第2章―1

 リシュームは、森の真ん中に降り立った。

 静かだと思った。

 森は、とうに死んでいる。

 木の枝に葉はなく、草花も生えない。動物の姿もない。鳥の声も、虫の羽音もない。枯れた木々は、まるで巨大な動物の骨のように、白く朽ちた姿を晒している。生命の、抜け殻だ。

 かつて、森は果てしなく広がっていた。

 生い茂る樹木が大地を覆い隠し、空を支えていた。その下に、ありとあらゆる生命が存在していた。きっと大気圏の外からでも、鮮やかな緑色に見えただろう。今となっては、昔話だ。もはや、その頃の姿を想像することもできない。

 リシュームは、携帯端末のデジタル時計を見た。夜が明けるまで、あと一時間半ほど。濃紺の空間に、白く浮かび上がる木々の死骸。海の底にいるような、幻想的で狂おしい光景が広がっている。

「ここが、『死の森』」

 小さく呟く。

 口に出したことで、死という言葉が、そっと首筋の辺りに寄り添うのを感じた。『死の森』という呼称は、通俗的なものだ。本当の名前は別にある。けれどもこの森には、確かに、死という言葉が相応しかった。

 大災厄ザドゥーム、と。

 そう呼ばれる事件があった。

 どこかの国の兵器が、ある都市をまるごと一つ消し去った。それだけならまだしも、世界中に放射能と化学薬品による汚染が広がった。ありとあらゆる生物が死んだ。この森も、被害者だった。リシュームは、その事件に関する調査報告書を読んだことがある。起こってしまったことはどうすることも出来ないということが、難しい言葉で書かれているに過ぎなかった。

 その事件から、二十年近くが経っている。森が再び息を吹き返す気配は、ない。

 いにしえの兵法書に曰く、「亡国はまたおこるべからず、死者はまた生くべからず」と。滅びたものは元に戻らず、死者は生き返らない。

 生きているものの気配、死んだものの残した気配、そういったものさえ、今はもう感じられない。あまりに静かで、あまりに空虚だった。ここに生きた数えきれないほどの生命の存在を、森は、とうに忘れてしまっていた。死とは、忘却だ。

 その絶対的な空虚さを、リシュームは皮膚で感じていた。

 恐る恐る、一歩、踏み出す。踏みしめる地面は、わずかに湿っている。空気が夜の間に冷やされ、抱えきれなくなった水分だ。地面がそれを抱きとめている。足音はやけに大きく響いた。足音だけではない。自分のわずかな動作、呼吸、鼓動、瞬きすらも、この森の完璧な静寂を乱す。それは彼女に、ここでは異質な存在であることを自覚させる。骨になった木々は彼女を取り囲み、無言で責め立てる。お前はここにいてはいけないのだ、と。

「……いいえ」

 リシュームは、静かに、呟く。

「ここは、私がいるべき場所よ」

 己を拒むものを懐柔するでもなく、否定するでもない。ただ、自らの在り方は自らの言葉によって定義されるという、ささやかな確認だった。

 深呼吸をしながら、ゆっくりと辺りを見渡す。

 彼女のすぐ背後には、パラシュートが木に引っかかってぶらさがっている。控え目なモスグリーン。おそらく、何箇所か破れているだろう。寝袋の代わりくらいにはなるかもしれない。だからといって、野宿をするのは気が進まない。朝冷えの森は、今こうしている間も、彼女の体温を奪っていく。一晩を過ごすには、ここはあまりに寒い。

 それを避けるためには、早々に目的地に辿り着くことだ。

 胸ポケットから、地図を取り出す。

 紙に印刷された地図。赤いインクで×印が描かれている。そこが目的地だ。電子機器を信用していないわけではないが、アナログの方が便利なこともある。紙の地図の優れた点は、折れようが破れようが、その役割を果たせるということだ。

 パラシュートで降下する直前に、計器で確認した緯度と経度を思い出す。地図と照らし合わせ、目的地からさほど離れていないことを確認する。歩いて行けるはずだ。

 よし、と。

 そう、自分自身に頷いてみせたときだった。

「…………っ!」

 はっと、リシュームは周囲を見回した。

 人の声がしたような気がした。

(こんなところに?)

 木の陰に身を隠そうとするが、人ひとりがすっぽり隠れられるほどの大樹はない。すぐに見つかってしまう。

 声は近づいてくる。一人ではない。五人か六人くらい。大人しく出ていって名乗るべきか、それとも逃げるべきか。それを判断するための材料が、こちらにはない。こんなところに人がいるなんて、想定していなかった。迷う。迷いは焦りになる。

 落ち着こうと天を仰いだ。

 そのとき、だった。

「――こっちへ」

 冷水を浴びせるように、声は唐突に、頭上から振ってきた。

 目を凝らすと、木の上に人影らしきものが見える。

「……誰?」

 はっきりと声に出したつもりだったのに、掠れてしまった。ごくり、と唾を飲み下す。やけに大きな音が、耳に響いた。

 相手は、枝の隙間にうずくまっている。暗くて顔は見えない。年齢や背格好も分からない。真っ黒い服を着ているらしい。まるで影のようだ。あるいは、死神か悪魔のようにも見えた。話しかけられなければ、人だとは思わなかっただろう。声は、落ち着いた大人の男性のものだった。

「血の気の多い連中なんだ。下手に、関わらない方がいい」

「…………」

「ちなみに、僕の名前はイェン。今のところ、君の敵ではないと思う」

 彼はそう名乗ると、片手で木の枝を掴みながら、もう片方の手を差し出した。掴まれ、ということだろう。声は段々と近づいてくる。信用していいものか迷い、結局はその手を取った。ぐい、と引き上げられる。木登りなど、したことがない。ワークブーツの底が、白い幹の上を何度か滑った。焦るが、近づいてくる声の主には、どうやらその音は聞こえていないようだ。会話に夢中になっているのかもしれない。やっとのことで、どうにか木の上によじ登る。そして、イェンと名乗った男に抱えられるような格好で、枝と枝の間に収まった。

 やがて、声がすぐ真下まで近づいてきた。

 数人の男女が、眼下に見える。汚れた服を着ている。汚れているだけでなく、破れたり、ほつれたりしている。難民かもしれない。貧しくて都市部に住めない人々が、戦火を避けながら世界をさ迷っているという話を聞いたことがあった。けれども、難民にしては物騒だとも思った。彼らは皆、手に小銃やライフルを持っていた。

「……レジスタンスだよ」

 彼女の戸惑いを察してか、イェンが耳元で囁いた。

「負け続きでね。こんな、世界の果てのような場所まで追い込まれた」

「レジスタンス……」

「反政府組織。聞いたことはあるだろう?」

 リシュームは、小さく頷く。

「ああいった人たちは、何年か前まで、都市部にもいましたから」

「今は、いない」

「はい」

 反戦や政権交代を求めて、大小さまざまなレジスタンス組織が活動していた。彼女自身も、何度か目にしたことがある。学生のサークル活動に毛が生えたような連中から、軍隊にも引けを取らないような大規模な組織まであった。そういう人々の存在が、許される雰囲気があった。色々な人が好き勝手やっていた時代だ。リシュームが、まだ学生だった頃だ。

 けれども戦争が激化すれば、そうした活動は、政府の在り方を左右しかねない状況になる。レジスタンスの制圧にも、軍が投入されるようになっていった。そして、敗れた人々は都市部にいられなくなり、外へ外へと去っていく。

 そうやって、彼らが辿り着いたのが、この森だったということらしい。

 彼らは、リシュームのパラシュートを囲んで、何か話をしている。時折、口論のような激しい口調にもなる。話している内容までは、聞こえない。やがて、何らかの結論が出たらしい。パラシュートをそのままに、もと来た方向に戻っていった。話し声が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。

 リシュームは、慎重に足場を確認しながら、地面まで下りた。のぼるときは夢中で気付かなかったが、かなり高い。

「イェンさん、と、おっしゃいましたか」

 イェンは、リシュームが下りきってから、慣れた身のこなしでするすると下りてきた。その動作は洗練され過ぎていて、どこか非現実的だった。彼は、黒い布で頭から足元までをゆったりと覆っていた。砂埃を避けるためかもしれない。昔、学校の教科書で見た、砂漠で暮らす人々の格好に似ていた。背中が不自然に盛り上がっている。大きな荷物を背負っているらしい。枝の隙間で丸くなっていたときは小柄に見えたが、こうして真っ直ぐ立ってみると、かなりの長身だった。顔と指先しか見えないせいもあって、童話に登場する魔術師のようだった。節くれ立った細い指は、枯れた木の枝のように白い。

「ありがとうございます」

 リシュームは、礼を言った。

「私は、……」

「いや」

 胸ポケットからIDカードを取り出そうとして、遮られる。

「素性を明かそうとしているなら、遠慮するよ。名前だけ、教えてくれるかな。家名はいらない。職業も。呼ぶのに必要ないからね」

 確かに彼自身、名乗ったのはファーストネームだけだった。

「リシューム」

「そう。僕はイェンだ。さっきも名乗ったけれど、一応」

 それから、困ったように笑った。

「怪しい奴だと思っているね?」

 そのとおりだ。

「人がいるとは、思っていませんでしたので」

「公式には、人は住んでいないことになっているからね」

「……緩衝地域です」

 リシュームは言う。政治的な言葉だ。そして、この幻想的な森には、あまりにも不似合いな言葉だと思った。

 この森には、複数の国々の国境が接している。正式な国境線は定まっていない。ゆえに、緩衝地域と呼ばれている。人が住めるような場所でもないため、お互いに手を出さない。そういうことになっている。

「ならば、互いに何も聞かないことだよ」

 イェンは、すっと目を細めた。

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