第3章―1
門をくぐり、敷地に足を踏み入れると同時に、リシュームは強烈な異臭に顔をしかめた。そしてそれは、建物に近づくに従って、強くなった。
死体だ。
「ここは……何?」
一つや二つではない。見える範囲にあるものだけでも、ざっと三十人分くらい。数えたわけではない。
身体の部品がバラバラになっているものもある。完全に白骨になっているものもあれば、原型を留めているものもある。皮膚が削げ落ち、内臓が露出しているものもある。骨が突き出しているものもある。無造作に転がる腕は、どの死体の持ち物だったのか分からない。誰かの足、誰かの腸、誰かの鼻、誰かの腎臓、誰かの耳、誰かの脳。
山積みだ。
人が土へと還る過程が、ひととおり揃っているかのようだった。
平気なつもりだったけれども、彼女のある部分が、目を逸らしたいと訴えていた。すっと体温が下がる感覚とともに、世界がふわりと遠のくような浮遊感を覚える。貧血によく似た症状を自覚する。
一方で、彼女の頭の中の冷静な部分は、しきりに警鐘を鳴らしていた。死体があるということは、人が死ぬ要因があるということだ。気をつけろ、何かあるぞ、と。
先ほどイェンが言っていたことを思い出す。政府が派遣した調査隊は、全て行方が分からなくなっている、という話を。
――さきほどの銃声は?
「大丈夫」
声に出す。
「どうせ、どうにもならない」
それは呪文だ。
自分の力でどうにかできることなど、たかが知れている。
今さら戻ることはできないし、逃げる場所もない。危険ならば戻ればいいと思うほど、楽観的ではない。そんな風に融通が利く場面は、人生においてそう多くないということを、彼女は知っている。
胸ポケットを探る。そして、入っていたはずの煙草がないことに気付いて、小さく舌打ちをした。パラシュートで降下するときに、落ちてしまったのかも知れない。無我夢中だったのだから、仕方がない。
中央にそびえる巨大な建物を、リシュームは見上げる。そしてまた、視線を水平に戻す。入り口のガラス戸は、割れていた。誰かが割ったのか、何かが風で飛んできて割れたのかは、分からない。
自動ドアのロックは外れていた。強引にこじ開け、中に入る。暗いホールは、しんと静まり返っている。ただ、低く唸るような音が響いていた。恐らく、空調だろう。
電気は、通っている。
リシュームは、ホールの奥に目を留めた。小さなランプが見える。エレベーターの階数表示だ。小さなオレンジ色の光が、動き、消える。周囲にほかに何か動くものはないかと注意しながら、エレベーターに駆け寄った。上に向かうボタンを押してみる。
反応しない。
下に向かうボタンを押すと、今度は反応した。ボタンは点灯し、低く、籠の動く音が聞こえてくる。やがて、扉が開く。恐怖を覚えるほどに、煌々と明るい。
リシュームは、それに乗った。
地上は十階まで、地下七階まで、ボタンが並んでいる。地上十階のボタンは、押しても点灯しなかった。九階から二階まで、指を滑らす。同じだ。
一旦降りて階段を探すことも考えたが、やめた。代わりに、地下七階のボタンを押す。今度は点灯した。誘い込まれているような気がした。
扉が閉まり、ふわりとした感覚とともにゆっくりと籠が下降を始める。地上部分は、後回しにする。何か理由があって、エレベーターでは行けないようにしているのかもしれないし、単に今は使われていないのかもしれない。
一方、地下は、誰かが何かの目的で使用している。そちらから確かめる方が早い。リシュームは、そう判断した。
やがて、鈴のような小さな音と共に、扉が開いた。
降りたところは、廊下になっていた。背後でドアが閉まり、エレベーターの照明に照らされていた廊下は、暗闇に変わる。両側の足元に、緑色の誘導灯が小さく連なっているだけで、ほかに照明は点いていなかった。
(寒い)
