第十二章 ハイスクールに平穏を求めるのは間違っているだろうか
さて、始まりました!実に二か月ぶりとなる高校の授業。
栄えあるその教科は現代国語。職業上、俺の最も得意分野である。どうやら今日から新しい単元をやるようで丁度いい。高校二年生の内容ならば「山月記」とか「舞姫」とかだろう。セオリーな小説ならば内容は分かるのでなんら問題ない。もし詩とか随筆なら暗記している。
「さて今日から学習する小説は『舞姫』。皆さんも一度は耳にしたことのある小説だろう。作者は森鴎外。明治時代の軍医でもあり、小説家でもあった人だ」
年老いた腰を少し曲げ遠くを見つめながら男性は話し始めた。
(これは長いやつだな)
内容についてなら長々と話されても聞く気になるが、作者である森鴎外の生い立ちなんて既に知っているのに、話されても疲れるだけだ。楽しみにしていたのだがこれは詰まらないかもしれない。そう思い『自分の世界』に入ることにした。『自分の世界』というのは妄想の空間である。俺の場合は自作の設定や今後の展開について考えている。『自分の世界』は汎用性が高い。今の様に退屈な授業や長蛇の列の待ち時間に入ると知らぬ間に時間が経つ。今日も例外ではなく、気付いたら教師の話は終わっていた。そして不運な事に俺は『舞姫』の音読に指名された。
「久々に来たんだ。授業らしいことしたいだろう?クラスのみんなは何回か読んでいるんだ。今回は特別に『舞姫』を全部読ませてやろう」
「はぁ…(ありがた迷惑だよクソ教師)」
「なんだ、お前。教科書持っとらんのか?」
「いえ、大丈夫です。全部暗記してますから」
「はぁ?暗記って…」
教師が皆まで言い終わるよりも早く、俺は朗読を始めた。直立不動で四面楚歌。視線は常に壁の時計。心を閉ざし、ただ頭の中に記憶されている文章を声に出す。
「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓の埃をはいと靜にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜海に―――」
話を進める度に周りの生徒が怪訝そうな表情を浮かべ、戸惑いの声を上げていた。周りの者と協議を交わす者、ページをめくりめくる者、賞賛の顔で聞き入る者。恐らく教科書に載っているのは俺が朗読している原文ではなく、後に翻訳された現代語訳版が掲載されているのだろう。『舞姫』は有名でありながら同時期の夏目漱石の作品に比べて読んだことがある人は少ない。それは文語調が多く、現代人には取っ付き辛いのからだ。
教師は何も言わずに椅子に腰を掛けて腕を組み、目を閉じている。
神童と持て囃された豊太郎は政府の助けを得てドイツへ。そして豊太郎がエリスと出会い、二人は恋仲になる。だが、人生は全てが上手くわけではない。出世街道から地に落ちた豊太郎はなんとか生きる糧を手に入れた。貧しくも幸せな日々。やがてエリスは子を授かる。しかし、豊太郎に二つの選択肢が課せられた。一方を選べばエリスと居られる。だが、国を捨て貧しい生活を強いられる。もう一方を選べば将来は豊かだ。だが、自分の愛を信じているエリスを捨てることになる。難しい選択。重い決断。
俺は15分ほど時間を要して『舞姫』を朗読する。そして物語はラストシーンへ。
「――余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍を抱きて千行の涙を濺ぎしは幾度ぞ。大臣に膸ひて歸東の途に上りしときは――」
そして教科書等では省略されることの多い部分へ入る。悲しきエピローグへと。
「――あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。
嗚呼、相澤謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我腦裡に一點の彼を憎むこゝろ今日までも殘れりけり。」
終わった。やっと終わった。
だと言うのに何なのだろう、この胸に残る切なさは。豊太郎の葛藤に共感しつつもエリスを選んで欲しかったという願望が渦巻く。感想でよく「豊太郎はクズ」と見かけるがそれは違う。あくまで一個人の意見だが、豊太郎はクズではない。思想や文化が時代を作るのではない。時代が思想や文化を作るのだ。もっと言えば人間は時代の産物である。豊太郎が悪いのではない。エリスを選べなかった豊太郎を形成した時代が悪いのだ。
