第十五章 俺だけがいない記憶
私の名前は栗原萌香。
香川県に住むごく一般女子高生だ。記憶喪失という事を除けば。
階段から落ちて頭をぶつけた拍子に好きな人の事だけを忘れてしまったらしい。点て不幸なのだろう。逆ならまだ分かる。好きな人の事だけを覚えているならよくあることだし(二次元で)納得も出来る。
だというのに何という事か。
大好きだったはずの彼の事を忘れてしまった。家族の事も友達の事も先生のことも忘れていないのに。
ああ、私は不幸な少女。
しかし、神より下された天命だ。人事を尽くして待つしかなかろう。
とりあえず学校に行ってみるしかない。辛いこともあるけれど、だからと言って引きこもるわけにはいかないのだ。
私には知らなければならないことがあるのだから。
◇◆◇
萌香が俺に関する記憶を失ってから二日が過ぎた日の午後。
その間に様々な検査を行ったが異常は見当たらず、当初の想定通り精神的な問題だとして退院に漕ぎつけた。
「やっと退院ですね、萌香さん」
「ありがとう花楓ちゃん。すごく助かったわ」
この二日間で萌香と一ノ瀬は急速に仲が深まったようだ。元より友達の少なかった一ノ瀬は女子高生っぽい会話が出来たことに大そう喜んでいた。
当の俺は女子二人の特有の雰囲気に入れず部屋の隅っこで縮こまっている。
疎外感が半端ない。大迫も半端ない。
「拓哉さんもありがとうございました」
「いいって。それよりも呼び方、どうにかならないか?いつもと同じ顔で、声でその呼び方だと違和感が仕事しすぎてヤバいんだが…」
「たくちゃんの方がいいでしょうか?」
「うん、まぁそうだな。十七年もそう呼ばれてきていたわけだし…」
「それは分かってるんですけど、なんか難しくて…」
「仕方がないな。無理強いはしない」
「拓哉さんは優しいんですね」
「特定の相手に限ってな」
「そんなに胸を張れることじゃないですね、それ」
「二人とも準備は出来ましたか?そろそろ帰りますよ」
萌香に関する大抵の事は一ノ瀬に任せた。萌香にとってどこの誰か分からない俺が世話するよりも気が楽だろうと思ったからだ。
その甲斐あって二人は仲良くなれたのだから感謝してほしい。
ついさっきまで一ノ瀬は病室から撤収する準備をしてくれていた。この二日で分かったことだが一ノ瀬のママ感がヤバい。
きっといい奥様になる事だろう。生徒会長にはならないだろうが。
もしくは若女将。それは小学生。
セルフでボケてセルフでツッコんむ辺り俺もそろそろ末期かな。
一人で出来るかな~
花〇香菜~
韻踏んでる。
(↑踏めてない)
(↑踏めてない事もない)
(↑やっぱり踏めてない…かも)
上記の葛藤を一部界隈では『ヤマアラシのディレンマ』と呼ぶ。
(↑呼ばない)
さて、話を戻そう。
この二日間、俺は萌香の記憶喪失の原因について探っていた。
最初は萌香を診察した医者に詳しく話を聞いた。
その時に言われた一言が俺の行動を制限することになった。
「原因はあなたかもしれません。推測の域を出ませんが。人の記憶喪失には二種類あります。一つは外的ショック。これは萌香さんの場合には当てはまりません。では、二つ目――」
「精神的苦痛の遮断…」
「その通りです。付き添いの方からお聞きしましたが、学校でかなりのストレスに曝されていたようですね」
「…はい。先生、萌香の記憶は戻るのでしょうか…また俺の知ってる萌香に会うことは可能なのでしょうか」
「出来ます。根拠はありません。だけど彼女の中には絶対にあなたが残っています。それに、彼女は前向きです。記憶喪失時に一番大切なのは、前を向くこと。それこそが唯一無二の特効薬だと思っています」
「あ、ありがとうございます。少し気が楽になりました。萌香が前を向いているのに俺が下を向くわけにはいきませんね」
「そうです。前を向きましょう。私も出来る限りのサポートはしますので」
「よろしくお願いします」
ここからが問題。先生に一礼し退室しようとした俺に先生が最後に放った言葉。
「一つ伺っても?」
「…?なんでしょうか」
「今の萌香さんは記憶を取り戻したいと思っているかもしれません。ですが、あなたの言う本当の萌香さんはそれを望んでいるのでしょうか。思い出したくないがあまりに記憶をブロックをしたのです。それを思い出すことに肯定的になるとは思いません」
「それは…そうかもしれません」
「それでも思い出させたいですか?」
俺はすぐには答えることが出来なかった。
今の萌香と本当の萌香。
肉体は同じ。俺の記憶がないことを除けば全て同じ。
俺に関する記憶は萌香の何割を占めていたのだろうか。
もし半分の五割を占めていたら?
