【壱】05

 上半身を起こした相手が掠れ声で何か言いかけていたが、結維は急いで家の中に戻った。ダイニングでガラスのコップに水道水を注ぎ、さきほどの場所まで戻る。

 相手が消えているのではないかと思いもしたが、そんなこともなく、彼はその場に座り込んでいた。しかし猫はとっくにいなくなっていて、それが少し残念だった。

「はい、どうぞ」

「いや、これはかたじけない」

 そう答えたが、どう見ても彼は若い男である。改めてよく見ると、時代劇に出てきそうな凜々しい顔立ちに見えた。時代劇に出てきそうな気がしたのは、その口調のせいもあるだろう。彼は結維からガラスのコップを受け取ると、ごくごくと飲み干した。

「その、水をいただけたのはありがたいが、実は、こちらは水野どののお宅かと、お伺いしたかったのだが」

 水を飲んだあとで、彼はひどくばつがわるそうに言った。

「あ、……えっと、そうよ」

 どの、というふるくさい言い回しに戸惑いつつ結維はうなずく。

「それはよかった」

 つまり自分は、水野という名を問われていたのに、水がほしいのかと勘違いしたのだと結維は気づく。恥ずかしくなりつつ窺うように見ると、彼は微笑んだ。穏やかそうな笑顔である。おとなびていたが、その整った顔にはまだ幼さもあって、老けて見える高校生みたいだなあと結維は思った。

 まじまじ見ると男前だ。だが、よく見なければわからないだろう。

「俺は、祖父に言われて水野どののお宅に嫁入りに来た者で、犬飼小太郎と申す」

「……はい?」

 結維はまばたきを繰り返した。まじまじと、犬飼小太郎と名乗った男を見つめる。

「奥飛騨から歩いてきたので少し時間がかかってしまった。一度来たことがあるから容易に来られると思っていたが、道を間違えて南ではなく北に向かい、富山のほうに下りてしまって、戻るよりは福井からまわろうとしたら気がついたら新潟にいて、これはいかんと山を越えて行こうとしたら気がついたら山形にいて、そこから福島を抜けて群馬から長野に戻って、やっと」

「ちょっと待って」

 結維は慌てて止めた。「その、えっと、どういうことなのかよくわからない」

「どういうこと……つまり、迷子になってしまって」

 小太郎はきょとんとした。そうすると、どことなく困った犬のように見える。犬飼と名乗られたせいもあるだろう。

「そうじゃなくて」

 どちらにしろ、少しの説明で聞いた地名からするに、どうやってこの愛知県の北の端まで来たのか考えるだけで疑問がいっぱいになる。だが、それより結維が気になったのは、

「嫁入りって、……どういうこと?」

「水野どのが孫どのの嫁をさがしているから、そこへ行くといいと言われたのだが」

 真顔で答えられ、結維は混乱した。

「えっと……水野どの、ってあなたが言ってるのは、おおじいちゃんかな……確かにおおじいちゃんは、孫のさとくんに嫁がきてほしいとは言ってた。うん。言ってたけど……」

「ならばここが俺の嫁入り先ということになるが……」

 小太郎は少し不安そうな顔をして、家を見た。

 にぎやかな子どもの声がして、結維はぎょっとする。こんなところで話し込んでいたらご近所に見られるのではないかと気づいたのだ。道に目をやると、小学生らしき子どもたちが何か話しながら前の道を通っていく。案の定、その中の何人かがこちらを見て、不思議そうな顔をした。

「えっと、ひとまず中に入って」

 結維は心を決めた。「ちゃんとお話を聞かせてほしい」

 そう言うと、小太郎は立ち上がる。結維はびくりとした。

 小太郎の背は兄より大きかった。体もがっしりしている。兄はたいして長身でもないし厚みもないが、兄より大きい男に結維はたじろいだ。そんな相手を、敷地内とはいえ中へ入れてしまっていいものだろうか……そう考えながら、結維は後退るようにして木戸の中に入った。小太郎もゆっくりつづいてくる。

「……おや」

 庭に入った小太郎は、訝るような目を古井戸に向けた。

「えっと、まずこちらに座って」

 だが結維が濡れ縁を指すと、小太郎はうなずいて座った。持ったままだったガラスのコップを濡れ縁にそっと置く。その際に、左手首の袖口に、きらりと何かが見えた。水晶玉の腕輪だ。透明な水晶玉の腕輪ならよく見かけるが、それはどことなく虹色を帯びているように見えた。

「その、……貴女が水野どのの孫どの……?」

「わたしは曾孫」

 結維も、濡れ縁に座った。

「曾孫」

 小太郎は目を瞠った。「では、孫どのは嫁をもうとってしまったと?」

「えっとね、あなたの言ってる水野さんがうちのおおじいちゃんだとしたら、おおじいちゃんの孫はうちのお母さんと叔父さんね。あと、東京にも親戚がいるみたいだけど、そっちのことはよくわからない」

「俺が聞いたのは、犬山にお住まいの水野どのだ」

「だったらこのうちね。それと、さっきも言ったけど、確かにおおじいちゃんは、友だちに、孫の嫁を世話してくれるように頼んだとは言ってたって話だけど、その、……」

 真顔で見返してくる小太郎に、結維はためらった。こんなの常識だ。だが、知らないのだろうか。

 小太郎は結維の言葉を待っているように見えた。ためらいの意味を察してさえいないようだ。これははっきり言わなければ通じない。結維は悟った。

「あなたは男の子でしょ? 男はお嫁さんにはなれないよ」

「えっ」

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