自由へ

 二人は片山署の冷ややかな廊下を猛然と、駆けに駆けた。先導するコオロギは階段を見つけると、無意識にそれを駆け上がった。下階への階段もあるにはあったが、視界に入りもしなかった。


 手を引かれるキョウコは、これから自分たちを待ち受ける運命を予感し、微笑んだ。あぁ、やっと終われる……コオロギが、それを先導してくれている。その安堵。

 早過ぎるペースに呼吸は乱れ、心臓は激しく脈打ちながらも、キョウコの心はこの上なく穏やかだった。自分の向かいたい方向に導き、共に行ってくれる男が、すぐ側にいるから。


 二人の行方を阻んだ、強く施錠されたドアをコオロギは思い切り蹴飛ばした。開かない。ビクともしない。キョウコも蹴った。二人で、何度も何度も蹴った。錠前が緩んだ。コオロギは警官から奪い取った拳銃で、鍵をブチ抜いた。

 扉が開かれ、光が二人の視界を一杯に覆う。眩しさに身じろぎしかけたが、コオロギはまたキョウコの手を取り、懸命に駆け出した。


 しかしキョウコはそれを一瞬制して、扉を閉めた。無意識にキョウコの意図を察したコオロギは、そこらにある机や掃除用具入れ、コンテナなどを非力な体から懸命に力を振り絞って、扉を塞いだ。二人の全身から汗が噴き出す。


 あぁ、俺は、私は、生きている!


 扉を半ば塞ぎ終えた二人は、この上ない充足感と一体感に包まれ、互いに顔を見合わせて笑い合った。廊下で警官たちをコオロギが蹴散らしてここまで駆け切ってから、二人は一言も交わしていなかった。しかし、心は今どこまでも通じ合っていたのだった。


 荒い呼吸を整えながら、二人は疲れ切った体を屋上に横たえた。暫く沈黙し、顔を横に向けて互いの目を見つめ、また微笑み合うと、どちらともなくズリズリと床を這って距離を詰め、抱き合った。


「ねぇ、アンタ何者?」


 先に口を開いたのは、キョウコ。


「俺はね……殺し屋」


 コオロギは、あっけらかんと答えた。


「ふぅん、悪い奴だね……」

「あぁ。でも、お前もいい奴じゃないよ」

「うん、そうね。あたしって、最低のクズよ」

「ククッ」

「ウフフッ」


 あっはっはっはっ! ……と、二人は共に、産まれて初めて心の底から笑った。そして、産まれて初めて笑い合った。

 馬鹿笑いがひと段落すると、扉をドン、ドンと叩く音がする。二人は聞こえないふりを決め込んだ。そして次は、コオロギから口を開いた。


「相談員じゃないのに、なんであの電話取ったか。まだ話してなかったよな」

「あー、そうね……それ、聞きたいわ。教えてよ」

「俺は……」


 コオロギは一転して、少し暗い顔をした。


「あの時、殺し屋として最後の仕事をしてたんだ。おじさんだった。悪そうな……でもそれでいて、なんだか優しいことを言ってくれる人だったんだ」


 コオロギは荒い息遣いのままに、されど静かに、心を込めて語った。


「『君にはまだ未来がある』……『僕の元ならやり直せる』、そんなことを言ってた。だけど俺は……殺しちゃった、その人を」


 キョウコは黙って、コオロギの言葉に耳を澄ませた。まだ話は終わっていない。その時点での感想はなるべく胸の内で押し殺した。


「俺……動かなくなって、口から血ぃ流して、目ぇ開けたまま死んでたその人の顔見て、急に虚しくなった。そのまんま死のうと思ったけど、弾が残ってなかった。そしたら……」


 コオロギは突然悲しげな微笑を浮かべながら、こちらを見た。


「その人の電話が鳴ったんだ」


 キョウコの双眸から、二筋の涙が伝った。


「『こころのダイヤル』……ヤクザの裏ボスみたいなことやりながら、そんなことをやってるとは聞いてた……死にたくなった人がかけてくる電話に、一生懸命耳を傾けるんだって。俺、それを聞いたときは何とも思わなかった。死にたいなんて思ったこともなかったし、そんなの、意味あんのかって。何もしてやれねーのに、話だけ聞いてやって、なんか助けてやれんのかって……そんなこと考えてた」


 コオロギは一通り語り終えると、疲れ切った表情でチラリと私の顔を見ると、ゆっくりと、ヨロヨロと立ち上がった。私も立ち上がってそれを支えようとすると、彼はそれを片手で制した。そして、俯いたまま言った。


「俺、何にもできなかったな……ごめんな」


 キョウコは泣いた。顔をクシャクシャにして、これまでの人生で流した涙を、全部足しても足りないほどの涙を零した。そして彼を抱き締めた。強く強く、彼が息苦しくて死んでしまいそうになるのも構わずに、力を振り絞って抱き締めた。ボサボサの髪に顔を埋め、言った。


「そんなことない……ありがとう、ありがとうコオロギ……」


 コオロギも、私の胸に少し遠慮がちに縋り付きながら、すすり泣いているのが分かった。私は言葉を続けた。


「ありがとう、相談員さん。すっごく楽になった」


 コオロギは顔を上げ、私の目を見た。頬を伝う涙を隠さず、また子供のようなあどけない表情で、呆然と私の顔を見ていた。

 ドアを突き破ろうとする音が聞こえる。コオロギはそちらを振り返り、また私の顔を見た。


「俺、全部引っ被るよ」

「え……?」

「全部引っ被る。キョウコさんは、一からやり直すんだ。きっと出来るよ、今からならなんでも」

「そんな……イヤよっ! 私はもう、あんたと二人じゃなきゃイヤッ!」

「でも……」


 また焦燥に駆られ、慌てふためくコオロギの肩を、私はしっかりと抱きとめ、言った。


「まだ逃げ道はあるよ」

「……え?」

「ほら、見て」


 私は遠くを見た。コオロギもつられてそちらを見た。そこにはあるのは、屋上を囲う柵の向こうに広がる、果てしない空。

 私はもう一度、コオロギを見た。相変わらず空を見ているコオロギの横顔を暫く見つめると、その顔を掴んで無理やりこちらに向かせて、ニッコリと笑って言った。


「行こっ」


 コオロギは呆然と私を見つめ返す。私は返事を待つ。背後から、扉が蹴破られる音が聞こえた。実際の音量より、遥かに小さく、遠くに聞こえた。


「……うん」


 コオロギは小さく、コクリと頷きながら、しかし私からは視線を外さず、答えた。

 そうするや否や、私は扉を蹴破ってこちらへ駆け出して来た警官たちへと視線を移した。そして得意げに笑った。


 私たちは、お前たちの思い通りにはならない。決して。


 そしてコオロギの手を引き、走った。追いすがる警官とは逆方向に。柵をよじ登る。運動神経のあまり良くない私は、所々引っかかる。するとコオロギが先に登り、私の手を引いてくれた。


 そして遂に、高い高い柵のてっぺんに辿り着いた。私たちは顔を見合わせ、最後にもう一度笑い合い、抱き合った。

 二人同時に体を傾ける。やかましく吠える警官たちとは逆の方向に。


 天地が逆転する。風を感じた。私たちは片時も、恐怖にも、束縛にも支配されず、自由にその命を砕き切った。


 野次馬が群がる。砕け散った二人の肉体に。パシャパシャと、シャッター音なんかも鳴っている。


 このお話はとある日ある場所で起きた、何気ない出来事。僕らには関係ない単なる小話。日常は明日も続く。

 明後日も、明々後日も、延々と続いていく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カウンセラー 大家一元 @ichigen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