身体を抱くようにして、両腕をさすった。暗闇の中、彼女の息だけが白い。
風の動きはない。空気は止まっている。
外れかもしれない、とリシュームは思った。人が行き来する場所ならば、空調くらいは動かしているはずだ。
そう思いながらも、彼女は歩き出す。
いくらか目が慣れると、両側にドアが並んでいるのが分かってきた。金属製のスライド扉で、すべて横にテンキーが設置されている。キーロックを表す赤いランプが点灯している。緩やかにカーブする廊下を、慎重に歩いて行く。
不意に、白い光が見えた。
ドアが、開いている。
リシュームは安堵に似た感情を覚えるとともに、そっと、腰の自動小銃に手をかけた。手遅れかもしれないと思いながらも、足音を消す。ゆっくりと、開いたドアに近づいていく。話し声は聞こえない。それどころか、物音もない。白い明かりだけが、廊下に漏れている。
そっと、中を窺った。
ドアの間隔から想像はしていたが、それほど広い部屋ではない。両側に、天井まで届くスチールの棚がある。棚には、小さな金庫のような、厳めしい金属の箱が並んでいる。中に何が入っているのかは、外からは分からない。
人はいないようだった。棚の裏側は壁で、隠れられそうな隙間はない。
一歩、二歩と、部屋の中に足を踏み入れる。
右手は、銃にかけたままだ。
並んだ金属の箱の、ラベルを見る。
「……Di、c……ra……ええと……?」
知らない言葉だ。
あとは、日付と、地名と、何かの数字。いずれも何を意味するのかは分からない。この箱の中に何かを保管しているのだとすれば、管理上意味があるのだろう。
「ラテン語?」
「そうだよ。『Dicranopteris linearis』」
「…………っ!」
声は、唐突に割り込んできた。
銃を向けようとして――その瞬間に、彼女は身体のバランスを大きく崩し、膝から崩れる。
撃たれた、と。
その理解が遅れた一瞬の間に、どっと、床に倒れ込む。
(痛い……!)
「……軍人ではない、のか」
男の声だ。
わずかに顔を上げると、入り口のところに人影が見えた。白い。白衣を着ている。片足に体重をかけて、気怠そうに立っている。小さな銃をリシュームに向けていたが、彼女と目が合うと、すぐに下ろした。
「レジスタンスでもない、な」
リシュームは、答えられない。声が出ない。息もできない。脂汗が、体中から吹き出すのを感じていた。
「……確認もしないで、悪かった」
男はゆっくりと近づき、リシュームのそばに屈みこんだ。
二十代半ばくらいの青年だった。彼に助け起こされ、見れば右ひざから出血している。かすっただけのようだが、出血は止まらない。流れ出した血液は、ズボンにどす黒い染みを作り、その一部は白い床を汚している。青年は白衣のポケットを探ると、ガーゼのような白い布を広げ、それでリシュームの傷口を縛った。
「消毒した方がいい」
握っていた銃を取り上げられ、そのまま腕を掴んで引っぱられた。立て、ということらしい。
「いっ……!」
細い腕に似合わず、かなりの力だ。
「反対の足に、体重をかけろ」
青年は、掴んだ腕を自分の肩に回させ、空いている手でリシュームの腰を抱えた。
「……離しなさい」
「じゃあ、ずっとここにいるのか?」
「あなたが撃ったんじゃないの」
「だから、悪かったって」
言ってるだろ、と。
青年は、どこか拗ねたように言う。
肩は骨張っていて、その肩に回された腕はすぐに痺れてきた。腰骨と肋骨が、白衣のすぐ下にあるように硬く感じる。骨と皮しかないような体だった。どこに、先ほどのような力があるのか分からない。
「ねえ、もしかして」
ふと、思い出す。
「あなたが、『囚われのお姫様』?」
「…………」
支えていた手を、無言で離された。
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