第8話 生きる

「う……うう……」


 陰惨なうめき声が、激しい雨が降りつける森の中に、かすかにひびいていた。

 魔物達は接着剤のような粘液に絡め取られていて既に身動きが取れない。彼等は非道な拷問に必死に耐えるアリスティアの声を聞かされ、煮えたぎる怒りに血の涙を流していた。


「う……あ……」


 磔にされたアリスティアの口から、かすかな虫の息のうめきが漏れ続けている。

 インスペクターは、異邦人の少年と鋼鉄の王虎の情報を話すことを頑として拒み続けるアリスティアに業を煮やし、電流を流す度に電圧を上げた。

 だが、気が狂いそうな痛みを受けながら、なおもアリスティアは白状しようとしない。

 インスペクターはさらに怒り狂い、針金のような細い長い針を何本も取り出した。針には痛覚を増す薬品が塗布されているらしく真っ赤に濡れている。それで彼が新たに何を始めるつもりかを知った一匹のドワーフがたまりかねて「頼む、本当にもうやめてくれ!」と、泣きながら叫んだ。


「姫様が死んでしまう。お願いだからこれ以上は……」

「ふぅん、じゃあ君が代わりに喋ってくれる?」


 思わぬ返答に、ドワーフの顔色が変わった。

 自分があの少年のことを話せば、愛する王姫を助けてもらえるかも知れない。

 だがそれは、「人を売る」ことなのだ。

 渇いた身へ水を汲んでくれ、疲れた身を戦車に乗せてくれた、そればかりか囚われた同胞を救い出すため命を投げ打って戦った、あの少年を……

 ドワーフは苦悶の表情を浮かべたが、アリスティアが拷問につぐ拷問で苦しむ様子を見ることに、これ以上耐えられなかった。


(姫様の生命を救う手立てが他に何もない。テツオ、どうか許してくれ……)


 雨に濡れた顔を震わせながら、ドワーフは口を開いた。


「彼は……」

「だめよ。しゃべっては駄目!」


 突然、アリスティアが大声をあげた。


「魔族の長として命じます、話してはなりません。彼を裏切る真似などしてはいけません……いいですね」

「アリスティア様……」

「この世界で私達魔族に手を差し伸べてくれたのは、あの人だけだった……ごめんなさいも言えなかったけど、裏切るようなことだけはしたくないの」

「……」


 ドワーフは、涙でもうアリスティアの姿をまともに見ることが出来なかった。


「わたしは大丈……ああああああああっ!」


 健気に微笑んだアリスティアの声は途中から悲鳴に変わった。インスペクターが物も言わず、拷問用の針を彼女の身体に突き刺したのだ。小さな血飛沫が上がった。


「アリスティア様!」

「自己満足宣言乙。そいつにしゃべらせないなら別にいいよ。君にしゃべってもらうだけだから。せいぜい頑張ってね」


 毒のこもった皮肉で笑ったインスペクターは「じゃあ、続きを始めようか」と冷酷に告げたが、鮮血に身体を染めたアリスティアは叫び声をあげ続けていて言い返すことも出来なかった。

