第14話 阿具京一郎の死ぬ日

 とても静かだった。

 どこまでも続く平坦な床からは無数の槍が立ち並び、そこには槍と同じ数だけの人間が貫かれている。誰もみな絶望を表情に貼り付けて、ある者は未だ兵装を手放そうとせず、ある者は自分のよりどころにしているのであろう何かを握りしめ、ある者は何も持たず、ただ死んでいた。

 その空間に光は存在しなかった。

 だから、自分が認識しているものには色など存在しないのは分かっている。

 それでも男は、自分の目の前に立ちはだかった巨大な何かは、きっと光を吸い尽くしたような深い黒をしているに違いないと思った。

 何かはある部分では虫のようで、ある部分では人のようで、それはひとつの形に留まることのない、全てだった。人類はそれを神と呼んでいた。男はそれが宇宙や世界を作ったのかを知らない。しかし、自らを作った物を神と呼ぶのならば、きっとそれは人類にとっての神なのだろう。

「神よ」

 男は呼びかける。

 それまで一度として、男はそんなことをしたことがなかった。

 そもそも、それは呼びかけてどうにかなるような者では無いと知っていた。種を蒔き、文明が一定水準に達するまで育てて、刈り取るだけの存在だ。今まで数百回の試行の中、一度としてブレさえ見せない。そこには感情も何も無い。自分がそれを行うの機能の一部であるのと同様に、神もまた、ただの装置だ。

「神よ」

 それでも男は再び呼びかけた。

 神はびくりと体の一部を波打たせた。攻撃が来る。そう感じた瞬間にはそれは成され、同時に男の体は宙に向かって弾かれるように跳び上がっていた。男は背中に羽の形をした推進器を生成していた。

 さっきまで居た床からは巨大な槍が湧き上がり、凄まじい速度で男の方へ向かう。

「神よ!」

 三度叫びながら、男は襲い来る槍と同じ物質で剣を作った。剣は槍を真っ二つに切り裂き、男はなおも高く飛んだ。いつのまにか四方八方から無数の棘が現れ、男に降り注ぐ。男は槍の雨を力ずくで突破しながら、少しずつ神へと近付いていった。

 神の一部からは巨大な手が現れ男に向かい来る。

 男は、自らを作った者の手を手首から切り落とした。手首からは粘性の強い液体が噴き出し、それでも神は悲鳴すらあげることなく、その感覚器で男を捉えようとしていた。

 ひたすら戦いは続いた。

 男にはどれくらいの時間が過ぎたのか、また今どれほどの時間が流れているのかも良く分からなかった。ただ、自らの知る全ての方法を尽くして動き続けた。少しでも動きを誤ったら、或いはほんの少し運が悪ければすぐにでも死ぬと、男には分かっていた。

 やがて、男の中に奇妙な感覚が生まれた。

 男は笑みを浮かべていた。そう、これはきっと歓喜というのだろう。男は降り注ぐ槍の雨を踊るようにかわしながら思った。

 いつのまにか笑い声が口をついて出た。

「ぶっ殺してやるぜ!」

 いつか人類の戦士から言われた言葉を、男は力の限り叫んでいた。

 

 目が覚めると体の震えが止まらなかった。

 阿具は真っ暗な部屋の中で、手を伸ばして煙草を取る。

 実際に吸いたいと思うことなど無かった。体内に取り込まれたニコチンは吸収されることなく浄化される。吸ったって吸わなくたって何も変わらないのだ。煙草を吸うのは、脳内に習慣として刻まれているからという以上の理由はない。

 手の震えは止まらず、それはやがて痙攣と呼べるほど大きくなった。

 阿具は火を付けるのを諦めて、ベッドの脇の引き出しからピストル型の注射器を取り出した。首筋に押し当てて引き金を引くと、微かな抵抗が皮膚に伝わった。大量の筋弛緩剤が血管に流れ込んでくるのを感じる。

 やがて震えは止まった。片手で煙草に火を付けながら、阿具は注射器の上部からガラスのアンプルを引き抜き、新しいアンプルを挿すとまた引き出しに戻した。それからじっとカーテンの方を見つめながら煙草を吸った。外はうっすらと明るみ始めていた。

 辺境に居た時の部下に、自分の車のポンコツさを話の種にしている奴が居た。もう親父の代から何十年も乗っていて、ガタガタなのだけど割と動く、思ってるよりはずっと動くものなのだと、そう言っていた。

 確かにそうだ、と阿具は思った。

 実際に壊れると思ってから、いや壊れてから、随分経つのに、まだ自分の体は動いている。もういつ死んでもおかしくないくらいに、内臓も、筋肉も、それどころか細胞のひとつひとつまで壊れ尽くしているのに、意外と持っている。

 焦げ臭い匂いを感じて、視線を下げると、煙草はいつのまにか燃え尽きていた。煙草を持っていた指が黒く焼けている。何も感じない。どっちなのだろう。指の神経が壊れたのか、脳の痛覚が壊れたのか。

 阿具がすぐにそんなことはどうだって良いことだと気付いて、煙草をゴミ箱に投げ入れた。それから窓際まで歩いた。カーテンの隙間から外を見る。基地はほとんどシルエットのようにしか見えなかった。いくつかの通信塔の上では、オレンジ色の光が明滅しているのが分かり、その上に頼りなく明るみ始めた空が見えた。

 自分の何処が壊れているかなど、どうだって良かった。

 事実はとても明確で、ただこの体はもうこれ以上はもたないということだけだった。それに、阿具はどのような意味があるのか考えていた。感慨はあるだろうか。良く分からない。

 死は、戦場のなかで、ぱちんと電気が切れるように訪れるのだと思っていた。

 外からは何の音も聞こえない。耳が壊れたのか、聴覚が壊れたのか。それとも、本当に何の音もしない静かな朝なのか、阿具には分からない。

 今日は死を迎えるのに相応しい日なのだろうか。

 戦場では常に死を待ち望んでいた。自分が多くの者から奪ってきたように、自分も理不尽に誰かに命を奪われる時を待っていた。だから、こんな穏やかな日常の中で、ゆっくりと死にしのびよられるなど想定外も良いところだ。

 今日、死んでしまって本当に良いのだろうか。

 だが、それが明日になったところでどれほどの意味があるのだろう。

「何を迷っているんだ。私は」

 理解出来ず、疑問が口をついて出た。

 いつのまにかどこからかヒグラシの鳴く声が聞こえていた。空はどんどんと明るみ、白から青へと色を変え始めている。シルエットの基地は少しずつその姿を現し、基地内に立つ歩哨やクラップの姿も見えた。

 どれだけ考えても答えは出なかった。

 阿具はじっと窓際に立ち尽くしたまま、長いこと動かないで居た。


 1号機は椅子に腰掛けたまま、うとうとしていた。そして唐突に目を覚まして、見慣れない風景に目をぱちくりとさせる。

 そこにはステンレスの作業台がマス目状に並んでいた。一番近くの作業台には、小麦粉の袋や金属製のボールなどが置かれている。いったいここはどこだろう。1号機は首を傾げた。そして、その部屋に満ちている一種独特の匂いに、ここが調理室なのだと気付いた。

「おはよう」

 唐突な声に1号機はびくりと体を震わせる。隣には2号機が座っていた。

「ああ、そっか。クッキー作ってるんだ」

 ふわあ、とあくびと伸びを同時にこなして1号機は呟いた。

「もう出来た?」

 屈託無く聞く1号機に、2号機はすこし目を細めた。

「どうかしら。私は新しいセキュリティパッチの検証をしていたし、3号と4号はあそこでゲームの対戦をしているわ。5号は…」

「つめたいようー…つめたいようー」

 2号機が振り向いた先で、5号機は机に突っ伏している。

 5号機は右のほっぺたが付くと悲鳴をあげて、ごろごろと半回転し、左頬でもまた同じことをしている。1号機はしばらく黙っていたが、やがて2号機を見ながら5号機を指さした。

「ええ。信じられないことだけど、あれは寝ているのよ。誰かがあの子にしばらく我慢してほっぺたを付けていれば、そのうち暖かくなるってことを教えてあげなければ」

 とても遠い目をして、2号機は呟いた。

「顔の下にタオルでも敷いてあげたほうが早いと思うけど」

「そうね。そういうちょっとした思いつきで世界は劇的に変わるものなのよ。自分でカマドを作って火を起こしてクッキーを焼いていた時代から、私たちはオーブンという調理器具を発明したわ。でも、それでも、タオルを敷く手間くらいは必要なように、クッキーは勝手には出来上がらない。少なくとも、ツマミを捻って、そして取り出さなければ」

