第十四章 幾等分の恋心

Moeka point of view


私はふと目を覚ました。一つ布団の中で一緒に寝ているたくちゃんが身じろぎしていたからだ。私は静かに寝返りをうってたくちゃんの顔を覗き込む。

たくちゃんは少し苦しそうに呻き声を上げ、額に汗を浮かべている。

(どうしたんだろう?)

枕元に置いていたハンカチで汗を拭ってあげるがすぐに汗は噴きだす。とても苦しそうだが、私はただ頭を撫でてあげる事しか出来なかった。

するとたくちゃんは猫のように喉を鳴らしてすり寄ってきた。

(もう…可愛いなぁ)

これがいわゆるバブみという奴なのだろうか。猫に構いたくなる飼い主の気持ちが分かった気がする。

なんかこう…ねぇ?

スリスリしたくなるよね。これ単体で聞いたら私ただの変態じゃん!

たくちゃん以外の人にはこうならないのよ?ほんとだよ?

これはたくちゃんが可愛すぎるからいけないのだ。当の本人は私の葛藤なんて知る筈もなく…ぐっすり眠っている。

(気持ち良さそうな顔しちゃってさぁ…誰のせいで私が頭を抱えていると思ってるのよ。まぁそんなこと知るわけ無いか…)

目を閉じて寝ようとした時――たくちゃんが気になる言葉を発した。


「…か…すみ…」


かすみ?

かすみってなんだろ?人名?駆逐艦?それとも仙人の食べ物?

考えれば考えるほど分からなくなる。けど最終的にアニメのキャラが何体か出てきて、それらのキャラの夢でも見ているのだろうと自己完結した。

たくちゃんも薄情者だ。となりに君の事を大好きな私がいるのに、そんな私には目も触れずにアニメのキャラクターの夢を見るなんて。

こうなったら私が飽きるまで存分にたくちゃんを玩具おもちゃにしてやろう。

楽しくなってきたぞ。


◇◆◇


俺が目を覚ますと顔の皮膚が痛かった。手で触ってみるが異常は見当たらない。

首を横に、つまり萌香が寝ていた方に向ける。萌香の姿はベッドに既に無く、その奥のカーペットの上で着替えている。ちょうど上を着替えている所で、上のカッターシャツを脱ぎ終わっていた。


「綺麗な背中だな…」

「あ、起きた?おはよう、たくちゃん」

「おはよう、萌香…。俺、出て行った方がいい?」

「うん?ああ、別にいいよ。たくちゃんに着替えを見られたところで何にもないし。私を襲う甲斐性もないでしょう?」

「そ、そんなことはないぞ。多分…」

「いや、多分って。男としてそれはどうなの?」

「襲って欲しいのか?」

「そ、そんなわけないでしょ!だ、誰が襲ってほしいなんて思うの!」

「冗談に決まってるだろそんなに必死に否定しなくても分かってるよ」

「そ、そうよね!冗談よね!あは…あははは」


大げさな手ぶりで否定した萌香は急いで下着をつけていた。

(寝ている時はノーブラだったのか…)

慌てて着替えていた萌香はバランスを崩し(崩した理由は謎)、すてんっと転んだ。しっかりと下着を付けれていなかったので二つの豊満なアレが見えている。

だが、俺は焦ることなく萌香に「大丈夫か?」と聞いた。心の中では物凄く焦っていたし香澄に対しての背徳感もあったのだが、それを、気にする方が問題になる。


「だ、大丈夫。ご、ごめん!変な物見せて…」

「いや…変なもってこともない、だろ。俺的には得した気分だし」

「え?得?」

「しまっ…な、何でもないぞ!あっち向いてるから早く着替えちまえよ」

「う、うん」


なんか既視感が…前にもこんな出来事があった様な気がする。

何だったかな…忘れちまった。

後ろから布の擦れる音と微かな息遣いが聞こえてくる。いつもの萌香よりも何故か色っぽい。無心を心がけるがたった数分が永遠にも感じた。


「もう大丈夫だよ」

「はぁ…疲れた」

「たくちゃんは着替えなくていいの?」

「あ-今日はちょっと野暮用があってな」

「そっか。じゃあ取り敢えず朝ごはん食べようか」

「ご馳走になろうかな」

「うん!行こう」


萌香の後に続いてリビングに降りる。

すると驚いたことに萌香ママとラブリーマイエンジェルシスター優鈴葉(久々に登場したワード)がココアを飲んでいた。

なんでここに妹が?!


