第三話 通院
もしかしたら今日の一言が未来を切り開くかもしれない。期待はしておこう。だがきっと、苦笑いとともに希望は潰える。
並んだ頭の向こうに青空と田んぼが広がっている。誰も言葉を発しない車内は、人々の表情の割に朗らかだ。人並みに電車に乗って目的地に向かう。二週に一度の非日常。
病院は季節を問わず混雑している。壁と通路には公共物特有の汚れが染みつき、人の声と消毒液の匂いが充満している。あまり好きではないこの場所にもう五年も通っている。
精神科の待合室は昨年あたりから空いていることが多い。以前は毎回大変な混みようで座る場所が無いくらいであった。あの患者たちはどこへ行ってしまったのだろう。通院せずとも良くなったのか? 俺がまだそう言われないのだから違うだろう。
待ち時間は苦痛だ。耐えられるがとにかく暇で暇で仕方ない。ゲームをしたくなる。診察より何よりゲームが待ち遠しい。
主治医の前に座るなり、俺は用意しておいた台詞を言う。
「アルバイトを認めてください」
発音に笑いを含めながら媚びてみる。しかし返答は予想通り期待外れだった。
「バイトを考えるならまずデイケアからだね」
かすかな希望があっけなく消えていくこの瞬間。はじき返された意思が床に落っこちてつぶれた。もう話すことなど用意していない。主治医は何事も無かったかのようにいつも通りの質問をする。薬は変更なし。カーテンを再び開けるまで五分とかからなかった。嫌な方の未来を今、歩いている。待合室に戻るのが口惜しかった。
デイケアに戻る気はないから主治医の気が変わるのを待つしか無いのだ。待っている間に俺の若い時間はどれくらい過ぎていくのだろう。
ベンチに座って窓口を見つめる。ややあって名前が呼ばれた。本当は病院自体に来たくないのだ。早く済ませて帰りたい。立ち上がりながら思った。保険証の確認が済んで、とりあえず精神科の患者から外来患者に変われる。何が変わるってよそ目がだ。
廊下を辿れば例の分かれ道が目に入る。一般にはトイレのある場所と認識されているだろう。俺はばつが悪くて他のトイレを利用する。もう半年くらいになる、俺がデイケアをやめてから。
あの細い通路の奥には屋外に出る扉があって、屋根とコンクリートの間を進めば別の建物に辿り着く。そこがデイケアの会場だ。中の様子は全然病院らしくない。学校の部室とか習い事の教室に近い気がする。入ってすぐ右側の一番目立つ大部屋には参加者の作った切り絵や布製品が展示されていて、廊下には「今月の予定」と書かれた紙とか「○○年度秋遠足」の写真なんかが貼られているのだ。
毎回雨が降っていた記憶がある。暖房の効いた薄暗い廊下は外の肌寒さを実感させた。すれ違う他の参加者に気まずく挨拶しながら塗り絵の先生に出席を伝える。いつ行ったときも決して視線は前に向かなかった。
塗り絵は会議室のような部屋で行った。他の人とは近すぎない位置に、けれども目立つほど遠ざかることはせずに座って、ベタベタと色鉛筆を塗りたくった。全く思い通りにいかなかった。一度描いてしまったところはもう修正が利かず、他の色を無理に重ねると汚らしくなった。どのコピーにも失敗の跡がはっきり残った。
あのとき指導でもしてもらえたらまだ違ったのかもしれない。ここはもっとこうしようとか、次はあれが出来ることを目指そうとか、そういう「現在の否定」がいくらかでもあればつらくなかった。ところが一切ないのだ。治療だから。
デイケアは部活でも習い事でもなく、社会復帰を目指して定期的な日中の活動や他人との関わり合いを訓練する治療だ。参加者は残らずここの精神科の患者。誰を見ても表情に傷跡が残っていて、笑顔の下には悲痛な過去が覗いていた。俺以外は全員中年であったから、おそらく一度社会生活を送れなくなったのだ。
半日だけのプログラムから始めたが、いずれ午前も含めて一日活動する方へ移行させられるらしかった。俺には耐えられなかった。ここにいては駄目だと感じた。人生を諦めないで前進しようという、全体に浸透した目標が俺をじわじわと責め立てるようであった。どうしても同じ方向を向けなかった。なぜなら、俺は人生を諦める可能性など考えたことすらなかったから。
二ヶ月くらい通って、はっきり受け付けないとわかった。俺は「病院」を「病欠」した。一ヶ月続けて欠席したら電話がかかってきて、その場で俺の休止が決まった。半年経ったからもう中断扱いになっているだろう。
墓石のように堅いベンチでゲームをすればあっという間に電車の発車時刻となる。スマートフォンから遠くの改札口に視線を移すと白い残像が視界いっぱいに居座っていた。歩いているだけでやけに慌ただしい。よくよく辺りを見回すと、中高の制服だらけだ。黒と紺の集合体。学校帰りの時間に当たってしまったのだ。
溢れ出すエネルギーは年齢によるものか、友達といるために発生するのか。俺も昔は苦笑するような目で見つめられていたのだろうか。
夕方のホームは寒い。空腹を感じながらブレザーに混じって乗車口の前に並ぶ。スマートフォンを確認する。この場所で電車を待つ時間が一番暇だ。発車時刻の少し前に電車はやってくる。
車内の暖かさに手を伸ばしたくなる。乗り込むとボックス席の車両だった。席を見つけて座って初めて後ろに並んでいた人の多さに気づく。座れない人が出てしまった。扉にもたれかかってスマートフォンをいじる男子高校生を前にして、考えた。三時間くらい診察に費やしただけの俺はそんなに疲れていない。しかし彼は一日学校で過ごしてくたくたのはずだ。数駅立ちっぱなしはつらいだろう。善は急げというわけで、席を立ち、離れたつり革に移動した。
怪しまれないように少し待ってから、無事に座れたかと横目で確認してみると、彼は相変わらず立ったままで、別の座席で相乗り状態だったサラリーマンが俺のいたところを占めていた。自分のかっこ悪さが何だか可笑しかった。
たとえ思い通りにならなくても、今日は降りる駅に着くまで座るわけにはいかない。さすがの自己陶酔も長くは続かず、三駅過ぎる頃には脚が痛くてうんざりしてきた。電車が地元の駅に早く着くことばかり望んでいた。本当、馬鹿みたいだ。
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