第二話 日常生活
午前十一時が始業時間だ。遅いかもしれない。だが十時前までは身体が動かないのだから仕方ない。睡眠導入剤は肉体を地に縛り付ける。
タイマーをセットして、教科書として指定された書籍を開く。五十三分が一コマと決めている。いつも昼食前は一コマしかできない。机の上段に現在使っている教科書が並んでいる。今まで何冊も購入したが統一感はない。内容はもちろんのこと大きさすら揃わない。たまにB4サイズの本が届く。一度だけ文庫の時もあった。単位が取れたら一冊ずつ移動する。全て無くなった時が大学生活の完了なのだろう。その瞬間どんな自分になっているのか想像もつかない。勉強は計画を立てている時が一番熱心だ。立派な科目名を並べて書くと、自分は学問を志している人間なのだと誇らしくなる。ただ試験の前になると目の上のたんこぶでしかなくなるのは悲しいことだ。それでも新しい科目を前にすればまた無邪気に学問を志す。初志貫徹してみたい。
自宅学習の日は前川さんに会うことができない。「テンスとアスペクト」について読んでいるこの瞬間にも大学で彼女が男と仲良くなっていないか考えてしまう。俺は週一回しか会えないが、毎日会える奴は数多くいるのだから完全に不利だ。条件が悪いなら、その分魅力的な男になろう、などと考えてから「テンスとアスペクト」に戻る。
教科書を一通り読む作業は三、四コマで完了するから、文法論もあと少しで次の段階へ移らなければならない。
昼食はレトルトカレーだ。一人きりの食事は最低限の準備で済むこと以外求めない。平日はレトルトカレーか冷凍から揚げの二択。現在の生活を始めてからずっとそうしてきた。俺は常に時間に追われている。たいていレトルトカレーをレンジで温める時間しかない。
一日に五コマできるかどうかが合格不合格の分かれ目だ。無論自己評価の合否だが、これが自信と満足感の唯一の根拠なのだから、勉強時間が足りない日はすなわち不幸せな日になってしまう。必死に五コマ分時間を確保しなくてはならない。
午後は長いが、不思議と怠けたくはならない。現在取り組んでいる三科目に集中できる。高校生の頃はひっきりなしに机を離れていたが、ようやく学ぶことの快さを理解できたのだろう。この真面目な俺の姿を前川さんに見せたい。どうやら授業を平気でサボるらしい世の大学生とは一味違うのだ。もちろん披露する機会など決して無い。たとえ付き合えたにしても。
勉強時間を終えたら筋トレをして、それからゲームをする。オープニングが流れるときのあの喜びはたまらない。ところで、何をしても俺の日常は終始独白だ。自宅の敷地から一歩も出ない日がほとんどだから話をするのはごく少数の知り合いだけである。これも引きこもりに入るのだろうか。外出できないわけではなく必要がないからしないだけなのだが。
ゲームをして満足したら次は英語の学習だ。ある程度使えるようになりたい。誰かと英語で話す未来を想像しながら、英文の音読をしていてあることに気づいた。今日は日本語すらまともに発していなかった。
時々授業以外でも学生気分を味わえる。いつもと違って昼間の大学に来られるのだ。レポートを書くためには当然参考文献が必要で、大学の図書館で探すこととなる。
俺はこの日を楽しみにしていた。昼間は構内のどこかに前川さんがいるはずだ。運がよければ図書館内で会えるかもしれない。確かに今までこういう期待はほとんど裏切られてきた。高校一年の夏に同級生がスーパーでアルバイトを始めたと聞いたとき、俺は汗だくになって自転車を漕ぎ、市内のスーパーを三軒も回った。遠くの方からレジの周辺を目を凝らして探した。働く彼女の姿が見られるなら時間など惜しくなかったのだ。それでも会えなかった。脚の筋肉痛だけが残った。他にも幾度かの苦い経験をしたが、だからといって、今回の願いが叶うことを疑ったりしない。期待は実現するのだと信じてここへ来た。
利用者カードを通して入り口をくぐる。奥から順番に見回せば行き違わずに彼女を見つけられるだろう。古い紙とインクの匂いを身体に取り込みながら、通路を順番に覗く。会って何かしようというわけではない。ただあの姿を目に写せれば幸せなのだ。嗚呼何だか本当に館内にいる予感がしてきた。この胸騒ぎは幸運の前触れではないか? あわよくば会話できるかもしれない。声をかけて、中古文学の授業に出てますよねなどと続ければ自然だ。
無心で館内を三周くらいした。しかしどうもおかしい。全然姿が見えない。既視感を覚えた。また根拠のない確信によって益のない行動をとっている気がした。
だがどうして衝動を抑えられよう。何かを得るために始めた動きが何も得られないまま止まるはずがない。こうして歩いている間に彼女がやってくるかもしれない。
しばらく意地になって歩き回って、ふと気がついた。俺は図書館でウォーキングに励む不審人物だ。
何をしに来たのかすっかり忘れていたがレポートの参考文献を見つけなければならないのだ。何冊か探し出してバスに間に合うように帰らなければならない。
いたたまれない気持ちになって、思わず人目につかない場所に引っ込んだ。どうせ今日しか顔を合わせない人間たちだ。司書の人も俺の顔など憶えていまい。頓着しないで本を探そう。そう自分に言い聞かせたが、すれ違う人間全員が俺を不審がっている気がしてならなかった。何をやっているんだろう。メモ書きしたルーズリーフを確認しながら十冊借りた。テーマとなんとなく似通った書籍を、よく確認せず片っ端から取っていった。非常に重い。選ぶ余裕がなかったのだから仕方ないが、とにかく重い。
紙袋は両手の指に食い込んだ。一歩一歩踏み出すたびに指の血管がせき止められて手の平に血が溜まった。何という独り相撲だ。情けない。よく考えたら平日の昼間、前川さんは授業を受けているのだから図書館にちょくちょく現れたりするはずがない。偶然に会おうなどと考えるのは虫が良すぎた。
高速バスを降りるとすっかり暗くなっていた。夕方の風は冷たかった。こんなに容赦無い環境なのか、家の外は。こんなに厳しい世界だったのか。人工の光と暖かさの無い世界を歩くのは過酷なことであった。ずっと忘れていた。
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