「なんでいるんだ優鈴葉」

「なんでだと思う?」

「質問を質問で返すな。どうせ深い意味なんてないんだろうが」

「いやいや割と夜中に家に帰ったらにぃにぃが居なかったからここにいるだろうとは思ってたけど、流石に日付が変わった頃に訪問するのは悪いかなぁと思ってさぁ。朝一でこうしてうやって来たわけ。プラスで聞きたいこともあったし」

「ごめんね、拓哉君。ゆずちゃんに色々話しちゃった」

「いえ、別に構いませんが…」

「あ、それより朝ごはんよね!パンとご飯どっちがいいかしら?」

「萌香と同じでお願いします」

「あ、じゃあ私はパンでお願いね」

「分かったわ」


萌香ママはスリッパをパタパタと鳴らしながら台所に入っていった。

残された俺達は優鈴葉に詰問されることになるのだった。


◇◆◇


栗原家で食事を済ませた俺と優鈴葉はいったん自宅に戻った。

するとまたもや驚くことが起きた。

ラブリーマイエンジェル彼女香澄たん(久々に登場)がいたのだ。


「な、何でいるんだ香澄」


既視感。


「昨日の、栗原さんと何話してたの?私…聞いちゃった」

「昨日?あっ」

「思い出した?」

「別にやましい事なんてないぞ」

「でもなんか真剣に話してた…抱きつかれたりしてたし」

「誤解だよ。本当に何もない」

「詳しく教えてよ。教えてくれないと不安になっちゃうんだよ?」

「悪い…ちゃん話すよ。部屋に行こう」

「うん」

「あのーお二人さん?またおっぱじめたりしないでね」

「ああ、分かってるよ」

「え?また?」


優鈴葉にバレていたことを知らない香澄を引っ張って二階の自室へ向かう。

向かう間、香澄はずっと不機嫌そうだった。機嫌を直してもらうのには骨が折れそうだ。


「さぁ拓哉君。説明してもらうよ」

「説明って言われてもな。俺は別に何もやってないんだが…」

「栗原さんに抱きつかれてたのは何なの?」

「お前もしかして一部始終を全部見てた?」

「質問しているのは私なんだけど」


いつもとは違い冷ややかなメンチを飛ばしてくる香澄は、怒っているのに可愛くて怒られてる感覚がない。

(だめだこりゃ。向こうは真剣に話しているのかもしれないが、細かな仕草があざとすぎて打ち消しあってる)

このまま見ていたい気も僅かにあったがこれが原因で別れることになったら本末転倒だ。ここは一つ、かいつまんで話すべきかもしれない。


「香澄だってさ、泣きたいときくらいあるだろ」

「うん、あるね。具体的に言えば最愛の彼氏の浮気現場を見てしまって、それを問い詰めたら誤魔化されてる今だけどね」

「………誠に申し訳ございません。だけど誤解だ。ちゃんと説明するから」

「…分かった。聞いてあげる」

「とりあえず、ありがとう」


そして俺は全てを香澄に明かした。俺と萌香の関係なんて幼馴染以上の物ではないが、萌香を大切に思う気持ちに嘘はない。だがそれが一番難しいことである。

彼女たる香澄が一番大切だと胸を張って言うことは出来る。では萌香は?一番大切ではないのか?

いいや、そんことはない。香澄よりも長い期間一緒にいるのだ。口癖も歩き方も箸の持ち方の癖も知っている。だけど香澄に同じことがいえるかと言われれば不可能だ.。だけど恋愛感情を抱いているのは香澄に対してであって萌香にではない。

萌香に抱く感情は優鈴葉に抱く感情に似ている。


「じゃあ栗原さんは拓哉君の一番大切な女の人なの?」

「否定はしない。というより出来ない」

「じゃあ、私は?拓哉君にとって一番大切な女の子にはなれないの?」

「そんな泣きそうな顔しないでくれ。香澄は間違いなく俺の大切な女の子だ。心から愛してる。本当だ」

「っ!ばかばか!そんな恥ずかしいことを真顔で言わないでよ!そ、それに言葉でも何とでも言えるもん!」

「じゃあどうすればいい?言葉以外でどうやって思いを伝えればいいんだ」

「行動とか…他にも色々あるでしょ?」

「行動…か」


好きという感情を相手に伝えるための行動。言葉で言うのよりも難しくて、だけど心が伝わる行動。

(……全然っ思い浮かばねぇぇ!!なんだよそれ!?そんな行動あんのかよ?!)

