星の指先

佐々木海月

プロローグ

 偽物だ、と。

 私は、静かに確認する。

 窓から見上げた夜空は、私が生まれる前からずっと変わらず、偽物だった。

 地下に造られた都市には、本来、昼も夜もない。地上を懐かしむ人々のために、人工の光で昼を作り、人工の月を浮かべて夜を作っている。 雨は降らず、風も吹かない。気温の変化も、ほとんどない。

 孤独であれ、と。

 私は、静かに呪文を唱える。

 ほかの人々が何を求めようと、それは、私には関係のないことだ。


 ベッドサイドの小さな電灯を頼りに、寝間着から軍服に着替えた。もう何年も前に、古着屋で買ったものだ。裾には、焦げた跡が残っている。焼けて穴が開いているところも、何箇所かある。男性用の一番小さなサイズだけれど、私が着ると袖が余る。ごまかすために、腕まくりをした。

 地上で行われた最後の戦争から、すでに数十年が経っている。軍人さんといえば、街の警備や、人助けや、危なくて力が要ることをやってくれる人のことだった。この軍服を着ていた誰かのように、炎と銃弾の中を生き抜いた人々は、もうとっくに退役して、その多くは、この平穏の中で人生を終えていったのだろう。戦争があったということはもちろん、人が地上で生活していたということさえも、もう、歴史の中の出来事のひとつになっていた。

 そして、未だに地上は死の世界で、もう人間が住める場所ではないのだと、みんな、口を揃えて言っている。呪文のように。願いのように。 そう信じることで、今の平穏で幸福な生活を、守ろうとしているかのように。

 さよなら、と。

 私は、声に出す。家族に。友人に。この優しく、平穏な、偽物の世界に。

 鞄を肩から斜めに掛けた。軍服は、地上に出るための通行証だった。地上に通じるゲートには軍の衛兵がいるけれど、同じ軍人なら通してくれる。そうやって必要なものはほとんど、先に地上に運び、隠してある。鞄に入っているのは、懐中電灯やナイフなどの、こまごまとした身の周りのものだけだった。それを、ひとつひとつ取り出し、机の上に並べ確かめる。そしてまた、ひとつひとつ鞄に仕舞う。

 最後に、私は壁に貼ってある大きな地図へと目を向ける。向かい合い、頷き、ピンを外して手に取る。

 宝の地図、ということにしてある。

 少なくとも私の中の全てが、これは宝の地図だと言っている。地図上の一点に、×印がある。そこが宝の眠る場所だ。宝が何なのかは、知らない。

 ×印の周辺には、実線や点線の円がいくつも描かれている。軍用の地図らしいから、作戦会議にでも使われたのかもしれない。資料を探したけれども、この円が意味するものは、結局分からないままだった。行けば分かる。行って確かめればいい。

 地図の制昨年は、地上で行われた最後の戦争が、もっとも激しかった頃とほぼ一致していた。あの時代、実に様々な兵器が開発され、大した検証も経ずに実戦に投入されたという。おかげで地上の動植物は死に絶え、人間は地下に逃れ、そして、世界は捨て去られたままになっている。この×印の場所も、きっと。

 この地図を手にしたのは、まだ言葉もろくに話せないくらいの、幼い時分だった。それから二十年近い歳月を、私は、ただこの場所へ行くためだけに費やしてきた。

 大きくなったら宝探しに行く、なんて。

 何事も、貫き通せば格好いいなどと言うけれども、それは嘘だ。子どもの世迷い言、夢想、あるいは気狂い、もしくは、ただの馬鹿。あるときから、私はこの地図について話すことをやめた。

 そういうわけで、これから始まる私の大冒険には、旅の仲間もいなければ、見送りすらない。それでいい。宝は独り占めだ。

 私は部屋を出る。リビングのテーブルの上に、両親と祖母に宛てた手紙を置く。

 いつまでも馬鹿げたことを言い続ける娘を、本当のところはどう思っていたのか、私は知らない。ただ、別れには、言葉が必要だった。

 足音を立てないよう、注意深く両親の寝室の前を通り過ぎた。玄関までの廊下を、こんなに長く感じたことはなかった。

 ゆっくりと玄関の扉を開けていると、不意に、背後に人の気配を感じた。

 はっとした。

「……おばあちゃん」

 寝巻き姿の祖母が、立っていた。

 物音を立てないよう、気を付けていたつもりだった。起きているなんて、思わなかった。

「行くんだね?」

 その顔は、穏やかに笑っていた。何もかも知っているかのように。そしてたぶん、何もかも、知っているのだろう。根拠もなく証拠もなく、ただ不意に、そんな風に思った。

 私は祖母に向き直り、頷いた。

「気をつけて、行っておいで」

 やっぱり知っているのだと思う。そして、思い出す。

 この地図は、祖母の部屋で見つけたのだ。

 祖母は地上で生まれ育った世代で、だからこの地図もきっと、その頃に使われていたのだろう。祖母はよく地上にいたころの話を聞かせてくれたし、私はそれを聞くのが好きで、よく祖母の部屋に入り浸っていた。

 いつごろからか、祖母は語るのをやめた。きっと、両親が何か言ったのだと思う。私はこの地図に夢中で、そして、本気だった。

 もう戻って来られないかもしれない。ふと、そう思う。

「行ってきます、おばあちゃん」

 そして、私は、生まれ育ったアパートをあとにした。


 夜の街を、走った。

 気持ちが先へ、先へと急ぐ。

 いつものように衛兵をうまく誤魔化し、地上に出る。流れる風。銀色の砂のように降り注ぐ、光。本物の月。

 廃墟の影にあらかじめ用意しておいた、小型の飛行機に乗り込む。大昔に軍が使っていた、複座の戦闘機。骨董屋に、鉄屑同然の金額で譲ってもらった。二人乗りだけれど、操縦は一人で出来るようになっている。

 こんなものが空を飛ぶなんて、信じられなかった。修理には苦労した。骨董屋にも手を貸してもらったけれど、彼だって、本気で私が飛ぼうとしているなんて、半分くらいは信じていなかったと思う。資料を探し、部品を自分で作り、どうにか飛べるようにした。何度かテスト飛行もしている。

 丸みを帯びた愛嬌のある形とは不似合いな、激しいエンジン音。こんなものを造ってまで、人は空を飛ぼうとしたのだ。鼓動が速くなっていく。大昔の人々の気持ちを、指先でなぞっているような感覚。

 この音で、誰かに気づかれるだろうか。気づかれたところで、もう遅い。

 私には、追いつけない。

 都市の残骸、コンクリートの森。その隙間にまっすぐのびる、大通りの跡を滑走路にして走り始める。やがて、ふわりと浮く感覚。地面を離れた。ゆっくりと、荒れ果てた道路が遠ざかる。激しく揺れる機体と、流れていく景色。

 あと何時間としないうちに、夜が明ける。

 眼下には、捨てられた街が小さく見える。かつて人間がそこで生きていた場所。今は、ただの冷たい廃墟。

 祖母は私に、沢山の物語を語ってくれた。人間がまだ、地上で暮らしていた頃の物語を。痛ましい戦争の話も、美しい動植物のことも、この世のものとは思えない、出会いと別れについての物語も。

 それらを思い描きながら、私は夜明け前の空を飛んでいく。


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