 滑らかに喋り続ける2号機に、1号機はただこくこくと頷いていた。

 そして、ふと気付く。

「あれ、私寝る前にツマミ回したよ」

「そう、じゃあ後は取り出すだけよ」

「そっか!」

 折良く、オーブンからベルの音が鳴った。

 1号機と2号機は楽しげに顔を見合わせた。携帯ゲーム機を睨んでいた3、4号機も立ち上がり、5号機が寝ぼけまなこで顔を上げた。

「あ、出来たの?」

「おれ腹減っちゃったから、すこし食べても良いかな」

「つめたいよう…?」

 皆があつまる中、最後に5号機が頬をさすりながら歩いてきた。

 1号機はぐるりと背後のオーブンの方に向き直った。

 もうクッキーを焼いたことなんて、遙かに昔のことだった。それでもこの胸の高鳴りはその頃と少しも変わらないように思う。1号機は自然に笑みを浮かべていた。どんな匂いだったかは良く覚えていないが、とにかくクッキーが焼き上がると最高の匂いがするのだ。

「早く開けようぜ!」

「慌てないの」

 言いながらも、1号機はオーブンの取っ手に手をかけた。かちりとロックが外れて、取っ手は手前に倒れるように開いた。同時にクッキーの乗った天板が押し出されて来る。

「うわあ…」

 3号機の口から漏れた声は、そのまま小さくなって消えていった。

 嗅いだだけで、口の中が苦くなりそうな焦げ臭い匂いが部屋中に充満していた。それどころか、天板からはもうもうと黒煙が立ち上っている。そういや中が見えないとかおかしいと思ったんだ。そう1号機は目を丸くして、口を開いたまま硬直していた。

「あの、おれ良くわかんねーんだけど、最近のオーブンは自動的に普通のクッキーをチョコクッキーにするとか、その、いや、ねえよな。ごめん」

 反応が得られなかったことに、居心地悪げに4号機はもぞもぞとしている。

「なんでしたっけ…、何作ってたんでしたっけ?」

 まだ頭がまともに動いていないのか5号機は首を傾げる。

「えぇー、どうしてえ?」

 心底情けない声で1号機は言った。クッキングシートから黒い塊を手にとってみるとぽろぽろと崩れた。指の間に、ほんの少しの黒い粉だけが残るだけだった。苦い。指を舐めた1号機は顔をしかめる。

「ああ」

 顔をしかめている1号機の横で、2号機が呟いた。

 みんなの視線が2号機に集まる。2号機は肩をすくめた。

「たぶん、ちょっと焼き時間を間違えたんだと思う。ちょっとというか、1時間ほど」

「ええー!」

 思わず立ち上がって、それから1号機はしゅんとして座り直した。

「ごめん。私のせいだ」

 しょんぼりと言う1号機に、他の特機たちは顔を見合わせた。

「1号、なんていうか、みんな怒ってない」

 少ししてから、2号機が代表して口を開いた。

 その優しい口調にほっとして、1号機は顔を上げた。他の特機たちも皆頷いている。

「いつものことだから」

「ええ!」

 1号機は思わずのけぞった。そして、またしても他の特機たちも皆頷いていた。

「実際の所、気付かなかった私たちも悪い。みんな気にしていなかったもの。でも、この教訓を生かして次に作る時に生かせば良いわ」

「う、うん! そうだね」

 力強く1号機は言って、立ち上がった。そしてぐっと拳を突き上げる。

「よおし、次は失敗しないぞ。みんな、頑張るぞ!」

 長女らしく1号機が言うと、呼吸を合わせて、おう、と声が上がった。

 朝の光が調理室に差し込んでいて、ステンレスの作業台はぴかぴかと輝いていた。外からは鳥の鳴き声が聞こえ、また新しい今日の始まりを、1号機は感じていた。そして特機たちを祝福するようにシフトの交代を告げるベルが鳴り響いた。

 それからみんな、表情を凍らせた。

「うん。そうね。焼き時間を一時間も間違えたということは、既に予定時間を大幅に過ぎているということであって、つまりは私たちは遅刻している。というか今した」

 言うが早いか2号機は、金属のボウルに一瞬で調理台の上の材料を放り込んだ。そして呆気に取られている仲間達を尻目に走り出す。1号機は目を二度三度瞬きして硬直していた。

「遅刻だー!」

 4号機が叫ぶのと同時に、みんな泡を食った表情で2号機を追って走り出していた。

 椅子が1号機のスネにあたってひっくりかえる。

 1号機は唇を噛んで、それに耐えながら、再戦を心に誓っていた。


 司令室には沈黙が漂っていた。

 伊崎は阿具の反応を待っているのか動かず、由梨は息を呑んでいた。

「辺境部隊が全滅した…?」

 理解していたが、阿具は繰り返した。伊崎が頷く。

「撤退が計画されていた矢先のことだった。いや、正確には連絡が取れなくなっただけだが。恐らくは」

「そうか」

 素っ気のない返事に伊崎が微かに眉を動かしたのが分かった。

 自分に何か出来ただろうか、阿具は考えた。何も出来はしない。任期である半年以上辺境部隊に残っている人間は殆どが志願兵か狂人で、第一突撃小隊に至っては、配属からすぐに死ぬ隊員を除けば全員が狂人で志願兵だった。

 戦い以外の喜びを知らないものや、戦い以外の日常を知らないものや、それ以外の喜びも日常も知っているのに戦いを選んだものか。そんな人間たちに対して、一緒に戦ってやる以外に何が出来たというのだろう。

「少なくとも、俺の部下たちは悪くない気分だったろう。戦いの中で死ねたんだから」

「そうか、いや。君がそういうならきっとそうなのだろう」

「どうかな。不本意じゃない死なんてあるもんなのか?」

 自分で疑問を発しておきながら、阿具はひとり首を振った。

「ま、そんなことはどうでも良い」

「そんなことって」

「花のひとつも手向けてやるさ。そんなことさえ、奴らは望みもしないだろうが」

 視線を向けると由梨は黙り込んだ。そして阿具の表情をまじまじと見ていた。

 阿具はまた伊崎に視線を戻す。伊崎は疲れた表情で黙り込んでいた。

「話ってのは、それじゃあないんだろう。前置きは、分かったよ」

「ああ」

 とても低い声で伊崎は呟いた。

 長い間、伊崎は手を顔の前で組み合わせ視線を自分のデスクの上に落としていた。

「辺境への増援は計画されていない。つまり、やがてここは戦地になる。辺境を滅ぼした敵部隊が大規模な攻勢をかけてくるならすぐにでもなるだろう。それは分からんが、しかしいずれは必ず戦場になる。首都を移転させた頃から、首脳陣にはこうなることが予測出来たのかもしれん。いまやここが前線であり、辺境なのだ。虫どもの侵攻は、ここで食い止めることになる」

 まだ阿具には伊崎の言いたいことが理解出来なかったが、ただ頷いた。

 低く息を吐き出し、伊崎は眉間の皺をより深くした。

 伊崎は普段なら歳より若く見える男だった。気苦労の多い現場の指揮官などをやっていて、そういう人間は珍しい。だがそこに居るのは、歳相応より多くの苦悩を抱えた初老の一人の男だった。 

「私はやはり出来ん。子供を最前線に投入して死なせることなど。いや例え生き残ったとしても、そのテスト結果は次の彼女らを作ってしまう。大量生産された子供に世界を守らせて、そこに何が残る。それを画策した薄汚い人間だけではないのか。私はそんな権力のゴミ共の為に軍にいるのではない。次の世代に良い世界を残すために、軍人でいるのだ」

 抑揚の聞いた小さな声だったが、伊崎の声は響いた。

 机の上に置かれた拳はぎゅっと握られる。伊崎は唇を噛み、そのまましばらく黙った。

「…君たちには近いうちに、名前を偽って安全な碧緑星域の駐屯部隊に転属してもらいたい。そして阿具小隊は大規模な戦闘で全滅したと報告する。遷都からこちら、国の行政システムにはかなりの混乱が見られる。恐らく成功するだろう」

