第3章―2

「っ、と、あぶないじゃない……!」

 とっさに、相手のシャツの胸元を掴む。

 冷静に考えれば、知らない男性に「お姫様」はないだろう、とは思う。もう遅い。

「ドクに、会ったのか?」

 青年は無表情のまま、自分の胸元を見下ろしながら言った。掴まれた襟を、しきりに気にしている。見ると、はだけた胸元に、古い傷があった。塞がってから、何年も経っているような傷だ。リシュームは目を逸らし、見なかった振りをした。

「ドク?」

「ドクター・イェン。知らないならいい」

 この建物まで案内してくれた男性のことを思い出す。「ドクター」ということは、医者か学者なのだろう。真っ黒い布を頭から巻いた姿は、そのどちらにも見えなかった。けれども、よく思い出せば、その立ち振る舞いには、知性と、それに裏打ちされた余裕のようなものが感じられた。

「さっき、会ったけれど」

 ふぅん、と興味なさそうに言いながら、リシュームの手を掴み、シャツから引き剥がす。そして、白衣のポケットから煙草の箱を取り出すと、面倒くさそうに一本咥え、ライターで火を点けた。

「Dicranopteris linearis。一般的には、コシダと呼ばれる。シダの一種だ」

 先ほど見ていた箱のラベルの話だと気付くのに、数秒を要した。

「シダ」

「植物だ。シダ植物門に属する。胞子で増える。花が咲く植物と比べれば、確かに地味かもしれないな。聞いたことはないか?」

 リシュームは、首を横に振った。

 そうか、と。

 青年は、いくらか落胆したようだった。

「専門じゃないのよ」

「専門も何も、なあ。生物学なんて、研究対象がポンポン消えてるんだぜ。生物学という学問だって、ほとんど虫の息だろ」

 それから、青年は煙草の煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。薄暗い部屋で、何かの信号のように、赤い光が明滅した。

「まあいいさ。……さっき突然撃ったことは謝るが、俺は俺で、用心しないといけない。それは理解してほしい。軽く手当てならできるが、こちらとしても聞かせてほしいことはある」

 リシュームは、頷くしかない。

「今朝、軍の攻撃機が三機、この森に入った」

「それは」

 自分たちのことだと、リシュームは言いかけ、結局、その言葉を飲み込んだ。

「うち二機は、森のセキュリティシステムにより撃墜された。残りの一機はどうにか軟着陸したらしいが、パイロットは酷い怪我をしていたみたいだった。この建物までは辿り着いたが、力尽きて死んだ。だいぶ錯乱していたみたいだな。エントランスの監視カメラを一つ、壊された」

「じゃあ、さっきの銃声は」

「たぶん、そいつだろう。一応、様子を見に行こうと思ったけど、途中で面倒くさくなってやめた。生きてたら色々厄介だしな」

「…………」

 ということは、先ほど見た死体の山の中に、彼女を運んだパイロットがいたことになる。

「で、あんたはどうやって来た? まさか最初から、パラシュートで飛んできたわけじゃないだろ?」

(パラシュートのことを、知っている?)

 彼の口ぶりからすると、彼自身は軍人でもレジスタンスでもない。森の中に、ほかに仲間がいるのかもしれない。もしかしたら、イェンがそうなのかもしれない。彼があそこで何をしていたのか、結局、リシュームは聞けないままに別れた。

「ここは、もう使われていない施設のはずではなかったの?」

「表向きは、そうだ。とっくの昔に放棄されたことになっている」

 リシュームは頷く。

「政府の公式な報告書によれば、今は無人のはず。そもそも、この森自体、一般人は立ち入りが禁止されているでしょう?」

「でも、現実はご覧の通り」

「……電気がこれ、ってことは、水も?」

「そういうことだよ、水道局の調査員さん」

「…………っ!」

 青年の言葉は、リシュームの心臓を一瞬、止めた。

 硬直する彼女をじっと見つめたまま、青年は、くるりと右手を翻してみせた。手品のように取り出したのは、彼女のIDカードだ。表に氏名や生年月日などが記載され、裏には現在の住所と職業が浮かび上がる。職務経歴や家族に関する情報は、埋め込まれたチップに記録されている。

 リシュームは、慌てて上着の内ポケットを探った。ない。

「……いつの間に」

 先ほど、傷の手当てをしたときだろう。

「手癖が悪いのね」

 それを聞いて、男はわずかに口角を上げる。笑ったのだろうか、と首を傾げたくなるほど、かすかな動きだった。けれど多分、笑ったのだろう。混乱していたとはいえ、身分証明書をあっさり奪われるというのは、不覚もいいところだった。