あたふたしている俺を見て香澄は声を出して笑った。


「な、何がおかしいんだよ!」

「じょ、冗談だよ。くっくくく…あははは!真剣に悩んでる拓哉君面白すぎ!」

「からかうなよな…ったく」


(なんか…腹立つな)

目の前で幸せそうに笑っている香澄を見てそう思った。

こうなったらこっちも反撃するしかない。香澄の弱点は不意打ちだ。ならばそこを突くしかない。


「香澄」


彼女の名を呼ぶ。そして彼女がこちらを向いた瞬間――唇を重ねた。

何秒位そうしていたのだろう。香澄の唇が微かに震えたのが分かった。そして俺の唇を押しのけるかのように香澄の舌が入って来る。それに俺は答えた。


「っは…はぁはぁ。馬鹿…こんなことしたらそういう気分になっちゃうじゃん…」

「別になってもいいぞ。俺もそういう気分になってきたし」

「ほ、本当?」

「うん、嘘だよ。冗談。信じた?」

「っ!ばか!!!!」

「いてっ!こら、枕で殴るなよ!」

「悪いのは…君だよ?覚悟してね」

「え…?」


香澄の茶色い双眼から光が消え、俺の体に腕を回してくる。

窮屈な体勢だった俺は為す術なく香澄に押し倒された。

まさか彼女に床ドンされる日が来るとは思わなかったな…。どうせなら俺がしてあげたかった。

そして香澄は重力に引かれる様に俺に倒れこんでくる。それを拒む理由など俺には無い。そのまま受け止めてしまえばいい。

その時、ポケットのスマホが震えた。


「わ、悪い。出るぞ」

「えー!せっかく良い所だったのに…」

「こういうのは二人っきりの場所で、な?」

「…うん。早く電話でなよ」

「ああ」


今日の予定に甘利さんとの打ち合わせがあったので、てっきりそれ関係の電話だと思っていたのだが画面に表示された相手は『楠木友樹』だった。

(珍しい事もあるもんだな。あいつからかけてくるなんて今までほとんどなかったのに)

不審に思いつつも、よほどの用なのだろうと思い電話に出た。


「もしもし。お前からかけてくるなんて珍しいな」

『ちょっと聞きたいことがあってな。今日は学校に来るのか?』

「悪いな、今日は行けない。それだけか?」

『一ノ瀬って女子を知ってるか?』

「一ノ瀬?一ノ瀬花楓か?」

『そうだ。お前、彼女と話しただろ?そのせいで栗原の次の標的は彼女だ』

「どういう意味だ?」

『それほどあいつから、彼女からお前が嫌われてるわけだ。お節介かもしれんが、彼女を守れるのはお前だけだ』

「…心に留めておこう」

『そうか。栗原にも気を付けてやれよ。大分滅入ってるからな。お前なら気付いているだろうけど』

「大丈夫だ。いざとなればお前を使って奴らを怖がらせることが出来る」

『こえぇ…おっと、先生が来たみたいだ。そろそろ切るな。じゃあ』

「おう、頑張ってな」


スマホを放り出しベッドに身を投げた。いじめという奴は伝染し沢山の人を苦しめるらしい。もし本当に萌香が傷ついたら俺は全身全霊を賭けて助ける。それだけだ。


「今の電話、誰から?」

「学校の友達だよ。もし何かあれば力を貸してくれるってさ」

「友達いたの?」

「小首をかしげて可愛くキョトンとしてるんじゃねぇ!!」

「でも…コミュ障だったんじゃ」

「コミュ障じゃない!〇ックでも指差しじゃなくてちゃんと注文できるし、コンビニでも箸つけてくださって言えるもん!」

「コミュ障じゃない判定のレベルが低すぎる!?」

「そんなことどうでもいいけど、甘利さんそろそろ来るぞ。準備しなくていいのか?」

「そうだったね。一応準備は出来ているけど」

「じゃあ少し早いけど行くか」

「うん!行こう!」


三か月に一回くらいのペースで担当編集である甘利さんが香川県にやって来る。理由は作家と直接話す行為がしたいからだそうだ。要するにそれっぽいことをしたいらしい。俺としては別にどうでもいいので何とも思わない。

