Epilogue:あおになりたい

 僕らの時代を世間では「青春」と呼ぶだろう。爽やかに明るい華やかな青春かと思えば大間違い。

 痛みと歪みがはびこっていて、僕らを冷たい毒に引きずり込む。そんな罠にはまらないよう、僕らはこの「青春病」と戦うしかない。


 皮肉にも、南風をあらわす「青」が「青春」の文字に含まれている。彼は冷たい青らしい。


 確かに青は寒色なんだけれど、別の心理的効果をもたらすのだと、あとで調べて知った。

 そして、彼と打ち解けた一ヶ月後に「青春」という文字を教科書に見つけたので、口がふいに呟いた。


「――青って、鎮静効果があるんだってさ」


 あまりにも唐突だったろう。しかし、いつしか彼が「青は冷たい」と言っていたことを思い出したものだから、これは教えておかないとと使命感が働いた。

 誰もいない図書室の片隅でそれを教えると、彼は「へぇ」と興味なさそうに返した。


「だからさー、青のまんまでいいんじゃない?」


 気休め程度にはなるだろうと考えての発言。

 だからか、彼は機嫌悪そうに眉をしかめて、だらけた肩を持ち上げた。


「鞘本ー」


 口調は気だるさ全開のまま。声のトーンが低く、また若干の苛立ちのようなものがチラリと見えたもので、僕の心臓は少しだけ固くなる。


「何……?」

「お前さー、青って何種類あるのか知ってる?」

「……は?」


 思いもよらない言葉に反応が遅れるのは仕方がないことだろう。あんぐりと口をあけて南風を見ていると、彼はフッと小馬鹿にしたように鼻で笑い返してきた。


「ひとえに青と言ったって、色味や光の加減で違ってくるんだよ」

「へぇ」


 頭がいいとは思っていたけれど、芸術にも関心があるんだな。

 まぁ、美術の授業で色がどうのこうのと言っていたくらいだから何かしら、彼の興味を惹くものがあったのだろう。頭がいい、というのは関係ないかもしれないけれど。


 僕は彼の前では素直に馬鹿でいられるから「例えば?」と軽率に訊く。すると、途端に呆れた息を吐き出すもどこか愉快に南風は口を開いた。


「緑に近い青とか、紫に近いものも全部青だ」

「それ、青って言うの?」

「言うよ。だって、信号機の青はどう見たって緑だろ」

「あー……」


 確かに、言われてみれば。青信号とはよく言うけれど、あの光はどう見たって緑だ。それなのに無意識に「青」として認識しているのも不思議な話。


「ちなみに、《あお》にもいろいろと漢字があるわけなんだけどさ」


 段々と調子づく南風は、僕が持っていたシャープペンとノートを取り上げて、端っこに何か書き始めた。


 青、碧、蒼、葵


 見たことはあるけどまだ習っていない漢字をいとも簡単にサラサラ書いていく。


「これ、全部違う色なんだよ。知ってた?」

「え? そうなの?」


 純粋に驚いた。それに、南風が言うと僕はすぐに鵜呑みにしてしまう。僕が劣っているなんて後ろめたさはないのに。

 一方、彼も優位に立っているかのごとく得意満面だった。


「あぁ。全然違うよ。この《青》を基本としたら、こっちの《碧》は透き通った青緑。で、この《蒼》は濁った青緑。《葵》はどっちかと言えば紫に近い」


 淡々と、それでもどこか楽しげに説明をする南風。

 僕は顔を上げて、彼の目を怪訝に見た。


「それ、どこから仕入れた情報?」


 訊けば彼は冷めた真顔に戻った。そして、またゆるゆると肩を落として机に寝そべる。


「素直に驚けばいいのに。お前、つまらないヤツだな」


 つっけんどんに悪態をつかれた。


「まぁ、僕にユーモアを期待するほうが間違ってるけれどね」

「自覚してるならなおせよ」

「……考えとく」


 そんなに悪いことをした覚えはないぞ。ただ、彼が不満に思うなら検討しておこう。


「それで? なんでそんな雑学を知ってるんだよ。君の頭の中って知識しか詰まってないの?」

「知識だけあれば十分だろ」


 南風は渇いた笑いを飛ばして言う。そして、小さくため息を吐いた。僕の見えないところで。

 その微弱な音は、静かな図書室を震わせる。哀を浮かべたような息だった。


「……妹にそれを教えたから知ってるだけ」


 何の脈絡もなく、彼はそんな言葉を絞り出す。息苦しそうに。

「はぁ」としか答えようがない僕は本当に友だち甲斐のないヤツだろう。確かにつまらない男だとも思う。でも、共感にはまだ足りない。

 黙って先を促した。


「あー……そう、うちの妹の名前がさ、なんだよ」


 重たそうな指が《蒼》を指す。南風はそれから、後ろめたそうにもごもごと白状し始めた。それはなんだか年相応というか、むしろ子供っぽいというか。人を小馬鹿に薄ら笑う南風の姿とは程遠いものだ。