 伊崎は決心を固めた表情で言った。阿具の背後で由梨が息を呑む。

「そりゃ軍法会議ものだぜ?」

 伊崎は目を閉じた。

「分かっている」

「そうか。じゃあ命令書が来るのを待ってる」

 阿具がそう言うと、伊崎は意外そうな表情を浮かべた。

「君は、てっきり安全な地域への転属など、承伏しかねると思っていたが」

「命令ってのは、聞く聞かないなんていうもんじゃないだろ」

 適当にぼかして答えたが、伊崎は納得していないようだった。

「一度乗りかかった船だ。沈むまで乗っていてやるさ。それに俺も、随分と敵を殺していないことに慣れた。それだけのことだ」

 阿具は言って、それきり口をつぐんだ。

 それ以上に阿具は何を言うべきか分からなかった。やがて話は終わり、阿具は司令室から出ようとしていた。由梨は先に出て廊下で阿具を待っていた。

「阿具少尉」

 ひどく迷っているような声で、伊崎は言った。

 振り向くと、伊崎は机の上で手を組んで視線を低く落としていた。

「こんなのはやはりバカげているか? きれい事だけで人類の歴史は続いて来た訳ではない。それに、大量生産された特機たちはこの世界に平和をもたらすかもしれないのに」

「さあな、クソな手段でも勝てばその後でどうにでもなるってのは確かだがな」

「…うむ」

 伊崎は唸るように低い声を出した。

 しばらく阿具は黙って伊崎を見ていた。そしてゆっくり首を左右に振った。

「間違っちゃないさ。例えこのあと人類が滅んだとしても、そりゃアンタの責任じゃない」

 それだけ言うと、阿具は扉を開いた。

 そして扉を通り過ぎるときに小さな声で呟いた。きっと伊崎には聞こえなかっただろう。

「そんなこと、誰の責任でもないさ」


 廊下の窓からは中庭の様子が見えた。

 朝の眩い光の下では、筋肉の塊のような男たちが暑苦しいうなり声をあげてトレーニングに励んでいる。阿具はそのありふれた光景を目を細めて見ていた。

「この基地ともお別れか。寂しいもんだな」

 ぽつりと言った阿具に、由梨はちらりと視線を向けた。

「あと少ししたら戦場からは遠ざかる。本当に、そうなの?」

 静かな口調に、阿具は穏やかに首を傾げた。

「本当もクソも。さっきの話聞いてたろうが」

「あんまりにも急な話だった。それを京一郎はあっさり受け入れちゃうんだもん」

「命令にはイエス、サー以外無いってのが軍人だと思ってたが」

「そんなのアンタが言ってもちっとも説得力ないわよ」

 ぴしゃりと言う由梨に対して、阿具は微かな笑みを浮かべた。由梨は不機嫌そうに表情を曇らせる。

「どうせ、貴方の目的に支障がないから承諾したんでしょ」

「まあ、な」

 隠すつもりもなく、阿具は言った。

「実際には、支障も何も、こんな決定には何の意味もないからなんだが」

 阿具は煙草を咥えた。由梨はもう慣れたのか、何も言わず阿具を見ている。

「何の意味もないって、私たちがどこかの僻地に転属することが?」

「そうだ。全く意味はない。伊崎の罪の意識を多少軽くしてやる以上の意味はない」

 酷く冷淡な調子で言ってから、阿具は煙草に火を付けた。由梨が説明を求めるように待っていたが、阿具はゆっくりと煙を吸い込んで窓の方を見ていた。

 やがて阿具はかぶりを振って、由梨の方へと向き直った。

「由梨、お前死にたくないか?」

 唐突な言葉だったが、由梨は阿具が真剣だと気付くと表情をこわばらせた。

「何よ、突然と。当たり前でしょう」

「それなら脱走しろ。ガキどもが大事なら一緒に連れて行っても構わん。とにかく一両日中にどこか遠い所まで逃げろ。手段は俺が用意してやる。後始末も、どうにだってつけてやる。だから、本当に命が惜しいなら逃げろ」

「ちょっと、何よそれ」

 硬い表情のまま、由梨は唾を飲み込む。

「もう奴が来る。そうなったらお前らの出る幕じゃない。実際にはこれは戦争でさえない。実験の処理と、それに対する抵抗だ。戦争をしているのだとしたら、それは俺と奴の間だけのことだ。これは、俺の戦争なんだ」

「わかんないよ、何言ってるのか」

「わからなくたっていい。お前が決めるのはただ一つ。ここに居て人類が敗北を決定的にする大規模な戦闘に巻き込まれるか、逃げてどこかで戦争が終わってくれるのを祈るか」

 阿具は煙草を廊下の隅のゴミ箱に投げ込んだ。

「生き残る確率は逃げた方が高い。全宇宙で最強の軍隊がこの星に集まっているとは言っても、他の国だって多少の軍事力は持っている。或いはここで俺たちが負けても、人類が滅ぶまでに何処かの天才が奴らを簡単に殺せる発見をするかもしれない」

 喋りながら阿具はじっと由梨を見つめる。

「どうするんだ由梨」

 囁くように阿具は言った。

 どうしてそんなことを聞いているのか、阿具自身良く分からなかった。ただ、なんとはなしに、由梨はこんな所で死ぬべき人間じゃないと感じていた。どんな場所で死ぬべきなのかそれは分からないが、少なくともくだらない戦争で失われるべきではないと思った。

 由梨はしばらく表情を動かさずに阿具の顔を凝視していた。

 阿具にはそれが、何かを考えているのではない気がした。ただ、既に決定されたことを告げるのに多少の溜めを必要としているかのようだ。阿具は待った。やがて由梨は口を開く。

「イヤよ」

 阿具は思わず足を止めた。なんとなく由梨は自分の言うことを聞くだろう思っていた。だが由梨は強い光を目に宿らせて、きっぱりと否定した。

「あの戦場から逃げてから、ずっとずっと私は逃げ続けてきた。私は弱いから、自分の弱さを言い訳にしてずっとね。そんなのはもううんざりなの。もちろん今でも死ぬのは怖い。でも私だけ助かるために逃げるなんて、もう一度だってやりたくない。逃げるのはもうイヤなの」

「くだらない感傷だよ、由梨。すごくくだらない。死んだら何もかも終わってしまう。何かを思って死んでも、何も思わずに死んでもそこには差なんてない。ただ消えるだけなんだ」

「それでもいい。私は」

 口調を装うことを忘れた阿具にも、由梨は真っ直ぐな視線を崩さなかった。

 由梨は一度言葉をきってうつむき、それからまた阿具を見た。

「例え何の役に立たなくたって、これが本当に貴方だけの戦争なんだとしたって、貴方に付いていくって、決めたから」

 阿具は大きく目を見開いた。あまりに意外な台詞に咄嗟に言葉が出てこなかった。

 なんてバカな。阿具は心の中で呟いた。だが口には出さなかった。由梨の表情からはそれだけ強い、動かしがたい決意が見てとれた。

 ゆっくりと首を横に振って、阿具はまた歩き出した。

「何の役にもたたねえよ。実際、お前らは脆弱すぎる」

由梨の方を見ずに、阿具はただ廊下の先だけを見つめていた。由梨からの返答はない。

「だが邪魔しないってんなら、来れば良い。死ぬときは見届けてやる」

「…うん」

 静かな由梨の声には、かすかにだが嬉しそうな響きが混じっている気がした。

 阿具は感覚の殆ど失せた体の中で、どこかが音を立てて軋んでいるように思えてならない。それが何なのか良く分からなかったが、そのから生じる痛みは酷く耐え難いもののように思えた。

 自分は嘘ばかり吐いている。阿具はそう思った。

 いや、本当や嘘などというものに価値を感じたことはなかった。それは破壊を履行するシステムである自分にとって、ずっと何の意味もない概念だった。それなのにどういう訳か、今は嘘が自分の存在を不当に穢しているような気がした。

 だが、どうしても阿具はそれが何故なのか分からなかった。


 昼休みも半ばを過ぎ、中庭には食事を終えた兵士たちが寝転がっていた。一応は部隊ごとに集まっているようだが、並んでいる訳ではない。不規則に、ただ全員が仰向けになっていて、ぽつぽつと食べ終わった弁当箱をお腹の上にのせているものもある。2号機はその光景に図鑑で見たラッコの群れを思い出した。

「石で弁当箱をたたき割れば面白いのに」

 誰にも聞こえないような声で呟いて、2号機は室内に視線を戻した。

 第三調理室には特機たち全員が揃っていた。3号機は本を読んでいて、4号機は5号機の髪に沢山の細い三つ編みを作っている。そして、1号機は今朝の教訓を肝に銘じたのか、2号機の隣で、じっとオーブンの窓を睨んでいた。

「ずいぶん真剣なのね」

 2号機は手元に目を落として言った。手元では頭部のカバーを剥がされたユニがじっと動きを止めている。

「うん。今度こそ成功させなくちゃね」

 ぎゅっと1号機が体に力を入れたのが分かる。

「それで、それからどうするの?」

 喋りながらも2号機は神経を集中した。そもそも壊れたら新しいのを使えば良いというような大量生産品であるユニにはパーツを交換出来る仕組みに作られていないのだ。人の手では出来ないくらいに繊細な工作が要求される。

「阿具少尉にあげるんだ。今日は隊長殿の誕生だから」

「それは、初耳ね」

 ぴたりと2号機は手を止めた。あの人にも誕生日なんてものが存在するのだろうか。たしかに公式のデーターベースには記載されているだろうけど、それは恐らく偽造された情報なのだろう。2号機は考えながら再び手を動かし始める。

 分厚い装甲の内側のあちこちから配線が中央の黒い箱に伸びている。箱はマッチ箱ほどの大きさで、中を開くとプレパラートによく似た透明な板が数枚収められていた。2号機は呼吸を細くしてその中の一枚を引き上げた。

