼鉄の王虎の姿は、王姫の眼には精一杯戦い、満足して力尽きた守護神のように見えた。砲口のマズルブレーキには花輪が掛けられている。魔物の子供達が時折花を摘んで、王虎を慰めてくれているのだった。
王虎を失った少年も今はだいぶん落ち着き、アリスティアの言葉を聞いている。
だが、その表情は浮かなかった。
「今までこんな森には一度も行き当たらなかった。小さなオアシスとか川や林ぐらいしかなかったのに……」
首を傾げた少年は「何か不自然じゃないかな?」と、疑いの目で周囲を見回した。
「テツオ様は何か不審に思えますか?」
王姫の傍らに控えていたメデューサ婆が驚いて口を挟むと、少年は困ったように「だってさ」と、つぶやいた。
「恵まれすぎている。何か出来過ぎている気がするんだ。もしかして、チート勇者の仕掛けた罠じゃないかって思って……」
「……」
アリスティアとメデューサ婆は顔を見合わせ、思わず微笑んだ。苦しいことや悲しいことが余りにも多すぎると、巡り合った幸運ですら偽りの皮を被った陥穽のように疑ってしまうものらしい。
「テツオ、心配しすぎだわ。ここは大丈夫よ」
「そ、そうかな」
「私たちを陥れるような意図は感じないわ」
そこは異世界の魔を統べる王姫である。魔力を持たない少年が知らないうちに森の中の気配を探り、警戒するくらいのことはしていた。
だが、彼の決まり悪そうな顔を見たアリスティアは、慌てて「でも今までのことを考えたらテツオが用心するのも当然だわ。ありがとう」と宥めた。メデューサ婆も「まぁ笑って済む話ですし」と取り繕ったので、少年は頭をかいて照れくさそうに笑った。
だが、その笑顔はどこか寂しげだった。アリスティアは顔を曇らせる。
前に一度、自分が彼を拒絶してしまった時に同じ表情を見たことがあったのだ。そのとき彼は言い訳をせず、自らを捨て石とする為に別れを告げ、去っていった。
「あ……」
気がつけば、彼がどこかへ行こうとしている。アリスティアは思わず、彼のマントの裾を掴んでしまった。
「テ、テツオ……どこへ行くの?」
「どこって、泉へ水を飲みに行こうと思って。美味しいって聞いたし」
「そ、そう……」
顔を強張らせて引き留めたアリスティアを、少年は怪訝そうに見やった。
「どうかしたの?」
貴方がどこか遠くへ行ってしまいそうで怖かったの……と言えるはずもなく、アリスティアは黙って俯いた。それでも掴んだ手が離せない。
「一緒に行く?」
「……ええ」
もしかしたらお別れの時が近いのかも知れない……アリスティアの胸にそんな不安が兆した。
……その時、自分に引き留めることは出来ない。彼はいるべき世界が異なる異邦人なのだから。
……この地を離れて彼を追うことも出来ない。彼を愛していても魔族を統べる責務は捨てられないのだから。
彼も、愛していると告げた自分の想いに、まだ何も応えてくれないまま。
それが、もし別離の時に未練を残さないように、何も言わず黙っているからだとしたら……
(元いた世界への道標を見つけるために彼が別離を決めたなら、そのときは笑って見送って……)
(でも今は……せめて今だけは……)
「時々足がふらつくから」と彼の腕にしがみつくと、押し付けられた柔らかな胸の膨らみに少年は顔を真っ赤にした。「じ、じゃ、行こうか……」と、ロボットのようなぎこちない足取りで歩き出す。
今にも泣き出しそうなアリスティアの顔を見たメデューサ婆はしばらくの間二人だけにしてやろうと思ったのだろう、黙って見送った。
最初は腕にかかる幸せな感触にだらしなくニヤけていた少年だったが、アリスティアの縋りつく様子に何かを感じ取ったのか、その顔は次第に落ち着いた、しかし寂しそうな表情へと変わっていった。
太く逞しくはなかったが、少年の腕は温かかった。
(ずっとこうしていられたらいいのに……)
掴まって歩いているうちに酸のように熱い涙が目に溢れ、視界が滲んで何も見えなくなった。
少年は俯いたまま、何も言わない。
王姫の長い髪をなびかせ風が吹き抜けてゆく。新緑の匂いに混じって微かな花の香りがした。