今の萌香は半分別人ではないか。
五割よりも高かったら?
別人に近づくではないか。
つまり、今の萌香が俺の知っている萌香に近ければ近い程、萌香が萌香であるほど、彼女にとっての俺の存在は小さいという事になる。
そんなことは考えたくない。
二分ほど思考に時間を費やし、こう答えた。
「今の萌香が望むように俺はします。例えそれを本当の萌香が拒んだとしても。萌香の中では今の萌香が本当の萌香なんですよ。悲しむのは俺だけで充分です」
「そうか。君の選択がそうならば構わないんだ。覚悟をしておく必要はある」
「はい。ありがとうございました」
萌香が望むように俺は俺がしてあげられることをする。
これが俺の、俺だけの萌香に誓える宣誓だ。
診察室を出た俺は五階にある萌香の病室に向かった。
よほど物思いに耽っていたのか呼ばれていることに気付かなった。
肩を叩かれてやっと気づき、振り返ると仁王立ちしている香澄がいた。
「香澄…何でここいる」
「何でってねぇ、君が連絡を寄越さないから心配になって来たんでしょうが」
「あ、そっか…悪い」
「その感じから察するにあまり良くないの、栗原さん?」
「命に別状はない。というより怪我なんかしてない」
「どういうこと?」
「見れば分かる。百聞は一見に如かずだ。肯定的な意味で捉えるなよ」
「一度しか会ったことないけどいいの?」
「構わん。むしろお前だからこそ分かることもあるかもしれない」
俺に関する記憶が全てないのなら。
俺が仲介して出会った香澄の事をどう記憶しているのだろう。
それが解決の糸口になるような気がしている。
「萌香、今大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。どうしました?」
「俺の友達が見舞いに来てくれたぞ」
「こんにちは、栗原さん。一度しか会ったことないけど覚えてる?」
「えっと…すいません。覚えていないみたいです」
「そっかぁ…まぁ仕方ないね。一応同級生だからタメ口でいいよ」
「じゃあ、よろしくね、香澄ちゃん」
「うん!よろしく萌香ちゃん」
やはり覚えて居なかったか。
ある程度予想はしていた。俺という存在がなければ香澄と知り合うことはなかったのだ。覚えていなくて当たり前。
あと一つだけ試していないことがある。俺の妹たる優鈴葉についてだ。
香澄と同じ理論が当てはまるなら覚えていない事になる。
「なぁ萌香、俺の妹について覚えているか?名前は優鈴葉って言うんだが」
「え、拓哉さんってゆずちゃんのお兄さんなんですか?!」
「そ、そうだけど…優鈴葉の事は覚えているのか?」
「はい、昔からよく三人で遊んでいました。ゆずちゃんは実の妹みたいな存在なんです」
「え?三人?あと一人は誰だ」
「あれ?私、今、三人って…あと一人はだれ…」
「…記憶、完全には消えてなかったんだな…」
良かった。完全には消えていない。まだ可能性は残ってる。
だからと言って俺の事を思い出したわけでない。ただ脳の片隅に残っている。
それだけなのだ。
小さく喜んでいると香澄が耳打ちをしてきた。
(ねぇねぇ拓哉君。萌香ちゃんは記憶喪失って事でいいの?)
