第2章―2

 イェンは言う。

「目的もなく、こんなところにやって来る人間はいない。僕も君も、何か事情があり、目的がある。だからこそ、名前以外を明かすのは危険なんだ。場合によっては、殺し合わないといけないかもしれない」

 リシュームは、理解した。

 彼女が腰の銃をこっそりと手探りで確かめていたことに、相手は気が付いていたのだ。そっと、銃から手を離した。

「ここでこのまま別れるのが、一番良いのでしょうね。助けていただいたお礼は、何もできていないけれども……」

 リシュームはそう言って、地図を取り出す。広げ、これから向かう先を確認する。

「そうだろうね。……管理センターに行くの?」

 ×印が書かれた場所に、イェンは興味を示した。リシュームは、その反応を注意深く観察しようと試みた。

「ご存じですか?」

「どういう場所かは知っているよね?」

 リシュームは、頷く。

 ×印は、この森のほぼ中央に位置している。そこにあるのは、この森がまだ生きていた頃に造られた、大規模な施設だった。

「資料によれば、森の生態系の監視、密猟や不法伐採の取締りと、最先端の生命科学の研究所を兼ねた施設だったとか。もちろん、大災厄ザドゥームの前の話ですが」

 イェンは頷き、それから腕を組み、俯いた。

「何か」

「ああ、僕はこの森にはいくらか慣れている。だから考えていたんだ。君に助言すべきかどうか」

 助言、という言葉に、リシュームは眉根を寄せた。

「何があると言うんですか?」

 こういう聞き方は、あまりよくない。リシュームはそう自覚して、それ以上は言わなかった。ただ、イェンの顔を凝視したまま、答えを待った。

「そうだなあ……近くまで、案内するよ。こんなところに、都会育ちのお嬢さんを置いていくのも気が引ける」

「地図なら、ありますけど」

 こちらの言葉を無視して、イェンは懐からペンを取り出し、地図の上を滑らせた。大小様々な円を、次々に描いていく。実線の円と、破線の円がある。実線の円の方が、全体的に大きい。互いに重なり合っているものもある。

 今いる場所は、どの円にも重なっていない。

「この森には、人間が通れる道と、人間が通れない道がある。間違えば、命を落とすんだ」

 そう言うイェンの顔が、にこやかに笑っていたので、リシュームはからかわれたのかと疑った。

「……怪談話ですか」

 この森にはそういった話がいくつもある。何しろ、『死の森』だ。

 だが、イェンは首を横に振った。

「ここが、今、僕たちがいる場所」

 リシュームは、頷く。

「運がいいことに、ちょうど、どの円にも重なっていないよね」

「ええ」

「ところで、こんな都市伝説を知っているかな?」

「……都市伝説?」

 怪談と大差ない、と、内心思う。

「政府がこの森に派遣した調査隊は、ことごとく行方不明になっている」

「そのような迷信は……」

 根拠のない話だ、信じるな、と。

 政府は、言っている。

「火のないところに煙は立たない。僕の知る限りの範囲ではあるけれど、この円がこの森のセキュリティシステムの、有効範囲」

 改めて、リシュームは地図に描かれた円を見る。

「実線は対空、破線は地上用。両方とも避けて着地できたのは、とても幸運だったね」

 現在地から目的地までの直線ルートは、一部破線の円の中を通過する。ぞっとした。

「信じられない?」

「いえ、そういうわけでは。……でも、なぜセキュリティなんて」

「この森の資源を、戦争や密猟から守るためのものだった。今はもう、何を守っているのか分からないけど」

 そのセキュリティが具体的にどんなものなのか、想像もつかない。イェンも、今それを説明する気はなさそうだった。

「案内が必要な理由が、分かった?」

 頷くしかない。イェンの言うことを、すべて信じたわけではない。ただ、この男に従うのが安全だと判断した。

 イェンは地図をリシュームに持たせたまま歩き出す。リシュームも、慌ててその後を追った。

「どうして、都会育ちのお嬢さんなんて、言ったんですか」

「違う?」

「お嬢さんでは、ありません」

「そう」

 何かを見透かされているような気がして、居心地の悪さを覚えた。

「ここには、仕事で来たんです」

「なるほど。失礼。もしも、お嬢さんという言い方が気に障ったなら、謝るよ」

「いえ、その……昔、そういう風に言われていたことがあって、あまり好ましく思っていなかったものですから」

 お嬢さん、あるいはお嬢様、と。

 それは彼女が、母の付属品であることを意味していた。彼女に父はいない。母は仕事が忙しく、彼女の世話は家政婦やベビーシッターの仕事だった。そして、そういった人々にとっては、彼女は彼女ではなく、社会的に高い地位を得た母の、娘でしかなかったのだ。

 それを思い出し、嫌な気持になったというだけだ。

「僕は、君が比較的若い女性だから、そう呼んだだけだよ。君のことは、名前以外知らない。ところで」

 と。

 立ち止まり、周囲を見渡す。

「僕はいつもこんなところにいるから、そう感じるのかもしれないけれど……君はどう思う?」

 イェンは唐突に、問うた。

 リシュームは、首を傾げた。

「人間はもうそろそろ、この森みたいになるように思うんだよ、僕はね」

 こんなところにいると、そういうことばかり考えるのだと、イェンは言った。

 リシュームは少し考え、そしてすぐに考えるのをやめた。

「そういう大きなことは、私が考えることではありません。少なくとも私は、どんなに長くとも、あと数十年もすれば消滅します」

 イェンは、静かに笑った。

「可笑しいですか」

「いや。何というか、予想外だった」

 リシュームは、首を傾げた。

「消滅、という表現だよ。自分の死をそういう言葉で表すのは、あまり一般的ではないように思うね、僕は」

 そうだろうか、と思う。

 そうかもしれない、と思う。

 自分の死について語る人間を、彼女は何人も見てきた。死ぬ、逝く、神のみもとへ行く、あるいは永遠の別れ、あるいは永い眠り。それはいずれも、消滅とイコールではない。

「多くの人はね」

 と、イェンは言う。

「自分が消えるとは思っていない。自分が生きた痕跡はずっと残り、誰かがそれを見ては、自分の存在を感じてくれると思っている」

 人は、消えるべきなのだろうか。

 枯れた森を見渡し、ふと、そんなことを思った。深い意味はない。ただ、こういう場所で、そういう考えを持つ人間もいるだろうと思っただけだ。

 そうしているうちに、遠く、白い巨大な建物が何棟か、寄り添うように建っているのが見えた。

 ああ、あれだ、とイェンは言った。

 先ほどまでは気づかなかった。なぜあんな大きな建物の存在に今まで気づかなかったのか、不思議に思った。そして、すぐに納得した。周囲に溶け込みすぎている。外壁には汚れが目立ち、いくつものヒビが走っていた。窓ガラスは割れ放題だ。とうの昔に放棄されてしまったことが、遠目にも分かる。

 きっと、外壁の白い塗装は、緑の木立の中では目立っただろう。異質な存在として、周囲と反発しながら存在していたことが想像できる。それが今では、すっかり周囲の風景に馴染んでいた。森の木々も、コンクリート造りの建物も、朽ちてしまえば大きな差はなくなってしまうのかもしれない。あるいは、朽ちることで両者が歩み寄ったという考え方もできる。歳を取って丸くなるのは、人間だけではないのかもしれない。

 近づくにつれて、管理センターだという建物は、大きく見えるようになった。中央にひときわ巨大な建物がそびえ、それを取り囲むように大小いくつかの施設が建っている。さらにその周りを、城壁のような背の高い壁がぐるりと囲んでいた。荒れ果てた建物が白くそびえる様は、大昔の城砦のように見える。

「まるでお城ね」

 その言葉に、数歩先を行くイェンが、控えめに笑った。

「おかしかったですか?」

「いや」

 イェンは笑いながら、首を横に振った。

「囚われのお姫様もいるしね」

「え?」

 足を止め、こちらを振り返る。

「ここまで来れば、あとは安全だよ」

 地図を見れば、確かにこの先は、どの円にも重ならない。

「管理センターに何の用があるかは知らないけど、気をつけて行っておいで」

 そして、右手を差し出した。

 リシュームは、差し出された手を握る。

「ありがとう」

「こちらこそ」

 おかしな男だ、とリシュームは思った。自分は彼に何かしただろうか、と。

 社交辞令だろう。あるいは、話し相手が欲しかったのかもしれない。彼がこの森で何をしているのかは知らないが、少なくとも今は、ひとりで行動しているようだったから。

「あなたは、ここに用があるわけではないんですね」

「今はね」

 引っかかる言い方だったが、リシュームはそれ以上何も訊かなかった。イェンは小さく微笑み、手をはなした。

「じゃあ、僕はこれで。囚われのお姫様によろしく。できれば、ここから連れ出してやって欲しいんだけど」

「お姫様って?」

「ああ、うん、会えば分かる。銃を持っているから気をつけて」

 小さく手を振り、イェンはリシュームに背を向けた。

 どんなお姫様だそれは、とリシュームは思う。

 イェンの姿が見えなくなるのと、銃声が響き渡るのは、ほぼ同時だった。

「……ああ、なるほど」

 思わず呟く。

「物騒なお姫様ね」

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