【壱】13

 偶然かもしれなくても、会話が成り立っている。そんな気がした。

 小太郎がいなくなったのは心配だが、犬がいるというだけで不安がかき消される。むしろ、小太郎には申しわけないが、犬がいてくれるほうが安心できた。犬も本気になれば結維を殺傷するくらい軽いものだろうが、吠えないし、威嚇もしない。しかも賢そうだ。危害を加えられるとは思えなかった。

「よかったら一緒に寝ようかって言いたいけど、ごめんね。よその子だから……」

 きれいに洗ってある飼い犬だったら結維も気にしなかったが、さすがにいくら賢そうでも、外から来た犬を寝床に入れるのはためらった。もっと早い時刻だったら洗って乾かすくらいまでできたのに、と思ってしまう。

 また、犬がうなずいた。まるで結維が何を考えているか察したようだ。

「ほんとうに賢い、いい子ね」

 結維は思わず、犬の頭に鼻を寄せて擦りつけた。犬の体が少しだけ強ばる。

「あっ、ごめん。怖かった?」

 すぐに身を離すと、犬はふるふると首を振る。戸惑っているように見えた。

 結維はそれに笑いかけた。

「おひさまの匂いがするよ」




 その後、ベッドに再び入った結維は、どことなくしあわせな気持ちで寝入った。

 結維は、どこから来たかまったくわからない犬には、人間の男である小太郎に対するほど警戒しなかった。

 もちろん、病気を持っていたらなどと考えなくもなかったが、ぱっと見ただけではあるものの犬は健康そうで、何より、一度も威嚇するように吠えなかったことが結維の心を許す要素として大きかった。

 夢も見ずに眠った結維は、翌朝、寝る前に仕掛けておいたスマートフォンのアラームで目をさました。もぞもぞしていると、障子の向こうからカラカラと音がした。

 ぎょっとしてベッドからとび起きる。すぐに障子をあけると、小太郎が窓をあけたところだった。

「おはようございます」

 小太郎が丁寧に頭を下げる。「結維どの。きのうはよく眠れただろうか」

 ほがらかな笑顔だ。結維はぽかんとした。思わず廊下の片隅を見ると、毛布が押しやられたように丸まっている。犬は、いなかった。

「おはよう……小太郎、その」

「はい?」

「昨日、どこ行ってたの?」

 結維が尋ねると、小太郎はきょとんとした。

「どこ、とは」

「寝つけなくて、気になって見に来たら、いなかったじゃない。代わりに犬がいて……」

「犬とは」

 小太郎は困ったような顔をした。「いや、俺はずっとここにいたが……結維どのは、寝ぼけたのでは?」

「寝ぼけてなんかないって。犬を中に入れて、毛布だって掛けてあげたんだよ。ほら、ここに毛布あるでしょ」

「この家には毛布がたくさんあるのだな」

 結維が廊下の隅の毛布を指すと、小太郎はおかしなところに感心した。「それはともかく、結維どの、今日の予定は?」

 結維は少し心配になってきた。小太郎が言うように、自分は夢を見たのだろうか。だが、そうではないはずだ。犬はもふもふしていた。あの感触は夢ではない。絶対にいた。

 だが、それを取り沙汰している場合でもない。きょうは月曜で、大学に行かなければならないのだ。

「きょうは二限からだけど、……早めに行こうと思ってて、九時には出たいの」

 結維は窺うように小太郎を見た。この家から結維の大学までは実家から行くより近いが、電車を使っていくのは初めてだ。だから前もって余裕を持って行こうとは考えていた。しかし、結維が大学に行くあいだ、小太郎はどうする気なのか。

「そうか。では、俺もお供していいか」

「えっ、なんで」

「ほかに行くところがない。かといって、氏素性のわからぬ俺がこの家で待つのも、結維どのには不安だろう」

「それは困るよ」

 結維は戸惑って答えた。「それだったらまだうちにいてもらったほうがいいけど……」

 そこで言いよどむ。

「だが、俺が不逞の輩だとしたら心配だろう」

「そのとおりよ。ここがわたしの家ならともかく、おおじいちゃんの家だもん」

 困りながら、結維はうなずいた。「だから、小太郎には申しわけないけど、出ていってほしい……」

「ならばひとまず外をぶらついて、あのあやかしが出てくるころに戻ってくるとするか」

 小太郎はそう言うと、庭の片隅に顔を向けた。結維はハッとする。

「忘れてた……」

 結維は頭を抱えた。「そうだった」

 犬は夢だったとしても、古井戸の中から現れた怖ろしい幽霊のような祟り神は夢ではなかった。あれは小太郎も見たのだ。

「何はともあれ、結維どの。出かけるなら支度をするといい。食事をきちんととれば何かいい案が浮かぶかもしれぬし」

「そうね」

 結維は溜息をついて、ひとまず考えるのをやめた。

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