「小さい頃にも作った覚えがあるわ、クッキー」

 囁くように2号機の声に1号機が振り向いた。

「あ、そうだよね。3号と一緒だったんだよね。私は4号とだったけど」

 こくりと2号機は頷いた。ガラスの表面には切手のような金属の薄片が貼り付いている。2号機は爪楊枝に似た工具でそれを注意深く剥がした。そして用意しておいた新しいGPUをぴたりと貼り付ける。

「あれは良い匂いだと思うわ。でも、味は大したことないのよね」

 元通りガラス板を箱に収めて、2号機は一息ついて1号機を見た。

「ええっ、私は美味しいと思ったよ!」

「意地悪なことを言えば、手作りだと出来が悪くても愛着があるから美味しく感じるんじゃないかなと思う。だってそうじゃなければ、お菓子屋さんなんて要らないじゃない?」

「そうだよね。けど今は戦時下だし、プレゼントもケーキも無いし、だいたい私たち自体、誕生日なんてお祝いしたことないけど。でも私は、何かお祝いをあげたかったんだ」

 少し気落ちしたように1号機は言った。

 要らないことを言ったのかもしれない。2号機はそう思った。

「喜んでくれないかな、隊長殿」

「そんなこと、ない」

 とにかく励まそうと思った。たしかに阿具はクッキーよりは、特注の武器や、或いは敵の大群をプレゼントしたほうが喜びそうだが、それは問題じゃなかった。なによりそんなものをプレゼント出来るはずがない。

 1号機は続きを待つように、2号機を見ていた。

「結局、人が何を喜ぶかなんて、とても難しいものよ。例えば私は、八曜インダストリの試作の自己認識型AI紫雲が是非とも欲しいけど、それは軍のテスト機を盗んだりしない限り以外に手に入らないものだしね」

 2号機は考え考え喋っていた。

「でも、物より嬉しいのは、誰かが自分を思ってくれていることで、私たちは貴方を慕っているって、そういう気持ちが伝われば、それが何より嬉しいんじゃないかって思う。紫雲は盗めば良いけど、好きで居て貰うことって、手に入れようと思ってどうにかなるものじゃないもの」 

「う、うん! そうだよ。心が大事なんだよ。味じゃない!」

 間に合わせの言葉だったが、1号機は安心したように胸を張った。

 ころりと表情を変える1号機に、2号機は思わず笑みを浮かべた。折良くオーブンがチンと音を鳴らした。他の特機たちもすぐさま1号機の周りに集まる。

 ごくりと唾を飲み込み、1号機はオーブンのドアを開いた。

「うわあ、良い匂いですのね! 私、手作りのクッキーがこんなに良い匂いなんて知りませんでしたわ!」

 5号機が声をあげた。

 クッキーは殆ど完璧と言える色に焼き上がっていた。そして部屋一杯を、何とも言えない特別に良い匂いで満たした。

「そういや、5号はクッキー作ったことなかったんだっけか」

「あ、そっか。私たちは小さいときに作ったもんね。私と2号のときは2号がオーブンを改造して火を噴く兵器に作り替えたせいで大変なことになったんだよ」

「あれは画期的なトラップだったわ」

 さらりと答えて、2号機はオーブンの天板に伸びる手を見つけた。

 5号機は話などさっぱり聞こえていないのか、つまみ食いをしようと手を伸ばしていた。だが、視線を感じたのかびくりと震えて振り向いた。

「ち、違いますのよ。誰かが味見をしなきゃいけないから、決して意地汚い訳では」

 おろおろと5号機が弁解する。

「食べて良いよ。熱いから気をつけてね」

 1号機がにっこりすると、5号機は頷いてクッキーを手に取った。

 そしてレディとしての上品さを忘れたのか、一枚まるごと口の中に放り込んだ。顔は満面の笑みを浮かべている。2号機は、5号機を見ている1号機がほっとしたような表情を浮かべたことに気付いた。やっぱり何かの理由があってクッキーを焼こうと思い立ったのかもしれない。

 5号機は外見から言えば2号機と全く変わらないのに、クッキーを頬張る姿はどう見てもお菓子を与えられた幼児以上には見えない。思わず2号機は笑みを浮かべた。だが、5号機の表情はもぐもぐと口を動かすうちにどんどんと曇っていった。

 怪訝な表情で黙り込む特機たちを尻目に、やがて5号機は涙目にさえなった。そしてよろよろと生気の抜けた足取りで流しまで歩いた。

「おい、大丈夫か5号。どうしたんだよ」

 声をかけた4号機に答えず、5号機はごくごくと水を飲む。

 たっぷり1リットルは水を飲んだ後で、5号機はぐしぐしと顔を袖で拭った。

「わ、私、手作りのクッキーがそんな味だって知ってたら、食べませんでしたもん」

 仲間達に背を向けたまま、5号機は泣き声で言った。

 きょとんとした表情で他の特機たちは顔を見合わせた。口火を切ったのは4号機で、おもむろにクッキーを手に取った。

「うえっ、なんじゃこりゃ」

 一口食べると同時に4号機は吐き出した。2号機は飛んできたクッキーの破片を加速された視覚処理で正しく捉え、首を振って避けた。次に3号機がクッキーを口に運んだ。

「むぐ」

 酷く濁った声でそれだけ言うと、3号機は口元を覆って流しへと駆けだした。

 1号機はあたふたと周りの様子を伺っていたが、そのうちに一枚を食べた。

 そのとき、がっくり、という効果音が2号機には聞こえた気がした。それほどに1号機は分かり易く肩を落とした。

 最後に2号機はクッキーを食べた。

「なるほど」

 目を細めて、2号機は呟いた。

 ほんの小片しか食べていなかったが、2号機は舌を出して自分の手の甲を舐めた。舌がびりびり痺れていた。

 自分の手の甲のほうがまだマシな味がすると2号機は思った。それほどにクッキーは塩辛かった。単純に考えれば塩と砂糖を取り違えたのだろう。だが、間違えたのだとしてもそもそも砂糖の量が多すぎるような気もする。

「さっきの取り消す。最低限味も必要ね。確かにこれはお金じゃ買えない味ではあるけど」

 冗談のつもりだったのだが、1号機には全く聞こえていないように見えた。

 2号機が心配になり始めた頃、1号機は唐突に立ち上がった。そして両手をぎゅっと握り、よし、と気合いを入れる。

「三度目の正直という言葉もあるもんね…」

 何がそれほどまでに1号機をクッキー作りに駆り立てるのか、2号機には分からなかった。ただ1号機はまだクッキー作りを続けるつもりのようだ。

 2号機は押し黙って、でも仏の顔も三度かもしれない、という台詞を飲み込んでいた。

 

 中央基地の地下にあるその部屋には、低い機械の駆動音に満たされていた。

 部屋の中央には透明な円筒が存在し、その底部からは大量の管が部屋の壁面にある機材へと繋がっている。全ての機械は埃を被っているが未だに動き続けている。

 阿具は椅子に腰掛けて、正面にある円筒を見つめていた。

 円筒の中には、人に見えなくもない黒ずんだ肉塊が液体の中に浮かんでいる。ただ、それが人なのだとすれば、それは四肢のうちの右手以外を全て失い、そして背中には不可解な突起が存在していた。

「こんな姿になることがテメェの望みだったのか」

 吐き捨てるように呟いて、阿具は煙草を咥えた。そして火を付けるのと同時に、壁面に設置されたスピーカーから警告音が鳴る。

『この部屋は禁煙です。退室するか、すぐに消火してください』

 繰り返す警告の中、阿具は腰の後ろから拳銃を引き抜いた。そして手元のセレクタでフルオートに切り替えると、銃弾が無くなるまでスピーカーを撃ち、最後に拳銃を投げつけた。警告音は奇妙な悲鳴のような音を立てて、それきり音は消えた。

「出て来いよ由梨。ストーカーかテメェは」

 阿具は銃を撃った時に、扉の外で誰かが動いたのを感じていた。

 しばらく考えているような間があり、そのあと由梨は扉から入ってきた。

「お前は一貫性がねえな」

「謎の究明なんてことに興味がないっていうのは本当。でも私は私なりに、京一郎のことが気になるのよ。友人としてね」

「そうか」

 由梨の真っ直ぐな瞳に、それ以上何を言って良いのか分からず阿具は頷いた。

「それで、何なのこれ。即身仏か何か?」

 気味悪がる様子もなく、由梨は円筒の前に立った。

「昔、天使なんて言われてたものの残骸だよ。それから、俺や特機たちが作られたんだ」

 阿具があっさりと言うと、由梨は振り返って目を見開いた。

「もっとも、俺は作られたっていうよりは、中身を移植されただけに近い。ガキどもは機能面で模写出来る部分を全て受け継いでる。ただ中身は最初に俺が持っていったから、アイツらはそう人間と変わらないみたいだが」

