【壱】14

 家の中に小太郎を招き入れるのはまだ抵抗があったが、恥ずかしそうに手洗いを貸してほしいと言われてしまえば、さすがに結維もどうぞと言わざるを得ない。小太郎は外廊下をまわってトイレに入った。ついでに洗面所も使っていいと言っておいた。

 そのあいだに結維は寝室で着替える。着替え終えると同時に、中廊下側の襖の向こうから小太郎の声がした。

「結維どの。使わせていただいた。ありがとう」

「うん」

 結維は襖をあけた。小太郎が少し離れて立っている。

「いま、ごはん出すから、ダイニングで待ってて」

「何か手伝うことはあるか」

 小太郎は少しそわそわしたように言った。トイレに向かおうとした結維は、え、と振り返った。

「小太郎、料理できるの?」

「祖父と暮らしていたとき、俺が食事当番だった」

 小太郎はきりっとした顔で言った。それが少し稚気を含んだ自慢に見え、結維は思わず笑った。

「そうなんだ? でも、ここの台所使える? わからなかったら教えるけど」

 結維はそう言いながら、ダイニングキッチンへ入った。内装はまだ新しいし、設備もオール電化だ。

「IHなのよ」

「それなら使わせてもらったことがある」

 小太郎は何故かいかめしい顔つきでうなずいた。「火を使わずに煮炊きできるとは、なんと便利な世の中になったものかと驚いたな」

「小太郎って昔のひとみたいなこと言うのね。口調が時代劇みたいだし」

「そのようだな。しかし俺はこう話すのがふつうで、……耳障りならすまないが」

「耳障りじゃないよ。ただ、めずらしいだけ」

 結維は内心で自分の軽口を少し後悔した。自分がふつうだと思っていることを風変わりだと取り沙汰されるのは少なからず苦痛をもたらす。結維もそれは知っていたはずだった。なのに、やってしまった。こういうところが母や兄とも通じる無神経さでもあることを、自覚していたのに。

「ごめんね、わらったんじゃないよ」

 シンクの前で隣に立った小太郎を見上げると、彼は少しだけ目を瞠った。

「いや、そのようには思わなかった。気にしないでいただきたい」

 それから小太郎は少し顔を綻ばせる。「とにかく、俺は何もかも昔ふうかもしれないが、ある程度、今の時代のものも知ってはいる。だが、無知に過ぎることは否めない。これから教えていただけるとありがたい」

 まるで過去の時代から来たひとのように、小太郎は言った。


 ダイニングキッチンの雨戸をあけて室内を明るくしてから、小太郎に、おおまかにどんな食材があるかを教えた。それらを見た結果、やはり何かつくると小太郎が言うので、少し不安になりながらも、結維は洗面所に向かった。トイレを済ませて洗顔をする。

 同年代の女の子はこのタイミングで化粧をするのだろうが、結維はさしてそういうことに興味がなく、せいぜい基礎化粧品の上に日焼け止めを塗る程度だ。その後、髪を結って適当に整えた。

 だいたい、結維の通っていた高校は校則が厳しく、化粧をしていることがばれたり化粧品が持ちもの検査で見つかったりすると謹慎処分になることもあったほどだ。なのに高校を卒業したら女は化粧をするのがマナーだなどと言われても困る。高三の三学期に特別授業で身だしなみの一環として化粧の授業があったが、それがなかったら基礎化粧すらしていなかったかもしれない。結維の友人にはめんどうくさいからとオールインワンのクリームを塗るだけの強者もいる。

 しかし化粧をしない結維でも、顔をいじりながら、何もしていない寝起きの素顔を小太郎に見られたと考えて、少し気恥ずかしくなってきた。家族や、せいぜい泊まり合って過ごすほどに仲のいい友だちにしか見せたことはない顔だ。化粧がどうこうではなく、気持ちの問題だった。きのう会ったばかりの相手と朝を迎えると言えば違う話になるが、そんなことを考えてしまったのである。

 結維がダイニングへ戻ると、カウンターの向こうのIHの前に小太郎が立っていた。上の換気扇のフードは小太郎の額ほどの高さである。背が高いんだなあ、と改めて結維は思った。叔父の聡はちゃんと頭のてっぺんまで見えていたというのに。

 ダイニングテーブルにはすでに盛りつけられたごはんと、結維の教えたインスタントの味噌汁が置かれている。ちょっとした手間ではあるが、それを厭わずに小太郎がしてくれたと思うと、結維は少し感激した。