 しばらくすると彼女は、がくりと項垂れた。インスペクターは「あ、気絶しちゃったか」と肩をすくめてパチリと指を鳴らす。

 すると拘束台に再び電流が走り、彼女を苦痛で目覚めさせた。そこに新しい針がゆっくりと刺し入れられ、再び悲鳴をあげる王姫の身体を貫いてゆく。

 アリスティアは、その想像を絶する激痛に必死に耐えていたが、四本目の針が刺されたときには、心も身体もついに力尽きた。


「もう……もう死なせて……」


 ボロボロに千切れたドレスは飛び散った鮮血でまだら模様になり、白い華奢な肩も美しい乳房も半ば露わになっていた。

 それをニヤニヤしながら眺めるとインスペクターは「しゃべる気になった?」と尋ねたが、拘束台のアリスティアはかすかに首を横に振った。


「言わない。もう殺して……お願い……死なせて……」

「頑固だね、君も。このままだといずれ死ぬだろうけどしゃべるまでは殺さないよ」

「……」


 無慈悲な宣告に、アリスティアは言葉もなくうなだれた。


「君がしゃべったら、お願いをきいてあげるよ」


 抗う術はなかった。自分はこのまま苦しんで死んでゆくのか――降りしきる雨の中でアリスティアの瞳は絶望に揺らめいた。


「白状しなよ。楽に死なせてやるからさ」


 薄ら笑いを浮かべ、インスペクターはもう一度尋ねた。

 意識が朦朧としたアリスティアからは、もう応えすらない。ぼやけた視界の中で、彼が舌打ちして「しょうがない、延命させて自白剤を使うか」と近づいて来るのが見えた。

 このまま彼のことを話してしまうくらいなら舌を噛み切って……彼女がそう思ったときだった。

 拘束台に手を伸ばしかけたインスペクターの顔へ、出し抜けに横から真っ赤な礫が叩きつけられた。

 「ぐべっ!」という奇妙な声を上げてのけぞった彼に、続いて赤い曵光弾が矢のように襲い掛かる。彼の身体は右に左に小突かれるように弾け飛び、そのまま仰向けにぶっ倒れた。


「く、くそ……誰だ!」


 防御シールドのおかげで致命傷こそ免れたが、かなりダメージを受けた様子でインスペクターはよろよろと立ち上がる。謎の襲撃からいったん空へ逃れようとした。 

 だが「反重力バックパック起動!」と叫んだ彼の身体が大きく宙に舞い上がった時、激しい雨音を掻き消すほどの砲声がその場にいた者達の耳を貫いた。唸りを上げて飛んできた砲弾が彼の腹部へ叩きつけられる。


「げはッ!」


 撃墜され、地上に叩きつけられた彼は胃液を吐きながら身体を二つに折った。苦悶の声と共に水溜まりの中をのたうち回る。

 そして、一体何が起こったのかと驚愕する魔物達の前に次の瞬間、木々をなぎ倒して鋼鉄の王虎が躍り出た。


「ティーガー!」

「ケーニヒス・ティーガー!」

「ティーガーが来た! テツオが来てくれたんだ!」


 雨音に紛れて森を踏破したティーガーが、魔族の危機を救うべく再びその姿を現したのだ!

 絶望に打ちのめされていた魔物達の間から吼えるような歓喜の雄叫びがあがる。泥塗れの顔を上げたインスペクターは「バカな。どうしてここに……」と、つぶやいた。


「ここの周囲には多目的トラップを全方位で仕掛けていたはずなのに……」


 ティーガーが、巨大なドラゴンさえ捕獲する強力な魔法トラップを踏み潰して乗り込んできたことが、彼には信じられなかった。

 よろめきながら再び立ち上がったインスペクターは、ティーガーの予想外の能力に自分の不利を悟ったが、それでもこの場から逃げるくらいは出来るとまだ高を括っていた。黒衣の下に手を入れながら「チッ、撤退だ。覚えていろ!」と、捨て台詞を吐く。

 だが、何の変化も起きなかった。


「こ、光学迷彩が……」


 肩でランプを明滅させていた迷彩装置は砲弾の直撃で破壊されたらしく、光が消えていた。そういえば、身体を見えない被膜で覆っていた機能もいつのまにか消失している。気が付けばインスペクターはずぶ濡れ、泥塗れになっていた。

 狼狽しながらも「緊急転送システム作動……」と片手を上げたが、やはり何の変化も起きなかった。ティーガーの砲撃と地面に叩きつけられた衝撃で故障してしまったのだ。効力が解けたのか、魔物達を拘束していた粘液も溶け始めている。


「そ、装備が全部駄目になってしまってる……」


 インスペクターは、自分のチート能力を体現していた装備がティーガーの奇襲で喪失してしまったことを知って「マジでヤバいぞ、これ。どうしよう……」と、青ざめた。

 この場から逃れようにもカメレオンのように風景に溶け込む能力は既にない。思うように動けないほどダメージを受けた身体で、それでもこの場をしのぐ手段はないかと狂おしく視線を左右にさ迷わせる。

 だが手掛かりになりそうなものは何もなく、拘束が解けかかって蠢く魔物達の憎悪に燃えた視線が目に入るばかりだった。


「ちくしょう、この女が頑固に口を割らなかったせいで最悪の展開になっちまった……」


 忌々しげに磔にされたアリスティアを睨みつけたが、その彼女は拘束台の上でぐったりと気を失ったまま雨に打たれていた。


「ま、まだ手はある……僕の親衛隊だ」


 インスペクターは腰のベルトから外したスティック状の機械をバラバラと放り投げた。通常ならそれらは瞬時に変形して彼を護衛するミニロボット小隊となるはずだったが、起動したものは一つもなかった。