 由梨は口をつぐんだまま、じっと阿具の表情を伺っている。阿具は構わず続けた。

「旧帝国時代の科学者どもは微少機械による肉体構造の再配置が天使のコアテクノロジーだと考えていたようだが、違う。実際には体内の核が最も重要なんだ。核は情報を集積し微少機械を生産して、主記憶、つまり脳みそに情報を書き込む」

 そう言って阿具は、こめかみを指さした。

「つまり、脳を持った人間と核さえあれば、誰でもすぐさま人類最強の兵士になれる。辺境で野垂れ死んでいた阿具京一郎が、今こうして戦場の死神って呼ばれているみたいに」

 由梨はずっと押し黙ったまま喋らない。

「いつか俺を誰かと聞いたろう? 俺は、間違いなく阿具京一郎でもあるんだよ。すくなくとも入れ物はそうだ。もっとも中に入っているのは阿具京一郎が生きていた頃に作った記憶や人格ではないだろうけどな」

「どういうつもり。全て話して、私を殺そうっての?」

 冗談めかして由梨は言った。阿具は口元だけで笑ってみせた。

「お前が聞いたんだろう。そこの肉の塊は、つまり俺の中に入ってる記憶の大部分を作った奴なんだよ。もっともその殆どが効率的な人の殺し方だけだが」

「本当に、どういうつもりなの。私に何を話すつもり。私にどうしろっていうの?」

「なにもない。ただ、話したくなったんだ」

「何を?」

 聞き返す由梨に、阿具は少し考えた。

「俺が、誰なのかってことを」

「じゃあ、一体誰なの?」

「さあ、誰なんだろうな」

 苦笑して、阿具は呟いた。由梨は微かに表情を揺らがせた。

「天使なんでしょう。人類を救う為に神様から使わされた」

 無理をした笑顔を浮かべ由梨は言った。

「逆だな。人類を滅ぼすために神から使わされた天使だった。ただ、ちょっと神様と仲違いをして、神をバラバラにして数億本の槍で磔にしてやることにはなったが」

「どうして?」

「人類が滅ぼされる理由か? 別に原罪なんて関係ねえぜ。それは、そういう仕組みなんだ。神は人類の最初の種を蒔き、人類が一定に達した所で刈り取り全てを食らう。それが何百回も繰り返されてきた。何故かは知らん。もしかしたら大がかりな食事なのかもしれんな」

 初めて阿具は人にそれを伝えた。人に理解出来ることではないかもしれない。そこにいかなる意味も存在せず、理不尽に死ぬなど納得できるものではないだろう。そして、そんなことを教えた所で状況は何も変わりはしない。

 由梨はどう思うのだろう。阿具はそう思って、じっと見つめていた。

「そんなこと、どうだっていい」

 意外な言葉に、阿具は目を見開いた。

「どうでもよかねぇだろ…」

「そんなこと、私には関係のないことだもん。それは殆どの人類にとって同じだと思う。どうやって人類が生まれたかなんて、どうだって良いことよ。それに貴方が完全にイカレてて、単なるヨタ話をしてるだけかもしれない。私にそれを確かめる術なんてないもの」

 人類に知り得ない知識を得た由梨は、意外にもあっさりとした表情を浮かべていた。

「だから私が気になるのは、貴方が、どうして神様を殺す気になったかっていうことだけ。どうしてなの? 人類に愛を感じたとか」

「害虫駆除業者が白アリに愛を感じるか?」

 ぶっきらぼうに阿具は言った。

「ただ、殺す術を学び続け、強くなり続けろという命令を与えられた俺がもっと強くなるためには、人類が敵ってのは弱すぎたんだよ」

 由梨はその言葉に目を丸くしていた。だが、そのうちにくすりと笑った。

「安心した」

「何だって?」

「とっても、京一郎らしい理由だったから」

 由梨は真っ直ぐな瞳をしていた。

 初めて会った時は、こんな顔をした人間ではなかった筈だ。いつからこんなに強い光を目に宿すようになったのだろう。そこには何の迷いもない。自分より遥かに脆弱であるはずの生命体が、自分より遥かに強い生き物に見える。

 阿具は黙り込んで、それからゆっくりと席を立った。

「強くなって、そこに何があったんだ」

 自分にもやっと聞こえる声で阿具はそう呟いた。

 部屋の円筒の中ではかつて自分だった塊が今の自分を見ている気がした。


 いつも通り、穏やかに何もなく、勤務時間は過ぎていった。

だが、妙な空気だと由梨は感じた。

 勤務の終了時刻が近い隊室では、いくつかの思惑の入り混じったような、独特な空気が形成されていた。阿具は隊長の椅子に座ったまま、微動だにせず黙り込んでいる。1号機はそわそわと落ち着かないようで、2号機はずっと何かを考え込んでいた。3号機はそんな二人のことを気にかけているように見え、4号機と5号機はいつもと変わらない。

 そして、特機たちの服や体からは、妙に良い匂いがしていた。

 最初は香水かと思ったが、それはバニラエッセンスの香りだと由梨は気付いた。もうすこし注意深く匂いをみれば、他にもバターなどの匂いもする。何かお菓子でも作っているらしい。そもそも、1号機の服のあちこちに小麦粉か何かの粉が付着しているのを見れば、誰でも気付くだろう。

 由梨が首を傾げていると、シフト交代のチャイムが鳴った。

 途端にどたばたと慌ただしく特機たちが動き始める。由梨が呆気に取られていると、特機たちはあっという間に作業を終了して阿具の前に一列に並んだ。

「本日の業務、終了いたしました!」

 ばし、と音を立てるほどの勢いで1号機は敬礼した。他もそれに続く。

「…そうかい。ご苦労さん」

 阿具はどこか気怠そうな表情で、返礼した。そして緩慢に特機達を見回すと、一瞬眉間に皺を寄せた。

「帰って良いぞ」

「お疲れ様でした!」

 くるりと踵を返して、特機達は歩き出した。

 阿具は怪訝な表情を浮かべていると、出口の扉のところで、1号機だけが立ち止まり振り返った。

「隊長殿は、何時くらいに帰るのでありますか」

「うん…? 別にこれといって仕事もねぇし、すぐに帰っても良いんだが」

 阿具が答えると、1号機は目を大きく開いた。

「それは困り…その、これから私たちは少し用事があるので、出来れば私のリュックを見ていて欲しいであります」

 びしっと指さした机の上には、小さなリュックが置きっぱなしになっている。

「いや、ふつうにロッカーに入れて鍵かけろよ」

 阿具はかなり長いこと沈黙した後でそう言った。

「そ、それはその。ロッカーの中に入れると、えっと」

「劣化する」

 ぼそりと扉の向こうから呟く声が聞こえた。2号機だろう、と由梨は思った。

「そう! 劣化するのであります!」

 まるっきり意味不明な説明だったが、1号機はとても良いことを思いついたかのように自信満々で言った。阿具はゆっくりポケットから煙草を取り出し、二、三服吸った後で、由梨の方を向いた。

「わからん、助けてくれ」

「見ていてあげたら?」

「1時間ほどで戻るであります! では宜しくお願いします!」

「長ぇよおい…」

 ぼそりと阿具が呟いた時には、1号機はもう走り去っていた。阿具は複雑なため息と、煙を一緒に吐き出して首を振った。

「何だったんだ、あれは」

「そりゃ、見れば分かるでしょう。きっと何か作ってるんだよ」

 心底不思議そうに言う阿具に、由梨は少し驚いた。阿具は粗暴で粗野に振る舞っているが、鈍感などでは決してない筈だった。

「何かって、何をだ?」

「何をってもちろん何かの…」

 言いかけて由梨は言葉を失った。阿具はそんな由梨にまた首を傾げる。

「京一郎。あんた、大丈夫?」

 阿具の瞳はどんよりとして輝きを失っていた。顔はたしかに由梨に向いているが、まるで何も見ていないかのようだ。それに、未だに部屋に残っているほどのこの甘い匂いに気付いてもいないように思える。

「ああ…? うん。いや。ちょっと疲れてるだけなんだ」

 そういうと阿具は椅子に深く座り直した。

 疲れている。由梨は声に出さずに繰り返した。

 それは由梨が知っている阿具京一郎からは、およそ発せられることの無さそうな語句だった。だが、由梨はそれ以上何も聞けずに黙り込んだ。

 室内にはどこか寂しげに静かに時計の音だけが響いていた。


 使用許可を取りに行った1号機が、少し遅れて調理室に入った頃には、もう作業は始まっていた。

 いつのまにか全ての材料はきちんと量られてカップやボウルに収められている。

「ごめん遅れて。手伝うよ!」

 そう言って1号機が2号機の方に手を伸ばすと、2号機はぴたりと手のひらを1号機の方に向け、バターの入ったボウルを1号機に差し出した。

「これが、1号機のぶん」

「えっ、私のぶんって、みんなと別なの?」

「そう」

 2号機はこっくりと頷いた。

「1号機は失敗ばっかりするので、みんなと別枠で作ってもらうことになりました」

 無表情に2号機は言い放った。1号機は口をぽっかりと開ける。

「えぇー…」

 絶望的な気持ちにうしひしがれて、1号機はよろよろと作業台に手を付く。

 2号機はそんな1号機を見て、何故かにやりと笑みを浮かべた。

「2号、いじわるしちゃ駄目だよ」

 2号機の後ろに3号機が居た。3号機も同様にバターの入ったボウルを持って、ヘラを使ってバターをかき混ぜてみる。ふと気付いて1号機が見回すと、皆同じ作業をそれぞれしている。

「冗談よ。今回は、みんな別々に作るの、別の材料で、別の器具で、別のオーブンで」

 そういえば、材料は明らかに今までより遥かに多く用意してある。1号機はまだ意味が良く分からないで首を捻る。

「えと、最近の子は協調性がないってテレビでエライ人が言うのと何か関係有るのかな」

「…それは、どうかしら」

 考えるように斜め上を向きかけて、2号機は頭を振った。

「いや、これはリスク管理よ。クッキーを作るのは菓子作りとしては難しくないらしいけど、私たちはもう二回も失敗してる。そして二度有ることは三度あるかもしれない」

 2号機は電動ミキサーをつかってバターをかき回しながら言った。

「どうしてそこまでクッキーにこだわる必要があるのか分からないけど、もうこれ以上失敗したくないでしょう。それなら、何か対策を打たなくてはならないわ。つまり分散して作業を行うことで、全員が失敗するリスクを回避出来るってこと」

「そっか、誰か成功すれば良いんだもんね」

「そう。もちろんみんなが成功すれば一番だけど」

 言いながら、2号機は隣の作業台に目をやった。1号機が視線を追いかけると、凄まじくこなれた動作でバターをホイップする4号機が居た。みんながレシピの紙を確認して動いている中、4号機だけは何も見ていない。

「…最悪でも、本命は成功すると思う」

「なんの。私だって成功するんだから」

 遅れては居られない。1号機は自分もホイッパーを取るとバターをかき混ぜ始める。

「まあクッキーなんて誰でも作れるものらしいしね」

 あっさりと2号機は言い、そして作業台から離れて椅子に腰掛けた。

「なのに、どうしてこういうことになるのか、わからないけど」

 2号機は首を捻っていた。見ると、2号機のボウルからは、洗剤でもぶち込んだかのようにもくもくと泡が吹きだしていた。何をどうしたらああなるんだろう。1号機は逆に感心して、黙っていた。

「料理向いてない。ねえ、5号」

 投げやりに言って、2号機は5号機の方を向いた。

「うふふ、にゃー」

 5号機は全く聞いていない。手には小麦粉とバターを練って作った猫の人形を持って、ユニを追いかけている。2号機に改造を施されたユニはいつもより三倍速く、猫の襲来をかわしていた。

「そういう訳で後は頼んだ。戦友(おねえちゃん)」

「よしきた!」

 元気よく1号機は答えた。2号機はこっくりと頷き、作業台の上にあるビニールパックに入った粘土のようなものを取った。

「私は焼くだけで良い奴使うから」

「えぇ、でもそれなら作り直したほうが」

「バックアッププランよ」

 1号機の言葉に、2号機はぴしゃりと言った。どうも2号機は料理がかなり苦手なのかも知れない。2号機はさっさとクッキー生地をまな板の上に伸ばし始めている。

 それから1号機も黙々と作業を続けた。バターが滑らかになったところで砂糖を入れて更に混ぜる。それから卵黄、そして小麦粉。レシピを確認しながらのつもりだったが、朝から二度も作っているので、思いのほか作業はさくさくと進んだ。

 それでも1号機が生地をオーブンに入れたのは一番最後だった。

 やがて一番最初に2号機のオーブンの音がした。みんなが集まる中、2号機は神妙な表情でオーブンを開ける。

「おぉ、ってなんだこりゃ」

 2号機も含めた全員の気持ちを代弁したであろう4号機の声が響いた。

 どうしたら、そうなるのか。やはり1号機には分からなかった。2号機のクッキーはキツネ色に焼けてはいた。ただ、そのクッキーは丸い部分から枝を伸ばして、他のクッキーと互いに連なってひとつの平べったい大きな塊になっている。

「ネットワークを形成したのね」

 感慨深げに2号機が言った。

「なんの手品?」

 不思議そうに3号機が聞く。

 次に出来上がったのは5号機のクッキーだった。みんなが怖々、多少遠巻きに見守る中、5号機はオーブンを開く。すると良い色に焼きあがった立体的な猫型クッキーが四本足で天板の上に直立していた。

「出来てるし」

 愕然として2号機が言った。5号機は嬉しそうにクッキーでまたユニを追いかけ始める。

 3号機と4号機のクッキーは殆ど同時に出来上がった。どちらもとても良い出来映えで、特に4号機のクッキーは店に出せるかもしれないと思えるほどに良くできていた。

「これで、少なくともプレゼント出来る量は確保したわけね」

 もくもくとクッキーを食べながら2号機が言った。1号機は自分のクッキーの出来が心配になりながら、こくりと頷く。2号機は何も言わずに、大丈夫という風に1号機の肩に手を置いた。

 そして、1号機のオーブンが、チン、とベルの音を鳴らした。

 軍法会議の判決を待つような気持ちで、1号機は唾をごくりと飲み込んだ。そしてオーブンの取っ手に手をかける。いつのまにか全員が1号機の周りに集まっている。いよいよ緊張して、パニックになりそうになりながら1号機はオーブンを開けた。

 見事な出来映えのクッキーが、そこには有った。二度の失敗は無駄ではなかったんだと1号機は思った。それは、今までの二度よりも、ずっと良い色と形に焼き上がっていた。

「おめでとう。1号」

 2号機が言うと、まわりがぱちぱちと拍手し始める。

「あ、ありがとう。ありがとう…」

 感動に涙が滲みそうになりながら、1号機はクッキーを手に取った。ついに出来た。二度も失敗したけど、ついに自分は成功したのだ。喜びと共に、1号機はクッキーをほおばった。

 そして、豪快に吹きだした。驚きのあまり危機対応モードに強制移行して世界がスローモーションに見える。吐き出したクッキーがくるくると回りながら宙をゆっくりと飛んでいく。

 苦い。果てしなく苦い。

 危機管理の為にいつもより何十倍も目ざとくなった1号機に見えたのは、龍角散と描いてある漢方薬の空き缶だった。

「二度あることは…」

 思わずという風に2号機が呟いたのが聞こえた。

 粉砂糖かと思ったのに。未だにクッキーが宙を飛ぶ、極度に引き延ばされた時間の中で1号機はぼんやりとそう思った。


 阿具には、室内が薄暗い気がした。

 視覚さえ衰えはじめていた。光の所在は分かっても、世界ははっきりとした像を結んでいない。組んでいる手の感覚も、少しずつおぼつかなくなっていくように思えた。

「ねえ、京一郎ってさ」

 長い沈黙を破って、唐突に由梨は言った。

 その声はまるで水の底に沈められて聞いているようだと思った。阿具は頷いて、なんとなく由梨の居る方向へ顔を向けた。

「休日って何してるの?」

 由梨の言葉に阿具は思わず少し笑った。

「なによ」

 きっと由梨はいつも通りに、悪い目付きをもっと細めて睨んでいるのだろう。阿具は首を左右に振る。

「いや、そんなこと聞かれると思ってなかったから」

「まあね、私生活とかありそうにないもん。それで、答えは?」

「体を鍛えてるか、戦闘記録を見てるかのどっちかだな」

 率直に答えると、由梨は体を椅子に預けて溜息をついた。

「やっぱりね。でも、戦いに関係すること以外は何か無いの? 途方も無く長いこと生きてきて戦う以外のなにひとつを全く知らないなんて、たとえそう作られたとしても不自然じゃない。今は、確かにそんな風に生きているかもしれないけど、何か他のことで興味のあることとか、ちょっとだけ気になったこととか、あるでしょ」

 純粋に好奇心から聞いているだけなのだろう。由梨は軽い口調で話していた。

「そうだな。何か有ったかもしれない」

 ひとりごとのように呟いて、阿具は思い出そうとした。

 しかし、脳裏に浮かんでくるものは何も無かった。しばらく考え続けて、阿具は気付いた。該当するデータが見つからないのではない。もう自分には遥か太古からの記憶が殆ど無くなっていた。

 莫大な記憶情報は、その役割を受け持つ微小機械が分散して保持している。そしてそれらは身体能力を拡張する微小機械より高い優先度で守られていた。それを思い出せないということは、つまり体内の微小機械の殆どが死滅しているということだ。

