カチコミ
「ウ〜〜〜〜ン……寝足りないな」
「よっぽど眠かったのね。あんなすぐに寝るなんて」
「まぁね。キョウコさん昨日の夜、寝たの?電話の後……」
「ううん、全然。アンタも?」
「まぁね……色々あって」
先を行くコオロギと話しながら、すれ違う人々を時々目にして私は思った。
目の下にクマを作って何気ない会話を交わす、何となく不健康な若者二人。通りを行く人々から見れば、私たちはそんな風にしか見えないだろうと。
私たちがゆったりと眠りにつける時は、果たしていつになるだろうか。私は自分の悩みが、随分小さくなっていることに気付いた。
「コオロギ」
「ん?」
「相談員名乗るんなら、もう一つ聞いてよ、私の悩み」
「何?」
「眠いの」
「なんだそりゃ。俺だって眠いよ」
「でもこのままじゃ、どこ行ったって安心して寝れないじゃない」
「確かにね……」
沈黙。コオロギが振り返るまで、私はわざと黙っていた。そう、この沈黙を支配しているのは私。やがて振り返ったコオロギは、少し不機嫌そうな顔をしていた。
「どうにかしてよ」
私は、悪びれずに言った。コオロギは片眉を上げる。私の厚かましい態度を訝しんでいるように見えたが、怒るでもなく、何をいうでもなくまた前を向き、言った。
「どうしろっての?」
♦︎
「ふぐぅ……ッ!!」
中曽根は鮮血滴る左手を抑えつつ、顔を真っ赤にし、額に青筋を立てて必死に痛みを堪える。
「オラ中曽根……手ぇ出せ、手」
「は、はいぃ……くぅっ……」
「ドスも置けよっ! ククッ、ったく、いつまで握り締めてんだ」
「あっ、はい、すんません……」
アロハシャツをだらしなく身に付けた、中曽根とほぼ年の変わらなさそうな中年の男は、ヘラヘラと笑いながらこなれた様子で彼の左手を取り、なだめる。
出血箇所は、先程まで小指があった所。エリスでの失態の責任を取って指を詰めた中曽根を、部屋の奥にあるオフィステーブルとチェアに腰掛けるスキンヘッドの男が冷然と見守る。
ここ丸岳ビルは、中小企業が多くの営業所を構えるオフィスビルが立ち並ぶ殺風景な裏通りに、まるで違和感なく周囲のそれと変わらぬように立っている地味で古びたビルだ。
そしてその実、近隣一帯の裏社会を支配する暴力団・神田川組本部でもある。
不始末の責任者は指を詰める。極道の筋の通し方は変わらない。このある種滑稽な惨劇が行われているのは、そんな丸岳ビルの二階だった。
窓は閉められているが、別にスモークを張っているわけでもないが、誰も彼らを咎め立てすることもない。
「なァ、中曽根……」
スキンヘッドの男が口を開く。
「は、はい、頭……!」
中曽根が答える。どうやらこの男が、神田川組の若頭らしい。「若」とつく割には、その場にいる誰よりも年長らしかったが。
ともかく中曽根は、若頭の威厳ある声に押されてか左手の痛みも忘れ、ベシャリと床に膝を突き深々と頭を垂れる。
「筋も通したこったし、もう今さらお前を責めてもしょうがねぇよ……起こることは起こっちまったんだ。フン、大体……」
若頭は鼻で笑うと椅子を回し、窓の外を見る。普段と変わらぬ昼間の、閑散とした裏通り。人っ子一人見えない。
「こりゃあいつがワケのわからねぇキチガイを起こして起きたこった……誰にも止めらんねぇ。どうにもならなかった……だがお前はあの店の責任者! しょうがなくあすこにいて、しょうがなくケジメをつけた……そうだろ?」
「は、はぁ……?」
不可解ながらも、中曽根は恐れからかとりあえず相槌を打つ。ゆっくりと、噛み締めるように語る若頭の言葉は、深いようで実際特に深い意味はなかった。
「まぁ、水に流してくれや……こうなった以上、あいつのことはもう組全体で始末をつける。お前もそれに協力する。今回のことでなし崩しに割食ったお前が先陣切って頑張ればよ……組は一丸となる。分かるか?」
「は、はい!」
若頭は立ち上がって中曽根に歩み寄ると、徐に膝を折ってその肩に手を置き、サングラス越しにしっかりと目を見て、強い調子で言った。
「こりゃ組の異常事態だ……そしてその解決は、お前にかかってる! お前は最初こそヘタこいたが、逆転して大手柄を立てられるかも知れん……」
室内に、暫しの沈黙が流れる。中曽根の目から涙が滲んだ。若頭が片頬に笑った。
「分かるな?」
「は……はいッ!」
隣で見ているアロハシャツの男が、ニタニタと笑った。
くだらない、いつもの茶番だ。この若頭が現在の地位にいるのは、こういう何の意味もない「それっぽいやり取り」がヤクザ社会で受けたからだ。そしてそれは、若頭自身分かっている。彼は内心卑劣にほくそ笑みながら、しかし表情は可愛い部下を心底誇るように、殊勝な笑みを作ってゆっくりと立ち上がった。
また窓の外を見る。この閑散とした通りを見るたびに、自身が身を置くこの神田川組の、いや現在のヤクザ社会が、こんな所にひっそり佇んで小さな悪事に勤しむしかない現状を思ったものだ。
今回の件にしても、たかが殺し屋が一人、気まぐれか何かで裏切っただけ。自分が何をしようとしまいと、事態は勝手に片が付く。愛すべき日常は、また勝手に帰って来る……そう思った。
と、その直後。
窓の外に、人影が見えた。若い男女の一組。汚いコートに身を包んだ小男と、茶髪の水商売風の女。
女が男の耳元で何か囁き、男がボサボサの頭をかくと、こちらに向けて手を伸ばした。その手の先には、キラリと黒光りする何かがある。若頭は小さな違和感を感じ、彼の心中に小さく波が立った。
ぱんっ
乾いた音が鳴り響いた。丸岳ビル二階の窓ガラスが割れた。若頭のツルピカの頭には、真っ赤な風穴が空いた。
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