「くそ、これも全部駄目か……」


 いよいよ自分の窮地を悟ったインスペクターは、黒衣の下に隠していた最後の武器を取り出した。光の粒子を収束させて剣状にしたビームサーベル、万一の為に残していた護身用の光剣である。


「今ここでお前を抹殺するのはたやすい。だけど僕は寛大だ。ここでお互い手を引きたいと言うのなら、応じてやらんこともないぞ……ど、どうだ?」


 震え声で、だがあくまで「自分が優位に立っているが今なら見逃してやる」と言わんばかりにインスペクターは持ち掛けた。

 しばらく待ったが応えはない。降りしきる雨の中で砲口を向けたティーガーの冷酷な沈黙が、その答えだった。


「そうか。死にたいと云うのなら僕が自ら引導を渡してやる。死ね!」


 今さら命乞いなど出来る筈がない。引くに引けなくなったインスペクターは、半ば自暴自棄になってティーガーへ突進した。

 叩きつける雨を装甲で弾き返していたティーガーの砲塔がゆっくりと動く。八八ミリ戦車砲の横に装備されていた同軸機銃の銃口が、斬り掛かったインスペクターに向かって鈍く光った。

「くたばれガラクタ戦車! 異世界の秩序にお前のような異分子など……」

撃てフォイエル!」


 喚きながら脇目もふらず突っ込んできたインスペクターには避ける間などなかった。

 次の瞬間、毎分八〇〇発の射速を誇るMG三四型機銃の咆哮が宙を切り裂く。

 インスペクターは制裁の銃弾をもろに喰らい、滅多打ちにあった。酔っ払いが踊り狂っているように五体を泳がせ、乱打を浴びて後ろにのけぞってゆく。

 雄叫びとも悲鳴ともつかない声をあげ、死なば諸共とばかりに彼は光剣を投げつけようとしたが、その前にティーガーの八八ミリ砲が再び轟然と火を吐いた。

 コマのようにキリキリ舞いして吹き飛んだインスペクターは、近くの岩に顔から激突し、鼻から血を噴くとそのまま崩折れた。

 静寂が戻った。

 鋼鉄の王虎は砲口から薄い煙をたなびかせたまま、倒れた敗者を冷然と見下ろしている。拘束が解かれた魔物達もその場に座り込んだままぼう然となった。言葉を交わす者は誰もいない。

 出し抜けに砲塔のキューポラからひとつの影が飛び出した。

 怒りで興奮の余り、その影はティーガーから転がり落ちたが、起き上がると昏倒しているインスペクターへ馬乗りになった。

 怒りの赴くまま、握り締めたコブシをその顔面に何度も振るう。

 既に体力も尽きたインスペクターの身体は少しづつ透き通って消え始めたが、少年の殴打は止まらない。彼が消え去って元の世界へ戻るまでに、卑劣な仕打ちへの報いを少しでも思い知らさねば気が済まなかった。

 力の限り拳固を叩きつけながら少年は叫ぶ。


「この異世界リアルリバーの異形がお前らにどんな悪いことをした! この世界の人間をお前らチート勇者みたいに気まぐれに傷つけたか? 笑いながらいじめたか? 情けも掛けずに殺そうとしたか? おい、言ってみろ!」

「やめ……」

「僕のことを教えてやる! 名前は葛生くずう鉄雄てつおだ! 親も、兄弟も、友達もいない、ぼっち野郎だ。お前らみたいな奴等にクズテツって呼ばれて毎日殴られて蹴られてお金を取られていたんだ。でもな、手前らみたいに何かを虐めて腹いせしたことなんか一度だってないぞ! 僕がクズならお前らは何だ! 言ってみろゲス野郎!」


