プロローグ 願い

 ――この力の全てを、弱き者を救う為に捧げたい



 最後の瞬間そう願った「彼」は、もともと意思も感情もないはずの存在だった。

 

 一九四五年。第二次世界大戦六年目。ドイツ首都ベルリン近郊……


 荒れた風の吹きすさぶ、寒い日の夜明け前。

 闇の中で平貨車の上にうずくまったまま、「彼」は列車が東へ動き出すのをもう何時間も待ち続けていた。

 低く垂れ込めた厚い灰色の雲が夜空を流れてゆく。天候は浮足立ったように落ち着きなく、小雨が降っては止みの繰り返しだった。雲が薄くなった時だけ、おぼろげな月の光が中央ヨーロッパを流れるオーデル川にほど近い、小さな停車場を照らし出した。

 停車場のホームでは、疲れきった何人かのドイツ軍兵士が僅かな仮眠を貪っている。起きている者は思い思いに過ごしていた。ぼんやりしている者、タバコを吸っている者、貨車の連結部分を点検している者もいる。貨車の上ではさっきからよれよれのつなぎを着た二人の戦車兵が青白い顔でボソボソと話し合っていた。


「ロシア軍はもうそこまで迫っているらしい。昼間はここにも砲声が聞こえたらしいぞ」

「ああ、俺も聴いたよ。日没前にはたくさんの避難民が西へ向かっていたのも見た。皆、疲れ切っていた。聞いた話だが、中には赤ちゃんを置き去りにして逃げた親もいたらしい」

「だが西へ……ベルリンへ行けば助かると思っているのか。毎日ひっきりなしの空襲で、今では瓦礫と死体ばかりなのに」

「コイツに積み込んだ燃料と弾薬だって定数の半分しかない。こんな有り様で一体どうやって敵を食い止めろというんだ」


 狂気の独裁者の許で世界を相手に戦乱を引き起こしたナチス・ドイツは、世界中から結集した巨大な圧力によって押し潰され、今まさに歴史から消えようとしていた。

 西では米英の連合軍が国境のライン川まで押し寄せていたが、東からは復讐に燃えるロシア軍が国境を越え、首都ベルリンのもう目と鼻の先まで迫っていたのである。

 だが、ぼろぼろになった敗残のドイツ軍には、彼等を押しとどめる力など、もう残ってはいなかった。

 陰鬱な顔で戦車兵がつぶやく。


「ドイツは、オレ達は、この先一体どうなるんだ。どこかに希望はないのか……」

「……」


 ある。ここにある。自分こそが希望になれる、と「彼」は思った。

 この厚く鎧われた装甲はどんな巨砲も弾き返せる。巨人の矛にも似た長大な砲は、如何なる敵をも貫き、粉砕する。

 「彼」は、そのように創られたのだ。

 装甲戦闘車パンツェルカンプフワーゲンⅥ型、通称「ケーニヒス・ティーガー(王虎)」重戦車。

 日々の爆撃に打ちのめされながらドイツの工場が死力を尽くして生産し、前線へ送り出した無敵の戦車。彼の前に作られた兄弟達が、既に数々の武勲を打ち立てていた。中にはその威容を見ただけで恐れをなして逃げ出す敵すらいたという。「鋼鉄の王虎」の名は戦場に轟き、その武勇は敗走するドイツ軍の中に残された小さな希望になっていた。

