第7章
「リシューム、か」
不意に呟いた声に、リシュームははっとシキの方を見た。
エレベーターを上がり、先ほどの暗い廊下を戻っている。
「植物界被子植物門、双子葉植物綱、ナス目ナス科クコ属、要するにクコ」
「……何語?」
「小さな紫色の花が咲く。病気にも乾燥にも強い。薬にもなる。いい名前じゃないか。母親がつけたのか?」
自分の名前のことを言っているらしい、ということに、ようやく気づいた。
「植物の名前なの?」
「そうだよ。自分の名前の由来も知らなかったのか?」
聞いたことがなかった。それ以前に、母親とはあまり仲が良くなかったから、会話自体が少なかった。
「植物の名前を女性に付けるのは、伝統的によくあるけどな。マーガレットとか、リリイとか、そうだろ。でもあんたのは、確かに珍しいな。由来を聞いておけば、面白かったかもしれない」
「……そうね」
そこでリシュームは、はっとした。シキは、母親がつけたのか、と問うた。
「母を知っているの?」
「……知らない方がおかしい」
「会ったことがある?」
「無い。何しろ大臣様だろ。ただの学生が気軽に会える人間じゃない。それに」
と、少し迷い、迷ったままの口調で、言う。
「一度も会ったことのない人間を、殺したりブチのめしたりできるのが、権力だ」
それから小さく、あんたには関係ない、と付け加えた。
「あんたは」
と言いかけ、言葉を止める。
「何」
「いや、いい」
「言いかけたなら、最後まで言って」
「なんというか、あんた、軍の技術部にいたんだよな?」
「ええ」
リシュームは頷く。
「なんで、水道局に」
「それもそうね」
リシュームは、適切に説明できる言葉を探す。
「……母が失脚して、軍にいられなくなったのよ。想像どおりだと思うけど」
言ってから、後半は余計だったと反省した。
「気を悪くしたら謝るわ。これは、ええと」
「癖」
「そう。こういうのが癖になるというのは、自分でも嫌なものだけれど」
もしかしたら、自分はいつもこんな物言いをしているのかもしれない。ふと、そう思う。
「水道局だって、悪いところじゃないのよ。インフラの要だし、軍にいた頃に得た知識や技術が生かせることもあるし」
「けれども世間はそう見てくれない」
「ええ、そのとおり」
仕方ない。他人が惨めで辛い思いをしているということが、心の支えになる人間もいる。
「一番嫌なのはね」
リシュームは、ため息混じりに、吐き出す。
「そういう視線を忘れるために、もっと惨めな人間がいないかを探している自分に気づくのよ。うんざりするけれど」
言いながら、やはり気分の良いものではないように思えた。
「やめましょう。……そういえば、ねえ、『先生』は?」
「ああ?」
強引に話題を変えたせいか、驚いたように、シキは聞き返す。
「ここには、もう、あなた一人しかいないのでしょう?」
聞いてはいけないことだったかもしれない、と、リシュームはそっと、シキの表情を盗み見た。
「ああ、ええとな……死んだよ」
どこか誤魔化すような調子で、彼は静かにそう言った。
「ごめんなさい」
「どうして謝るんだ」
「なんとなくそんな気がしていたから。わざわざ、あなたの口から言わせるまでもなく」
それは、シキがその『先生』について語るときの、話し方で分かった。
ここにいない人間を案じるような様子もないし、逆に憎んでいるような様子もない。去っていった人間に対して、今、を想像するプロセスが欠けている。ただ純粋に、かつて持っていた敬意だけが、そのままの形で残っているようだった。
シキは、うん、と、ああ、の中間くらいの、曖昧な相槌を打った。
「何年か前の――悪いな、ここにいると本当に、時間ってのが分からなくなっちまう。ともかく、晴れた日だったな」
と、人差し指で、天井を指す。
「屋上から飛び降りたんだよ。良い眺めだっただろうな」
「飛び……」
「いいか」
シキは、静かに、あるいは自分にだけ聞かせるかのように、言った。
「そういう時代なんだ、きっと。時代ごとに用意された型があって、その型に収まるように、収まるように、あらゆるものがどんどん流されていく。人だったり、法律だったり、政治だったり、まあ、色々だ。合わなければ、切り落としてはめる。少しずつ、少しずつ、知らないうちに、そちらに向かって流され、削られ、切り落とされていく。そして、気付かないまま死ぬことだってある。そういう話だ」
「この施設は、時代に切り捨てられたのね」
シキは頷く。新しい煙草を一本咥え、火を点け、最初の煙を吸い込んで吐き出す。それからようやく、口を開く。彼の思考回路は、この煙を原動力に駆動しているのかもしれない。
「研究員は自分の国に帰っていった。資料やら何やらも一緒にな。ただ、森は持ち出すことが出来なかった。だから先生は、ここに残ることを選んだ。もちろん違法だ。建物の不法占有になる。だから、公には、ここには誰もいないことにした」
「どういうこと」
「研究所は解散した。森も、研究を取りやめて閉鎖したことにした。そして、先生は死んだ。死ぬこたねえとは思ったけどな、絶望している人間が選んだことだ。でも、死ねば後悔もできないし、あの時はそれが一番いいと思ったんだろ。少なくとも、あの人にとって最良の選択がそれだった。で、俺が残った。俺は正規の職員じゃなかったんだ。なあ、長年育てた研究員を手放して、突然転がり込んできた雑用係に後を託さないといけないってのは、どういう気分だったんだろうな」
そこまでを一気に吐き出し、シキは大きなため息をついた。
雑用というのは謙遜だろう。
そう思いかけて、ふと、改めた。その「先生」には、もともと彼が育ててきた弟子がいただろう。けれども正規の研究員だった彼らを、ここに残すことはできなかった。森が、この施設の閉鎖とともにこの世界から消滅したということにするためには、かかわった人間は皆、足がつかないよう、遠くに行かせる必要があった。
「ほんとうに大事なものは人それぞれ違うんだ。求めるものも、思い描く一枚絵も。でもまあ、そいつを見せびらかしていると、けしからん、てことになるんだな」
「一枚絵」
リシュームは、シキの言葉を拾う。
シキは、ゆっくりと、頷いた。
「『誰にでも自分だけの片隅があり、自分だけの近さ、遠さがあり、一つの道、一匹の獣、一つの絵があった』……そういう話だ」
「それが、あの森なのね」
「たぶんな。先生の、口癖みたいなもんだった。古い詩だと言っていた。俺は、文学は分からない。でも確かに、あの森は、先生にとっても俺にとっても、一つの世界だったし、道筋だったし、目指すべき一枚絵だった。俺にとっては、今もそうだ」
エレベーターを乗り継ぎ、地下一階まで戻った。
扉には、「B101」「B103」……と、プレートが貼ってある。
そのうちの一つに、通された。中に入れ、と、シキがジェスチャーで示す。
休憩室のような部屋だ。水道や、調理用のヒーターが備え付けられている。ソファセットがあり、黄色い毛布が畳んで置かれていた。
「……ここで、寝ろと?」
「これから帰るつもりだったのか?」
時刻は午後四時。森を出るまでには、日は暮れてしまう。
「明日まで、ここで大人しくしていろ。悪いようにはならない」
そう言って、シキは出て行ってしまった。
扉が閉まったあとに、小さな電子音。
「閉じ込められた……?」
慌てて開閉ボタンを押す。開かない。
「朝まで、ここにいろ、って?」
この建物で一晩明かさなければならないのは理解しているが、閉じ込められているという状況は、どうにも落ち着かない。リシュームは、その狭い部屋の中をぐるぐると歩き回った。水道からは、水は出なかった。調理用ヒーターの下の物入れには、飲料水のボトルが三本あった。その一本を開けて、一口飲む。急に、空腹を思い出した。絶望的なほどの空腹だ。昨夜基地を発ってから、何も食べていない。食料などは軍用機に積まれた荷物の中だ。そんなものを抱えてパラシュートで降りるような余裕はなかった。
「せめて……カロリーのあるもの……」
シキの居室で見た、真空パックや缶詰の食糧を思い出す。ひとつふたつ、くれてもいいのではないか、と。あの部屋でシキに寄越された飲料のボトルは、飲みかけのまま、置いてきてしまった。飲んでおくのだった、と後悔する。空腹を思えば思うほど、胃は切なげに軋んだ。
悪いようにはならない、と。
シキは、そう言っていた。彼が言う悪い状況とはどういうものか、リシュームは考える。そして、考えながらも、空腹は無視できなかった。
「いっそ寝てしまおうか」
ほかにするべきことも、出来ることもない。
ソファに身を沈め、目を閉じてみた。
身体は疲れている。一度これと定めたら、二度と動かしたくないほどに。
眠ろう、と思った。
今眠れば、夜が明ける前に目が覚めるだろう。そうしたら、そのときに、これからのことを考えよう。そう思い、意識を手放すことに決めた。
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