 弱々しく鉄拳を遮ろうとするインスペクターの胸倉を少年はつかんだ。


「人を痛めつけておいて、自分は痛い目に遭いたくないのか? ふざけんな!」

「もうゆるぢで……」

「黙れ! 同じように言った異形をお前は……お前は……!」


 さんざん殴られたインスペクターの顔は無残に歪み、腫れあがり、鼻は潰れ、内出血で青黒くなった。少年のコブシも皮膚が裂け血が噴き出したが、それでも殴打は止まない。

 しまいには、インスペクターはただヒィヒィと情けない声をあげて泣くばかりだった。

 少年も泣いていた。泣きながら殴った。

 チート勇者の卑劣な振る舞いも、自分が元いた世界で受けた非情な暴力も……何もかもが許せなかった。

 悔しさと悲しみで煮えたぎるような熱いその涙は、頬を濡らす冷たい雨と溶け合い、リアルリバーの大地に抱かれるように吸われ、消えていった……


「……」


 ふいに少年は立ち上がるとインスペクターの身体を引き摺り、ティーガーのキャタピラの前へ投げ出した。

 憎しみに顔を歪めた少年は、まさかと恐怖に震えるインスペクターへ告げた。


「このまま消える前に、七〇トンの鋼鉄に圧し潰される苦しみを思い知れ」

「ひゃ、ひゃめれ……」

「このリアルリバーへまた現れたら、どこにいても必ず見つけ出して同じことをしてやる」

「ま、まっへふれ……」

戦車前へパンツァー・フォー!」


 テツオが右手を振り下ろすと、「ゴウンッ――」と、ティーガーの起動輪が動き始めた。身体のほとんどが消えかかったインスペクターだったが、迫り来る恐怖に身をよじり悲鳴を上げて逃げようと這いずり出した。その上に巨大な鉄のキャタピラが伸し掛かかり、断末魔の絶叫があがる。

 だが、ほんの僅かな差で圧死の前に消え去ったらしく、そのキャタピラが鮮血に染まることはなかった。骨が砕ける音もしなかった。


「……もう二度と異世界へ転生して来るな!」


 「戦車停止」と命じた少年は血だらけの腕で涙を拭ったが、我に返って身を翻した。

 少し離れた場所に、斜めに突き出て雨を遮る屋根代わりになった平たい大岩がある。その下に、捕縛から解放された魔物達が集まり、輪を作っていた。

 輪の中心にアリスティアが力なく横たわっていた。傍ではドルイド爺が懸命に回復呪文を掛け続けている。メデューサ婆はアリスティアの身体に縋って「婆が代わってやりたい……」と、目も潰れんばかりに泣いていた。