そして。
別離は王虎の死よりももっと思いも寄らぬ形で、だが彼女自身が望みながら望めぬと思っていた「願い」を携え、訪れたのだった。
** ** ** ** ** **
森へ滞在し一週間が経った。
「風光明媚。こんな良いところは、私らがいた王国にもなかなかございませんでした」
「本当に。居心地も良いし、皆すっかり元気を取り戻しました」
王姫の御座所とした森の一角で、メデューサ婆がつぶやくとドルイド爺も相槌を打つ。
ひとときの安らぎを得た彼等は今までの旅の苦しみをすっかり癒し、今も御座所から少し離れた場所でくつろいでいた。子供達は追いかけっこなどして楽しそうに遊んでいる。
アリスティアはその様子を見つめ「ええ、その通りね」とうなずいたが、それでも此処を安住の地には出来なかった。
「だけどチート勇者が現われる危険が少しでもあるなら、ここもいつまでもいることは出来ないわ」
しかし、ここを出てまた旅を続けたとしても安全な場所などどこにあるというのだろう。
それに、チート勇者に出会って戦いになっても彼等の守護神、鋼鉄の王虎はもういないのだ。
ドレスの上に置かれた手がキュッと握りしめられるのを見たドルイド爺は「まぁ、しばらくは大丈夫ですじゃろ」と、慰めるように言った。
「そうね……」
いつ襲われるか知れぬ恐怖に怯えながら、また希望の見えない旅をいつか始めねばならない。臣下の魔物達にそれを告げた時、彼等はどんなに落胆し、辛い思いをするだろう……
アリスティアはそんな辛さを押し隠して「もうしばらく、のんびりしましょう」と、笑顔を作ろうとした。
しかし、今までのように笑うことが出来なかった。涙が出そうになってしまった。
(やすらぎも幸せもほんのひとときしか許されない)
(いつも苦しみに耐えて、怯えるばかり……いつまでこんな日々が続くのだろう)
アリスティアの心中を察したメデューサ婆とドルイド爺は顔を見合わせる。
しかし、彼等も同じ思いだった。
暗い顔で黙り込んでいると、その場をなごませようと思ったのだろう、少年が「ここにしばらくいるっていうならさ」と、言い出した。
「ピクニックに行かないか?」
「ピクニック?」
「ええと、一度みんなで森を散策して回らないかってことだよ。僕も元気になれたし」
先の見えない不安に囚われたままでいるより、今のささやかな幸せを大切にして希望を持とう……少年は言外にそう言っていた。
この先にも待ち受けているであろう苦難がそれで解決する訳ではなかったが、少しでも気が晴れるならとメデューサ婆達は「それはいいですのう」と、賛成した。
「そうね、みんなで一緒に回りましょうか」
ようやく小さな笑顔を取り戻したアリスティアがうなずくと、さっそくメデューサ婆から魔物達に触れが出された。
そして……
「アリスティア様、リアルリバーの魔族は皆ここに揃いましてございます」
お触れが回った翌朝、魔族達はティーガーの前に整列して王姫の出座を待った。
「そんなにかしこまらないでちょうだい。今日はみんなで、この森で遊びましょう」
アリスティアは笑顔で手を振り、ドルイド爺が「そういうことじゃ。さ、行こうかのう」と、のんびり声を掛ける。魔物達は肩の力が抜けたのかホッとしたように隊列を崩し、ぞろぞろと歩き出した。
ドワーフやゴブリンの子供達はアリスティアの周囲に集まり、王姫はさながら幼稚園の先生といった態で彼等を引率し、歩き始める。
少年が剽軽な物腰でゴブリンの子を抱き上げ「よーし、肩車してあげよう」と肩に乗せると、魔物の子らは「あ、僕も僕もー」「抱っこしてー」と彼の周囲でじゃれつきだした。
アリスティアは心配そうに「テツオはまだ怪我がちゃんと治ってないんだから、あんまりワガママを言ったら駄目よ」と叱ったが、少年は「これくらい、もう平気だよ」と笑った。
「無理しないでね。でも、ありがとう」
「どういたしまして」
肩車したまま踊るような足取りで少年が「ほら、みんな置いてゆくぞー」と歩き出すと、子供達はキャッキャッとはしゃぎながら追いかけてゆく。後をゆくアリスティアや魔物達は、つい微笑を誘われた。
