第8章
ドアが開く音で、リシュームは目が覚めた。
空気圧式の自動ドアは、開閉時に乾いた音がする。
(シキ、じゃ、ない)
足音が違う。息を潜め、相手の動きを窺う。
明かりが点いた。
「僕だよ」
聞き覚えのある声に、慌てて上体を起こせば、入り口のところに黒い人影が見えた。
「イェンさん」
イェンは微笑んだ。けれどもリシュームがここにいることは予想外だったらしく、慌てて繕ったような雰囲気は拭えなかった。
「リシューム、といったね」
頭から被っていた黒い布を脱ぎ捨て、荷物を下ろす。下に着ていたのは、軍用の、モスグリーンの外套だった。
「イェンさんは、軍の方だったんですか? ……いえ、答えられるなら、ですけれど」
「いやいや。元は軍にいたけど、つまんなくなって辞めたんだ。これは、動きやすいから着ているだけ」
「つまんなくなって、て……」
確かに、面白くはないだろうが。
「お姫様は、いつもの部屋かな」
さあ、とリシュームは肩を竦めてみせる。自分をここに閉じ込めたあとに、彼がどうしているのかなど知らない。イェンは、ぐるりと部屋を見渡す。
「なるほどね。ここなら一応必要なものは揃っているし、掃除もしている」
気づかなかったが、確かに掃除はされている。ソファに埃っぽさはなく、床も清潔感があった。
「僕が使っている部屋なんだ。あのお姫様は、僕はもう来ないと思っているのかもしれないけれど」
「そうなんですか」
「ほかの部屋は使っていないけど、ここなら、僕が使っているからね。人が寝起きできるようになっていると思ったんだろう」
「……イェンさんは、医師だとお聞きしました」
「心配になって、見に来たんだ。最近、無理をしているようだから」
「二日酔いって言ってましたけど」
イェンは笑って、燃料だよあれは、と言った。
「時間がないからね。いくらでも、無理をするだろう」
またその言葉だと、リシュームは思う。
時間という言葉が、あまりにもこの場所に似合わなくて、不思議だった。リシュームは、この場所が、ここ以外の世界すべてから独立しているような印象を抱いていた。世界で何が起ころうとも関係なく、穏やかに時間が過ぎていくような、そんな静けさがある。あるいは、時間という概念そのものが死んでしまったかのような、印象。この森はまさに、『死の森』だった。
「森を、見た?」
それは、この下にある、あの鮮やかな森のことだろう。
「ええ」
綺麗でした、と。素直な感想を述べる。イェンはそれを聞いて、満足そうに微笑んだ。
「昔ね――」
と、イェンはソファの端に、いくぶん距離を意識して腰を下ろす。
「ああ、ええと、少しばかり、昔話をしても構わないかな」
もし興味が無いならやめるけれど、と言う。
「いえ」
リシュームは、静かに首を横に振る。
「それはたぶん、私が聞くべきことなのでしょうから」
「いや、違うんだ、おかしな風に解釈しないでほしい。ただ、僕は誰かに聞いてほしかったけれども、語るべき相手がいなかった。君は、たまたま現れた都合のいい部外者なんだ」
それは、彼なりの気遣いだったのだろう。
「なぜ、私を信用するんですか」
イェンは笑った。そして、答える代わりに、話題を変えた。
「そういえば、お腹は空いていない?」
空いている。とても。そう、何度も頷く。
イェンは笑って、荷物を引き寄せた。
中からは、真空パックの携帯用食料が出てくる。
「シキにこういうものを届けるのは、僕の役目だったからね。これはその余り」
リシュームは礼を言い、開封した。サンドイッチだった。都市部でも、軽食として普通に流通している。
「シキとは、軍にいたときに出会ったんだ」
イェンは自分も同じものに口を付けながら、昔話を始めた。
もう、「お姫様」とは、言わなかった。
「ラコネンス氏の大規模な治安改善政策によって、レジスタンスは逮捕された。シキもそのひとりだったんだ」
「彼の、あの傷は」
