第5章

 このモニタールームを、シキは生活の場としても使っているらしい。けれども空調は最低限に抑えられており、肌寒いほどだった。ひっきりなしに煙草を吸うらしく、空気に匂いがすっかり染みついている。缶詰の空き缶を灰皿代わりにしているが、最後に掃除をしたのはいつなのか、すでに吸い殻がひと山築かれていた。

 シキは、机の上に積み上げられているファイルの中から一冊を引っ張り出し、放って寄越した。表紙には、意味の分からない英数字。開くと、どうやら論文のようだった。表紙には、「人工閉鎖生態系における設備上の問題点」とある。それがタイトルらしい。

「これは?」

「その論文はかなり古い。筆頭著者は、半世紀以上前に死んでいる」

 シキは床に腰を下ろすと、新しい飲料水のボトルを開けて、思い切り煽った。そして、実は二日酔いなんだ、と言った。暗くて気づかなかったが、あちこちに酒の瓶が転がっている。こういうものをどこで調達してくるのか、リシュームは内心、首を傾げた。もっとも、今回ここに来ることになったのは、首都で逮捕者が出たことが発端だった。首都で生活している人間と繋がりがある以上、こういう面倒を見てくれる者も外部にいるのだろうと、ひとり納得する。

「この古い論文が、今回の事件と関係あるの?」

「畑違いか」

 シキは、軽く頭を掻いた。

「その論文は、ある大がかりな実験の反省文だ。もっとも、当事者が書いたものじゃない。何年もあとに、興味を持った科学者が再検証したんだ」

「大がかりな実験?」

「通称『バイオスフィア2』」

 知らない。リシュームは首を振った。

「大昔の実験だよ。バイオスフィアというのは、地球の生態系を指す言葉だ。その二番煎じだから、2。閉鎖空間に人工的に生態系を作る。つまり、小さな地球だ。植物を植えて動物を放す。そこで生活する。世界各地で、何度か行なわれた」

「地球の上に、小さな地球を作る、ってこと?」

 言外に、何のために、と、彼女は問うている。

「もともとは、宇宙開発のための予備実験だったらしい。その論文とは別のところで読んだ話だけどな、この星ではないところに移住するための技術を確立しておくための実験だったと思う。生態系そのものだけでなく、外壁の素材や、内部で実際に生活した人間の健康状態にも言及しているのはそのためだ」

 途方もない話に思える。

「途中から、目的が変わってきた。急激な環境の変化で、この星が、この星でなくなった場合のために必要な実験になっていった」

「……でも、失敗したのね?」

 シキは頷き、また水をがぶりと飲んだ。ポケットから取り出した錠剤のようなものを口に放り込み、また水を飲む。それからキャップを閉めると、ボトルを手の中で転がしながら、続けた。暗くて表情はよく見えない。ただ、迷っているような雰囲気があった。言葉を慎重に選んでいる。

「その論文では、問題がいくつか指摘されている。一番大きいのは、物質の循環だ。窒素循環が――いや、細かいことはいいか。ともかく、いくつかの技術的な問題をクリアしなければならないことが指摘されていた。その論文はそこで終わっていたんだけどな、問題ってのは解決すればいいんだ。その論文が書かれた当時と比べれば、技術も進んでいる。そう考えた科学者が、ここにやって来た。……二十年くらい前かな、多分」

「ん、ちょっと待って」

 リシュームは、シキの話を遮る。

「あなた、いくつ?」

「いや、まだ昔話だよ。俺の身の上話なんてしてねえよ」

「じゃあ、まだずいぶんかかるってこと?」

 それを聞いて、シキはまた、くしゃくしゃと頭を掻き回す。

「分かったよ、時間がないのはお互い様だ」

 トン、と、ボトルを床に置く。

「時間がない?」

「あ、いや――気にするな」

 目を、逸らされた。

大災厄ザドゥームの、少し前だよ。その頃から、見える人には見えていたんだろ。こういう世界が」

 モニターには、相変わらず目立った動きはない。森の死骸を映しているだけだ。冷たい光に、ときおりノイズが入る。

「当時、ここには生命科学の最先端が結集していた。その人は――俺の先生なんだけどな、ここでその実験をやろうとした」

 リシュームの手元のファイルを、指さす。

「小さな、地球を作る実験だ」

「もしかして――それは今も」

 シキは、ゆっくりと立ち上がった。

「どうして、素直に話すの?」

「あんたは、生きて帰す。ここで見たものを抱えて、首都に行け」

「時間がないって、どういうこと」

「ついて来い」

「生きて帰すって、どういうことなの」

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