「アリスティア様しっかり! ほら、テツオが来ましたよ……」


 励ますようにゴブリンが声を掛けると、血の気の失せた彼女の瞳がうっすらと開いた。


「テツオ、どうしてここへ……」


 テツオが口を開く前に、一匹のオークの子がちょこんと顔を出した。


「姫様、僕が連れてきたの」

「クオーナ……」


 オークの子供は瞳にいっぱい涙を浮かべていた。


「姫様がテツオにごめんなさいって言えなかったって泣いてる、また会いたがってる、だから一緒に来てって僕が……」

「まあ」


 アリスティアは苦しい息の下でかすかに微笑むと、震える腕を伸ばし、オークの子の頬をやさしく撫でた。


「なんて優しい子なの。ありがとう。私のために……」


 オークの子は涙に濡れた顔で、懸命に笑ってみせた。


「テツオ、あのとき……ごめんなさい」

「いいよ。そんなこと」


 少年は泣き顔をくしゃくしゃにした。


「僕も突き落としちゃったからね。おあいこだよ。僕もゴメンね」


 少年は、おどけた顔を作って謝った。

 それはアリスティアの心の痛みを少しでも軽くしようとした少年の気遣いだったが、さっきまで怒りと悲しみに歪んでいた顔は、引き攣った奇妙な表情にしかならなかった。

 それでも少年の不器用な優しさに触れ、重く苦しかったアリスティアの心の痛みは、消えるように軽く楽になった。


「ありがとう……」

「ゆっくり休んで元気になってね」


 アリスティアは青ざめやつれた顔に、悲しそうな笑みを浮かべた。


「いいえ、私はもう駄目です……」

「ばか! 何を言うんだ!」


 叱りつける少年へ向かって、アリスティアはつぶやくように続けた。もう普通にしゃべる力すらなかったのだ。


「みんなを助けて、集めて……必死に……でも力のない私は、ここまでがせいいっぱいです」


 激痛を和らげるためにドルイド爺が麻酔の光を当てていたが、痛みが完全に消えた訳ではなく、彼女の額には脂汗が浮かんでいる。


「テツオ……私の最後のお願いをどうか聞いてください」

「アリスティア、最後なんて言っちゃダメだ!」

「どうか、ここにいる魔族の民を護って下さい。そして……」


 自分の生命の灯火が残っている間にとアリスティアは、か細い声を振り絞った。

 彼女の周囲では、ゴブリンやドワーフやグリズリー、ケルベロス、全ての魔物が寄り集まり、泣きながら「姫様、死なないで!」と呼びかけている。

 だが、アリスティアの顔に真っ白な死相が現われてきた。


「みんな、ごめんね。私もう眠いの……とても……」

「あっ、だめ!」


 見守っていたゴブリンが思わず叫んだ。

 もう痛覚も消えかかっているらしく、半ば夢見るような彼女の瞳から光がとろりと消えてゆく。


「テツオ、お願い。みんなを……」


 心残りは遺された魔族の民達のことだけだった。

 だが。


「嫌だ! 絶対嫌だ!」


 少年は駄々っ子のように大声で叫んだ。


「そんな……」

「チート勇者が来ても、守ってなんかやらないからな!」


 もう恥も外聞もなかった。涙と鼻水でみっともなく濡れた顔を少年は激しく横に振った。


「どうして? 意地悪……」


 アリスティアは恨めしそうな目で睨んだ。


「どうしてだって? お姫様のくせにそんなことも分からないのか!」


 アリスティアとこの世界を繋ぐたった一本のか細い糸を何としても切らしてはならない。少年は泣きながら口汚く罵った。


「君が死んだらみんなはどうなる? 僕が何とか出来るとでも思ってるのか? バーカ、出来るもんか!」


 自分がこのまま死んだら……

 ぼやけた視界の先に目を凝らすと彼女を見守る魔物達がいた。皆、悲しみに顔を歪め、滂沱の涙を流している。

 自分がいなくなったら、彼等はどうやって生きてゆくのだろう……虚ろだったアリスティアの瞳が、何かを感じて弱々しく瞬いた。

 希望を失くした彼等のその先を、彼女は想像出来なかった。

 きっと、涙に暮れるばかり……手を引いていた母親を突然失った子供がその場でうずくまり、母親の名を呼びながらいつまでも泣き続けることしか出来ないように。


「君が生きてくれさえしたら、僕は命を懸けても皆を護ると誓う! 約束する!」

「……」

「だから……生きろ。生きてくれ。お願いだから!」


 その言葉に彼女は思いだした。落城する魔王城で最後に見た母親が、最後に告げたものを。

 喧騒の中で聞き取れなかったが、唇の動きでアリスティアにはその言葉がはっきりと分かったのだった。

 それは……


 ――生きて……


 アリスティアの唇の上に少年の頬から落ちた涙の雫が弾けた。温かい塩水の味には生への祈りがこもっている。幽明境を異にしようとしていた彼女はついに立ち止まった。


「生きてくれ、頼む……」


 少年は声が裏返り、それ以上言い続けることが出来なかったが。


「はい……」


 アリスティアは無意識のうちに答えていた。思い出したのだ。


 (アリスティア。今は幼くてわからないでしょうけれど覚えておきなさい。貴女はどんな激しい嵐の夜も消えない「希望」を彼等の心に灯し続けねばならないことを)


 幼かった頃、王妃は幾度となくそう言い聞かせ、そして優しく抱きしめてくれた。

 亡き母親が告げた言葉の意味をアリスティアは今こそ悟った。


(はい、お母様。アリスティアはお母様の大切な言いつけを守ります……)


 彼等のために生きたい。生きることで彼等の心に灯を灯し続けるのだ。

 死に抗い、生きようとする意志が彼女自身の心にかすかな、小さな光を灯す。その瞳から、涙がとめどなくあふれ出た。


「姫様、死なないで」

「アリスティア様、生きて」

「どうか生きて……」


 涙ながらに呼びかける魔族の民たちへ、アリスティアは頷きかけた。

 そして、血の気のない頬に健気に笑みを浮かべ、ささやいたのだった。


「生きます……どんなに辛くても生きます……生きるわ、私……」

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