イェンは、顔を背け、曖昧に頷いた。
「政治犯として取調べを受けたみたいだね。随分、酷い目に遭っていた。そのとき僕はまだ軍医で、彼の手当ては僕がやった。おかしな話だけれど。だって彼は民間人で、僕は軍の人間だったから。でもそういうものなんだ。あるレベルまで状況が進行すると、そこに別な秩序が生まれることがある。その状況を維持するために最も適したルールが、正しさになるんだ」
イェンは、静かに笑う。懐かしそうに、それからいくぶん悲しそうにも見えた。
「この森にいるレジスタンスは、もともとは彼の仲間だよ。……意外って顔をしているね」
「……なんていうか、あんまり、活動的には見えないから……乱暴なことは似合わないように見えるし、仲間とか、友達とか、いるんですか」
イェンはそれを聞いて、盛大に吹き出した。
「いやあ、どうだろうなあ、友達、友達ねえ」
それから深呼吸をして、もう落ち着いたというように、一度軽く咳払いをした。
「そう見えるのは、病気のせいかもしれないね。ああ、でも確かに、体力がある方ではなかったかな。彼は、リーダーの補佐役のような位置にいたみたいだ。その頃の話はあまりしないけれど。シキはね、頭の回転がすごく速いし、仲間を大事にするから、信頼も厚かった。もともと独りきりでいたわけじゃないんだよね」
イェンは、食べ終わったゴミをくるくると撚って、結ぶ。そして、寛ぐように、ぐったりとソファに背を預けた。
酷かったよ、と、小さな声で呟く。
「僕のところに来た時の彼は、上半身は裂傷だらけで、肋骨も何本か折れていた。手足の爪は一枚も残っていなかったし、手の指は半分以上、おかしな方向に捩れていた。打撲は全身にあった」
指折数えるように、挙げていく。台本を読み上げるように、淀みなく。何度も、何度も思い出したというように。
「覚えているんですね、一人の患者のことを」
「そうだよ。彼は、明らかにあそこにいるべきではない人間だったからね。だから、何度も思い出しては、記憶を確認したんだ。そして、忘れまいと記憶を点検しているうちに、シキの傷は、僕の一部のようになった」
それから、これも確認作業の一つだというように、そっと、指を折る。ひとつ、ふたつ、みっつ、と。
「長いこと意識が戻らなかったんだ。確か、四日間」
その間ずっと、ほとんど付ききりだったのだと、イェンは言った。
「何か、薬でも打たれていたんですか」
「さあ。一応ひととおりの検査はしたし、そういう結果は出ていなかったと思う。でも、とにかく、意識が戻るまでには時間がかかったんだ。どうしてだろうね」
目覚めたくなかったのかな、と、イェンは笑いながら言った。
「四日目のことは、よく覚えている。時間が止まったみたいに、何もかもが静かになって、それから、目を開けたんだ。なぜか、すごく、よく、覚えているんだよ」
傷口を消毒し、包帯やガーゼを換える。看護師から体温や血圧の報告を受け、彼らに点滴や注射の指示を出す。そうやって三日ほどが経過して、意識が戻ってもいいはずの頃合いだ、と、日に何度も様子を見ては、首を傾げていた。内心、焦ってもいた。脳に異常がないことは、搬送されてきたときに確認している。あとは外傷だけだ。一日もすれば、意識が戻ると思っていたのだ。
その患者が目を覚ましたのは、ちょうど、日付が変わる頃だったという。イェンは、ひとつひとつ、手に取って確かめるように、その時のことを言葉にしていった。恐らくは今まで誰にも、聞かせたことがなかった話を。
蒸し暑い夜で、古いエアコンが絶え間なく唸り声を上げていた。その患者は何の前触れもなくゆっくりと瞼を開き、それから二、三度、ゆっくりと瞬きをした。
時間がぴたりと止まってしまって、その中で彼だけが動くことを許されている。そんな風にイェンは思った。患者の瞼のほかは、何も動くものはなかった。エアコンの唸りは、この世界の外側から聞こえてくるようだった。
「どこ、って。はじめにそう尋ねたんだ」
どこ、と。
掠れた声で繰り返した。
病院だと答えると、そう、と、息を吐くついでのような微かな声を出した。
それでイェンは、身体のことと、彼を取り巻く状況を、ゆっくりと話して聞かせた。その患者は、何も興味が無いというように、じっと天井を見ていたという。
「シキは、それからどうなったんですか」
リシュームは尋ねた。
「釈放されたよ」
イェンは答えた。
「そのあとのことです」
リシュームは、さらに尋ねた。
イェンは、困ったように俯いた。
「仲間のところには、戻らなかったみたいだね。当時通っていた学校もやめて、しばらくして、ここに来たんだって、あとになって聞いたよ。それまでの間に、彼がどんなことを考えたのかは分からない。自分のことを饒舌に語るタイプではないから。ただ、ここに伝手があったわけではないと思うよ。全くの畑違いではなかっただろうけれど。でも、本当に、転がり込むみたいに来て、居着いてしまったみたいだね」
「あの」
あなたは、と、言いかけて、リシュームは、出かかった言葉を、飲み込んだ。なぜシキとかかわり続けているのか、尋ねようとしたが、それは踏み込みすぎのようにも思われた。
それを見て取ったのか、イェンが僅かに微笑んだ。
「森は、とても美しいものだったろう」
リシュームは、素直に、頷いた。
「誰もが欲しくなる。自分の手の中に収めて、自分の好きなようにしたくなる」
「私は」
ほしくありません、と。
リシュームは、静かに答えた。
「誰にも触れて欲しくない」
イェンが、ああ、と、何かを理解したというように、深く頷いた。
「シキは、あの森に魅せられたんだ。取りつかれたと言ってもいい。そして、あれを守るために、彼のすべてを投じた。あの森を維持し、発展させるために。生き物が呼吸をし、水と有機物が循環し、一つの小さな生態系として安定するように」
森について語るイェンの言葉は、かすかな熱を帯びているように、リシュームは感じた。
「あなたは、シキが、好きなんですね」
「そうだよ」
そう答えるイェンの声は、穏やかで、澄んでいた。
「彼は、人間にあの森を渡すつもりはないのかもしれないね」
リシュームは、首を傾げる。
「人間が、この地球上から姿を消した後のために、あの森を守り続けているのかもしれない」
「随分と、途方もない話に聞こえるんですけど」
「そうかな。僕には、もう、人間は最後の悪あがきに入っているように感じられるけど」
言われてみれば、そうかもしれない。
治療法のない病気が蔓延している。資源は決定的に不足している。飲み水さえ安定して供給できていない。少ない資源を奪い合い、戦争はまだまだ続いている。そしてそれが、さらに貧困層を生み出す。戦争に必要な精密機器を造るために、どれだけの純水が必要なのか、リシュームは知っている。その水が飲料水や医療用水に当てられれば、どれだけの人が救えるのかも。
それを誰もが分かっているが、どうにもならないままなのだ。確かに、もう希望などないのかもしれない。そうか、死ぬのか、と漠然と思う。そして、この世界に、一体、何が残るだろうか、と。
貪り尽くした穴だらけの星ではない何かが、残るのだろうか、と。
「寂しいのね」
「たぶんね」
「そして、寂しいのが好きなのね」
「きっとね」
ふたり、呆れたようにため息をついた。
「明日、あのお姫様が来たら伝えてほしい」
「何ですか?」
「『正午までは持たせる』と」
「……正午、まで」
「そう」
「何を?」
「ごめんね。ただ、伝えて欲しい」
「……わかりました。『正午までは持たせる』、ですね」
「君に頼んだことを覚えている?」
「頼んだこと?」
「彼をここから、連れ出して欲しい」
そうして、イェンは部屋を出て行った。
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