「久高、お疲れ。よく覚えているな。上出来だ。もっと言うなら現代語訳のほうがよかったがな」
「俺は、現代語訳版は好きでありません」
「何故だ?」
「……豊太郎を屑として囃し立てているから」
呟いてから着席。教室はお通夜ムードだ。
やっちまった。目立たないと決めていたのに。これでは敵を増やすだけだ。
「久高…お前は――」
教師の声は終業を告げる鐘の音に掻き消された。これ以上続ける気はないようで、その後の言葉が口にされることはなかった。ただ俺の中に引っかかる何かを残して。
◇◆◇
そして昼休み。友人のいない、ていうか学校にほとんどいない俺が教室にいても他の人に迷惑だろうと思い別の場所に移動することにした。友樹を誘っても良かったのだが、あいつは友人が多いので学食でワイワイしながら食べるようだ。一体何が楽しいのやら。運動所の近く、テニスコート付近に三対の机と椅子を見つけたので、汚れを払ってから座り、お袋が珍しく作ってくれた弁当を広げて食事を始める。イヤホンを耳に指し、左手で文庫本をめくり、右手で箸を動かす。今読んでいるのは部屋の本棚から適当に取ってきた本だ。ラノベではなく、梶井基次郎の『檸檬』だった。電車の中で読んでいたラノベは既に読み終えてしまい、もう一冊持っていたこれを読んでいる。
一冊280円の小説なのですぐに読み終わるのだが、俺は何回も何回も同じ文字の集合体を読み直した。きっと今日の授業のせいだ。それは『檸檬』から引用するなら「得体の知れない不吉な塊」である。青春のモヤモヤ、思春期の不安定な感情。それらを忠実に表した言葉である。
恐ろしい程に箸は進まなかった。片づけようとしていたその時。
背後から弁当を持った女子生徒に話しかけられた。セミロングの黒髪を低い位置で左右で結び、フレームの細い黒メガネをかけている。偏見で申し訳ないが、こういう子は友達の少ないタイプだろう。ならばこの場所は彼女のプライベートスペースでいつも昼食を摂っている場所に違いない。そこに俺がいたので話しかけてきたのであろう。
「あ、ごめん。もうどくから気にしなくていいよ」
「いえ、そうではなくて」
「うん?」
「あの…宜しければ一緒に食事しませんか?もちろん嫌なら断っていただいて結構ですが…」
「俺は別に構わないけど」
「あ、ありがとうございます!で、では失礼します…」
俺の反対側の椅子に腰を掛けて弁当を広げ始める。いつも思う事なのだが、女子の弁当箱は些か小さすぎるのではなかろうか。俺が大食いなのではくて、女子は少食すぎると思う。そんなことよりも気になったのは彼女がなぜ一緒に食べようとしたのか、だ。俺が知らないだけなのかもしれないが、彼女とは一緒に食事するような仲ではなかったと思う。それ以前に面識がない。なにを話せばいいのか分からないし、向こうから話してくる気配もない。
見かねた俺は一時撤退すべく自販機に温かい飲み物を買いに行くことにした。
「何か温かい物、買って来るよ。珈琲は飲めるか?」
「あ、ありがとうございます。できれば微糖かカフェオレを…す、すいません。お願いする立場で不躾な事を言って…」
「そんなことないだろう。先に食べててくれ構わないから」
どうやら彼女は苦い物は苦手らしい。女子ってそういう物なのだろうか。
すこし歩いた所にある玄関に自販機はある。校内で唯一年がら年中ホットが販売されている自販機だ。しかも全て百円で統一されている学生に優しい自販機でもある。
百円玉を入れて品定め開始。本音を言うならMAX珈琲一択なのだが、生憎この辺りでは売られていない。それ故、先日の忘年会で飲ませてもらったMAX珈琲は忘れられない思い出となった。どうでもいいけど○○Xってなったら「むらい」ってつけたくなるよな。例えば「関西国際空港」、KIXむらい。
閑話休題。
カフェオレを二つ購入しポケットに入れて持ち帰る。一月に外で食事するのはしんどいものだ。だからと言って他に行くところがないのも辛いが。
席の近くまで来ると話声が聞こえた。
例の謎の彼女が三人くらいに囲まれて話していいた。囲まれた、と言っても三人が立ったまま座っている彼女を見下ろしている状態なのだが。
(友達か?)
