【壱】12
小太郎が外で寝ていることを考えると、結維は少し気になって眠れなかった。強い風が雨戸を揺らしてがたがたと音がしているせいもあった。
引っ越しのかたづけは兄たちがいるあいだにほぼ終わっていた。風呂やら明日の準備やらをいろいろと済ませて、曾祖父の寝室でベッドに入ったのは日付も変わったころだった。誰にも干渉されない生活は解放感も強かったが、それより、この風の音がする外で小太郎が寝ているかと思うと気の毒さが増してくる。
ベッドに入ってTVも消すと、寝室は暗くなった。だが、戸袋に近いほうの雨戸を一枚だけあけており、外からの冷気を遮るのが硝子戸とカーテンだけになっているからか、障子の向こうが少しだけ明るく感じられる。
小太郎を家の中に入れるのはためらったが、風の音があまりにも強く感じられ、気になってしまう。小太郎は寒くないだろうか。せめて廊下に入れてあげればよかったのか。
いったんはベッドで横になった結維だったが、そんなことを考え始めると止まらなくなり、目を閉じても眠れない。ときどき、天井がパシッと音を立てた。曾祖父が家鳴りだと教えてくれていなければ、怖かっただろう。だが、あれは木が鳴っているだけだと考えるよう結維は努めた。
しかし三十分ほど寝返りを打ったり体勢を変えたりしたがどうしても寝つけなかったので、ひとまず起きてトイレに向かった。用を足してからキッチンで水を飲み、寝室に戻る。
ガタガタと雨戸を揺らす音はまだやまない。少し気になって、結維は障子をあけた。廊下に出ると、カーテンの隙間から雨戸一枚ぶんの光が射し込んでいた。月が出ているのだ。
結維はそんなことを考えながら、窓に近づいて、分厚い内側のカーテンをそっと引いた。レースのカーテン越しに濡れ縁の上の塊が見える。
毛布は二枚敷いて、もう一枚を上に掛けるようにと計三枚貸したのだが、窓越しに毛布の中に見えたのは小太郎ではなかった。
思わず目を擦る。
「……小太郎?」
思わず硝子戸をあけると、風が吹き込んできて、カーテンが半分めくれた。冬用のパジャマを着込んでいるのもあって、結維は寒さをさほど感じないまま、毛布の中でむくりと身を起こしたものを眺める。
それは、大きな犬だった。
結維はもう一度、目を擦った。もう一度よく見る。今度こそ、犬はきちんと座って、結維を見上げていた。鼻面の長い犬の顔が、不思議そうにこちらを見ている。
きりっとした顔つきで、目が金色にも見える色味のせいか、鋭くこちらを見ているように思えたが、犬は吠えることもなかった。三角の耳がぴくぴくと動く。
大型犬というとアフガンハウンドをイメージする結維だが、それに比べれば大きくはない。だが、ゴールデンレトリバー程度には大きく思える。充分に大型犬といえただろう。毛並みはきれいに焼けたホットケーキの焼き色に近く、きんいろに見えた。顔かたちはシベリアンハスキーに似ている気もしたが、こんな色のシベリアンハスキーを結維は見たことがなかった。だいたい、シベリアンハスキーのように、背中側と腹側で毛の色に濃淡の差があるわけでもないようだ。
風変わりな犬だが、何故か、この犬をどこかで見たような気がした。どこかで似た犬でも見たのだろうか。
「あなた、どこから来たの?」
犬がおとなしく黙っているので、結維は不思議になって訊いた。もしかしたら眠れないと起き上がったところから夢を見ているのかもしれない。ここにいるのは小太郎のはずだ。小太郎が犬になるとも思えない。
犬は、すまなさそうに、きゅうん、と鳴いた。
「ここに、小太郎って男の子がいたと思ったんだけど……」
結維はしゃがみながら、犬に話しかけた。犬は困ったように結維を見るばかりだ。困っている。何故か、そう思った。犬も困っているのだ。もしかしたら、どうして自分がここにいるかわからないかもしれない。
「さわってもいい?」
風に吹かれてきんいろのもふもふの毛並みがふわふわしているのを見ていたら、たまらなくなってしまった。結維が尋ねると、犬は言葉を理解しているように首を縦に振った。
それを了解ととった結維は、そっと犬の首筋に触れた。ホットケーキ色の毛がふわふわと柔らかい。撫でていると、犬は気持ちよさそうに目を閉じた。くぅん、とちいさく声をたてる。
「どっかの飼い犬? にしても……小太郎はどこに行っちゃったのかな。知らない?」
訊いても犬が答えるはずもない。犬は目をあけると、困ったように結維を見るばかりだ。
「寒いから、中に入る?」
結維が訊くと、犬は首をかしげた。そうすると、犬種は違うが、あのレコード会社のトレードマークによく似ていた。あの犬は耳が垂れていたが、ここにいる犬はぴんと立った三角で、どことなく狼めいている。
「廊下にしかいさせてあげられないけど……」
結維が重ねて言うと、犬はおもむろにうなずいた。結維は窓をもう少しあける。犬がするりと中へ入り、尻尾の先まで入ったのを見ると、硝子戸を閉め、鍵をかけ、カーテンを閉め直した。雨戸は一枚あけたまま、濡れ縁の毛布もそのままにしておく。小太郎が戻ってきたら使ってもらえばいい。
犬は、ととと、と廊下の隅、雨戸の戸袋の裏側にあたる場所で、くるりとまわって身を落ちつけた。前肢をちょこんと前に出し、後ろ肢も伸ばして、ふわふわの尻尾をゆっくりと揺らしている。
「ちょっと待ってね」
結維はそう言うと、寝室を横切って中廊下へ出た。玄関にいちばん近い納戸へ行き、まだ何枚かあった古い毛布を取り出して戻る。
戻ったときには消えているのではないかと思ったが、犬はちゃんと廊下の突き当たりで横になっていた。
結維は犬をいったん立たせ、廊下の隅にはんぶんに畳んだ毛布を敷いた。そこへ再び犬が横たわったのを見計らって、上から毛布をもう一枚、かけてやる。
犬は何故か、不思議そうに見える顔をして、結維を見上げた。
「毛皮があっても寒いでしょ」
結維は思わず、犬に笑いかけた。犬にしてみれば余計なお世話なのかもしれないと思ったが、毛布がいやなら自分でなんとかするだろう。しかし犬はかすかに鼻面をまた縦に振った。
「ねえ、もしかして、わたしの言うことがわかるの?」
また、縦に振る。結維は少し興奮した。
「すごい。賢いんだね!」
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