第7話 初講義の所感など
認知脳科学の講義は、なかなか興味深いものだったわ。
錯視を見せるスライドを導入として、その錯視が錯視として見える理由に、人間の視覚野の空間処理機構が深く関わっていることを解き明かしていく内容だったのだけど、思わずその不思議な、情報処理を減らすための機構の仕掛けの有用性と限界とに、魅せられてしまった。
人間、脳がなければ全てが動かない。その脳の仕組み、つまりは、自分たちがものを知る仕組みに迫る内容だからなのか、講義を受講している学生は、結構多かった。
それなりに広い教室なのに、一杯になってしまうほどだった。
コマ大生は、多かれ少なかれ自分の頭に自信がある分、その仕掛けに興味を持つものなのかしらね。
「次は、フランス語一列ね。一号館だから…」
駒場大学の一号館は、駒場キャンパスのシンボル的な存在である。
大学全体のシンボルの一つである、本郷のあの講堂の安っぽいパロディに見えるのがちょっと残念だけど、関東大震災からの復旧の中で立てられた一連の内田ゴシックの匂いを感じさせて、なかなか興味深い。
でも、思えば、うちの大学の研究などのメインはその本郷にあるし、歴史的には大学自体も本郷から始まっているはずなのに、なぜ駒場大学というのかしら?
きっと、そこには何か大人の事情が働いているのね、とウィキ百科をのぞくこともなく一人で考えているうちに、私は、フランス語の講義をやる教室に入っていた。
リサ曰く、ノルマン・コンクエストの影響を受けてかなりフランス化されている英語とは語彙がかぶっているから楽なはず、だというフランス語の最初の講義は、確かに楽だった。
まあ、殆ど英語と変わらないアルファベットのお勉強から始まったんだもの。今のところは、他の第二外国語を選択しているコマ大生も、同じぐらい楽だと思っているんじゃないかしら。
キリル文字を学ぶロシア語選択者と、ハングルを覚える必要がある韓国・朝鮮語の選択者は別として。
とはいえ、フランス語には、英語にはなかった文字もあるにはある。
「アクサン記号。アクセントとは言わないのね」
「アクセントは英語だから。確か、イタリア語ではアチェントという風に、言語ごとに同じ文字や記号の呼び方が微妙に違っているはずよ」
リサは、昔少しだけ趣味でフランス語をかじっていたというから、その辺私よりも詳しいらしい。
私達が、そんなことを話しながら、講義の終わった教室を出て生協食堂に向かおうとすると、それをじっと見る男が一人。
タケル君ね。
彼が、近寄って、私に話しかけてくる。
「こ、こんにちは。ミカさん」
「こんにちは」
「フランス語は、どうでしたか?今のところ俺はなんとかなりそうな気がしましたが」
「そうね」
一人称が俺なのに、丁寧語なんて、ミスマッチだわ。やっぱり、彼は隠れ「イカコマ」ね。
「永井荷風のふらんす物語のように、いつか俺も、フランスに行きたいものです」
無駄に教養をひけらかしてくるので、ちょっとからかってやる。
「その時代と今ではいろいろ変わっていると思うけどね」
「そう、なのかな」
正直、めんどくさい。何かもごもごし始めたし、また和歌でも私に捧げかねない勢いな気がしてきた。
「ちはやぶる 神世も知らぬ フランスの…」
「ミカ、行こ?早くしないと食堂、埋まっちゃうし」
「そうね。じゃあね、タケル君」
「あ、ああ」
言わんこっちゃないと思っているうちに、さっと遮るようにしてリサが助け舟を出してくれたので、私もそれに乗って、呆然と突っ立ったままのタケル君を置いて、行ってしまう。
リサならどう考えるか知らないけど、フミオやタケル君のようなへんてこな片想いは、正直困ってしまうわね。
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後に残された俺は、心のうちに叫ぶ。
どうして平安貴族のように、即興で和歌を詠めないのだろうか?
どうして、彼女が行ってしまうまでの間に、歌にできないのだろうか?
やはり、私の彼女への愛が足りていないからに違いない。研鑽しなければ。
ちはやぶる 神世も知らぬ フランスの 如きこうきを 放つ君かな
読み始めてからまだ一月も経たない私の和歌は、まだまだ拙いと我ながら分かる。
「香気」と「高貴」を掛詞にしようとして、どうも無理な形になってしまった。
研鑽しなければ。
今日もまた、自己研鑽に専念するべく、ボッチコンビニ弁当を誰にも邪魔されずに楽しむとしよう。
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タケル君を置いてけぼりにして生協食堂に駆け付けた私達だったが、中を見ると時既に遅しのようだった。
先輩から既に聞いてはいたけど、やはり数秒を争う競争のようね。さて、どうしようかしら?
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