第九話 悪夢一
お前らなんかと啖呵を切って出てこられれば良かったけれど、臆病な俺にはそこまでの勇気はなかった。上着を着てリュックを持ち、愛想笑いを浮かべながら幹事に「そろそろ帰る」と告げて会場を後にした。挨拶する者はなかった。暖房が効いた場所から追い払われた。自ら出て行ったのではない。退けられたのだ。排斥されたのだ。
外は耳がちぎれそうなくらい寒かった。風が口笛を吹いて俺の身体をどこかへ掃き出そうとする。通りに面した明るい店は外まで歌や笑い声を響かせ、等間隔に並ぶ街路樹は昼と同じ顔をしながらこちらを睨み付けていた。道路は黒猫の背のように不穏に艶めいていた。空は墨汁のように真っ暗で、地上をも侵食していた。暗闇は薄められた毒薬だ。吸い込めば身体に障る。多量に摂取すれば死が訪れる。人間たちが皆暗闇の中に閉じ込められればいいのに。
俺の他に歩く者はなかった。時折車が脇を通り過ぎていった。一瞬犬の遠吠えが響いた。
俺は天涯孤独なのだ。世界に独りぼっちだ。人と親しくなれない星の下に生まれたのだろう。きっと一生このまま過ぎてゆく。
薄汚れた駅に着くまで五分。この世界が俺を辱めた時間はいつからいつまで?
遠い昔に期待をして裏切られた。裏切られながらもまだ信じていた。自分の生きる世界がそこまで残酷であるとは思えなかった。遠い昔だ。夜の暗さを知った今となってはただただ愚かにしか思えない。こんな世界に生きる者がどうして希望など持ち得よう。
ホームのベンチに座って呆然と電車を二十分待った。しかし電車へ乗ってどこへ行くというのだ。この世界に俺が行くべき場所などあるのか? 安住の地などとうに奪われている。闇夜に消えていくほかに未来はない。真っ暗に透明に消えてゆきたい。呪詛しながら。
呪詛されていることも知らず、電車はやってきた。大人しく乗り込んで自分自身を傷つけた。
何も考えたくなかった。いつまで経っても車内の照明に目が慣れなかった。人間の声が忌々しい。干渉されるのはごめんだ。俺の思考を邪魔するな。
理性が嫌な現実を無理矢理見せつけてくる。俺は高校へ行って病気になって、青春の楽しさを全く味わえなかった上に大学も通信課程しか選べなかった。今日まで歳を重ねても本当の仲間を見つけられていない。だがあの連中は、高校生活を日の当たる場所で過ごし、ふざけ合いながらも大学に合格し、今もなお人生を謳歌しているんだ。俺が欲しくてたまらないものを当たり前のように全て手に入れて生きている。
不愉快だ。何の因果で、幸せでない方へ振り分けられた上、そのことを痛感しなくてはならないのか。
今すべきことがあるのを直感した気がする。強烈にしたいことが俺にはある。
無意識のうちにコンビニへ向かっていた。ゆっくりと店内を歩いていると、吊り下げられたプリペイドカードが目に入った。
手に取ってみた。何かが俺を招き寄せていた。ゲームの中に意識が飛んでいきそうだった。これだ。これがしたくてたまらなかったのだ。
財布にあった一万円で一枚買った。
肘が痛くなって気づいてみれば、一万円課金した分でアイテムとプレイ回数を入手して、六時間もプレイしていた。自室の窓から疎ましい朝日が差し込んでいた。ずっと液晶画面を直視している目は腫れ、まぶたが落ち込んでいる。何度もあくびが出る。遠くなる意識を連れ戻してはゲームを続けさせる。指は止まらない。
落書きで埋もれそうな白い壁と汚れた道路。世にも奇妙なダンサー達が踊りながら練り歩く。色とりどりの、ゲームとアニメのキャラクターと名前も知らない着ぐるみと、映画に出てきた化け物が次々と流れていく。聞き覚えのある曲の断片がいくつも同時に流れていて、たまに知らない声で知らない人が歌う。あれは誰なのだろう。どこの世界から来たのだろう。どうしてわざわざ俺の頭の中で歌うのだ?