 青年は改めて、IDカードに目を落とす。

「リシューム・ラコネンス、か」

「何?」

「いい名前」

「……いい名前でも悪い名前でもいいけど、それが種明かしね?」

 青年は澄ました顔で、カードをまた白衣のポケットに仕舞った。返してはくれないらしい。

「あんたが何をしに来たのかは、大体分かった」

 青年は、さして興味無さそうな声音で、そう言った。

 リシュームは、小さく頷く。

「都市部に供給されるはずの飲料水の一部が、不正に横流しされていることが判明したの。その供給先が、ここ」

 リシュームは、相手の出方を窺う。銃は奪われている以上、物理的に争う状況になれば、圧倒的に不利だった。

「飲料水の確保については、政府はかなり神経質だという話は、一応聞いている」

「さっき、植物がどうこうって言ったわね?」

 リシュームは、並んでいる金属の箱を指して、問う。

「これは、種子の保存施設だ。ジーン・バンクと呼んでいる」

遺伝子ジーン、……何?」

 リシュームは、聞き慣れない言葉を、問う。

「この建物の地下は、大部分が、こういう風に、あらゆる種類の植物の種子を保存するための部屋になっている」

「かなり広いみたいだけど」

「かなり広いが、全然足りない。こういう施設は、戦前は世界のあっちこっちにあったんだ」

「今は無い、ということ?」

 青年はまた煙草の煙を吸い込み、吐きだし、それから、少し迷い、ようやく口を開いた。

「必要性からして消滅したんだよな。昔は、植物を栽培して食料にしていただろ。コムギとか、コメとか。単一の植物の、それも単一の品種を広範囲で栽培して、食料はそれに依存するような時代が、長く続いていた。というか、人類が文明を起こしてからほとんどの年月、そういった食糧供給体制の中にあったわけだ」

 リシュームは、頷く。

「そういう風に言われると、よく続いたって感じね」

「そう。非常に怖い。たとえば疫病。植物がかかるやつ。それで、あっさり何億人分かの食料がお仕舞いだ。ところが、栽培をやめた品種の中に、その疫病に耐えうる遺伝子をもっているやつがあるかもしれない」

「遺伝子操作を行うということ?」

「あんたが想像しているようなデジタライズされたやり方じゃねえぞ。時間をかけて交配させる。期待する遺伝子を持った品種を作って、それを植える」

「じゃあほんとうに、遺伝子銀行ジーン・バンクってわけね。じゃあもう――」

 不要ではないのか、と。

 彼女は言いかけ、けれどもその瞬間、ズキリと傷が痛んだ。

「煙草を」

 リシュームは、青年の胸ポケットを指さす。

「一本、頂きたいのだけれど」

 青年は、ああ、と小さく頷き、箱を差し出した。街で売られているのと同じ、合成煙草だ。火を借りて、煙を吸う。慣れた浮遊感に、ようやく一息ついたような気がした。

「種ばかり取っておいて、どうするの」

 リシュームは、思っていたことを、そのまま口に出した。

「どうせもう、育たないでしょう」

 青年は笑った。

「こんなところで箱詰めになっている種子よりも、街で売ってるプラスチック製の観賞用植物のが価値があるって?」

 何かしら批難めいた響きが含まれている。

 リシュームは、小さく笑った。

「少なくとも、目的は果たしてるわね」

 なるほどなあ、と。

 青年は煙を吐きながら頷く。

「シンプルだなあ。悪くない。そういう潔さは、好きだな。目的があって、それを満たす存在であれば合格だ。すごくシンプルだな。なるほど」

 何がどう気に入ったのかよく分からないが、青年は、彼女の回答に、何かしら興味を持ったようだった。

「俺のことは、シキと呼んでくれ。呼ぶための名前がなければ、何かと不便だろうから」

「シキ」

「そう。家名は、どうでもいいだろ。肩書きみたいなものもない。そのまま呼んでくれればいい」

 またそれか、と、リシュームは思う。

 イェンも、似たようなことを言っていた。

 ここでは、名前は、互いを呼ぶための記号でしかない。肩書きも立場も、ここには持ち込めない仕組みになっているらしい。

 そこまで考えて、リシュームはようやく気が付いた。

「じゃあ私のことも、名前で呼んでもらって構わないわ」

 シキは、頷いた。

「わざわざ首都から来てくれたんだ。話くらいは聞くさ」

 煙草の火を靴底に擦りつけて消すと、ついてこい、と言うように、手を差し出した。リシュームも、慌てて吸い殻を始末する。

「上がるぞ」

 ぐい、と、腕を掴まれた。肩を貸され、そのまま廊下を戻る。

 エレベーターに乗ると、シキは、地下一階のボタンを押した。

 立場を持ち込まない、というのが、どうやら、ここのルールらしい。

 従うしかないのだと、リシュームは不意に悟った。

 それは、シキの先ほどの態度の変化から感じたことだった。

(従う、というのは、誰に?)

 少なくとも目の前の、このシキという青年に、ではない。彼もまた、そのルールに従う人間のひとりでしかない。先刻出会った、イェンという男性も。

(何に?)

 政府によって与えられた肩書きも、法律も、制度も、ここでは意味をなさない。

 それは、人間同士でしか通用しないもので、一方ここは本来、人間が踏み込むことのない森だから、だ。

 エレベーターは、上昇する。

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