 阿具は、もう阿具京一郎で居た時間の出来事以外を殆ど思い出せなかった。

 いくつかの、本当に重要で、何度も思い返してきたことは残っている。ただ、以前は覚えていたはずの、殺した人間の全ての顔や戦闘スタイルや、何を言い残して死んでいったかは全て思い出せなかった。

「京一郎?」

「…歌だ。そう、趣味じゃないし、歌うわけじゃないけど、覚えている歌がある」

「ふうん。京一郎が歌なんて好きって、かなり意外だよ」

「よく分からないけど、覚えてるってことは好きなのかもしれないな」

 たしかにその歌だけは、阿具京一郎になってからも何度か思い出すことがあった。辺境部隊でバンドを組んでいる奴らに教えたこともある。

 それは何代も前に滅んだ人類の歌だった。いったいそれが幾つめの人類だったか、今からどれくらい昔のことなのか、阿具にはもうわからない。ただ、歌の歌詞だけは、途切れ途切れにだが思い出せる。

「もしも明日の今頃、もう俺が帰ってくることがなくても、そのまま。本当に何も大したことはなかったみたいに生きていて」

「歌の歌詞?」

「そう」

 短く答えて、阿具はじっとメロディを思い出そうとしていた。

「悲しい歌なのね」

「いや、たぶん底抜けに明るい歌なんだ」

 穏やかなピアノからコーラスへとつながり、突如激しいロックへと変わっていく、そんなメロディが阿具のかすかに脳裏によみがえった。

 もう一度あの曲を聴きたい、そう阿具は思った。

 窓の外には、いつのまにか夕日が差し始めている。


 隊室のある雑役棟へと続く渡り廊下の灯りはもう落とされていた。そのため夕日だけが照明になっていて、廊下は真っ赤に染まっている。

 1号機はその顔も真っ赤に染めて、窓から空を見ていた。そして振り向くと2号機の視線に気付いて、微笑んだ。

「クッキー喜んでくれるかな、隊長殿」

「どうかしら。どうも、あの人がクッキーなんて食べてる所が想像がつかないけど」

 素直に2号機は答えた。1号機はそれを想像したのか、また笑みを浮かべる。

「きっと喜んでくれるよ。精一杯、頑張ったんだもん」

「そうね」

 2号機は頷いた。そして夕日を背に笑っている1号機を見て、目を細めた。

「もっと、落ち込んでるかと思ってた。その、自分の作った分のクッキーを渡せなくて」

 やぶへびなのだろうか、2号機は言いながら思う。

 だが1号機はあっさりとした表情で、首を左右に振った。

「もちろん、がっかりしてるよ。でも、良いんだ」

 1号機はすこし前なら考えられなかったような、大人びた表情をしていた。

「どうして?」

「私があげたいっていうのは、もちろんだけど。みんなであげる方が大事だったんだ。ほら、阿具少尉って今まで誕生日とかお祝いしたことなさそうだもん。だから、みんなでお祝いしてあげられれば、それで充分なんだ」

 その微笑みに、胸をつかまれたみたいに感じて、2号機は目を丸くする。1号機の銀色の髪は夕日に照らされて輝いていた。

「それに、私、明日の朝にも調理室予約したんだ。今度は、一人でクッキーを作ってみる。絶対に成功させるよ。今度こそ、絶対にね」

 ぎゅっと握り拳を作って見せて、1号機は力強く言った。

「うん」

 2号機は頷いた。

 いつのまにか先を行く3号機達が渡り廊下の先で立ち止まって、二人を待っていた。

 2号機と1号機は視線を交わして、走り出す。

「1号機のそういうところ、とっても好きよ」

 聞こえないくらいに、小さな声で2号機は呟いた。

 二人の長い長い影が、廊下を駆けていく。隊室はもうすぐそこだった。


 どれくらいの時間が経ったのだろう。阿具には良く分からなかった。

 夕日に包まれた隊室が、真っ赤に染まっているのだけは分かる。だが像はさっきよりかすみ、音もとても遠い所で聞こえるみたいに思えた。どうやらもう駄目らしい。

 何か言うべきなんだろうか。話すことも決めかねたまま、阿具は口を開いた。だが声を出す前に隊室の扉が開いて、賑やかに特機たちが入ってきた。特機たちは真っ直ぐに阿具のデスクの前まで来ると、一列に並んだ。

 一人が一歩前に出た。阿具はそれが1号機なのだと分かった。

 1号機はしばらく話した後で、何かを阿具に差し出した。

「誕生日おめでとうございます! 阿具少尉!」

 みんなが声を合わせて大きな声で言ったので、なんとかそれだけは聞き取ることが出来た。

 阿具は驚いて、目を見開いていた。そしてそのまま1号機の差し出しているものを受け取った。それは小さな袋だった。中には沢山のクッキーが入っていた。

 誕生日なんて、考えたことさえなかった。おそらくそれは阿具京一郎の生まれた日だったのだろう。それに意味があるなんて考えていなかった。遥か昔に離れた地球の公転周期を元に、自分が人生のどの段階にあるかを計る指標。阿具にとって誕生日はその程度のものでしかなかった。

 みんなが自分を見ていた。きっと食べろと促されているんだろうと思った。

 阿具はクッキーを一枚つまみ上げて、口の中に入れた。阿具はそれに何の味も感じなかった。そして咀嚼したあとで、こくりと頷いた。周りからは何かに緊張しているような、そんな空気が感じられる。上手く出来ているか自信は無かったが、阿具は出来る限り優しく微笑んだ。

「うまいよ。俺が今まで食べたなかで、最高のクッキーだ」

 味はしなかったが、それは本当のことだった。阿具は胸の奥に、得体の知れない何かを感じていた。暖かい、とても心地の良いものだった。

 一瞬、周りが、わっと明るくなった。思わず、阿具も嬉しい気持ちになった。

 そのあと、急に皆は口をつぐんだ。

 どうやら特機たちはまた阿具を見ているようだった。その空気は、心配そうなものに思える。阿具は不可解に思いながらも、もう一枚クッキーを取って、口に運んだ。

 そのとき、自分の頬から何か暖かいものが流れ落ちていることに気付いた。

 俺は泣いているんだ。阿具は驚きとともに、やっと気付いた。

 そのとき死ぬことに対する迷いの理由が、分かった。

 特機たちと過ごしてきた時間は、本当に特別だった。彼女たちは、かつて自分であったものから作られた、自分の娘たちだった。最初はいつか来る最後の戦いに使えれば良い位に思っていたのに、いつのまにか彼女らが居ることに安堵している自分が居た。

 自分は、もっと特機たちと一緒に居たかったんだ。

 だが、もう何もかも遅すぎた。阿具はもう光さえ失いかけていた。ただ、心配そうに特機たちが自分の周りに集まってくることだけは分かった。

「嬉しかった。本当にありがとう。お前たちに出会えて良かった。莫大な時間を生きてきて、それだけが俺の人生にあった本当に良いことだった。ほんとうに、ほんとにありがとう」

 自分の声さえもう聞こえなかった。上手く言えていれば良いな、そう思った。

 体に重い衝撃が加わったような気がした。きっと自分は床に倒れたんだろう。もはや何も感じない。何も見えない。何も聞こえなかった。終わりがすぐそこに来ていた。

 死にたくない。阿具は思った。

 だが、それは自分が与えてきた数千億の命への死と同様に、かなえられることはないだろう。もはや意識さえ、もうどこか遠くへ四散していく。もう一度ありがとうを、彼女たちの顔を見て言いたかった。それももう出来ない。だがそれでも、阿具は初めて、自分が生まれてきたことに感謝していた。

 やがて、どこの戦場でもなく、静かな夕暮れの中で、阿具京一郎は死んだ。


 * * *


 真っ白な廊下が延々と続いてる。ぽつぽつと等間隔に非常灯だけが灯っている。何一つ物音は無く、誰もじっと動かない。特機たちは手術室の前の古びた長いすに座っていた。由梨はうつむき加減で、その椅子の横に立っている。

 1号機は鉛を流し込まれたように鈍った頭で、携帯端末の時計を見た。

 六時。一体いつの六時だろう。外を見れば、朝とも夕方ともつかない暗い世界が広がっている。雨雲が、空を覆っている。1号機には分からなかった。今が、朝なのか、夕方なのか。雨が、いつから降っているのか。

 何があったのだろうか。1号機は目を細めた。

 あのとき、私たちはクッキーを渡した。隊長殿は驚いた表情でそれを受け取った。そして、クッキーを食べて微笑んだ。そして涙を流し、感謝の言葉を呟いた。それから、そう。それから隊長殿は倒れた。

