【壱】04

 結維はそこで、敷地を囲う植え込みの内側に、丸い筒のようなものがあることに気づいた。なんだろう。

 思わず近づくと、それは、蓋をされた井戸だった。近くには赤いポンプがあるが、錆が浮いていて、ずいぶんと古びている。

 西側は高台の段差で下にしか家がないが、南側の植え込みの向こう、隣はちいさな空き地で、もとは家があったらしいことは聞いている。隣の敷地との境目、井戸の傍には大きな木があり、木肌がつるつるしている。その木は、隣とこの家の敷地のどちらともわからぬ場所に生えていた。かなり、大きい。

「そうか……井戸」

 結維は思わず呟いた。

 以前はこの庭には曾祖父の育てていた草や花があった。それらのあいだをぬって駆け回る幼い結維に、曾祖父が言っていたことを思い出す。井戸に近づいてはいけない、と。今は更地になったので、その井戸が剥き出しになったのだろう。

 塞がれてはいるものの、結維は少し怖くなった。古井戸から得体の知れないものが出てくるのは和製ホラーの定石だ。

 しかしあれはフィクションだ。

「おばけなんていないわ」

 ひとり暮らしでなく誰かいたらいいのにな、とちょっと思った。おばけが怖いわけではない。ただ、心細さを感じたのだ。

 もともと両親が不在がちで、母屋で兄妹ふたりでいることが多かった。ひとりでいることも苦にならない。だが、小学校に上がる前、この家で過ごしたとき、夜に家が鳴るのが怖かったものだ。古い木造の家は、気温や気圧の変化で音を立てる。あれは家鳴りだと教えてくれたのは、曾祖父だった。家が泣いているの? と結維が聞くと、悲しくて泣いているわけではないと曾祖父は言った。

 曾祖父は家やものですら生きているかのように語った。曾祖父のそうした言動から、人間でない存在も意思を持っているのかもしれないと考えたことはある。だが、それもいつしか結維は忘れていた。

「ここに幽霊がいても、おおじいちゃんか、親戚だよね」

 結維は呟くと、井戸に背を向けようとした。だが、キイッと音がしたので、思わずとびあがりそうになる。

 見ると、植え込みの中ほどにある木戸が少しあいていた。そこから白い猫が覗いている。

「わあ」

 思わず結維は声をあげた。ここに木戸があるのは知っていたし、ねこが押しただけであくのはどうかと思ったが、入ってきた白猫がとても愛らしかったのだ。生まれてまだ一年ほどに見える大きさのせいもあっただろう。

「どこの子? どっから来たの?」

 結維はその場にしゃがんでねこに話しかけた。さわりたい。白い毛並みはつやつやしていて、首輪はしていないが野良猫ではなさそうだ。白猫が野良だったらこんなにきれいな白さを保てないだろう。毛並みはぴかぴかしているようにも見えた。

 ねこは庭に入ってくると、ちょこんと座った。叔父が猫を家に入れるなと言っていたが、もしかしてこのねこのことだったのかと結維は思った。

 なう、とちいさな声があがる。可愛い。結維はそわそわした。スマートフォンが手もとにあったら写真を撮りまくっていただろう。とにかく可愛い。どこかの飼い猫でなければ飼いたいと、ちらりと思ったほどには可愛かった。

 ねこは首をかしげると、うにゃっ、と一声鳴いた。その鳴き声も可愛らしい。写真どころか動画で撮りたいほどだ。だが、スマートフォンはダイニングのテーブルに置きっぱなしだ。取りに行っているあいだにこの猫がいなくなってしまったら元も子もない。とりあえず結維は、自分が危ないわけではないとアピールしようとした。今でなくても、ここに通ってくれるようになればいいと思った。

「いい子ね。可愛い。ねえ、どこの子なの?」

 話しかけつつ、そっと手を伸ばす。白猫はきょとんとしたまま結維を見つめていて、逃げるそぶりもない。結維はドキドキしながら、用心深く、ねこの顎の下に指先を入れた。首輪はついていない。そっと掻くと、白猫は気持ちよさそうに目をつむった。

 すぐに、ごろごろごろごろごろ……とのどを鳴らし始める。

「ねえ、うちの子にならない?」

 結維が語りかけると、白猫はのどをならすのをやめて、じっと結維を見た。うにゃん、と鳴く。何か言おうとしているように、結維には見えた。

 突然、白猫はふいっと顔を逸らすようにして結維の手から離れた。おもむろに体を返して、木戸のほうを向く。どうしたのかと思っていると、ととと、と木戸に歩み寄り、ひらいた隙間の前で振り返ると、また、鳴いた。

「なあに」

 結維は立ち上がると、木戸に歩み寄った。

 そこで初めて、木戸の向こう側の空き地に、人が倒れていることに気づく。

「え、……」

 我知らず結維は声をあげた。

 仰向けに倒れているのは、若い男だった。結維は思わす木戸を大きく開いて近寄った。

「あの……だいじょうぶですか」

 正直なところ、怖さと好奇心が入り混じって、結維は混乱していた。すぐに救急車でもを呼ぶべきかと思ったとたん、相手がむくりと顔を上げた。

「み、……」

「み?」

「みず……」

「水が飲みたいの? ちょっと待って」

「いや、あの」

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