夜スクで恋しよう

文野麗

第一話 中古文学B第五講


 通っている大学に俺を知る学生は一人もいない。だが俺は幽霊ではない。

 あまり知られていないがうちの大学には通信教育課程があって、自宅で単位を修得して卒業できる。俺はそういう通教生だ。

 大学は素晴らしい所で、面識のない奴とすれ違うのが当たり前の日常だ。こうして自動ドアをくぐり、複数人で笑い合う若者の間をすり抜けつつある俺は学部生にしか見えないだろう。若さの利益だ。

 しかし決定的な違いが一つある。彼らは既に自由の身なのに俺はこれから授業を受けなければならないことだ。それが悲しい。六限を取らずとも単位修得ができる身分になりたかった。

 大学の友達というのはどういう存在だろう。想像するしかない。あんな風にフロアいっぱいに広がって談笑するのはどういう気分なのか。そもそもどうやって仲良くなるのか。

 短いエスカレーターで三階まで上がる。通路には机と椅子がいくつか用意されていて感心する。俺がここでコンビニ弁当を食べることを、大学はいつから予測していたのか。近くにいるグループが手を叩いてけたたましく笑うので居心地は悪いが、三階で空いたスペースを見つけられた今日は幸運だ。下手をすれば五階まで探して歩く羽目に遭うのだから。

 机の天板にはしばしば落書きが残されている。今日は筆算した跡が残っていた。白米とから揚げに付着しなければ構わない。俺は平気でプラスチックの蓋を開ける。

 冷めきっていてこそ弁当の味だ。週二回も冷たいから揚げ弁当を食べているから作りたてのぬくもりなど欲しない。時折学部生が後ろを通っていく。互いに気づいていながら意識に上らないふりをする。気まずい。

 スクーリングは刺激になるが面倒だ。一定の単位は来校して授業を受け修得しなければならない。それをスクーリングという。種類はいくつかあるが、俺は夜間の授業を受ける通称夜スクでなるべく数を稼ぐ作戦をとっている。今日やってきたのもそのためだ。

 ただ、夜スクのためにと言ったら少々不足かもしれない。俺にはもっといい匂いのする餌が待っている。

 大学の壁はどうして全部白なのだろう。昔小学校の壁を雑巾でこすったら微妙に色が変わって、綺麗になったのだと喜んだ俺は届く範囲を力いっぱい拭いたが、通りかかった先生に壁用ワックスが塗ってあるからあまり拭かないでほしいとやんわり言われた。以来学校の壁を見るたびにワックスを意識するようになった。この壁もこすれば色が変わるのだろうか。

 何やらユニホームを着た男が数名通りかかった。全員坊主頭だ。あれが有名な野球部かと思う。稀に遭遇するが相当な連中に違いない。数秒箸を止めたが、彼らは俺を一瞥して無言で去っていく。気恥ずかしくなった俺は再び白米を口に運ぶ。仲間がいるのは羨ましい。俺は延々と思考に沈むしかないのだ。日常の感想を言い合える存在が欲しい。今の生活では、たとえ心に残ることがあっても俺の記憶にしばらく留まって消える。それで終わりだ。

 野球部員たちにも関心を示されなかった俺は再び壁に目を向ける。なんだか空しい。から揚げ弁当なんて全然うまくない。

 

 あまりに長い道のりを辿ってくるから本来の目的を見失いがちだが、今日の本番はこれからだ。三時前に家を出て、今六時。九十分の授業のために片道約二時間かけて通っている。単位を取るにはそれなりの労苦を要する。

 前から五番目、一番奥の席に座る。ここでなければ意味がない。きちんと数えて確認する。別の席に座ったら前川さんが困るだろう。

 前川さんには、恋をしたくて恋をした。いつの間にか二十歳を越してしまい、二十歳ですらなくなった今も彼女というものができたことがない。今すぐにでも相手が欲しい。性欲というものは理性とは全く別な領域で働くのだと十五で知った。あれから何年経つのやら。未だにその面で満たされたことがない。