俺達は高松駅に向かった。善通寺にはまともな店もないので県庁所在地である高松がに集まることになっているのだ。


現在時刻は午前十時三十分。待ち合わせ時刻は十一時なのであと三十分ほど余裕がある。善通寺にはこういうときに時間を潰すことが出来ないので非常に厄介だ。


「まだ時間あるしサンポート高松の中のカフェにでも行くか」

「そうだね。久々にあそこのロイヤルミルクティー飲みたいかも」

「決まりだな」


駅から歩くこと十分。目的のカフェに着いた。全国チェーン店なのだが香川県には三店舗ほどしかないため行く機会はほとんどない。前に来たのは半年くらい前だった気がする。モーニングセットがたまらなく旨い。

店員にロイヤルミルクティーとモーニングセットを注文し席についた。モーニングの終了時間を少し過ぎていたが快く注文を受けてくれた。


◇◆◇


「遅くなりました。待ちました?」

「大丈夫ですよ。ちょうど俺達も食べ終わったところですし」

「それは良かったです」

「じゃあ始めましょうか。今日は久々にK先生もいる事ですし」

「そうですね。じゃあ新作について…これプロットです」

「お、拝見させて頂きますね」


A4のコピー用紙に印刷したプロットをクリップで留めたものを渡した。甘利さんはワクワクした表情を浮かべ一枚一枚をじっくりと眺めている。時間がなかったので仕掛けを作ってあるが、果たしてそれに気付いてくれるのだろうか。俺的に女性には共感しずらい内容かもしれないと思っている。

もし却下されても問答無用で押し通すつもりなのだが。

必死にプロットを読んでいる甘利さんをみた香澄が耳打ちしてきた。


「ねぇねぇ、どんな話なの?私はどんな絵を描けばいいの?」

「まだ言わない。ナイショの話だ」

「ふーん。その時になっても遅いんだからね?」

「ふむ…肝に銘じておこう」


香澄と俺の会話を遮ったのはまたしてもスマホのバイブだった。普段は仕事の電話しか来ないくせに今日はやけにかかってくる。画面に表示された相手は『一ノ瀬花楓』だった。今朝の友樹の言葉が脳裏に過った。

(まさか…な)

何かあって俺に助けを乞うたのか、はたまた別の要件か。一番近況でありそうなのは前者だ。正解であってほしくはない事だが。


「悪い、電話だ。ちょっと出てくる」

「りょーかい」


二杯目の紅茶を飲んでいた香澄は左手をひらひらさせながら俺を見送った。いつもよりもどことなく機嫌が悪い。よほど内容を隠されたのが気に障ったらしいな。

ご機嫌取りをしたいのも山々だが(最近女性陣へのご機嫌取りばかりしている気がする…気のせいであってほしい)今は一ノ瀬の事が心配だ。

店を出た俺はすぐに応答をタップした。


「もしもし。一ノ瀬、何かあったのか?」

『あ、やっと出た。久高君、落ち着いて聞いてくださいね。栗原さんが病院に搬送されました』

「は…?」


俺は思わずスマホを地面に落とした。右手に力が入らなくなったせいだ。

(萌香が?搬送?何を言ってるんだ?)