俺もその中に加わりたかった。しかし頭の中には入れないから眺めていることしか出来ない。
だんだんと混乱してきた。緊急事態だ。俺の頭は俺に寝ろと命令する。一刻も早く寝てくれ耐えられない、と。寝るわけがないだろう。今から、もっといくらでも混乱させてやるから。覚悟しておけ、俺。
世界を破壊してやろうと思ったのだ。世界の破壊とはすなわち自分自身の破壊だ。俺さえ壊れればこの世界は台無しになって元に戻らなくなる。寝ることも食べることもやめて大好きなゲームをやりつづけ、身体か頭をおかしくしたい。おれはそのために生まれてきたのだ。
壊れてみるか。あの頃のように。あの頃のように。
***
バーコードが付いたタグを手首に巻かれ、全ての者と同じ水色の薄い衣服を着せられ、中に入るとすぐ入り口に鍵がかけられた。口臭に似た酸っぱい臭いが鼻についた。壁にははっきりと茶色い汚れが見えた。入院患者たちはごくごく静かに廊下を歩いていた。
相撲の中継がどこか遠くから聞こえてきた。看護師に尋ねてみると、あれは広間にあるテレビで流れているらしかった。個室にはテレビがなかった。携帯電話もパソコンも使えなかった。大げさなベッドと小さな荷物置き場だけが俺の空間だった。
俺が精神科に入院することになったのは偏に臆病さと怠慢さのなせる技であった。学校へ行くくらいなら病院で寝ていた方がマシだと思ったのだ。完全なる誤りであった。初日に悟った。
トイレには手洗い石鹸がなくて、母の持ってきた差し入れを手で食べる気になれなかった。病院食はひどくまずかった。まるでぼろ布だった。あの頃の食事を覚えているからこそ、今は何を口にしても心からありがたく感じるのだ。
自分の病室も廊下も広間もどこへ行っても消化液と排泄物の混じった臭いが立ちこめていた。淀んだ空気さえも閉じ込められたまま、外の世界へ出られないらしかった。出られるのは医師のみ。看護師すらずっと病棟から出ない。見舞いは俺の母が来るくらいで他は全然人の出入りがなかった。目に映るのはいつまでも代わり映えのしない景色だった。
病人は中年と車椅子に乗った年寄りがほとんどだった。髪は手入れがされず皆くしゃくしゃだった。少なくとも男性患者は週に三度の風呂の時以外髪に触れないように見えた。
夜には看護師にトイレの回数を言わなければならなかった。四人部屋で他の三人が当たり前のように答えているのを新参者の俺は――そのときにはもう諦めきって――眺めていた。最後に俺も答えなければならなかった。これ以上の屈辱はなかった。まるで幼子のように身体のことを管理されるのだ。
欲求が満たされることは一切なく、苦痛と羞恥だらけであった。
そんな環境で、一日中ベッドに横たわっている以外何も出来なかった。天井は白かった。長方形がいくつも並んだデザインだった。見えるのはそればかりだった。
目の前の果てしない無聊は絶望だった。起きているのが苦痛だからいつまでも眠っていようと思った。眠れるだけ眠った。だが一向に時間は減らなかった。医師から言い渡された一ヶ月を懲役のように思った。刑務所に入ることが罰になるのは外に出られないからとか自由がないからとかではなく気が狂いそうなくらいの何も出来ない時間の中に置かれるからなのだと思い知った。
病気になるとこういうところへ押し込められるのだ。治療なのか罰なのかわからなくなった。もしかしたら怠惰だったことに対する天罰かもしれなかった。学校から逃げたことに対する罰。
だがたとえ絶望だとしても暇なだけならまだ生きていけた。俺の人生最大の試練は入院した日の夜に訪れた。
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