第9章―1

 静寂の中で、目が覚めた。時計を見れば、まだ、夜明けまでだいぶ時間がある。

 空調の音が、遠い雷鳴のように低く響いていた。

 リシュームはソファから起き上がり、扉に向かった。

 鍵が、開いている。イェンだ。彼が開けて、そして出て行くときに施錠しなかったのだろう。忘れていたのか、わざとなのかは、分からない。

 シキは、昨日と同じモニタールームにいた。

 真ん中の大きな椅子に座り、画面をぼんやりと眺めている。

「おはよう」

 声をかけると、驚いたような顔をこちらに向けた。

「……ドクが、来たのか」

 それから、お互い様か、と、小さく呟いた。

「顔を合わせたくなかったんだ、きっと。あんたがいれば、言付けでもなんでも出来るだろ。俺も、何となく会いたくなかった。どうせ小言を言われるだろうから」

「小言」

「そう、小言。寝ろ、休め、無理はするな。そういうやつな」

「『正午まで持たせる』と、言っていたけれど」

「そうか」

 そしてまた、視線を画面に戻した。今度は、ただ眺めるのではなく、何かを探しているようだった。

「イェンさんは、どこに行ったの?」

「戻ったんだろ。レジスタンスのキャンプに」

「レジスタンス? イェンさんが?」

「そうだよ」

 そっけない。

 まるきり他人事のように言う。

「元軍医で、今はレジスタンス? でも、昨日……」

「レジスタンスにも色々いるからな。でも、まあ、多分、今日中に全滅だろうな。この森にいれば、政府もおいそれと手出しは出来ないけど――あんたは利用されたんだな、きっと」

 その通りだろう。今なら分かる。霧が晴れたように、はっきりと。

 死の森である以前に、この一帯は国境も定まっていない場所もある、不安定な地域だ。レジスタンスがそこに逃げ込んだとはいえ、迂闊に軍を派遣するわけにはいかない。各国を刺激する。

 だが、政府の調査官――それも、インフラに関わる水道局員の護衛としてならば、軍の立ち入りを認めざるを得ない。その上で、適当な理由をでっちあげて、レジスタンス掃討に必要なだけの戦力をさらに森に突入させる。政治の話には鈍感だが、そういうことなのだろうと、リシュームは推測した。

 けれどそれは、本当の目的ではない。

 彼らがほしいのは、この施設だ。

 あの森だ。

 あの森と、それに関わる研究資料があれば、もう戦争などと言っている場合ではなくなる。有無を言わさず、他国を従わせることができるような、強力な外交カードになる。

 胸が、軋んだ。左右の肺の間、脊椎よりも少し心臓に近い場所が。

「あんたは利用されただけだ」

「私が愚かだった」

 リシュームの中の、一番冷静で、一番冷徹な部分が、そう言った。

「愚かじゃない人間はいない」

 シキはそう言って、水のボトルを呷った。

「早く、森を出た方がいい」

「私は用済みというわけね」

「そうだ。さっさと退場した方がいい」

 ディスプレイに映った映像に、いくつか動きがあった。画像が荒くて、細かなところまでは分からない。けれど、人が動いている。数十人。昨日より遥かに多い。今まで、どこかに身を隠していたのかもしれない。正午まで持たせる、と言ったイェンの言葉を思い出す。あのどこかに、彼がいる。それを、無意識に探していた。

「正午まで持つか、こんなんで」

 声は落ち着いているが、微かに震えているのをリシュームは聞き逃さなかった。

「政府は今、結構切羽詰っているらしいから、国内のやっかいごとには時間をかけられない。武装組織といえども、所詮は闇ルートから買った旧式の武器しかない連中だから、半日持ちこたえられるかも怪しい」

 首都で起きていることには、興味ないという風だった昨日の彼と、まったく同じ顔で、そんなことを言う。当然、知っていたのだろう。色々なことを、リアルタイムに。それはもしかしたらイェンを通じて手に入れている情報かもしれないし、ほかにも何か情報を得るルートがあるのかもしれない。ともかく彼は、知っていながら、無関心な振りをしていた。