 「彼」の心は逸り、勇んでいた。

 この身が戦地に立った時こそ、どんな強大な敵をも打ち砕いてみせる。逃げ惑う人々は、この身の影で安らげるだろう。自分はそんな強大な力を授けられたのだ。

 「彼」がそう思ったときだった。

 闇が揺らめき、かすかな音を軋ませて、東からゆっくりと列車が入ってきた。

 古びた木製の貨車を幾つも幾つも繋ぎ合わせた長い編成の列車。その全景は蛇のようで、何か陰鬱で不吉なものを感じさせた。

 それは、お互いの長い身を摺り合わせるように「彼」の乗った列車の隣の線路を通り過ぎて行く。人が歩くほどのスピードでゆっくりと、ゆっくりと。

 そして、彼は見たのだった。


 貨車に嵌められた鉄格子、その向こうにひしめくたくさんの人々を。


 すし詰めに詰め込まれ家畜のように扱われていた彼等は、明らかに避難民ではなかった。ぼろぼろの囚人服には、ユダヤ人を示すダビデの星が縫い付けられている。

 皆、押し黙ったまま怯えきった、虚ろな眼をしている。

 それは、まだ生きているというだけで、既に死の世界へ半ば足を踏み入れた者の表情だった。

 彼等はこれから自分達がどこへ連れてゆかれるのか、そこで何が待っているのかを知っていたのである。


「……」


 二人の戦車兵は、黄昏を迎えようとしている自分達の国が、それでも今なお犯し続けている罪業を正視出来ずに目を背け、白々しく言葉を交わした。


「早くこっちの列車も動き出さないかな」

「ああ、この鋼鉄の王虎さえいればロシアの奴等に目にもの見せてやれるぜ」


 違う!


 「彼」は言葉にならない声で叫んだ。

 自分に授けられたこの強大な力は、あの無力な人々を救う為にあるのではないのか。抗う術とてない悲しい人々の盾となって戦えないのなら、それは何の為の力だというのか。それ以外に自分がこの世に生を受けた使命などあるものか!

 のろのろと動く列車の最後尾が見えた。彼の傍から幽鬼の群れを囲った死の車列は離れてゆこうとしている。

 だが、彼は感じたのだった。

 生きたい、どこかに望みがあるのなら……虚ろな、全てを諦めきったような人々の目の奥に、それでも何かに縋らずにいられない悲しい願いを。


 ――救いたい。弱き者を守るために戦いたい!


 ふいに。

 血を吐くような思い、声なき絶叫に呼応して彼の心臓が鼓動を始めた。七〇トンの、その巨体を震わせて。


「な、なんだ、どうした?」

「スターターもなしに勝手にエンジンがかかったぞ!」


 二人の戦車兵は仰天したが次の瞬間、彼等の声を掻き消すように闇の中でサイレンがこだました。


空襲ルフトアングリフ! 空襲ルフトアングリフ!」


 停車場にいた者は一斉に顔を夜空に向け、大慌てであちこちへと走り出した。

 列車を守ろうと銃座へ取り付く兵士、避難場所を求めて逃げ出す駅員、部下を集めようと怒鳴る下士官……彼の周囲でも狼狽した人々が駆けずり回っている。

 と、夜空が急に明るくなり、人々はギョッとなって再び空へ目を向けた。

 パラシュートの付いた明かりが、ゆらゆら揺らめきながら空から降りてくる。

 それは、敵機が放った吊光弾だった。マグネシウムの発光した眩い明かりの端を一瞬だけ影が横切った。照らされた地上に獲物を見つけたロシア軍の襲撃機シュトルムビクである。


「いかん、見つかったぞ!」

「対空戦闘だ、急げ!」

「サーチライトだ! サーチライトを早く!」


 叫びや命令が錯綜する地上の喧騒をまるであざ笑うかのように爆発が起こり、大地を揺るがした。

 一度、そうやって地上が照らされてしまうと、まっすぐ伸びた線路上の貨車は格好の標的だった。線路沿いに飛んで爆弾を落とせば命中するのである。

 空を切り裂くような音がして、先頭の機関車が炎に包まれて吹き飛ぶ。後続の貨車も一台、また一台と被弾し、積まれていたトラックや弾薬が紅蓮の炎に包まれた。


「もう駄目だ、逃げよう!」


 二人の戦車兵は、もはやこれまでと闇の中へ姿を消した。

 爆発の連鎖は次第に彼へと迫って来る。地上では無敵の重戦車といえども空からの攻撃には為す術がなく、ただ無力なのだ。

 「彼」の運命は今まさに極まろうとしていた。

 だが、彼の悔いは自分の身にはまったくなかった。

 無為に終わろうとしている己の短い生よりも自分の後ろで連れ去られてゆく悲しい人々の姿、それだけが心に焼きついていたのである。

 絶望の中で何かに生きる望みを求め、祈ることしか出来ない無力な人々の想い。その想いに応えたい。

 それが「彼」の最後の願いとなった。


 ――戦いたい。この力の全てを、弱き者を救う為に捧げたい!


 爆発の衝撃の中で「彼」は叫び、次の瞬間、白熱した閃光に目の前がめくるめいた……

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