『久高君!久高君!聞こえてますか?』

「わ、悪い。大丈夫だ。詳しく教えてくれ」

『それは…階段から落ちたからです。頭を打ったらしく意識不明らしいです』

「そんな…あいつが階段から?そんなことあるわけ…まさか⁉」

『言いにくいですが、そのまさかです』

「あいつら!なんてことを…それでどこの病院に搬送されたんだ!」

『えっと…善通寺の医療センターです。あと楠木君…』

「ありがとう!じゃあ切るぞ。俺は病院に向かう」

「え、あ!ちょっと…」


店内にいる香澄に「病院に行ってくる」と伝えて駅まで走った。もし今日家にいれば五分とかからずに医療センターに迎えるのに。やはり外出などするべきではない。家にいないと緊急時になにも出来ないではないか。

高松駅の電光掲示板を見ると、現在時刻から十五分以内に琴平方面に向かう電車はなかった。

(この際やむを得ないな)

電車を見限った俺は駅前のローターリーに止まっていたタクシーに飛び乗った。

運転手に善通寺の医療センターまでと言うと少し嫌な顔をされたが「友達が危篤なんだ」と言うとすぐに発車した。

それから四十分、病院に到着するまで俺は気が気でなかった。


◇◆◇


病院に着くと運転手にお金を払い、一目散にナースステーションに向かった。平日の14時ごろの病院は大勢の患者で埋め尽くされている。


「すいません、栗原萌香の病室はどこでしょうか」


俺は息を切らしながら看護師に聞いた。すぐに調べて教えてくれた病室は五階の13号室。エレベーターに乗って五階のボタンを押す。五階に着くまでの時間すらも惜しく感じた。

階数を表示するランプが5を示した瞬間、開のボタンを連打する。気が立っている証拠だ。扉が開くと十三号室に足早に向かった。


「萌香!」

「あ、ご家族の方でしょうか?」


白衣を着た温厚そうな医者が訪ねた。


「そうです。先生、萌香は…大丈夫なんでしょうか」

「命に別状はありません。それに出血もありませんよ。少し頭を打っているようですが、脳に異常は見当たらなかったので記憶に何らかの影響が出ることもないでしょう。じきに目も覚ますと思いますよ。それまで傍にいてあげてください」

「はい。ありがとうございます」

「それでは、私たちはこれで」


医者と看護師が出て行くと萌香が横たわっているベッドの近くに腰かけた。

萌香の寝顔はいつも通り幸せそうなものだ。奴らに突き落とされたというのに。どうして萌香は奴らに殺意を持たないのだろう。憎しみを抱かないのだろう。直接的に被害を被ったわけでもない俺が怒りでおかしくなってしまいそうなのに。


「お前は昔から優しすぎるんだ。何度も言っただろ?そういう性格は損するだけだって。なのにお前は…お前はどうして…」


それ以上は言葉にならなかった。ただ手を握ってやることが俺に出来る唯一の救済だ。白く、か細い指は昔見た萌香のそれそのものだった。

(こんなに手、小さかったっけ…昔は萌香の方が大きくてコンプレックスだったのにな。今じゃこんなに小さいなんて…)

力強く、でも優しく。

そんな風に手を握った。

涙は流れなかった。別に死ぬわけじゃないんだ。泣くことじゃない。

ずっと、ここで目を覚ますのを待っていればいい。

俺は目を閉じた。


◇◆◇


知らぬ間に眠っていた俺が目を覚ますと夕方になっていた。萌香の方に視線を向けるとまだ目を覚ましていないようだ。

欠伸をしながら立ち上がると肩から毛布が地面に落ちた。

(誰か来たのか?)

