第9章―2
「ここで、これだけのことをやって、そのためなら死んだっていい、このために死にたい、って。そういうことでしょう。あなたの先生がそうだったように」
それはある種の気高さであり、ある種の尊さだった。それでも、リシュームは、シキを非難した。くだらない、と。シキが悪いわけではない。ただ、何が彼をここまで追い詰めたのかを、リシュームは静かに考えていた。
「こういうのって、死ぬ理由を探しているだけよ」
「俺が、死にたいみたいな言い方だな」
「死なない方法だってあるでしょう」
「けど」
「死ぬことに、もっともらしい理由をつけるのはやめて。……不愉快よ。そうでしょう?」
それが言いたかったのか、とリシュームは自覚した。彼はここで死ぬことを、正しいことだと自分に言い聞かせている。そんな悲しい予感が、彼女を苛立たせたのだ。
(なぜなら)
リシュームは、ディスプレイを見つめるシキの顔を見る。
その綺麗な横顔は、今も、死を受け入れてはいなかった。
戦争から離れ、人間に背を向け、ひとり病に冒されながら――想像も出来ない遥か未来のために、小さな森を見守っている。
けれども、彼に命さえも懸けさせたのは、使命感ではなかっただろう。この閉ざされた『死の森』の静けさと孤独が、彼をここまで追い詰めた。彼に、死を受け入れさせた。不意に、そう理解した。それは彼に、自分が小さな植物の種と同じ、一つの命であることすら、忘れさせる。何か大きなことのために、犠牲になっても構わないと納得させる。
それは違う、と思う。
苛立たしげに煙草を揉み消し、空のボトルにねじ込みながら、考える。
違う、と。
違う、違う、違う、と、その得体の知れない何かを、彼女は、思考の全てをかけて、否定する。
命ひとつ、そんなやり方で、諦められてたまるか、と。
今まで、こんな風に考えたことはなかった。こんなに真剣に考える機会なんてなかったのだ。当たり前だ。
(社会は、思想と哲学を殺す)
今彼女が見ているのは、その死骸だった。
社会とか時流とかいう、胡散臭い名前で呼ばれるものが、絡め取り窒息させ、粉々に砕いた残骸が、目の前にいるこの青年であり、彼が守ってきた森だった。
ここには、社会も時流も入り込めない。権力も法も、ここではただの紙切れに書かれた言葉に過ぎない。それらが自ら手足を動かし、人を傷つけたり殺したり、まして、世界から生物を根こそぎ消し去るなど、出来るはずがない。
そんなことも分からない人間が、そのシステムの手足となり、あらゆるものを壊してみせたのだ。
(それが私だ)
ふと自覚する。
(そして、ここでは通用しなかった)
あらゆる正しさが、あるいは正しさの概念が、ここでは無力だった。思考だけが行動を紡ぐ。嫌でも自分で考えなければならない。今どうするべきかも、これからどう生きていくかも。
「出来るだけのことは、やったよ」
シキは、搾り出すように、そう呟いた。
伏せた目の、その下の隈すらも綺麗だと思った。疲れと孤独と葛藤が、彼の細い首筋にずっしりとのしかかり、暗い影を落としていた。そして、彼には悪いとは思うけれど、その消耗すらも、美しかった。
もちろん、と、リシュームは、頷く。
「あなたも、ここで戦ってきたんでしょう?」
シキは、疲れの滲む静かな顔をモニターに向けていた。
「ねえ、あの人たちが死ぬまで戦い続けるように、あなたもここで戦うつもりなんでしょうに」
はっとしたように、シキが、こちらを見た。
ようやくか、と、リシュームは笑い出したい気分だった。
シキはもう、いつもの、落ち着いた、涼しげな表情ではなかった。驚いたように、少しだけ目を見開いて、こちらを見ていた。
彼も知らなかったのかと思うと、不意に、胸が痛んだ。
「あなたは、裏切り者でも落伍者でもない。ただ、これがあなたの戦い方だった。誰もそう言ってはくれなかったとしても、ちゃんと、ひとりで戦ってきた。そんなふうに、思い詰める理由なんて、はじめからなかったのよ」
こんな暗い場所にひとり閉じこもり、種を蒔き、光を与え、水を注ぎ続けてきたのだ。そうでなくても、彼はひとりだった。政治犯として潰され、たとえ仲間に裏切り者と思われたとしても。
遥か未来の、想像も出来ない何者かのために、ここにいる。
「あんたは、馬鹿だ」
シキは、ほとんど聞こえないくらいの声で、言った。
「……は?」
「愚かでない人間を、馬鹿と言うんだよ。ここではな」
それから不意に、シキはリシュームの足元を指差した。
「そのボトルな」
ガラスのボトルが転がっている。拾い上げ、ラベルを見る。ドライジンだった。
「まだ少し入ってないか?」
「空っぽだけど」
「そ。他のは?」
見ればそこかしこ、空き瓶や空き缶が転がっている。部屋は足の踏み場も無く、秩序そのものに興味がないかのようだった。何本か拾って確認したが、中身が入っているものは無かった。
そう答えると、ただ一言、残念、と、呟いた。
代わりに、未開封の炭酸水のボトルを放ってやると、シキは思い切りそれを振った。栓を開ければ、勢いよく白い泡が吹き出す。
「ここでもアルコールは手に入るの?」
「ああいうものはなあ……こういうところの方が、手に入るんだよなあ」
そう言って笑う。
「昔は、ガス入りの水で割って飲むのが好きだった。仲間とはしゃぎながら。デモだ何だと馬鹿騒ぎして、くたくたになって寮に帰って、そこからまた夜通し馬鹿騒ぎだよ。よくそんな体力あったな。みんな、自分たちがこの世界を変えられると信じていた。愚かで、馬鹿みたいな戦争ばっかりだった。何とかしたいと、本気で思っていたんだ。それでいて都市部にいれば、貧富の差はあっても、別に命の危険とか、戦争の残酷さとか、そんなの感じなかった。殺し合いは、遠い世界の出来事だった。だからなおさら、無謀なことばかり出来たんだろうな」
彼が言う「仲間」は、今、ディスプレイの向こうで死んでいこうとしている人たちのことなのだと、リシュームは理解した。
「あれは……何年前かな。忘れたけど。悔しかった。もうみんなと一緒に戦えないって、そう分かった」
「それは、病気が発病してしまったから?」
シキは、しばらく考え込んだ。
「……なんて、言えばいいのかな」
言いながら、靴を脱いで、膝を抱える。子どものようだ。その爪先には、手と同様に、細かい紫斑が見えた。
「確かに、こいつが発病してからは、昔みたいな無茶は出来なくなったな。体力はガタ落ちしたし。体調の悪い日は、起き上がれないこともあったし。でも、そういうのを……言い訳にしていたような気も、する。自分への言い訳」
「言い訳」
「本当は、政治犯として捕まって、尋問されたときに、もう、俺は戦えなくなった。大した組織でもないから、すぐに釈放されたけどな。でももう、あとは、無理だ」
それが目的であることを、リシュームは知っている。
身体を痛めつければ、大抵の人間は、心が先に折れていく。そして、二度と、同じ場所には立てない。リシュームは、手近な空き缶で、煙草の火を消した。
そうして差し出したリシュームの手を、シキの細く白い手が握り返す。なんだ。案外温かいじゃないか、とリシュームは思う。シキの目はもう、ディスプレイを見ていなかった。ただ、握った手をぼんやりと見下ろしていた。
かすかに震えていた。
「あの時から、死ぬのが怖くなった」
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