静かなる変心、表層の狂奔

 花田警部は苛立っていた。三木から受け取った盗聴データを耳にしてから、生まれてこの方味わったこともないような煩悶に苛まれていた。


 これまで、欲望の赴くままに生きてきた。欲望のために、散々人を陥れた。危ない橋も渡った。片山署と神田川組とのパイプ役という立場は、彼にとって遂に辿り着いた楽園だった。これまでは。


 しかし、この虚しさは何だろう。今まで目を塞いできた物事を一気に突きつけられたような、猛烈な虚無感。自分の半分も生きていない若造二人の、内容のない会話。それが彼の価値観を猛烈に揺さぶった。


 捜査の手は一課に委ねられている。しかし彼は、自身を突き動かす衝動のままに動くことにした。


 既に神田川組という後ろ盾を使って一課の捜査に介入する権限を強引に得ていた花田は、取るものもとりあえず、取調室へと足を踏み出した。



 ♦︎



 キョウコが目を覚ますと、蛍光灯が見えた。チカチカと、寝起きの目を強引に覚醒させる。目眩がして、頭痛がして、うめき声を上げながら寝返りを打つとすぐに壁にぶつかった。

 硬くて狭くて、そこに身を任す人に対して随分思いやりに欠けるベッドだった。


 寝ぼけていたし、ここが何処だか見当もつかないが、壁も天井も何だか硬くて冷たくて、瞬間的に「ここは嫌い」、と思った。


「お、起きたぞ」

「あら、ホント」

「じゃあ、後は任した」

「はいよ」


 お互いを理解しきった男女の、冷めた事務的な会話が耳に届く。これまた嫌いな響きだった。「強い人間」の発する声はすぐに聞き分けられる。お腹が痛くなった。

 扉が閉められ、男の方が出て行くのが分かった。


「おはよ。大丈夫?」


 部屋に残された女・三木が、目をこすり嫌々身を起こす私に、芝居掛かった温かみを帯びた声で話しかけてくる。


「ハイ……ここは?」


 私はすぐ、気になったことを尋ねた。眠りに落ちる前の記憶がいまいち定かでない。誰かの膝の上で寝ていたような……


「大変だったわね。ハイ、お水」


 ようやく身を起こしきってベッドに座った私は、質問に答えない三木から差し出された水を受け取り、彼女の顔を見た。わざとらしく口角を上げ、腰掛けた椅子から身を乗り出し、私の顔を見つめている。綺麗な顔。身につけているのは白衣だった。


「ここ、病院ですか?」

「ううん、警察署」

「警察署……?」


 その言葉の響きは、何となく私の胸をどきりと打つ。これまた嫌いな響きだ。

 しかしそれと同時に、なぜこの言葉にこんな反応をするのかを考え、瞬時に眠りに落ちる前の諸々を思い出した。


 コオロギ。


「あの人は……私と一緒にいた男の人は?」

「あー、あの子はね……え、心配?」


 女は苦笑し、首をさする。私がコオロギの正体を知りもしないで一緒にいたことを悟ったか、次にどう切り出すか迷っている様子だった。


 私はなんだか、この女の口から彼の正体を聞くのは嫌だと思った。気になったのは、ただ彼の安否だけ。


「今どこにいるんですか? それだけ教えて下さい」

「あのね、知らないの? あの子はね」

「いいんです、そんなことはっ! どこにいるのか教えて下さい!」

「まぁまぁ、落ち着いて……お水飲んで、もうちょっと横になんなさい……」

「あんたにそんなこと言われる筋合いないわッ!」


 私はこの女に与えられた情報を総合しても、まだコオロギがどこでどうしているのか分からなかった。しかし本能的に、この女は敵だ、と思った。そしてこれ以上、この女から何も聞きたくなかった。


 私は無我夢中で三木に渡された水を投げ捨てると、何するのッ、と動揺する女を突き飛ばして、部屋を飛び出した。廊下にいた何人かの警官が怪訝な顔で私を見る。


「捕まえてッ!」


 女の絶叫が、後ろから聞こえた。私は半狂乱で駆け出し、こちらに駆け寄ろうとした初老の警官を一人突き飛ばして、必死に廊下を駆けた。


 が、無理だった。寝起きの体。連続して体験した非日常。目の前で流された大量の血。栄養の不足し過ぎた体。

 私はすぐに立ちくらみを起こし、ばたりと倒れた。次々と駆け寄る警官たちが、私に覆いかぶさって取り押さえた。


 こんな弱い女一人に、何を必死に……


 薄れゆく意識の中、私を引きずるように連行して行く数人の警官たちを心の底から軽蔑した。



 ♦︎



 取調室。

 相変わらず小さな体にボロいコートを羽織ったコオロギが、大柄な警官たちに囲まれちょこんと椅子に腰掛けている。

 向かい合って座っているのは、不当な越権行為でそこにいる花田。


 花田は頬杖を突いて、弱々しい外見に、大量の罪状を背負った目の前の小男を見やりながら、大きくため息をついた。


「お前のことは知ってるよ、コオロギ……有名人だもんなぁ」


 コオロギは答えない。心ここに在らずといった調子で、虚ろな目で俯いている。


「なぁ、コオロギ。なんで急にトチ狂っちまったんだ? 教えてくれよ、最後によ」


 花田は身を乗り出し、冷たい口調でコオロギを問い詰める。コオロギは虚ろな目のまま顔を上げ、花田を見やる。


「ネカフェに何人かで押しかけると聞いた時はよ……相当抵抗されると思ったもんだ。ところがお前、な〜んにもしねぇもんだからよ。拍子抜けだったらしいぜ。勿論、俺もな。お前一体、何がしたかったんだ?」


