慣れる心
コオロギは私を、壁のあちこちがヒビ割れた、古くて貧乏くさいカプセルホテルの一室に半ば強引に連れ込んだ。
私は先ほどの出来事について私が頭を抱え、この先の人生について必死に悩み少し彼から目を離している隙に、彼は粗末なベッドにその小柄な身を横たえ、いつの間にか眠ってしまっていた。
子供のような寝顔で、健やかに寝息を立てる。私はその場を離れられなかった。それはなぜか、彼は眠ったままにしっかりと私の手を握っていたから。
小さく、冷たい手だった。私もそろそろ二十代半ばに差し掛かる。息子でもいれば、こうして手を握って寝顔を見ることもあろう。そんな気を起こさせるほど、目の前のコオロギの寝顔は幼かった。さして年齢も変わらないだろうに。
そう言えば部屋へ連れ込まれる時も、同年代の男にホテルに強引に引きずり込まれる、という事実を前にして私は何の恐怖も感じなかった。
長年のピンサロ勤務で貞操観念が緩んだとか、そんな理由ではない。彼に下心を一切感じなかったからだ。
今、私がその気になれば、この手を振りほどいて部屋を飛び出し、逃げ出すことも可能だ。だがそうする気は微塵も起きなかった。彼が目覚めるまで、こうして手を握って、この寝顔を見つめていよう。私はなぜかそんな、どこか暖かい心持ちに浸っていた。
不思議な男だなぁ、とつくづく思った。
突然、胸騒ぎがした。階下の床が、ドタバタと軋む。誰か来る。自分たちを狙って来た者たちだと直感で分かった。
コオロギを起こそうと思い立ったが、その行動は実行には移されなかった。
その前に握っていた手の力が強まり、私はいつの間にか目覚めていたコオロギに引っ張られ、そのままベッドの下へ押し込まれた。
男たちの足音が近付く。コオロギは先ほどより時間的余裕を感じているのか、ゆっくりと立ち上がって首を捻ると、そのままダラダラとドアの脇へと歩み寄って背をもたれた。
粗末な扉を叩く音がする。ドン、ドン、と、数人の男が寄ってたかって蹴りつけているようだ。こんな扉を大の男が蹴破るのに、意外と時間がかかるものだと、私は妙に落ち着き払った心境で思っていた。
やがて、扉が蹴破られる。拳銃を手にした男が、今度は三人。一人ずつバタバタと部屋に侵入して来て大声で怒鳴った。
「オラッ、コオロギ! 出て来……」
次の瞬間、一番後ろにいた男の首が裂けた。そしてもう一人、最後の一人……
結局、彼らのセリフは最初の怒号だけ。コオロギはまた、血の滴るバタフライナイフを片手に、バタバタと倒れる男たちの真ん中に立ち竦む。
私は全て予想のついたこの一連の流れを、ベッドの下からぼんやりと観察していた。
「終わったよ。出ておいで」
「知ってるわよ、もう……」
よいしょ、と年寄り臭い声を発しながら、私はベッドから這い出る。広がる血の海に手や服を汚されないように気遣いながら。
「なんか、もう慣れたね」
「心を麻痺させるのには慣れてるのよ……」
「職業病だな」
「あんたもね」
「何が?」
三体の骸が転がり血の海の広がる部屋で、私たちは何気なく会話を交わす。もうこの状況に異常さを感じる心すら、私にはほとんど無くなっていた。
「こいつらが下に来て、ここへ入ってくるまでの、あんたの動きよ。慣れきってたじゃない」
「そうかな」
コオロギはポリポリと頭をかき、目を逸らす。私は追撃をかけた。
「あんた何者?」
コオロギは暫く黙り込み、やがて背を向けて呟いた。
「だから、相談員だってば」
私の追撃はここまで。これ以上、ここに留まっているわけにもいかない。そのまま歩き出したコオロギの後に、結局私は何も考えず付いて行った。
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