「うん、いいピクニック日和だ」
それはまったく気持ちのいい日だった。
暑くも寒くもなく、時折気持ち良い風が吹いて彼等を爽やかな気持ちにさせてくれた。
森の木洩れ陽は優しく大地へ降り注ぎ、木々の枝に止まって小鳥たちがさえずる。
陽光を求めて伸びた草が風にさやさやと鳴り、育ちゆく緑の喜びを歌った。
陽を浴び、風を受け、鳥の歌を聞くうちに、アリスティアの憂鬱も薄皮が剥がれてゆくように少しづつ晴れてゆく。
「そうだ、草笛を鳴らしながら行こう」
少年は傍らの草を摘むと丸め、すぼめた口に咥えるとピーと鳴らした。子供達の眼が驚きと喜びに輝き、口々に「作り方を教えて!」「僕にもちょうだい!」と、せがんだ。
やがて、草笛の作り方を教えられた魔物の子らが吹く音を伴奏に、川に沿って一行は歩きだした。流れる川のせせらぎに陽光が反射してきらきらと光っている。恵み豊かな季節の喜びに光が踊っているようだった。
木立を抜けると崖に突き当たり、そこに泉があった。
ここでお昼にしようということになり、一行は冷たい泉の水で喉を潤し、木々の枝に実った果実をもいだ。更にグリズリーが川へ入って何匹かの魚を
もちろん、口にする前に彼等は目を閉じて「いただきます」と、手を合わせた。
お腹を満たすと魔物達は眠気に誘われ、思い思いに横になった。
少年が木陰で軽くいびきをかきだすと、アリスティアはこっそりと傍らに寄り添って目を閉じる。魔物達は二人をそっとしておいてくれた。
そのまま軽く午睡を取り、目を覚ますと、今度は方角を変えて一行は歩き出した。
「なんて深い森。歩いているだけで心が澄み切ってゆくようだわ……」
森の中の光景は本当に素晴らしいものだった。
魔物達は、森の中を歩くうちに樹々と溶け合い、一体化するような感覚をおぼえた。木々の葉の隙間から降り注ぐ光条は神秘の力に満ちていて、彼等は魔力が身体の中に健やかに満ちてくるのを感じた。
そればかりではなかった。
静寂に思える森の中には、たくさんの音も満ちていた。それらの音は少しも耳障りではなかった。虫の鳴く音、小動物がかさこそと走る音、木の葉を優しく揺するそよ風。空気には花の香りと草の匂いが心地よい調和で混じり合っている。
そして……
「おお……!」
再び木立を抜けると、彼等は思わずどよめきの声を上げ、立ち尽くした。
そこには見渡す限りの草原が広がっていた。それも、ただの草原ではなく、半ば花園のようだった。草に混じって色とりどりの美しい花々が咲き乱れている。木々があちこちにぽつり、ぽつりと立っていた。若木もあれば老木もあり、老いた木には蔦が絡まって甘く爽やかに香る白い花を咲かせていた。蜜を求めて羽虫が戯れている。
草原の先はなだらかな丘へと続き、その遥か彼方には険しい山がそびえていた。
やわらかな陽光はいつまでも空に留まり、虫の羽音や鳥の囀りがあふれ、吹き渡る風までが嬉し気にささやきながら木々の梢をざわめかせて去ってゆく。
「こんな場所が……」
アリスティアも少年も言葉を失い、異世界の果てにこんな美しい場所があったのかと見惚れるばかり。
……どれくらい、そうしていただろう。
心を奪われたように立ち尽くす魔物達の中で、それを最初に言ったのは一体誰だったのか。
「楽園……」
「もしかして……ここが?」
最初はささやくような、戸惑うような声が、次第に歓喜の声へと膨れ上がってゆく。
「きっとそうだ。亡き魔王様がアリスティア様へ告げられたという約束の地……」
「西の果てにある最後の楽園……ここだ……そうに間違いない!」
アリスティアは、ぼう然となった。
(そんな……私の嘘だったはずなのに……)
「アリスティア様!」
「アリスティア様! きっとここが……そうでしょう?」
「とうとう辿り着いたんですね。約束の地に!」
こここそが約束の地だと誰もが思った。
ただ一人を除いて。
高まってゆく歓喜の声に、彼女の身体が震えだした。
「……違うの!」