 問い詰めながらも、花田はあまり返答を期待しているようには見えない。だが、取り囲む若い警官の一人が痺れを切らしたのか、机を思い切り叩き怒鳴り散らした。


「答えろッ、オラァッ!!」


 バァン、とけたたましい音が鳴り、机上の照明がチカチカと明滅し揺れた。コオロギはそれを、ぼんやりと見つめていた。


「まぁまぁ……落ち着けや」


 花田が若い警官を諭すと、警官はチッ、と舌打ちしてコオロギを睨みつけながら後ろへ下がった。コオロギは動じない。


「あの女か?」


 コオロギの目が変わった。花田が発した言葉に反応したようだ。ギョロリと目を剥いて、花田を睨み付ける。花田はブルリと身震いして、思わず少し後ずさる。その目を直接見ていない他の警官たちも、コオロギが醸し出す異様な殺気に恐れをなしたか、包囲が遠巻きになった。


「関係ねーよ」


 コオロギは小さな声で、しかし強く訴えかけるように言った。花田は声を少し震わしながらも、追求を続けた。


「……へッ、お前のその態度がな……あいつがコトに相当関わってることを証明してんだよ。お前は不器用な奴だ。大体想像はつくぜ?」


 花田は顎をしゃくって、警官の一人に何かを促した。それを受けた警官は、用心深くコオロギを注視しながらも、持っていた封筒を恐る恐る花田に手渡した。

 花田はその中から何枚かの紙を取り出し、机上に広げた。コオロギはそれを見て、さらに全身を強張らせた。

 そこに書かれていたのは、全てキョウコに関する情報だった。父の借金のカタに神田川組に売られたこと、エリスで働かされていたこと、そして盗聴受信機。通話履歴の『こころのダイヤル』……


「実際、こんなことが起こるモンなんだな。なんてんだ、神田川組も、まぁ古いヤクザだよ、やってることが。だがそれ以上にこの電話……これがお前に通じたってのが、また……」


 花田はまたため息をつき、コオロギを見た。唇を噛み、身を震わせ、明らかに動揺した様子を見せている。花田は、この男への同情を堪えきれなかった。


「お前は不器用なヤツだよっ!」


 突然発した大声に、コオロギだけでなく周囲の警官たちも驚いた。全員が花田に注目し、その言葉に耳を傾ける。花田は俯いたまま、言葉を続けた。


「俺ぁな……マル暴に身を置いてからこっち、汚ねぇことばっかりやってきた」


 突然始まった懺悔。コオロギは目を丸くして、花田を見守った。


「お前が神田川組に使われ始めた時から……ずっと何かとんでもねぇことが起こる気がしてた。それをどっかで、期待してもいた。俺ぁ下衆な野次馬だからな……だがな……」


 花田は顔を上げた。その目には、涙が滲んでいた。


「こんなのはな……望んでなかったぜ、俺ぁ……」


 コオロギは驚き、何も言えなかった。ただ呆然と、そのクシャクシャになった泣き顔を見つめることしかできなかった。


 そこへ、バタバタと揉み合う音と共に、突然声が飛び込んできた。


「離してッ、離してよッ!!」


 キョウコの声だった。コオロギが目を見開くと同時に立ち上がり、取調室の机をひっくり返した。警官たちは叫び、慌てふためいた。


「わっ……やめろッ!」

「取り押さえろッ!」

「暴れるな、暴れるなッ! 落ち着けお前……」


 それを制したのは、他ならぬ花田。


「邪魔すんなッ、馬鹿どもッ!!」


 長年、様々な局面で、様々な形で極道と関わり合い、渡り合ってきた花田。その怒号は、そこらの若い刑事を震え上がらせるには十分だった。


 振り返り、目を丸くして自分を見つめるコオロギを真っ直ぐに見つめ返し、静かに言った。


「やりたいようにやれや」


 室内に、沈黙が走る。刑事たちは明らかに困惑している。花田は気でも狂ったのか? との疑念が多くの刑事の脳裏を過る。当然の反応だった。花田はそんな彼らを無視し、ただコオロギの目だけを見て、言った。


「元気でな」


 穏やかな微笑を浮かべた。今まで、自分がこんな表情をしたことがあったろうか。使い慣れていない表情筋がピクピクと痙攣するのを感じて可笑しかった。俺は何をやってんだ、と自嘲したくもなった。

 しかし、コオロギの反応がそれを打ち消した。


 彼は深々と、小さな体を折り、ペコリと頭を下げ、取調室を駈け去った。


 廊下から、阿鼻叫喚の絶叫が聞こえる。コオロギが暴れ、キョウコを連れ出そうとしている。

 取調室に残された彼らは、一斉に花田を見た。全員が気味の悪そうな、怪訝な表情をしていた。花田は自身の今後を思った。だが今は全てがどうでも良く、晴れやかな心持ちだった。理由は自分でもよくわからない。


 部屋の前を、キョウコの手を引くコオロギが駈け去っていくのが見えた。二人とも、こちらを一顧だにしない。それで良かった。


 元気でな。


 花田はそう、心中に繰り返した。

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