一瞬そう思ったが、そうではないとすぐに分かった。明らかに相手の方が高圧的だったからだ。端的に言えば虐められているのだろう。少し話しただけでも分かるように彼女は大人しく口下手だ。囲んでいる三人のようにスクールカースト上位メンバーから見れば格好の的だろう。
顔見知りな以上は放って置くわけにもいかない。平穏にスクールライフを送らせては貰えないようだ。ここは相手を挑発しない様に穏便に済ませるのが適切だろう。
「何かあったのか?」
出来るだけ何も知らない様に声を出す。敵意を出してはいけない。
(俺の書いたラノベにこういうシーン、あったなぁ。今なら、もっと鮮明に描写出来る気がする)
対する奴らは――
「なんだ、お前。喧嘩売ってんの?」
「お前は、あの時の!久高とか言ったな。この学校だったのか」
何やらテンプレなセリフと溢れ出る小並感を隠そうともせず詰め寄ってきた。
「久しぶりだね、久高」
三人の真ん中にいた女がこちらを向いて呟く。向こうは俺のことを知っているようだが、俺の方は全く知らない。
「悪いが、俺はお前を知らない。まだ食い終わってないんだ。邪魔するようならどっか行ってくれないか?」
「邪魔?私らはこの子と話してただけなんですけど」
「話してただけ、ねぇ。その割には彼女、嫌そうな顔してるけど?」
「こいつはいつもこんな顔なんだよ」
「そうか?さっきはもっと健康な顔してたがな」
「なにそれ。あたしらが悪いみたいじゃん」
「分かっているならさっさと立ち去れ。彼女は知らないが俺にとって迷惑であることに変わりはない」
「ふーん。栗原の次は一ノ瀬なんね」
「なんの話だ」
「あんたら覚えてなよ。行くよ」
側近みたいな男達は女に引かれて立ち去った。向こうはやはり俺と会ったことがあるようだ。俺に記憶はないが会いたいとも思わない。もう一度なにかしてきたら次は本気で打ちのめそう。
「大丈夫か?」
「はい、ありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「良いっていいって。気にすんな。はいこれ。ちょっと冷めちまったけどホットだ」
「え、ホット?」
「暖かい物無理だった?」
「いえ、そんなことないですけど…。校内で温かい飲み物を売ってる自動販売機を見たことがなくて…」
「うちの学校には一つしかないんだよ。後で案内しようか?」
「お、お願いします。あ、お金…おいくらでしょうか?」
「いいよ、俺の奢りだ」
「で、でも…」
「じゃあ今度俺が金に困ったときに、何か奢ってくれよ」
「分かりました。えっと…頂きます」
「素直でよろしい」
まともに話せなかった最初とは違い少しはマシになった。なら気になることを聞いてみようではないか。
「あいつらの事も聞きたいんだけど、その前に君の事を聞いてもいいか?」
「あ、はい。自己紹介がまだでしたね。私は二年四組出席番号一番、一ノ
「同じクラスだったのか」
「やっぱり影、薄いですよね…」
一ノ瀬花楓と名乗った少女は見るからに落ち込んでいた。失礼だと思いながらも顔をまじまじと見てみると、本人は過小評価しているようだがかなりの美人だ。言うなら加藤恵タイプ。自分の可愛さに気付けていない。髪型を変えて少しメイクでもすればモテるだろう。加えて眼鏡をコンタクトに代えれば完璧だ。
「別に影が薄いわけじゃない。俺が学校に来ないだけだ。心配すんなよ」
「言いにくい事でしたら構わないけれど、何が原因で学校にこないんですか?」
「…特に理由はないよ。ただやることが多くてな。テストで合格すれば進級も卒業も出来る。何ら問題は無い」
「今日登校したのは栗原さんの件があったからすか?」
「知ってるのか?」
「興味がなくても知ってしまいます。お二人は付き合っているんですか?」
「いや、付き合ってない。ただの幼馴染だ」
「そうなんですか…」
「萌香の事を聞きたのは今度聞くとして、なんで俺を誘ったんだ?」
俺は彼女に抱いていた一番の疑問をぶつけてみた。普通なら俺みたいな人間には話しかけないのが一番いい。話しかけてきたという事はそれなりの理由があるはずだ。
「国語の授業であなたに興味を持ったからです」
「国語?『舞姫』を暗記してたからか?」