落ちた毛布を拾い上げて、畳んで棚の上に置く。そして、部屋に備え付けられた洗面台で顔を洗い終わったところでドアが開いた。


「あ、起きましたか。よく眠れました?」

「一ノ瀬…なんでここにいるんだ」

「ただのお見舞いですよ。クラスの雰囲気が彼女に盾突くことを良しとしないので、内輪の中にいない私が来ました。ご迷惑でしたか?」

「いや、助かったよ。ありがとな」

「そ、そんな…お礼を言われるほどの事じゃありません」


照れ気味な彼女は買ってきたのであろう花を花瓶に挿していた。

花には詳しくないので何の花なのかは分からないが。


「それは何て名前の花なんだ?」

「これは生花ではなくて造花です。栗原さんが何の花が好きなのか分からなかったのでアネモネにしてみました。綺麗な花だと思いませんか?」

「アネモネか…風花とも言うんだっけか」

「アネモネの和名…でしょうか?私は聞いたことありませんけど…」

「あれ、おかしいな。エウレ〇では確かそう言ってたはずなんだけど」

「エ〇レカ…?何ですかそれ。ギリシャ語の感嘆詞でそういう言葉がありましたね」

「アルキメデスのやつだろ?ちなみに俺が言ってるエウレカはアニメのタイトルだよ。興味があったら今度Blu-ray貸してあげるよ」

「じゃあ今見ているアニメを見終わったら貸してもらいますね」


どうやら一ノ瀬は最近アニメを見る様になったらしく今はSA〇を見ているらしい。

原作が小説なので貸して上げるのもいいかもしれない。

それから俺と一ノ瀬は最近読んだ本の話や、アニメの話をして話した。好きなジャンルが似ているのか話が弾んだ。


◇◆◇


俺が目を覚ましてから一時間と三十分後。

萌香が目を覚ました。


「あ、栗原さん!大丈夫ですか?」

「い、一ノ瀬さん…お見舞いに来てくれたの?」

「はい!痛い所とかありませんか?」

「ありがとう。大丈夫よ」


萌香は至って元気なようだ。

少しほっとした。


「萌香、大丈夫なようだな。よかった」

「え、えっと…ありがとうございます」

「うん?どうした。なんで敬語なんか使うんだよ。お前らしくもない」

「一ノ瀬さん…この方はどなた…なの?」

「え?何言ってるんですか!あなたの幼馴染の久高拓哉さんですよ?変な冗談はやめてくださいよ」


一ノ瀬はこう言っているが萌香がふざけているようには思えなかった。

(嘘…だろ。おい、嘘だろ…嘘だ。嘘だ。うそだ。)


「嘘だろ?俺だ!拓哉だ!なぁ…おい…萌香…っ…まさか分からないなんて、言わない…よな?」

「ご、ごめんなさい。分かりません…」


声にならない号哭が木霊する。俺は膝から崩れ落ち、涙が溢れてやまなかった。

信じたくない。信じられない。

嘘だと思いたい。夢であってほしい。


「ご、ごめんなさい…お、思い出せない…です…」

「…萌香。悪い…いったん抜ける。一ノ瀬…あとはまかせた」


もう耐えられない。

こんな所にはいられない。


ただ走った。

行く当てもなく。


ただ逃げた。

策も見えぬまま。


ただ泣いた。

負け犬の如く。


ただ叫んだ。

声にならない慟哭を。



萌香の中から俺は消えた。

思い出も記憶も。

恋心さえも全て。

なのに俺は覚えている。

こんな残酷な事ってあるか。

信じられるか。

唯一信じ合える親友であり兄妹だったのに。

大好きだった女の子なのに。


◇◆◇


気付いたら屋上で寝転がっていた。日は既に沈み、空には星が瞬いている。

ペテルギウス、シリウス、プロキオン。

しっかりと光る冬の大三角が寂寥感を引き立てた。


「萌香…」


彼女の名を呟く。もちろん答える者などいない。

はずだった。


「た、たくちゃん!」

「え…」

「こ、こんな感じでしたか?一ノ瀬さんにある程度は聞きました。あなたの知っている私は、あなたの事を好きだった私は…こんな感じでしたか?あなたの好きな私はこんな感じでしたか?」

「…っ!も、萌香…ぜ、全然ちげぇよ!もっとお前はSっ気があった。俺をいつも罵ってきたよ…だから、今のお前は全然違う…俺の好きだった萌香はもっと意地悪だったよ!だから…絶対に思い出せ。なんとしてでも思い出してくれ!俺の好きだった萌香を、俺の事を好きだった萌香を…思い出せ‼」

「じゃあ…そんなところでいじけてないで思い出せる様に手伝ってくださいよ!」

「ああ…、任せろ。俺がお前の記憶を取り戻してやる」

「はい…信じています」


萌香は俺に手を差し伸べた。

俺は迷わずその手を握る。

二度目の出会い。十七年ぶりの邂逅。

ゼロから始めよう。

何度だってきっと好きになる。

萌香の事を。

何度だって好きになってくれる。

俺の事を。


今が本気を出すときだ。



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