 彼女が欲しいから、彼女候補を常に探していて、ピンときたらそれが恋だ。全然綺麗なものではない。確かに俺も中学生の頃は、恥ずかしげもなく純粋で神聖な恋をした。ただのクラスメイトが人間の姿を借りた天使に思われる単純さは謎としか言いようがない。俺も若かった。今はもういい歳をした男になってしまった。

 ベージュの机に据え付けられている椅子を引っ張り起こして座る。子どもの頃はパイプの折り畳み椅子すら楽しかったが、いつの間にかこんなものは不便だとしか思わなくなった。前のめりになると、一緒に椅子も動いてしまう。一気にやる気をなくして非番モードに入ろうとする怠惰さが嫌だ。バッグはカーペットの上に置く。誰かが座る見込みがなくても椅子は使わない。学部生は荷物がたくさん必要な気がするが、彼らにはロッカーがあるのだろうか。

 砂利道を歩くような足音を立てて、学生たちが次々と入ってくる。カーペットは摩擦が大きくて靴が痛そうだ。数人連れで来るのは学部生だろう。他の学科はそうでもないらしいが、国文科は通学過程の夜間時間の授業がスクーリングを兼ねている。だが学部生は全然そんなことを知らないからここにいるのは全員自分と同じ立場だと思っているのだ。俺は心の中で舌を出す。

 彼らも別に敵ではないし、前川さんも学部生に違いないからあまり悪く思わないでおこう。

 ところでさっきからずいぶん待った気がするが、まだ彼女は現れない。今日は休みなのか? まさか他の席に座っているのか? 後者だとすると俺の未来を根底から覆すことになるから違っていてほしいのだが。急に鼓動が激しくなり、呼吸が苦しくなる。恐る恐る教室を見回した。すると後ろの扉から、今まさに前川さんが入ってくるところだった。そしてまっすぐこちらへ向かってくる。安堵した。とりあえず今週はクリアだ。

 前川さんはこの授業で必ず俺の斜め後ろに座る清楚な美女だ。緩く巻かれた亜麻色の髪に、クルミのような大きな目。鼻筋は通って唇は小さく薄い。輪郭に関しては絵に描いたように完璧だ。いつも腰にくびれのある服装をしていて、それがまたいい。最初の授業から目に留まる美人だった。あの時彼女は俺の後から来て席に着いたわけで、それを毎回変えないとなると、向こうも俺のことを気にかけているのかもしれないなどと思う。ほんの少しだが、期待している。話をしたことはないが、出席カードが回収されるときに、後ろから渡されたカードで名前を覚えた。決して盗み見たわけではない。たまたま目に入って、覚えてしまったのだ。彼女は前川小夜という。

 さきほどからずっと前川さんのことを考えているが、周りは気づいていないのだろうな。俺はずっと無表情でいる。一日中自分としか会話しないから表情の作り方がわからなくなった。もしかしたら不機嫌だと思われているのかもしれない。無言の他人は大抵不機嫌に見えるものだ。しかし実際、今は上機嫌だ。

 教員は時間ぴったりにはやって来ない。少し遅れて教室に入ってくる。あれは気を遣っているのだろうか。スーツを着ているから簡単に見分けがつく。彼が入ってきてドアを閉めたその瞬間教室は静まり返る。あの存在感は大学教授になると身に着くのだろうか。この場がアニメだとすると、彼は明らかに一人だけ鮮明に描かれているのだ。オーラに輝きがある。優越感といくらかのカリスマ性を漂わせながら少し若い教授はレジュメを配っていった。

 授業は入念に準備されたものだ。大学に入ってようやく理解できた。自分の研究の傍らで、ごくごく入門的な内容の授業を計画してレジュメを作っているのだ。素直に有難いと感じる。今日の講義は歴史物語を取り扱うらしい。

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