第十二話 高揚

 ラウンジには派手な服装の学部生達が集まっている。一人残らず笑っていて、手を叩いたり、相手の肩に手を乗せ可笑しさをこらえようとしたりしている。楽しそうに、幸せそうに。

 彼らには何の罪もない。俺に危害を加えたりしない。

 俺は考える。昔の冷たい同級生たちを憎みながら、同時に自分にも怒りを向けていたんだ。彼らから俺を守ってやらなかった自分に。半分自分を痛めつけていたから、あんなに苦しかったのだ。

 自分を赦してやろう。幸せになろう。心の中でしっかり言い聞かせる。誰の目もはばからず、思ったままに生きよう。堂々と理想を追い求めるんだ。俺は惨めじゃない。

 涼しい顔をしてラウンジを通り過ぎた。


 冬休み明けの大学には、まるで正月などなかったかのように日常が戻ってきていた。掲示板には年末の行事の案内がまだ残っていた。そういえば入り口には駅伝の際の写真が飾られていたから、やはり新しい年に変わったのだなあ。今実感した。俺が自宅で正月を過ごしている間も大学は通常通り空いていて、学部生たちは相変わらず集まって騒いでいるような気がしていた。誰もいない大学というのは想像し難い。


 先日シラバスを確認したところ授業は残すところあと二回だった。俺は決意している。今日の目標は前川さんに話しかけることだ。できれば告白をしてきれいに振られたい。何もしないまま会えなくなって失恋するのはもうまっぴらだ。失敗に終わってもいいから、行動に移したという実績がほしい。

 告白する場面を想像したら脇から汗が出てくるのを感じた。冬だというのに。恥ずかしいものだな、恋人になってほしいなどと言うのは。これほどに弱点を晒す機会はないだろう。

 もし万一付き合っても良いという答えだったらどうしようか。いや、そんなことはありえない。

 付き合う者たちはいくらでもいるのに、この過程を想像できないのは不思議だ。皆こんなに恥ずかしい賭けをしているのか。まるで中学生ではないか。


 緊張のあまり、夕食の弁当を大慌てで食べてしまった。時間が余っている。あと三十分しないと授業は始まらない。教室には俺の他に誰もいない。遠くの方から話し声が聞こえる。暇だ。ゲームをしようと思ったら、イヤホンを忘れてきていた。

 仕方がないから、スマートフォンを取り出したついでにニュースを見る。誰それの発言が炎上したとか、どこかの国でデモが起きたとか、刺激のある見出しが並んでいる。俺の気も知らないで場違いなものを見せるものだ。もう自分以外のことに割ける注意力などないというのに。スマートフォンをスリープ状態にしては戻して、アプリを開くわけでもなくページを動かした。

 そのうちに人が来る。前川さんはまだ来ないだろう。いつも彼女はギリギリにやってくるのだ。もし来たら「早くない?」 とでも話しかけようか。つい自分に冗談を言ってしまった。

 などと考えていたら、本当に現れたから驚いた。前を向く。彼女の足音に耳をそばだてる。ハイヒールがカーペットにこすれる響きは短く高い。上着を脱ぐときの衣摺れの音に背中がくすぐったくなった。

 動揺している場合ではないのだ。今日はこの人に話しかけるのだ。しかも不審さがない自然な感じで。場合によっては告白まで行くのだ。今からそんな調子ではまたチャンスを逃してしまう。元気を出せ。

 そんな考えが高速で頭に流れていた、そのときだった。

 何やら左耳の後ろで声がしたのだ。

「すみません、すみませーん」

一瞬振り向くのがためらわれた。そうっと首を後ろに向けた。目が合った。愛しの前川さんが俺に何か言いかけている。

「前回試験の話とかありました? あの、私前回とその前欠席したんでわからないんですよー」

「……天候不良のときですか?」

俺の声はこんな感じだったか。

「天候不良のときと、その次の週です」

「天候不良のときは俺もいなかったのでわかりませんが、たぶんしてないと思います。前回持ち込み可だと言ってました」

「あとそれから、休んだときのレジュメってどこでいただけるかわかりますか? 先生にもらうのかしら」

大慌てで頭の中から情報を探した。

「研究室の前にまとめて置いてあるらしいです」

「わかりました。ありがとうございますね。いつも熱心に授業聞かれてますよね」

「いえ、そんな」

「私通教生なんで、全然聞ける人いなくて。助かりました」

「……俺も通教生ですよ」

「あ、そうなんですか。全然見えませんね。いいなあ」

 会話は終了した。倒れそうになったが冷静を装って椅子に腰掛けた。

 髪型をなんとかしよう。それが最初に考えついたことだった。むさ苦しいものをこれ以上彼女に見せてはいけない。服もこの着古したトレーナーとズボンではなく新しいのを買おう。まともな姿になって来週もう一度彼女と会おう。