「あいつみたいに自由になりたいなぁって思ってたらさ、なんかムカついて。だから、わざと言ってやった。お前は濁った青だって」


 彼にしては要領の悪い説明なものだから、僕はまだ上手く答えることはできない。それが次第に苛立ちを募ったんだろう。声がぶっきらぼうに変化していった。


「多分、学校で課題が出たんじゃないかな。あいつ、自分の名前の由来を調べてたんだよ。で、おれが教えてあげたわけ」

「なるほど。要するに、君は嫌味を言いたいがためにわざわざ妹の名前を調べて、冷たくあしらってやったと。そういうことか」


 悪気はほんの少しだけある。

 僕は偽善者だから、彼の妹が可愛そうだなと思っただけだった。

 批難は、どうやら南風の心を刺激したようだ。でも、彼は荒々しく怒らない。妹の前では相当に悪ぶった兄貴なんだろうけれど、僕の前ではただただ面倒そうにため息を吐くだけ。


「――はぁ……」


 ほら、やっぱり。


「謝ったら?」


 他人のくせにズケズケと、善の他人事を投げこんでみる。

 南風は黙ったまま。机に突っ伏して、僕の方を絶対に見ない。


「悪いと思ってるから僕に白状したんじゃないの?」

「なんでそう思う?」


 今度はすぐに返ってきた。どんな顔をしてるのかは分からないけれど、その唸り声のような細く暗い声音のせいで機嫌が最高潮に悪いのは分かる。

 だけれど、ここで怯むなら僕に彼の友達を名乗る資格はないだろう。


「君にはもう一つだけ選択肢があった。平然と逃げることだ。僕の質問から逃げることができた。それなのに、君は答えることにしたんだろう? 少しの罪悪感があったから吐き出したくなった。違う?」

「………」


 南風はゆっくりと顔をもたげた。そして、瞼を細めて僕を睨む。口角は気まずそうに横へと伸びる。


「バカのくせに、そういうとこは鋭いんだな」

「なんだ、負け惜しみ?」


 けなされていても僕の口は調子づく。変な優越感。それは多分、彼を冷やかして楽しんでいるのだろう。

 僕はやっぱり優しくない。

 南風は「はぁぁぁー」と深く、不快そうな息を長々と吐き出した。息継ぎのようなため息だ。


「謝ったほうがいいよ。兄妹で折り合いが悪いとあとあと面倒だろうから」

「そういうのを気にする兄妹はそうそういないだろ」

「でも、仲が悪くなるのは聞いてしまった僕としては良心が疼くわけで。素直になりなよ」


 優しくなりたいなら、さ。


「うん……そう、する」


 南風の声はわずかに柔らかくなった。そして、くしゃりと顔を歪めて苦笑した。


「負け惜しみってのはあながち間違いじゃないな」

「へぇぇ?」

「いや、お前にじゃないよ」


 調子づいた僕の脳天を思い切り砕くように、彼は鋭く冷たく言う。そして、偉そうに腕を組む。

 でも、そのまま首をもたげて天を仰いだ。


「おれは、蒼が良かったんだ」

「え?」

「蒼が良かった。彩也なんかじゃなくて」


 諦めの声が浮かべば、途端に僕らの間にすきま風が通った。

 そんなことを、笑いながら言われたらなんと返せばいいか分からない。

 僕の粗末な語彙で表せるものはなくて、ただただ胸にチクリと刺すような痛みが走るだけだ。

 自分の名前を否定するのは、やっぱりあのことが原因なのか。これがもし、彼にあんなことが起きなかったら僕は森崎ほどじゃなくとも、何らかの冷やかしを投げていただろう。「君の名前って、可愛いよね」みたいな。

 名前を否定するということは、自分自身を否定することなのかもしれない。


「まあ、名前だけじゃないけど。とにかく母親からの期待が重いんだ。疲れる。だから、蒼みたいになんにも考えずに自由でいたい」


 それから彼は息を吸う。


「蒼になりたい」と、吐き出した。


 彼は、あおになりたい。その「あお」がなんなのか、ようやく分かった。そして、どうしても「あお」にはなれないということも――



 ***



 その時の顔をよく覚えている。

 優しくはにかんだ顔が寒気を誘ったから。

 気を緩めた表情にゾッとするなんて、僕はなんて薄情な友人なんだろう。

 いや。

 もしかすると、彼がもうこの世にいないからかもしれない。だから、あの嫉妬が重たくのしかかっているだけなんだ。まるで遺言のような言葉として、僕の耳に鮮明なほど残っているから。


 事故で死んだ、らしいのだけれど僕はなんとなく、そういう軽々しさで死んだとは思えなかった。

 彼は、自分が優しくなれないと諦めたから青春病の手に捕まった。そして、僕の力では引き止めることができなかった。

 だから、その責任を果たすため、青春を生き延びた僕が彼の分まで優しくなる。そんな義務はないのだけれど。

 でも、僕は彼にとって生涯の友だ。忘れたくても忘れられない友人――


 彼が死んだ5回目の今日、空は清々しくも笑えないくらい、青一色だった。

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青春病のきみたちへ 小谷杏子 @kyoko

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