口々にあげる魔物達の喜びの声を遮るように、アリスティアは絶叫した。
「嘘だったの……」
「え?」
「お父様は約束の地なんて私に言わなかった。安心して住める場所なんて私、本当は知らなかったの」
アリスティアは、良心の呵責にこれ以上耐えられなかった。
「姫様……」
「どこにも希望がないなんて言えなかった。私、みんなを騙してこんな地の果てまで……」
そのままぺたりと座り込み両手で顔を覆うと、彼女はしわがれたような声でついに真実を告げた……自分の掲げた希望が偽りだったのだと。
「まさか……」
「そんな……」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
哀しい嘘で紡ぎ続けた希望だったという王姫の告白に魔物達は絶句し、さながら石と化したように硬直した。
ところが。
「……いいえ、嘘ではありませんよ」
静かな――
しかし、よく響く落ち着いた声が、王姫の告げたはずの真実を否定した。
「ここは紛れもなく約束の地。私から貴方がたリアルリバーの魔族へ贈る楽園です」
ぎょっとなったアリスティアの、そして魔物達の顔が一斉にその声の持ち主に向けられた。
「お婆ちゃん……」
アリスティアの告白に狼狽し、さっきまでオロオロしていたはずのメデューサ婆が、立ったまま眠ったように瞑目し、身体をゆらゆら揺らしている。
だが、その声は明らかに老婆の声ではなかった。
男性のようでもあり女性のようでもある不思議な声色で、どこか広大な場所から呼びかけているように反響している。
「しばしの間、この方の身体をお借りしてお話しします」
何者かが遠い場所からメデューサ婆に憑依し、依代として語りかけているのだ。
魔物達は思わず飛び退るようにして距離を取った。少年は竦んだアリスティアを庇い、数匹のゴブリンが王姫の左右で棍棒を構えた。
「大丈夫です。私は、あなた方に危害を加えるつもりなどありません。このお婆ちゃんも話が終われば、無事にお返しします」
「あなたは誰?」
語り始めた声を遮ってアリスティアが鋭く問う。
「王姫アリスティア、私はこの世界を創造した者です。マスター……ライター……創作者……様々な人達が様々な呼び名で呼んでいます」
「
アリスティアは信じられないような目で、揺らめき立つ老婆を見つめた。
「では、お話ししましょう。貴方がたもそこにいる異邦人の少年の来た世界がこことは別にあることを既にご存じでしょう。世界はひとつではないのです。この『リアルリバー』は、神々が鑑賞する為に創られた世界のひとつ。このような世界は無数にあるのです」
「……」
魔物達はどよめいた。
それは、かつてアリスティアを拷問にかけた
『このリアルリバーも、溢れかえったそんなチート勇者達の需要を満たすために慌てて創られた異世界のひとつに過ぎなかったはずだ』
『貴方達はきっと知らないでしょうけど、この異世界を創った神様は他にもきっとたくさん似たような世界を創っているはずよ』
では、彼等が告げたのは虚言ではなく、紛れもない真実だったのだ。
魔物達は息を呑んで、この世界の創造者の次の言葉を待った。
「私は……いえ、私たちは望まれるまま無数の世界を創り続けてきました。神々は、そこで繰り広げられる様々な物語を鑑賞し、楽しんできたのです」
恐ろしいほどの静寂の中、告白の言葉は続く。
「多くは
そこで声の主は「やがて神々は傲慢になってゆきました」と、ため息をついた。
「大急ぎで創られる安普請の世界を舞台に、理不尽な仕打ちからの痛快な逆転劇、底辺からの下剋上が賛美され、悪に下す鉄槌はますます過激なものに、容赦ないものになってゆきました。失われれば蘇らないからこそ尊ぶべきはずの生命が、繰り返される転生の輪廻の中で蔑ろにされ、価値の稀薄なものへとなってしまったのです。そればかりか、悪として生を受けた者でも悔い改めて正しい生き方が出来るのに『そんなものは必要ない』と。『神々がひととき楽しむ為の役割さえ演じればよい』と」
「では、私達魔族がこうして迫害されたのも……」
