第4章―1
エレベーターがゆっくりと上昇する間、シキはしきりに襟を気にしていた。先ほど、リシュームがとっさに掴んだせいだ。直す拍子に、首筋がちらりと見えた。そこにも、傷跡のようなものがあった。身体中がこんな具合なのかもしれない。学者風ではあるけれど、昔はどこかで違うことをしていたのかもしれない。全身に傷を負うような何かを。あるいは単に事故にでも遭ったのかもしれない。いずれにせよ、彼の様子は詮索を望んでいないようだった。
「そういや、ドクに会ったんだっけ」
「イェンさんのことね?」
頷く。
「腕のいい医者だよ。首都にいれば、いくらでも人を救える。なのに俺一人救おうとして、こんなところまで来て――」
それは、独り言のようだった。
事情を知らないリシュームは、肯定することも、否定することもできない。ただ、先ほど見えた彼の傷跡が気になった。
「どいつもこいつも――」
そこまで呟いて、シキは思い出したように、こちらを見る。リシュームの存在を忘れていたような顔だ。
「長くひとりでいると、独り言が多くなるんだ」
誤魔化すように、髪の毛を掻き回した。そしてそれきり、黙り込んだ。
シキは、リシュームを拒む様子もなければ、歓迎する様子もない。
恐らく、今、判断しようとしている。
彼女を撃ったときの彼と比べれば、幾らか表情が変わっていた。少なくとも、話をする前に撃つような顔ではなくなっている。
リシュームは、先ほどの、自分を撃った時の彼の顔を思い出す。あれは、思わず撃ってしまったという顔ではなかった。拳銃を人に向けて、躊躇いなく撃てる人間はそういない。はじめから、シキにはそういう覚悟があったということだ。リシュームは、あの地下の一部屋に追い込まれたのだ。鼠のように。そして、背後から撃たれた。シキという青年は、そういうことができる人間だ。
そういうことを、してきた人間なのだろう。
それが、今は彼女の存在を許している。
彼が許したわけではない。この場所を支配するルールが、彼女の存在を許した。だから、彼もそれに従っている。それだけのことかもしれない。
理解出来ているだろうか、と彼女は考える。
たぶん三割くらいは、と結論づける。
「もし」
リシュームは、問う。
「私が一人ではなくて、軍の護衛の人たちと一緒にここに来たら、どうするつもりだったの?」
「つまり銃を向けて、言う通りに洗いざらい喋らなければ連行する、ってわけだ」
シキは、はじめからそれを想定していたかのように、さらりとそんなことを言った。
「いや、連行、では、済まないか」
その言葉には、どこか皮肉めいた笑いが付いている。
「殺されるとでも、思っていたの?」
「もちろん」
あっさりと頷く。彼の言葉には、なるがままにすべてを任せるような、透明な潔さがあった。
「いずれはそうなると思っているよ。今日か、明日か、もう少し先なのかは知らないけどな」
ゆっくりと、何かを確認するように、シキはそんなことを言った。覚悟とか、諦観とか、そういう種類の何かを。
綺麗だ、と。
シキの横顔を見て、リシュームは静かに認めた。冷たく薄暗い照明の下で。埃っぽく、煙草の匂いのする、淀んだ空気の中で。朽ち果てた森の中の、朽ちつつある建物の、とっくに寿命を通り越したようなエレベーターに、彼は不思議と馴染んでいた。
(亡霊のよう、で)
この森には、相応しい。
そう思った。
やがて、エレベーターが止まる。
通されたのは、突き当たりの部屋だ。
モニタールーム、とでも言うのだろう。がらんとした暗い部屋に、ディスプレイが壁一面にずらりと並んでいる。リシュームは、軍の管制室のようだと思った。照明はない。冷たい床に、画面から零れる無機質な光が落ちているだけだ。
「これが、種明かしの二つ目」
シキが、淡々と言った。
「これは、全て『死の森』?」
「そう。ここで見ていた、ってだけだ」
ディスプレイの大部分には動きがない。森の死骸を映し続けている。けれども、いくつか動きがあるものもある。シキは、ここで森を監視していたということだろう。リシュームが危うく鉢合わせしそうになった、レジスタンス組織だという人々が映っているものもあった。それはキャンプのようで、人数は十数人程度。せわしなく動き回っているのが見える。男も女もいる。顔は不鮮明で、年齢はよく分からない。
それとは別に、煙のようなものが映っているディスプレイもある。よく見ると、飛行機が燃えている。
あれは、と。
言いかけて、先に口を開いたのは、シキだった。
「さっきの話の続きだけどな」
「さっき?」
「あんたはパラシュートで降りてきた。まさか、最初からパラシュートだけで飛んでくることは出来ないから、当然、飛行機が必要だな」
「……三機のうち、一機に私が乗っていたの。あとの二機は、護衛よ」
護衛か、と、小さく呟く。特に意味のない、相槌のようだった。
「座れ」
シキは、手近な椅子を引き寄せ、押して寄こした。
「怪我してんだろ」
そして、飲料のボトルをこちらに放った。喉は、乾いていた。
見れば、こうした飲料類や携帯食料のパックが、床に散乱している。一応、ゴミは一か所にまとめているようだったが、それだけだ。分別する気もなければ、小さくまとめるといった努力もない。もとより、床も机の上も、棚も、どこもかしこも、資料やら実験機器やらで、ぎゅうぎゅうの有様だった。森を監視するための部屋であると同時に、恐らくは、彼の研究室であり、資料室でもあるのだろう。
「怪我は」
どうだ、と視線を下ろす。
「痛いんだけど」
「それは知ってる」
「は?」
思わず顔をしかめてやれば、相手は困ったように頭を掻いた。リシュームは、思わずため息をつく。
「……出血は止まったみたいだけど」
そうして、改めて、シキという青年に向き直る。
シキは、道具箱のようなところから、市販されている応急セットを引っ張り出した。リシュームの傷口を縛っていた布を解くと、スプレータイプの消毒液を吹き付ける。その上から、医療用ドレッシングで傷を覆う。傷薬の付いたフィルムのようなものだ。ちょっとした切り傷の手当てなどにも使われる。あとは、そのドレッシングがずれないよう、ガーゼをあて、テープで留めておしまいだ。骨や太い血管を傷つけていなかったのは、幸運だった。
「あまり気は進まないが、経緯は聞いておいた方がいいんだろうな」
リシュームは、頷く。
「私をここに派遣したのは、政府直轄の、水道局管理課調査室よ。そこが、この方面に不法に水資源が横流しされていることを突き止めたの」
自分の肩書きを慎重に避けて、説明する。
そうか、と。
シキは、静かに頷いた。
「今更だな」
「いまさら?」
「それで、あんたはその調査のために、軍の護衛までつけられて、ここに来たわけか」
「突っかかるような、言い方ね」
「いや。あんたが、何も知らずに来た、正真正銘しがない水道局員だってことは分かった」
だからそれが突っかかるように感じられるのだ、と言いかけて、リシュームは思い直した。代わりに、別のことを口にする。
「なぜ、飛行機は落ちたの?」
人が死んだのだ、という事実が、重く胸の辺りを圧迫し始めていた。
「あなたは、一体何をしたの?」
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