「それもありますが、『豊太郎を屑として囃し立て居るから』という発言です。大抵の人は屑だと言います。もしかしたら、あなたとなら思いっきり語れるのではないかと思って。これでも勇気出したんですよ」
「君の言葉から察するに君は文学少女だな」
「はい。かなりの濫読者だと自負しています。最近読んで面白いと思ったのは『妹バチ』でしょうか。作者の妹への愛がラノベという物にあまり詳しくない私にも伝わってきました。昔はラノベに偏見を持っていて避けてきましたが、図書室にあったあの作品のお陰で他のも読んでみようと思いましたよ」
途端に饒舌になった彼女は周りを暖かくしそうな笑顔だった。
『妹バチ』が図書室にあんのかよ…。
まさか彼女も俺が『妹バチ』の作者だとは思わなかっただろうな。それにしても、一人で語っている彼女を見ると恥ずかしい反面、なんだかこの仕事をしていてよかったと思えた。誰かの心を揺さぶる作品を書けたというだけでもう十分だ。
しかし、彼女があんな妹とエロいことする小説で感激したというのはかなりヤバいが。
「久高君は今読んでいる作品はあります?」
「今は…これだな」
ラノベではないが今読んでいた『檸檬』を差し出した。近年、教科書にも掲載されるようになったがまだ知名度は低い。今まで出会った読書家たちは現代小説が好きな奴がほとんどだった。明治や大正の文学作品を読んでいる奴を見つけられなかったが、彼女ならもしかしたら。
彼女は本の表紙をめくり、タイトルを一瞥。後に奇声。
「うりょおお!!これは!か、梶井基次郎先生の名作『檸檬』ではないですか!!」
「知っているのか?」
「知っているなんてこのじゃないですよ!何度読み返したか分からないくらい読みました!」
「こんなユーモアな小説は滅多にないよな。レモンを爆弾に例えるなんてな」
「ですです!!」
その後、彼女との語り合いは長引いた。五時間目のチャイムの音など聞こえず、正気に戻った頃には放課後だった。
「さ、流石にしゃべりすぎたな」
「で、ですね。でも楽しかったですよ」
「違いない」
「もしよろしければこの後、喫茶店にでも行きませんか?栗原さんの事聞きたいでしたよね?」
「いいのか?男と二人で喫茶なんかに行ったらあいつらにネタにされるかもしれんぞ」
「問題ありません。やましいことなんて何一つないですし。何よりあなたはそんな事気にしないでしょう?」
「そうだな気にしないな」
「私も気にしないんですよ」
「奇遇だな」
「意外と似た者同士なのかもしれませんね、私たち」
荷物を取るために一度教室に戻ると、意外にも人が残っていた。俺と一ノ瀬という奇妙な組み合わせを見たクラスの連中はヒソヒソと話している。彼女は気にしないと言ったんだ。ならばさっさと荷物を回収して立ち去ることにしよう。
机の中に入っていたプリントを回収していると一ノ瀬が近づいてきた。
「準備出来ましたか?」
「もう少し待ってくれ。貯まったプリントを整理してカバンに入れないと後からめんどくさい事になるんだよ」
「お手伝いしましょうか?」
「いや、大丈夫だ。君の手を煩わせるほどの事じゃないから」
三分ほどでカバンに入れ終わり教室を後にした。何人かの生徒が後を付けているがどうでもいい。駅に向かった時も小説の話でもち切りだった。よく尽きないものだと思う。普段誰とも話さない分がここで現れているのかもしれない。
そして目的の喫茶店に入った。
◇◆◇
喫茶店を出て一ノ瀬と別れた後、俺は真っ先に萌香の家に向かった。時間は午後七時。萌香の家はちょうど夕食の時間だろう。
一瞬迷ったが結局インターホンを鳴らした。
『はい』
「あ、こんばんわ。久高です。萌香さんはご在宅でしょうか?」
『あら拓哉君、こんばんわ。萌香ならいるわよ。今出させるわね』
「よろしくお願いします」
通話が切れると一分も立たずに萌香が出てきた。少しぶかぶかのパーカーは部屋着なのだろう。両手に息をかけては擦っていた。
「晩飯中だったか?」
「大丈夫だよ。私はもう食べ終わっていたし。それよりも気になるのはたくちゃんが制服着てることなんだけど」
「ああ、今日学校行ってたからな」
「ほんとに?!」
目をまん丸くさせた萌香は驚きのあまり身を乗り出してきた。
近い近い!
