【壱】08
古井戸の上で、ゆらゆらとうす黒い影のようなものが揺れている。それはたちまち、ひとの姿に近くなった。
「俺が、見えるか」
地を這うような声が、庭に響いた。その声は、影が発したものだった。
結維は思わず、小太郎の腕にすがりついた。
「ねえ、あれ、何?!」
「貴様、何者だ」
結維の叫びに答えず、小太郎は古井戸に向かって鋭い声を発した。
「何者と訊かれたからには答えてやろう。俺はこの古井戸に封じ込められた……そうだな、祟り神だ」
影はすうっと古井戸から浮き上がると、ふわふわと小太郎に近寄ってきた。しかし小太郎はびくともせずそれを睨み返す。
「祟り神だと……」
「おう。俺の姿がみえる者など、ひさしぶりだ。そこな娘も、以前は見えなんだが……あの術使いが死んで封印が弱まっただけでなく、あの重しの男が出ていったおかげで、自由になれた」
「重しの男……ってもしかして、さとくんのこと?」
出ていった男といえば叔父である。結維は呆気に取られて、近くに寄ってきた影をまじまじと眺めた。
眺めるうちに、その姿が明瞭になってくる。ぼろぼろの着物をまとった男だ。ざんばらの髪で顔は見えない。いかにも幽霊といった風情だ。
「さとくんと貴様が言うのが水野聡のことならば、そうだ。俺をここに封じ込めた術使い、水野仁は先ごろ死んだが、その孫であるあの男には守りが憑いておったおかげで、重しとして俺を封じ込んでおれたのだ」
術使いだの重しだの守りだの、ざんばら髪の男が何を言っているのか結維にはいまひとつのみ込めない。だが、曾祖父の死後、叔父がいなくなり、そのせいでこの男が現れたことだけはわかった。
「だが、重しがいなくなったおかげで俺はあの井戸から出られるようになったというわけだ!」
勝ち誇ったように幽霊は叫ぶ。
「自由になったと言うならば疾(と)く去(い)ね。このひとを怖がらせるな」
小太郎は結維を庇うように前へ出た。
「ハハッ」
おかしそうに、祟り神と自称した男はわらった。「それが残念なことに、俺は井戸の封印から自由になっただけで、この土地からは一歩も出られぬ。あの術使いは、俺が浄められぬ限りこの地からは出られぬよう呪(しゆ)をかけたのさ。――そこな娘、貴様、これからここで暮らすのであろう」
結維は思わず小太郎の陰から顔を出した。怖ろしい様相の男は、ざんばらの髪のあいだから結維を睨みつけている。鋭い眼光が光っていた。
結維が何も答えられず口をぱくぱくさせていると、男はあざわらった。
「今宵から貴様の眠りを妨げてやろう。俺はこの結界の中ならどこへでもゆける。貴様の枕辺に立って、俺がいかような目に遭わされたか、語り聞かせてやろう。いや、いっそ貴様の褥に入って、この冷たい体で生気を吸い取ってやろうか」
「やだっ!」
「退け、下郎が」
小太郎は低い声でそう告げると、右手の指を二本立て、口に当てた。しゅっ、しゅっ、と息を吹きかける。
「術使いか、貴様」
ざんばら髪の男は、驚きの声をあげた。
「貴様に俺が何者であるか、語る必要などない」
小太郎は、二本の指を男に突きつけた。
その指で、縦横に素早く斬るように線をえがきながら、小太郎は何か唱えた。呪文だ、と結維は理解した。
「祟り神よ、己にふさわしき場所へ戻れ!」
小太郎がえがいた線が、光の筋となって宙にのこり、それは網目模様になって広がった。
投網のように、それが祟り神へ襲いかかる。
「おのれ!」
光る投網に絡みつかれ、祟り神を称する男はもがいた。
結維はそのさまをただただぽかんと眺めるばかりだ。まるで映画みたいだ、と思った。
「今回は退いてやろう……」
光の投網に巻かれながら、影は忌々しげにうめき声をあげ、すうっと古井戸に吸い込まれる。
結維は茫然としてそれを見送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます