第6章

 立てるか、と、シキは尋ねた。

 痛みはある。立てないほどではない。

 シキに連れられて、エレベーターで地下七階まで下りた。

 先ほどの暗い廊下を、また、通る。相変わらず明かりはない。シキが、手に大きな懐中電灯を持って、少し先を照らしている。等間隔の扉が、向こうから現れては、後ろに消えていく。

「昔は世界中にあったんだ。こういう、種子や苗を保管しておく施設が」

 シキは、リシュームの歩く速さに合わせてゆっくりと歩いているようだった。慣れないことをしているせいか、ときおり、躓いている。

「それが、ここんとこ馬鹿みたいに動植物が次々に絶滅していくもんで、どっかに残ってないのかと探し回る奴らが出てきた」

「それが、さっき言っていた、先生、ね?」

 この青年の場合、粗暴な表現は親しみの裏返しらしいということに、短い会話の中でリシュームは気付いていた。

「だいたいは、駄目になっていたみたいだ。そういうことやってるのは、大学の研究所とか、農業系の企業とか、はてまた物好きな連中が作った財団法人か。いずれにしても、戦争でそれどころじゃなくなって、建物ごと放棄されてしまっているところも多かったらしい」

 周囲をぐるりと見渡す。

「それで、ここに集めることにした。当時はまだ研究所として機能していて、政治的な事情とは関係なくあちこちの国の研究者が集まっていたから」

「あなたも、それに協力したの?」

 それが当然の流れだと思い、そう言ったに過ぎない。

 しかしシキは、首を横に振った。

「さっきも言ったけどな、俺の半生記を語ってるわけじゃねえんだよ」

「じゃあ、あなたは何をしていたのよ」

「俺もあんたも、やっと小学生になった頃の話だよ」

 リシュームは、納得できないというような顔で、指を折った。いち、に、さん、と。それから、なおも納得できないという顔を、シキに向けた。

「話を早く進めろって言いたいんだろ。順番があるんだよ。ちなみに俺が来たのは、四年前か、五年前だ。細かい年月は忘れたよ。何しろ、ここは時間が止まっているんだ」

 確かにそのとおりだと、リシュームは思った。外の風景を思い出す。骨のような森を。死んだものは、死に続ける。時を刻まない。

「乗り換える」

「え?」

 シキがわずかに、手元の懐中電灯を上げた。

 暗闇に目を凝らせば、突き当たりにまた、エレベーターの扉が見えた。

「まだ、下があるの?」

「ああ」

 近づいてみれば、先ほど乗ってきたエレベーターよりもいくらか新しい。あるいは、あまり使われていないためそう見えるのかもしれない。扉の横のパネルに、シキが顔を近づけた。小さな電子音が響く。虹彩認証か、あるいはそれに類似したものだろう。この階のほかの扉が全てキーロックだったことを考えると、厳重だ。

 少し待った。

 低い音を響かせて、籠が近づいてくる。

 扉が、開いた。

「え……?」

 目眩がした。

 急に明るくなったからだ。そう気づくのに、一呼吸を要した。目を閉じても、瞼を指すような光。エレベーターの照明ではない。あんな、くすんだ明かりではない。

 リシュームは、真夏の太陽を思い浮かべた。

 反射的に閉じた瞼を、ゆっくりと上げた。

 籠は、扉と反対側がガラス張りになっていた。

 ガラスの向こう側は広大な空間が広がっていた。天井に取り付けられたいくつもの照明は、どれも強い光を放っていた。

「乗れ」

「え、あ、ちょっと待って……!」

 慌てて、シキに続く。

「これ、は……?」

 眼下には、鮮やかな緑色が広がっている。

 森を、上から見ている。

 呆然と見下ろすリシュームの横で、シキがパネルを操作した。背後で扉が閉まり、籠はゆっくりと降下する。

 森には、風が吹いているらしい。葉が揺れているのが見える。赤や青や黄色といった原色の生き物が、木々の隙間を飛び回っている。鳥とか、蝶とか、そういうものだろう。

「これは、何……?」

「理論上は不可能じゃないんだ。現にここにあるしな。ただ、金がかかる」

 シキは煙草を咥えながら、言った。

「水も――安全な水も必要だし、電気も馬鹿みたいに食いやがる」

 森がある、と。

 先ほど、そう言っていた。

「だから、森だって言っただろ」

 面倒くさくなって放り投げるように、シキは言う。

「つまり、水はここを維持するために必要だったということね」

「さっき、あんたは上の施設を見て、もう育たないと言ったけどな……育つんだよ、面白いことに」

 リシュームは、ただ、頷いた。大災厄ザドゥーム以来、植物は急激にその姿を消していき、今では、もうほとんど見られなくなっている。それが、ここには残っている。

「ここは、比較的温暖で、雨の多い地域の気候を再現しているんだ。つまり、ここらの地上の気候帯に合わせている」

 エレベーターを降りると、森を囲むように、ガラス張りの廊下が続いている。歩きながら、シキは説明をする。この森の広さ、構造。維持するのに必要な電力と水。すらすらと、淀みなく。それは緻密な計算に基づき、常に確認が行われているということだろう。そう、理解する。

「地上部の『死の森』は昔、こうだったってこと?」

 頭の中で、ふたつの森を対比する。地上で見た立ち枯れの木々と、今目の前にある、鮮やかな色彩を。

「そのとおり」

 そっけなく頷く。話しきって、満足したというように。

 それからシキは、休憩、と壁にもたれて煙草を吸い始めた。

「上の種子貯蔵庫から出した種子は、小さな温室で、ある程度まで栽培するんだ。それは、こことは別の部屋でやっている。ある程度育ったら、ここに植え替えをする。そうやって地道に増やしているうちに、こいつらはこいつらで、勝手に増えて、こうなる」

 目の前の森を指す。

 ちょうど、鮮やかな鳥が数羽、続けて横切っていった。

「こういう、鳥なんかは、どうしたの?」

「動物の方は、先生がどこかから連れてきたやつだなあ。昆虫とか、鳥とか、鼠とか、そういう、小さいのだけな。そいつらも、勝手に増えて、このとおりだ」

 植物がかなり密に生い茂っているため、動物の姿はちらちらとしか見えない。それでも、決して少ない数ではないことは分かる。視界のどこかで、常に何かが見えては隠れ、動き回っている。

 見入っているリシュームの横で、シキもまた、森の様子をぼうっと眺めながら、細い煙を吐き出していた。

「もしかして、なのだけれど」

 リシュームは、シキの気怠そうな目元をちらりと見て、問う。

「……あなたも、あの病気なの?」

 シキは答えず、代わりに、シャツの袖をわずかに上げた。細かな、紫色の斑点が見える。内出血は、水源病と呼ばれる病気の、初期の段階から現れる症状の一つだった。

 伝染病でないことは分かっている。だから、こんなところに一人でいても、発病する可能性はある。

「でもあれは、水が原因だって――」

「関係ない」

「あなたは、あの水を全部、この森に……?」

「だから、関係ない」

 シキは、少し語調を強めて言った。

 思わず、黙る。

「そもそもこの病気と水はあまり関係ない。街の連中はみんな、いい水を飲めば治ると思っているみたいだけど、そんなのはまじないみたいなもんだ。全く関係ないとは言い切れねえけど、原因は別にある」

「どういうこと?」

「あんた、何を食って生きてるんだ」

「食って……?」

「昔は、動物を殺して食べていたんだ。あるいは植物を刈り取って。今は? そんなものどこにもない。無機物から有機物を合成し、その有機物をまた合成して、それらしく作るしかない。何かが抜ける。あるいは、余計な何かが含まれる」

「それが、原因?」

「ドクの受け売りだ。俺の専門は栄養学じゃない。でもまあ」

 偽物だ、と。

 小さくシキが呟くのが、聞こえた。

 偽物だと、リシュームも思った。不意に、唐突に、何の前触れもなく。これまで生きてきた世界が、急に脆い粘土細工のように思えた。人の手で作られ、人の手で丁寧に扱わなければ、容易く壊れてしまう。そういう世界だ。

 そして、それ以前の世界がどうして成立し得たのかを、彼女は知らない。世界を世界たらしめていた強固な存在があるとして、その姿を彼女は見たことがない。

 本当に、そんなものがあったのか、さえ、知らない。

 水源病は、はじめは内出血で気づく。造血機能がやられて、止血が機能しなくなるためだ。続いて、免疫がやられる。この段階で、別の病気にかかって命を落とす場合が多い。それを過ぎると、臓器がやられる。多臓器不全に陥る。逃げるすべがない。治療法は、見つかっていない。そう、聞いている。

「じきに、消える」

 シキは、ガラスの向こうの眩しい世界に、目を細めた。

「人はじきに消えるよ。――じゃあ、人がこの星に最後に遺せるものは?」

 ずっとそれを考えているのだと、シキは言った。

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