「そんな下らねぇ嘘はつかねぇよ。それで聞きたいんだがなんで今日休んだ?見たところ体調不良じゃないようだが」
「…体調不良だよ。心配かけてごめんね」
「嘘つけ。体調不良だったら俺にLINEぐらいするはずだ。それをしないってことは何かあったんだろうが!」
「何にもないよ」
「嘘をつくな!」
「ほんとに何もないんだよ」
「嘘だ!」
「うるさい!!何にもないって言ってるでしょ!!もうほっといて!」
「ほっとけるか!俺は…俺はお前が心配なんだよ!きっとお前は傷ついてる。他でもない俺が、お前を誰よりも知ってる俺が言ってるんだ。だから嘘をつかないでくれよ…。傷ついていくお前を見ているなんて耐えられない。俺が傷ついた時、お前は力になってくれた。なら、お前が傷ついた時に力になるのは、お前の両親でも学校の先生でも友達でもない。この俺だ!俺が絶対に力になってやる。だから嘘なんてつくなよ…恰好悪いぞ」
「…っ!た、たくちゃんの…ばかぁ…」
「泣きたいときは好きなだけ泣けばいい。そん時は胸ぐらい無償で貸してやる」
「じゃ、じゃあ。今から借りても…いい?」
「お好きなだけどうぞ。萌香の気の済むまで」
萌香は俺の胸に飛び込むと泣いた。堪えていたものが溢れだしたのだ。最初は声を我慢していたのだろうが、俺が頭を撫でると我慢できなくなったのか声を出して泣いた。まるで幼子の様に。近所迷惑かとも思ったが、「静かに」というのは可哀想だと思い止めた。しばらくすると心配したのか萌香の両親が出てきた。
二人は何か言おうとしたが、俺は指を立てて口に当てた。その意図を察したらしく何も言ってこなかった。
さらにしばらくして萌香は泣き疲れて俺の腕の中で眠った。
「萌香を部屋に運んでもいいですか」
「お願いしてもいいかしら」
「大丈夫ですよ。それじゃあ、お邪魔します」
萌香をお姫様抱っこの要領で抱いて部屋に上がった。久しぶりに入った萌香の部屋は最後に見たときから大分印象が変わっている。前から水色を基調とした部屋ではあったが今の部屋は女の子っぽさが強調され、俺をどきどきさせた。香澄の部屋で女子っぽい部屋には慣れておると思っていたのだが、女子っぽさのベクトルが違い過ぎて耐性が出来ていなかったようだ。
ベッドに萌香を寝かせて瞳に溜まった涙を指で拭ってから布団をかけた。萌香を起こさない様に静かに退室し、一階にあるリビングに向かった。
「寝かせてきました。それじゃあ俺はこれで」
「あ、ちょっと待ってくれる?」
「大丈夫ですが…」
「色々聞きたい事があってね。萌香のことなのだけれど」
「そりゃそうですよね。気になりますよね」
「話せない事とか萌香に話さないっで言われたことは言わなくても良いんだけど、言える範囲で教えてほしい。雄一さんも心配してるから」
「分かりました。と言っても詳しく本人から聞いたことではないので客観的になってしまいますが、それでも宜しければ」
「お願いするわ。何か温かい物入れるわね。珈琲でよかったかしら?」
「頂きます」
今日は珈琲はもうたくさんなのだが、ここで断るのは世間知らずだろう。
促されるまま椅子に座ると雄一さん(萌香の父親)が話しかけてきた。
「萌香は元気なのかい?」
「ええ、元気は元気ですよ。空元気ですけど」
「そうか。しかし、拓哉君も大きくなったな。よく家に来ていた頃はあんなに小さな少年だったのに、今は良い男だ」
「いえ、そんな…」
俺が返答に困っていると珈琲を運んできたお母さんが「ほんといい男になったわよ」と笑いながら言った。こういう事を言われるとどうも返答に困る。
「砂糖は何個入れる?」
「五個でお願いします」
「そういうところは相変わらず子供なのね。昔から甘党だったね」
「すいません。なかなか直らなくて」
「別に謝る事じゃないわよ。ねぇ、あなた」
「あぁそうだ。好きな物を変える必要なんてありはしない。ただ、糖尿病には気を付けてな」
「はい、気を付けます」
その後いくつかの近況を雑談した。
そして本題に入る頃にはすでに夜は更けていた。
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