第十三話 中古文学B第十五講(試験)

 時の流れを急かすような気持ちで今日が来るのを待っていた。この待ち遠しさに比べたら、前川さんが欠席した際の欠乏感など軽微なものだった。

 いつの間にか日が暮れて、外はヘッドライトが行き交う世界になっている。バスの中は気の抜けた車内灯で一応明るいが、隅には暗闇が居座っていた。いつも通りの振動が身体に伝わり、鼓動とともに俺の身体を苛んだ。苦しくてたまらない。

 見覚えのあるビルの看板が目に入った。大きな緑色のカタカナが書いてある。もうこの辺りまで来てしまったのだ、と焦る。正直実行する日が来るとは思っていなかった。想像と実際の行動は隔絶している。夢と現実くらい違う。干渉し合わないはずの世界が一致してしまった。今日俺は本当に告白なんてするのだろうか。散々準備をしたにもかかわらず、信じられない気持ちがある。

 不安を打ち消すために、スマートフォンを手に取り、連絡アプリの友達欄を眺め、この一覧に前川小夜の名前が載っているところを全力で想像する。おまじないか暗示のような意味で、ここ数日何度も行っていた。気休めでいいから心を安定させたいのだ。深呼吸して、立ち上がる衝動を抑える。

 困難な時間が早く過ぎ去ってくれるのが一番の救いになるのだと思う。

 高速道路の出口付近は渋滞していてバスが進まない。頭を横にずらしてフロントガラスの向こうを確認する。いくら見つめたところで事態が変化するわけでもないのに、視線を送らずにはいられなかった。早く進んでほしいけれど、できればずっと到着しないでいてくれたほうが俺のためだ。

 

 バスを降りた途端に冷気が顔を覆った。凍り付くような風が髪の毛の間をすり抜けていく。街灯と建物の明かりがオレンジ色の地面を作り上げていた。影すらもどこか赤茶けて見えた。東京の街はいつも人口の光で照らされていて暗くなるときがないようだ。


 反対向きに流れる学生たちの間をすり抜けて、震える足で大学の構内へ入っていた。実は今日の授業は試験だから、本来ならばそれに対して緊張するべきなのに、今この瞬間まで気に留めていなかった。背中に汗をかいた。今日でなければ全神経を集中できるのに。単位を落としたら、それはそれで困るのだ。弁当を食べた後で、取り繕うようにプリントを見直した。やはり全然頭に入ってこない。機械的に一枚一枚めくっていって、収穫なくファイルを閉じた。何とかして今の状況を変えるべきかもしれないが、改善策を思いつかない。意識が別のことへ流れてしまう。


 結局、意識が集中しないまま背中に汗をかいて試験問題を解くことになった。記述問題が二つほど出題され、両方の緊張で吐きそうになりながらいつも以上に汚い字で答案を書き連ねた。六十分経過したら提出して帰れるそうで、前川さんが早く提出してしまっても支障のないよう、早めに書き上げた。時間いっぱいまで席を立つ様子はなかった。俺も座ったまま最後まで教室に残った。とりあえず、ここまでは計画通りだった。


 試験が終わり、教室に残った半分くらいの生徒が一斉に答案を提出する。素早く戻ってきて、力の入らない手で荷物を片付けて、待つ。いよいよだ。とにかく自然な感じで行け。そう自分に言い聞かせながら、テニスの試合直前のコーチと選手を連想した。自分を信じて力を発揮してこい。さあ。

 教卓から戻ってきた前川さんに、

「出題内容意外でしたね」

と話しかけた。身体の支えが一瞬消えた。前川さんは少し怪訝そうな顔をしたが、すぐに応じてくれた。

「すごく難しくて全然書けませんでした」

「良かった俺だけじゃなかったんですね。いくつか試験受けましたけど、今回のは予想外でした」

「確か通教生の方ですよね。今何年ですか?」

「二年次です」

「ちゃんと進級されてるんですね。私はおととし入ったんですけど、あんまり勉強しなかったんでまだ一年次です」

「大変ですよね。一人だとなかなか集中してできませんよ」

 綱渡りの気分で会話をつなげる。浅い呼吸が苦しい。鼓動の緩急が気持ち悪い。手の平からその不穏な音が聞こえそうだ。視点をどこに持って行ったらいいかわからなくて、目が勝手に前川さんの髪の毛や着ているセーターの首の辺りを行き来している。