(ああ、ただし俺に関する事だけな)
(そんなことってあるの?なんかこういうアニメ見た事あるんだけど…)
(俺だって信じられないさ。それこそ漫画やアニメの中でしか見た事ねぇよ。だけど萌香の反応は嘘をついているようには思えない)
(そうかな?私からしてみれば怪しいよ。だってそんな都合のいいことある?学校でいじめられて階段から落とされて、最終的に好きな幼馴染の男の子の事だけ忘れるなんてご都合主義の塊じゃんか)
(そう言われれば、それまでなんだけど…)
(私、ちょっと探って来るね)
(…まぁ仕方ない。頼む。多分、大丈夫だと思うけど…)
(そこは女である私に任せときなよ、拓哉君)
右目でウィンクを決めた香澄は俺を尻目に、ベッドで一ノ瀬と話して萌香に話をかけに行った。何と話を切り出すのかハラハラしながら眺めていると、意外にも「萌香ちゃんは趣味とかあるの?」と初対面の女子っぽい会話始めた。
俺が知っている萌香なら『読書』とか『アニメ鑑賞』とか言うはずだ。
「うーん…やっぱり読書かな」
ビンゴ。
やはり好きな事は変わっていなかったようだ。
そういうちょっとした風景にも安堵のため息が出てしまう。
「どんな本を読むの?」
「最近はライトノベルばっかりだよ。香澄ちゃんもラノベって読む?」
「もちろん読むよ。私の中で不動の一位は夕凪先生の作品かなぁ。いいよね、あの独特の雰囲気。私、大好きなんだよね」
あいつ…俺を殺す気だ。
俺が自分の作品を評価されるのが嫌いなの知ってるくせに。
まだ自分の挿絵を文字どり自画自賛してないだけマシか。
「本文も去ることながら挿絵が神作画だよね⁉ヤバいよね⁉」
「そう!そうなのよ!K先生×夕凪先生のタッグはラノベ業界の改革者なんだよ!ちなみにどの作品が一番好み!?」
「処女作の『転ビリ』は捨てがたいし、『妹バチ』は尊いし…選べないよぉ!」
遂に香澄は自分の描いた絵を自画自賛しだした。
(こりゃ…ダメだな)
香澄と萌香は手を取り合ってぴょんぴょんしながらキャイキャイしている。
なんか新手の百合アニメみたいだ。
緩いのかガチなのか…はたまた君になるのか。
どうやら俺の入り込む余地はないようだ。これで萌香が嘘をついているのかどうかが分かるとは思えないが…。
終わりの見えない会話のキャッチボールをし続けているので、俺は一ノ瀬に話しかけることにした。
「なぁ一ノ瀬、萌香は本当に記憶喪失だと思うか?最初は驚きで信じてたけど冷静に考えたらそんな事あるのかなぁって」
「そういうものだと思います。私だって今でも信じ切れているかと言えば信じれていません。私ですらそうなのです。久高君はもっと辛いですよね」
「そうか…」
「それよりも聞きたいのですが、あの北浦さんという女の人は久高君とどういう関係なんですか?」
「ただの友達だ」
「本当ですか?実は彼女さんだったりしないんですか?」
「やけに食い掛ってくるな。本当に違うよ」
「そうですか…。では栗原さんの事は好きですか?告白されたんでしょう?」
「知ってたのか?」
「知ったのは割と最近です。というよりも栗原さん本人からついさっき聞きました。すいません…」
「いや、別に構わない。嫌いじゃないよ。もう萌香は俺の出来の悪い妹で、いつも頼りになる姉なんだ。俺は萌香にとって出来の悪い弟で、でも頼りになる兄でいたいんだ」
「そうなんですね。恋人にはしたくないですか?」
「なんだその変な質問は…」
「割と真面目な話をしているんです。どうなんですか?」
「いやでは、ない。むしろ嬉しい事だろうと思う。でも、恋人にはしたくない」
「それって矛盾してませんか?」
「してるな。でもそういうもんだろう。何度も言うが萌香は俺にとっての姉であり妹なんだ。そして俺はあいつの兄であり弟でありたい」
「…そうですか。よく分かりました」
「…?」
ミステリアスなオーラを漂わせながら萌香の方に歩き去った。
残された俺は何か引っかかる感覚が屁張りついて不愉快だった。
(なんだこの違和感は…何かおかしい)
何かが引っかかっているのだが、それが何なのかが分からない。
一ノ瀬が萌香の下へ行くと、代わりに香澄が戻ってきた。
「どうだった?」
「確証はないけど…黒だね」
「ギルティ?」
「ええ、女の勘で申し訳ないけど。拓哉君はどうだった?一ノ瀬さんと話してたでしょ」
「正直な所、判断は出来なかった。だけど、何か裏があるのは間違いない様だ。萌香は一ノ瀬と何か企んでいる。そうとしか考えられない」
「そうだね。激しく同意。どうする?観察でもしてみる?」
「それもいいな。取り敢えず俺は萌香の望むようにする。それで実害が出れば対策は練るつもりだ」
「うん、そうだね」
どうやら香澄の方も何やら収穫があったようだ。俺の場合は収穫と呼んでいいのかは分からないが。