アリスティアの問いかけに、声の主は思わず顔を背けた。
「そうです。悪として創られ、しかし貴方がたはそうでない生き方を選び、その結果この世界は神々から捨てられてしまいました。『つまらぬ』と。神々は改心や道徳の物語ではなく、もっと痛快でもっと爽快で、おひゃらけた物語を求めていたのです」
声の主は静かに語り続ける。その声色にはどこか苦々し気だった。
「無数にある世界の運命は様々です。創造者が飽きて放置され
それらは皆顧みられぬまま、後から後から生み出される無数の世界の中へと埋もれ、忘れ去られてゆくのです。
私はもう世界の創造を止めます。神々が求めるからといって、生命が蔑ろにされるような世界に何の価値があるというのでしょう。
だからその前に、捨てられたこの世界の片隅に住む貴方達にせめてもの救済をさせていただこうと思います。
この楽園を、皆さんに差し上げます。私からの心からのお詫びです……」
老婆に憑依した創造主はそこで背を正し、静かに頭を下げた。その仕草からは精一杯の誠意が感じられた。
「この異世界は外部からの干渉を絶ち、閉ざします。異世界からチート勇者が転生してくることがないように……」
「おお……」
「もう何にも怯えることはありません。ここが皆さんの楽園です」
安堵と喜びのあまり歓喜の声をあげた魔物達は肩を震わせ、抱き合って泣き出した。
苦難に満ちた彼等の
声の主は、更に少年へと視線を転じる。
「クズウ・テツオ。貴方は元の世界へ戻ることになります」
アリスティアはハッとして傍らの少年を振り返った。
「貴方もあの戦車も、この世界へ英雄譚を望んで転生してきた勇者達とは違います。召喚でもなく、転生でもなく、偶然の事故で現われた。本来この世界に来るべき存在ではなかったのです。この世界にも愛着はあるでしょうが、リアルリバーが外部から閉ざされれば二度と元の世界へ還れなくなりますから。いいですね?」
少年は黙ったまま頷く。アリスティアは、彼にリアルリバーへ留まって欲しいという自分の願いがついに叶わなかったことを知った。
声の主は少年へ詫びるように言い添える。
「貴方にも生命の危機に及ぶほどの大変な迷惑を掛けてしまいました。しかし、貴方がこの魔族を救って下さったことに心から礼を言います。見捨てられたこの世界の片隅で貴方とあの戦車が果たしたことを神々のほとんどが知らないままでしょうけれど……でも、誇りに思って下さい」
ゆらゆら揺れる老婆の口から詩を呟くように呪文が唱えられると、緑色に光り輝く魔法円が現われた。
「光が消えるまでに、魔族の皆さんにお別れを告げて魔法円にお乗りなさい。元の世界へ還れます」
そう告げると、声の主は声もなく立ち尽くしている魔物達を見回し、胸に手を当て静かに頭を垂れた。
「もしかしたら気まぐれな
待って! と、思わず手を伸ばし呼びかけたアリスティアは、顔を上げたメデューサ婆が瞬きしてキョトンとなったのを見て、力なくその腕を下ろした。
「姫様、今のは……? はて、婆は一体……」
「――行ってしまった……」
肩を落とし、アリスティアはつぶやいた。
のろのろと顔を上げると、地上に、緑に光る呪文を回転させている魔法円が残されているだけだった。その光は少しづつ輝きを失い、回転も遅くなってゆく。このリアルリバーに永続する魔法は存在しないのだ。彼は消えるまでの間にこの魔法円に乗らなければいけない。
心のどこかで恐れていた少年との別離の時がとうとう訪れたのだ。
彼女には、もう引き留めることは出来なかった。
だが、黙って魔法円へ歩き出そうとした少年の手を引いたのはオークの子供だった。
「いっちゃ駄目!」
目に涙をいっぱい浮べて彼が叫ぶと、魔物の子供らが「テツオ、行かないでよ!」「ずっとここに居てよ!」と泣きながら彼の手足に縋った。
「僕達とここで暮らそうよ。あんなに楽しいこといっぱい教えてくれたのに……行っちゃやだぁぁ」
「テツオを困らせちゃ駄目よ。彼の世界にも、私達のように彼を必要としている人がいるのよ」
アリスティアが懸命に子供達を宥める。