「国文学科ですよね」

「そうです」

「いつも俺の後ろに座っていらっしゃいましたよね、失礼ながらすっかり覚えてしまって。毎回おしゃれな上着を着ていらっしゃるから」

「あらま褒められちゃった。その辺で適当に買った品ですよ」

「いえでもとてもよくお似合いで……女性は本当に若い内からおしゃれでいいですよね」

「若いって、あなたの方が……お名前伺っても?」

「相沢といいます」

うまいこと名乗れた。なかなか順調だ。思わず唾を飲み込む。

「相沢さん絶対私より若いですって。私は前川っいうんですけど、もう二十七ですよ」

「二十七歳になられるんですか。全然見えませんね」

 視線がブレてしまった。平静を装いつつもかなり驚いていた。同い年か年下だと勘違いしていた。

 だが構わない。彼女と付き合えるなら六歳差なんて問題ではない。

「夜スクに来られるってことは近くに住んでいらっしゃるんですよね?」

「一応都内です」

 息をうまく吐けないままに吸い込んで、本で読んだ通りの方法を実行した。

「今度スクーリングの前に夕食ご一緒しませんか? いいもんじゃ焼きの店を知っているんですよ」

付き合う前のデートはもんじゃ焼き屋へ行くのがよいと書いてあった。さてどう出るか。言ってしまったからもう後には引けない。願望よ、実現してくれ!

 なぜか前川さんは吹き出して笑っている。困った。心臓が限界だから早く答えを言ってほしい。

……。

 やっと落ち着いた前川さんは、俺に慈悲深いまなざしを注ぎながら、こう言った。

「こんな若い男の子と食事なんか行ったら旦那に怒られちゃうわ」

「えっ」

天地がひっくり返った。

「ご、ご結婚なさっているんですか?」

「したのよ三年前に。ほら」

そう言って左手の甲を見せてくれた。薬指には金色の指輪が鎮座している。

 迂闊だった。もっとよく見れば良かった。

 顔から血の気が引いていくのを実感しながら、ばつの悪さを取り繕うために、告白の代わりの言葉だというのを隠そうと思った。だが現実はそう甘くなかった。

「あ、もうバスの時間だ。またね、相沢さん」

「はい。また」

出口付近で前川さんは振り返って

「もっといい彼女見つけなねー」

と言って手を振った。俺は苦笑いで手を振り返した。そして再び席に座り込んだ。


 緊張して体温が上がった身体に、外気は気持ちよかった。心臓は未だに高鳴っていて、ひどく空しく、名残惜しい。

 単なる不運は――他のことには直接影響しない、独立した不運は――かえって心地よいものだった。清々しささえ感じた。既婚者にそれとは知らずに恋をして勝手に一喜一憂し、案の定破れる。終始喜劇だ。俺は定めし道化役なんだろう。道化はどんな仕草をすればいいのかと、観客がいるような空想をして自分の身体を見下ろした。

 並んだ人たちが一斉に動き出す。右を見ればバスが到着している。


 電気が付いて、車内がやや明るくなってから高速バスが発車した。いつも通りの音声案内が流れる。明後日またこれを聞いたら、定期的にこのバスに乗る生活も一旦終わるんだ。試験は受かっただろう。予想通りの出題だったのだから。こんなことになるのなら、謙遜しないで話をすればよかった。案外簡単でしたね、とか、そんな感じで。

 バスはどんどん加速していく。流れゆく景色を見ながら、振り出しかよ! と叫びたかった――本当に叫ぶわけにはいかないから、叫ぶ自分を想像する――。これだけエネルギーを注いで、振り回され、散髪をして新しい服まで買って、結局何にもならなかった。大きくため息を吐く。どうしても今夜は道化に徹していたい。あえておどけて見せたほうが、かっこ悪くない気がした。誰が見ているわけでもないけれど、時々自分を演じたくなる。大きな出来事があった後なんかは特に。

 理想ではないけれど、予想とも違う結果が出た。これはこれで満足できる。達成感が疲れを昇華してくれる。結構良い一日だったじゃないか。振り出しだって構わないさ。今回は相手を間違えただけだ。次こそは付き合える子を見つけ出して、自然な恋愛をするんだ。道化にならなくて済むような。

 今度こそは、と俺は思う。今度こそ、彼女を作る。また、夜スクで恋しよう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜スクで恋しよう 文野麗 @lei_fumi_zb8

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