 結維の母はインスタントの味噌汁がひとりぶんだと気づかずとんでもなく薄めたことがあるし、兄の洋介は実家にいた高校生のころ、朝になると食卓の自席について食事が出てくるのを待っていたような、自分が家事をすることなど考えもしない男である。

 そのぶん、父と祖母が家事をし食事を用意してくれたが、結維はふたりがいないときには自分で料理できるように心がけた。母や兄のようになりたくはなかった。そこまで考えた結維は、美津穂は兄のような男でいいのだろうかと、ちょっと心配になった。これは兄が美津穂を連れてきてから、折にふれしている心配である。

「ああ、結維どの。玉子焼きはお好きかな」

 しかしそんな物思いは小太郎の問いかけで打ち破られる。

「好きよ」

「海苔があったので内巻きにしてみた」

 シンクをまわってそう言う小太郎の隣に行くと、その手には玉子焼き専用のフライパンがあった。中にはほぼできあがっている玉子焼きがある。

「お急ぎのようなので一品だけだが、とにかく召し上がれ」

「すごい」

 結維は本気で感動した。小太郎は手ぎわよく、準備した皿に玉子焼きを載せると、さっさと包丁でそれを切り分けた。

「小太郎、こんなこともできるの」

「この程度、できてあたりまえ。俺はこの家に嫁に来たのだから」

 その言葉に、結維はうぐっと喉を詰まらせる。その結維を見て、小太郎は苦笑した。

「ともかく席へ」

「う、うん」

 結維はうなずいて、食卓についた。小太郎が玉子焼きの皿を運んでくる。台所は家の南側にあるので、雨戸をあけてブラインドを上げれば灯りは要らない。

「いただきます」

「お口に合うといいのだが」

 ごはんはきのうの残りだったが充分にほかほかでおいしかったし、叔父が買いだめしておいたから使っていいと言ってくれたインスタントの味噌汁も有名メーカーのもので、インスタントとは思えない旨さだ。ちなみに赤だしである。このあたりは赤だしを好む地方である。

 結維は味噌汁を一口のんでごはんを一口頬張ってから、玉子焼きに箸をのばした。

「!」

 海苔を内巻きした玉子焼きは、ほんのり甘かった。ふわふわしていて、じゅっと甘さが口の中に広がる。ふわふわでほかほかの玉子焼きを、結維はもぐもぐ食べた。

 朝の空腹もあってか、結維はそのまま無言で食事をつづけた。小太郎も特に話すことなく、ときどき結維を見てはにこにこしながら食べている。

 そのさまに、結維はこの家にいた曾祖父を思い出した。

 曾祖父と小太郎はまったく似ていない。だが、曾祖父は、結維のいちばんふるい記憶では、とても背が高かった。結維がちいさかったせいもあるが、実際に同世代の中では長身だったらしい。歳を取って背が縮んだのだと言っていたことを思い出す。

 そういえば、いつだったかこの家に来たとき、曾祖父も玉子焼きをつくってくれた……この玉子焼きは、その味に似ていた。曾祖父の玉子焼きも、頼めば海苔を内巻きしてくれたし、こんなふうに甘かった。

 祖母が入院したとき、両親が海外に出ることになり、結維は兄と一緒にこの家に預けられたのだ。祖母のことは心配だったが、曾祖父と叔父と一緒に暮らした夏は楽しかった。叔父は大学生で夏休みだったが、バイトでもしていたのか忙しかったようで、曾祖父がおもに結維のめんどうを見てくれた。

 近くのお寺まで蝉を捕りにいったり、花火大会を見に行ったり、橋の上から鵜飼いの舟が漂うのを見たりした。遊園地に行こうと約束していたのに、曾祖父の友人が急に訪ねてきたので叶わず、おおじいちゃんのうそつき!と泣いたこともある。……曾祖父はうそをついたわけではない。大人の都合があったのだと、今では結維にもわかる。うそつき呼ばわりしたことを謝った記憶がない。謝っておけばよかった……

「ど、どうした」

 小太郎がぎょっとした顔になった。そこで結維は、自分が涙を流していると気づいた。

「もしかして、泣くほどまずかったのか」

「ちがうよ」

 結維はちょっと笑ってしまった。小太郎が本気で心配しているように見えたからだ。

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