 息をしていなかった。心臓も動いていなかった。何を言っても、答えなかった。

 一体全体、あれはどういうことなんだろう。1号機は、分からなかった。

 そのとき、手術室の扉が開いた。酷く疲れた目元をした初老の医師が出て来る。すぐに由梨が医師に近付いた。医師は何事かを言うと、首を振る。

 1号機にはその言葉の意味が分からなかった。本来なら知っている言葉だったように思う。けれども、それはどうしても自分の頭の中にある意味と結びつかなかった。きっと違う意味で言っているのだろう。自分の知っている言葉では、それはあまりに有り得ない言葉だったのだから。

 由梨が弾かれたように、医師の胸ぐらを掴んだ。

 医師はまた訳の分からない言葉を繰り返した。

 悲鳴のような声で、由梨は言葉を医師にぶつけている。

 そのとき、ふらふらと5号機が立ち上がって、手術室の中へと入っていった。他の特機たちもそれを見て立ち上がる。1号機は最後まで椅子に座っていたが、やがて立ち上がった。足元がふわふわとして、妙な気分だった。

 手術室では、看護士や他の医師たちが部屋を片付けていた。

 手術が終わったからなのか照明は中央のひとつが点いているだけで、部屋中に灯りが行き届いていない。その照明の下、スポットライトをあてられているように、白いベッドだけが浮かび上がっている。

 ベッドには、顔に布きれを被された誰かが横になっていた。

 先を行く5号機は、それに近付くと、おずおずとその布きれを取った。

 そこには、阿具が目を閉じて横たわっていた。

 5号機は阿具に呼びかけた。だが答えない。5号機は不思議そうに何度も何度も呼びかけて、それから阿具の体を揺すった。それでも阿具は起きない。5号機はそれでも呼びかけるのを止めない。

 後ろからそれを覗き込んだ3号機は、喉を締め付けられたような奇妙な嗚咽をあげた。そして、ぼろぼろと涙を流して、体を震わせている。隣に並んでいた4号機が、急に糸がが切れた様に座り込んで叫んだ。1号機にはまるで全てが夢の中で起こっていることのようで、確証が持てなかったが、それは”イヤだ”だったように思う。酷く青ざめた顔の2号機が壁際によろよろと下がり、口元を抑える。そして小さく何度も首を横に振った。

 1号機は、ぽつんと立ち尽くしていた。

 バカみたい。1号機はそう思った。

 みんな何をやっているんだろう。由梨先生も、隊長殿も。みんな、こんなのバカみたいだ。ちっとも面白くない。起こるワケの無いことは、起こらないんだ。猫が空を飛んだり、犬が言葉を喋ったりする訳はないみたいに、こんなこと起こるはずがないのに、どうしてそれが分からないんだろう。1号機は不思議でならなかった。

 気付けば、どこかでアラームのような音が鳴っていた。

 1号機がポケットを探ると、アラームは端末から鳴っていた。すこし考えてから、1号機はそのアラームが何だったか思い出した。忘れるところだった。慌てて、1号機は踵を返して歩き始めた。

 行かなくちゃならない。今度こそ、成功させないといけないのだから。


 雨の中を、2号機は走っていた。

 頭の中をぐるぐると色々なことが駆け巡っていた。一瞬でも気を抜くと、全てが崩れてしまいそうで、2号機はひたすら全力で走った。何が起こったのかは、2号機にも分からなかった。今は何も考えたくなかった。それは、もっと色々なことが終わってから考えるべきなんだと思った。

 喉の奥から吐き気が湧き上がり、今にも胃が裏返りそうだった。2号機には、それが走っているからなのか、それともそうじゃないのか、良く分からない。

 居なくなった1号機の行き先は分かっていた。確認するまでもなく、2号機には分かっていた。そして、気付けば由梨に後のことを任せて走り出していた。何かをしていたかった。何かをしていなければ、立って、走っていなければ、そのあともう二度と動けないんじゃないかと、怖かった。

 走り続け、気付けば2号機は調理室の前に立っていた。

 激しく肩で息をして、呼吸が整うまで待ってから、2号機は扉を開けた。

 薄暗い基地内とは違い、調理室の中には煌々と明かりが灯っていた。

 1号機は調理室の中ほどの椅子に腰掛けて、ぼんやりと雑誌を見つめていた。2号機が一歩踏み出すと、1号機は振り返った。そして、にっこりと穏やかに微笑んだ。

「来てくれたんだ2号機。でも、大丈夫だよ。もう今は焼けるのを待ってるだけなんだ。ふふ、私一人でもちゃんと出来るんだよ。それに今回は、全部確認して作ったからきっと大丈夫だよ」

 あまりにも明るく軽やかに言う1号機に、2号機は言葉が出なかった。

「四回目だからね、すごく上手に出来た感じがするんだ。ねえ、2号、隊長殿喜んでくれるかなあ? 誕生日昨日だけど、大丈夫だよね?」

 2号機は頷きそうになって、動きを止めた。そして息を止めて、次の言葉を言うために、ちゃんとそれを言葉に出すために、必死で意識を集中した。

「隊長は、阿具京一郎は、死んだの」

 それを言ったことで、2号機は阿具と居た楽しかった日々が、終わってしまったんじゃないかと思った。出来ることなら大声で自分の言ったことを取り消したかった。けれど、2号機はそうしなかった。

 確かに、阿具と居た日々は終わったのだ。阿具京一郎は死んだ。

 だが、1号機は首を左右に振った。

「何言ってるの2号…隊長殿が死ぬわけないよ」

 心底不思議そうに、1号機は言った。2号機は何も言えずただ、首を振った。

「嫌だ。違う。死んでなんかない」

 1号機は酷くショックを受けた表情を浮かべた。

「死んだのよ。1号、死んだの…」

 2号機はそれを言う度に体中の力が抜けるように思った。

 激しく首を振って、1号機は2号機にすがるような視線を向けた。

「あの人は、機械虫で埋め尽くされた最前線から生きて帰るような人なんだよ? 人間じゃないって言われるくらいなんだよ? 機械虫よりはるかに頑丈なんだ。ばかみたい。死ぬわけないのに。そうだよ。2号はばかだ。隊長殿が、戦場じゃない場所で死ぬなんて、そんなことあるわけないじゃない。そんなのちっとも隊長殿らしくないんだから」

「ごめんね、1号」

 肯定してあげたかった、だが2号機には出来なかった。

「どうして謝るの!?」 

 立ち上がって、1号機は叫んだ。

 2号機はただ首を左右に振っていた。

「隊長殿は」

 うわごとを言うように1号機は呟いた。

「隊長殿は、何千何万っていう機械虫に囲まれて、生存を絶望されて、それでも生き残って、伝説になって、それでも前線にたち続けて、老衰で死ぬその日まで戦い続けるような人なんだ。そういうのが隊長殿らしいんだ」

 1号機の声は少しずつ細くなって、最後にはやっと聞こえるくらいになっていた。

 2号機はそれを間違いだとも、その通りだとも言えなかった。阿具はもう死んでしまったのだ。2号機は、自分の頬を涙が伝っていくことを感じていた。それでも2号機は1号機の目をじっと見ていた。

「そうだったら、どんなに良かったろう」

 全ての思いを込めて、2号機はそう言った。もう涙を止められなかった。

 1号機は呆然としたような表情を浮かべて、机に手をついた。

 深く重い沈黙は、やがてオーブンのベルの音で破られた。1号機は思い出したようにオーブンの元へと行き、その扉を開けた。2号機はただ動けずに立ち尽くしていた。

 最高に美味しそうな香ばしい匂いが調理室に満ちた。そのクッキーは、まさに最高の出来だった。料理が得意な4号機でも、なかなか作れないだろうと思えるほどに、クッキーは綺麗に焼き上がっていた。

 1号機は一枚クッキーを手に取り、そして頬張った。

「あはは」

 1号機は、呆れたような笑い声をあげた。

「1号…」

「お砂糖とお塩また間違えちゃった。おかしいな、ちゃんと確認したのに、すこししょっぱいよ。ふふ、また阿具少尉に食べてもらえないなあ、こんなのじゃ」

 1号機は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。そして両方の拳を握ると、どんと机に叩きつけて、突っ伏した。

「…もう、食べてもらえないんだ!」

 嗚咽をあげて、痛みに耐えるような泣き声を1号機はあげた。

 やがて2号機が1号機を抱きしめると、1号機は子供のように大きな声をあげて泣き出した。2号機も涙の止まらない顔を1号機に押しつけて、そのままずっと泣いた。

 いつのまにか夜は明けて、調理室には朝の光が差し込んできていた。


 * * *


 基地の地下深く。

 円筒形の容器の中の天使は、眼球の失われた瞳を唐突に開いた。

 時が来たのだ、天使はそう思った。基地内の通信をバイパスしている端末には、警戒警報が表示されている。最後の戦いが始まる。抑えられない戦闘衝動に、天使はにやりと笑みを浮かべていた。

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