だが、その声は震えていた。頬には涙が伝っている。本当は彼女が一番彼を引き留めたいのだ。
他の魔物達も少年を引きとどめたい気持ちを懸命に堪え、泣き縋る子供らを優しく引き剥がした。
「テツオ、行っちまうのかい?」
おばさんオークが我慢できないと言った様子で少年のマントを掴み、背中に縋りついてしまった。
「私ら、あんたや王虎に何度も助けられてこんなに世話になっちまったのに、何一つお礼も出来ないなんて。許しておくれ……」
「何言ってるんだい」
少年は笑いながらおばさんオークの背中を撫でる。彼の瞳にも涙がいっぱい溢れていた。
「僕こそ、色々お世話になったよ。今まで色々とありがとう」
「元の世界へ戻っても、どうか私らのことを忘れないでおくれ」
「もちろんさ。みんなのこと絶対忘れないから。家族みたいに、こんなに優しくしてもらえた……」
「家族だよ。あんたは私達、魔族の大切な家族さね。出来ることならずっとここに居て欲しかっ……」
そこまで言うと、おばさんはとうとう堪え切れずに号泣してしまった。メデューサ婆が彼女の背中に手を置くと二人は抱き合って泣き出した。
「テツオ様。今まで本当に……何とお礼を言ったらよいか……」
「お婆ちゃん……」
優しく頭に手を置くと、彼女の頭髪を模した蛇達が悲しそうに甘噛みして別れを惜しんだ。その手にドルイド爺が手を重ね、目が合った少年と涙ながらにうなずき合う。グリズリーは深い体毛を擦り付け、ケルベロスは伸び上がって前足を掛けた。少年がかがむと三つの首が三つの舌で彼の頬を舐めてくれた。
少年に寄り集まった他の魔物達も涙ながらに別れを惜しむ。
「テツオ、ありがとう……」
「こんなものしかないが、よかったら持って行ってくれ……」
急な別れで餞別などあるはずがない。散策の中で摘んだ花や木の実が魔物達から少年へ押し付けられた。少年も胸がいっぱいらしく「ありがとう……」と、かすれ声で礼を言いながら受け取った。
そんな魔物達の後ろでアリスティアは、静かに佇んでいた。
恋する少女として泣くよりも、王姫として毅然として彼を送り出して……そう決意していたはずなのに、零れ落ちる涙を抑えることがどうしても出来ない。
肩を震わせ、それでも精一杯微笑んで見守っている王姫に少年は気がついた。彼の視線を辿った魔物達も……
魔物達は潮が引くように下がり、アリスティアの背後にいたゴブリンやドワーフ達が、ためらう彼女の背中をそっと押す。少年もアリスティアに近寄り、二人は向かい合って立った。
泣きながら懸命に微笑んでいる王姫の姿を見た魔物達はハッとなった。彼等は、王姫のこれほど切ない、悲しい笑顔を見たことがなかったのだ。
彼等はようやく知った。
自分達が仲間とも家族とも思っていたこの異邦人の少年に、王姫だけがもっと深く、かけがえのない想いを抱いていたことを。
二人は互いに無言のままだったが、残された時間は余りにも少なかった。最初は眩かった魔法円の輝きも今はかなり衰え、消え始めている。
アリスティアは、かすれたような声で別れを告げた。
「テツオ、元気でね……」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
そして、俯くとしぼり出すように小さな声で、もう一度告げた。
「愛してるわ……」
「僕も」
思いがけない言葉だった。
驚いて顔を上げると少年は照れたように、そして寂しそうに笑った。
「初めて会った時からずっと好きだった。綺麗で誇り高くて。でも、かわいくて優しくて。君が好きだと言ってくれた時……とても嬉しかった」
「テツオ……」
「でも、君はこの異世界の王姫だから。みんなにとって君がどんな大切か、知ってるから……」
そう言うと少年はアリスティアの前髪を掻き上げ、その白い額にそっと唇を触れた。愛する王姫へ……彼にはそれが精いっぱいだった。
そのままパッと身を翻して魔法円に乗った彼は、森の向こうへ一瞥を投げた。その方角には彼の半身として共に走り、戦った鋼鉄の王虎が眠っている。
(お前とも本当にお別れだ。さようなら、ティーガー……)
心の中でそうつぶやくと、口々に別れを惜しむ魔物達と思いがけない告白にぼう然と佇むアリスティアへ消え去る刹那、微笑みかけた。
「さよなら、アリスティア……みんな、いつまでも元気でね……」
「テツオ!」
思わず駆け寄ったアリスティアの手は虚空を掴んだだけだった。
彼の姿が消えると、魔族から彼へ贈ったマントや餞別に持たせていた木の実や花だけが宙に浮かび、そのまま地上へ落ちた。異世界で彼が身に着けたものは、何一つ元の世界へ持ち帰ることが許されなかったのだ。
「テツオ……テツオ……愛してるわ……」
跪くと、アリスティアは泣きながら何度も呼びかけた。
だが、その声に応えてくれる人はもういない。両親を失った日のような喪失感が彼女の心に広がってゆく。
と、泣きじゃくる彼女の背中に老いた腕がそっと触れた。
「行きなされ」
「おばあちゃん……?」
泣き濡れた顔を上げる。うなずきかけたメデューサ婆は、顔の皺に涙を縦横に這わせていたが、溶けるような笑顔をしていた。
「テツオ様を愛しておいでなのでしょう? 追いかけなされ」
「そんな……行けないわ。だって、私はこの異世界の最後の……」
思いがけない言葉に戸惑うアリスティアを老婆は静かに諭す。
「希望の灯を掲げ、皆を護り、導く……姫様は王族の責務を最後まで立派に果たされました。もう充分です。私らはここでいつまでも楽しく生きてゆけます。姫様がこれからも皆の幸せを願うならご自身の幸せを……のう、皆」
そう言うと、背後に控えていた魔物達を振り返る。集まっていた二十余匹の魔物達は泣いていたが、皆、それぞれにうなずいた。
「姫様が幸せが我らの幸せです。今までずっと辛い目に遭って、苦しんだり、悲しんだりしてきたのです。これから幸せになって下さい」
魔物達は口々にアリスティアに薦めた。
「好きな人と一緒に……これ以上の幸せはないでしょう? 私らの為にも行って下さい、姫様」
「もう泣かないで下さい。これからはいっぱい笑って下さい」
「姫様、僕さびしくても泣かないから。テツオと一緒で幸せなら、僕も嬉しいもの」
彼等に大切な王姫がいなくなるのを寂しいと思わぬ者は誰もいない。
だが、それ以上に彼らは王姫が幸せになることを願っていた。王姫と少年が互いに惹かれ合い、愛し合っているのなら何のためらいもなかった。
「私らのことはもう何の心配もいりません。ここでいつまでも幸せに暮らしてゆけるんですから」
「みんな……」
アリスティアは胸がいっぱいで、もう何も言えなかった。
「アリスティア様、魔法陣がもうほとんど消えかかってます! さあ急いで……」
王姫が迷って間に合わなくなる前に、と魔物達はアリスティアを押し出すようにして魔法陣に乗せた。
「姫様、お元気で!」
「お幸せに!」
アリスティアは彼等のはなむけの言葉に、ようやくうなずいた。手招きして魔物達を呼び寄せ、残された僅かな刹那、彼等を身体いっぱいに抱きしめた。
「ありがとう。私、どんなに離れてもみんなのこと忘れないわ。みんなの幸せを祈っています。いつまでも……」
「アリスティア様……」
「みんな、いつまでも仲良くね……さよな……ら……」
涙と笑顔で手を振る王姫の姿は透き通り、やがて掻き消すように無くなった。
「……」
黄金色に輝く陽光が、残された者達の寂寥を慰めるように優しく降り注ぐ。二人が去った後も魔物達は、立ち尽くしていた。
鋼鉄の王虎を駆る勇者は異世界から去っていった。
そして小さな希望を紡ぎ続けた王姫もまた、愛する人を追い、旅立っていったのだった。
言葉を発する者は誰もいない。
彼等の心はいまだにおののき、いまだに喜びと寂しさに涙している。
魔法陣は消えたが、陽光の煌めきは涙の中で滲んで二人の幻を映し出した。
やがて、去っていった二人の幸せを祈る為に一匹の魔物が跪き、一匹、また一匹と他の魔物達も静かにそれにならっていった。
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