(いいえ、違う……)

リシュームは、考える。

(シキは、ただ、この場所を、世界から切り離したいだけだ)

 あの美しい森を、誰にも触れさせないために。

「……私を追い出して、一人で何をするつもりなの?」

「関わるな、これ以上。命を落とすぞ」

「手遅れでしょう?」

 シキが、困ったように視線を泳がせた。

 リシュームは、無性に腹が立っていた。同時に何か、腑に落ちたような気がした。何も知らず、何も決められないと、あるいはそれすら自覚出来ないままに抱え込んできた何かが、すとんと、綺麗に。

「私は、残るから」

 足がないことに、シキも気付いたのだろう。恐らくは、軍と合流すればどうにかなる、というくらいに思っていたのだろうが、そう平和な状況ではない。

 シキは黙って、くしゃくしゃと髪を掻き回した。返答に窮している。

「……この建物には、入れない」

「いれない?」

 一瞬、その言葉が意味するところが分からずに、目が点になる。

「籠城でもするつもり?」

「そうだよ」

「馬鹿なの?」

 馬鹿だよ、と、シキは笑う。

「下の森に行くには、あのエレベーターと」

 と、背後のドアを親指で示す。その向こうの廊下の突き当たりに、地下七階まで通じるエレベーターがある。

「昨日乗った、もう一つのエレベーターを使わないといけない」

 リシュームは頷く。

「森の制御機能は全て、下層に集中しているから――」

「もしかして、わりと物騒な方法をとろうとしている?」

「――ここや、あのエレベーター……地下の上層部を潰す」

 床を、エレベーターを、そして天井を順に指さした。

「地下部分があることは、公式な資料にも載っているから、その気になれば掘り起こすことは出来る。だからこっちもそれなりに考えた。たとえ掘り起こしても、下層まで辿り着くのは難しいだろうな」

 力ずくで壊さない限りは無理だな、と付け加える。おかしなやり方をすれば、あの森自体を壊すことにもなりかねない。

「このフロアを潰して、地下への道を閉鎖するということね?」

「さすがだな」

 はぐらかされたように感じて、リシュームは大げさにため息をつく。

「さすが、ってねえ」

 馬鹿にしてるの、と。

 問えば、馬鹿にしてるよ、と返ってきた。

 そして、とても静かに、笑った。

「軍の技術屋だったなら、分かると思うが」

 そう前置きをして、シキは、床を指さした。

「こういう建物を破壊するのに必要な火薬は、案外多くない。それに、地上であれば、周囲への影響を計算しないといけないが、ここなら、なんていうか、やけっぱちオーケーだ」

「オーケーじゃないでしょ」

 思わずそう呟いたが、シキはそれを、まるきり無視した。

「要するに、このフロアの要所を爆破すると、地上から地下への道を封鎖できる」

 その準備のために、昨晩、リシュームを閉じ込めたのだろう。

「あの森は、平気なの」

「あそこは、もともと並の耐久力じゃないんだ。閉鎖環境を構築して、その中に大昔の地球を作ろうっていうんだから。外壁を支えるフレームは、そのまま下の岩盤層に直結してるし、内壁に至るまで材質を検討して」

 そこで、小さく咳払いをし、それから、煙草に火を点けた。

「要するに、ある程度の爆発くらいなら大丈夫ってことだ。多分」

 そう、と、リシュームは、静かに頷いた。

「あなたは、ここに残るつもりなのね?」

「あの森を」

 ゆっくりと煙を吸い、吐き出し、少し考えてから、続ける。

「置いては行けないだろ」

 理にかなった選択だ、とは思う。

 なのに、どうしても、引っかかった。

「あなたは、ここで死ぬのね」

 リシュームは、シキの手から煙草の箱を奪い取り、一本抜き取って火を点けた。

 それだけだ。

 それだけが、引っかかっていた。

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