 驚いた。まさか成功する可能性を感じるなんて、予想外も甚だしかった。呆気にとられたまま一日が終わった。


 まるで頭の中にヘリウムガスが詰まっているようだ。常に宙に浮いている。頭の先が空気よりも軽くなった状態で自宅学習をこなす。何も手に付かないかと思ったら、素晴らしい記憶は努力するエネルギーをくれるのだった。ノートパソコンにレポートのアウトラインを打ち込んで、一段落付くと、もしかしたら、と何十回も考えた内容をまたなぞる。とりあえず良いことがあったのだから、それに答えるような気持ちでアウトラインにもう少し付け加える。

スマートフォンが振動する。とりあえず午前はここまでだ。締まりのない顔を母に見られないように、唇を引き締めて階段を降りた。


 チャーハンを頬張りながら、パートが休みの母に、目を合わせないよう気をつけながら言ってみる。

「服欲しいんだけど」

「服? 新しいの?」

「そう」

「珍しい。いつも買いに行くの嫌がるのに」

「必要なんだ」

「何に?」

「必要なものは必要なんだ。お金ちょうだい」

「一人で買いに行くの?」

「当たり前だろ」

 勘づかれたらどうしようかと顔が火照った。家族にだけは恋愛事情を知られたくない。何があっても。


 人生の味は甘い。苦味ばかり感じていたけれど、あの日から生きるのが喜びになった。

 不審だとか怠け者だなどとは全然思われていなかった。熱心に勉強していると感心されていたのだ。あの人に良く思われているというそれだけで、つらかったことも悲しかったことも問題ではなくなった。鏡に映った自分の顔には過去の記憶が刻まれているなんてことはなく、上機嫌で髪を整えられる男がいるだけだった。ハサミを動かす茶髪の理容師は、間を置かずに来店したことを珍しがっていた。勘付かれたら少し嫌だけれど、構わない。そういえば何かの小説でも、恋をした主人公は床屋へ行っていた。彼も男だ。老人だったが。

 まさかあんなにささやかな会話をしただけの男がここまで自分のことを考えているだなんて、彼女は思っていないだろう。散髪をして服まで買ったと知ったら相当驚くに違いない。恋は人間を突き動かす強烈なエネルギーになるんだ。

 あの時の会話を頭の中で繰り返し再生させる。輝く記憶だ。前川さんは思ったより親しげな話し方をする人であった。今回は天使ではなく普通の人間に恋をしているつもりだったが、やはりどこかで崇高な存在だと認識していたらしい。だから意外に感じたのだ。だが実際に話したことで、少なくとも以前よりは彼女の人となりが伺えた気がする。通教生とは意外だった。それだけで可能性が広がった気がしたのだ。同じ悩みを抱えているかもしれないし、これから一緒に授業を受けたり試験のときに顔を合わせたりできるかもしれない。とにかくあの体験は奇跡だった。しかしただの幸運ではない。決まって同じ席に座り続ける努力が呼んだ幸運だ。

「こんな感じでいかがですか?」

理容師が鏡を通して俺の目を見た。

「だいぶすっきりしたと思います。後ろも整えておいたので全体的にさわやかな感じに仕上がりました」

 清潔感が大切なんだ。何よりもまず清潔という印象を与えなければそれだけで振られてしまう。

 開閉すると音が鳴る仕掛けのドアを開け、頬から順に体を冷たい外気にさらしていく。これから書店へ行くのだ。告白を成功させるコツが書かれた本を探す。空は晴れ、空気は軽く、清々しい。

 今回だけはどうしても成功させたかった。手に入りそうもないからこそ欲しいんだ。身分不相応だからこそ勝ち取らなければ気が済まないんだ。

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