萌香と一ノ瀬が手を組んで何か企んでいるという事は分かったが、それが何なのかが全く分からない。これでは解決のしようがない。
そして時は流れ、退院の日が来た。
香澄は甘利さんと次作の打ち合わせで来れないらしい。
萌香の両親も何度か来たが仕事が忙しいらしく俺に任せると言って帰った。
実の愛娘が入院しているのにその対応…ますます怪しい。
結局何も分からないまま退院してしまったが萌香の記憶は以前として戻ってはいない。戻る気配すらない。
一体何が目的なのか。
一ノ瀬の言動におかしい物も感じられなかった。こうなったら全身全霊をかけてそのままごとに付き合ってやろう。
めんどくさい事この上なしだけどな。
「萌香、お前の部屋に荷物を置いたら俺の部屋に来ないか?見せたいものがあるんだ」
「あ、はい。いいですよ」
フェーズ1クリア。
俺の部屋に萌香が来た時点で俺の勝ちが99%確定される。
というわけで場面を移そう。
◇◆◇
というわけで時間と場所が変わってここは俺の部屋。
萌香は俺の部屋のベッドに腰をかけて俺が話を始めるのを待っている。
机の引き出しの中に入っているアルバムを取り出し萌香の前に差し出した。
「これは…なんでしょう?」
「俺が個人的に作っているアルバムだ。まぁ気にせず見てくれ」
「はい」
萌香は分厚い表紙をめくり一枚一枚写真を眺め始めた。
これは俺と萌香の出会いと現在に至るまでの記憶が綴られている。
萌香が最後の表紙を閉じたところで俺はゆっくりと言葉を発した。
「例えお前が忘れてしまっても俺は覚えている。この世界に俺とお前が出会って生きてきた証が存在する。このアルバムはその一つに過ぎない。俺にとってお前は一番大切な女の子だ。もしお前に好きな人が出来てその人と結婚しても、逆に俺がそうなったとしても変らない。変わるわけがない。俺の中でお前は…萌香はそういう存在だ。萌香にとって、俺はそういう存在でいたい。だから…思い出してくれ!俺はここにいる!お前の一番近くでいる!お前の事をいつも思っているから。だから…もう一度たくちゃんって呼んでくれよ!」
「…っ!」
萌香は両手で口元を抑えて声を殺しながら泣いた。
「…たくちゃん、ごめん」
「謝らなくてもいい。途中から気づいてたし」
「本当に?」
「嘘なんかつくかよ」
「どこで分かったの?」
「一ノ瀬がボロを出した時だな。お前が記憶喪失になってから俺に告白したことを聞いたっていうことを言ってた。おかしいだろ?お前は記憶喪失になっていたのに、俺に告白したことを覚えているわけがない」
「はぁ…花楓ちゃんったらもう」
「ま、そういうこった。良ければ理由を聞いてもいいか?」
悪戯がばれた幼子の様に笑う萌香に理由を尋ねた。かなり手の込んでいることだったしよほどの理由があるのだろう。
もじもじして黙り込む萌香の代わりに答えたのは、突如として背後より現れた香澄だった。
「答えられないのなら、私がかわりに教えてあげるよ」
「香澄?お前、分かったのか?」
「いの一番に思い付いたことだったんだけどね。萌香ちゃんも意外と乙女だね」
「じ、自分で言うわ。私はね、たくちゃん。あなたの事が大好きです。昔からずっとずっと…大好きです」
「俺はっ――」
萌香は開こうとした俺の口に人差し指を当てて制止する。
どこかで見たことのあるようなシチュエーションだ。
視界の端の方で小さく手を振った香澄が部屋を出ているのが見えた。
あいつなりの気づかいなのだろう。
「なにも言わないで。私は、嬉しかった。一番大切な女の子って言ってくれて・…いつも思ってくれていて。嬉しかったよ。私ね、知ってるんだよ。たくちゃんに恋人がいるの。知ってるんだよ?でもさ、なんか悔しいじゃん。何にも出来ないまま終わるのは辛いじゃん。だから私はたくちゃんの本心が聞き出せる方法を考えた。花楓ちゃんはそれに賛同してくれて、一緒に案を考えてたの。お母さんやお父さんにも謝って実行する許可をもらった。物凄く大変だったけど後悔はしてないよ」
萌香は一呼吸置き目を閉じた。
そして俺の頬を手で包む。
「あの言葉…本当に嬉しかった。もうなにも後悔なんてないよ。だからね、たくちゃん。最後に私のわがまま聞いて?」
俺の目を覗き込むような瞳が重なる。
いつもの萌香だ。
そのまま顔を近づけ、唇が触れ合う近さになった。
慌てる俺をからかうかのように一笑し、さらに近づけた。
柔らかい唇が触れる。
前に俺の鼻頭と萌香の鼻頭が触れた。
「ふふっ、今はこれで十分よ。それじゃあ、また明日ね」
耳まで真っ赤に染めた萌香が去った部屋はやけに燦燦としていた。
指先で鼻頭を何度か撫でた。
この行為はあるアニメで見たことが在る。
俺の思考はオーバーヒートし布団に頭を突っ込んだ。
気付いたら朝になっていることを願いたい。
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