第15話 鋼鉄兵器

 鉛色をした濃い砂塵の中から、巨大な兵隊蟻は姿を現した。

 無数の弾丸は機械虫に命中するとその外骨格から金属片を散らした。軽く細かな金属片は時間とともに大地に積もり風に乗って砂塵となり市街地を覆っている。そして、その砂塵は歩兵用の短距離レーダーの精度と、周囲の視認性を著しく低下させていた。

 だが香坂は兵隊蟻との急な遭遇にも、慌てることはなかった。

 兵隊蟻は特徴である大あごを、香坂に向かって広げていた。香坂はひるむことなく脚部装甲から地面にアンカーを打ち付けるとハンマーと呼ばれる機関砲を構えてトリガーを引いた。分厚い装甲越しにでも、発砲の衝撃が体に伝わってくる。

 銃の名の通り、見る間に兵隊蟻の頭部は見えない金槌で叩かれたかのように変形していく。銃撃が止まった頃には、兵隊蟻の頭部は踏み潰された空き缶のように扁平に変わっていた。

 香坂は潰れた兵隊蟻の頭を掴むと腕に力を入れた。体を覆う強化装甲によって増幅された腕力は兵隊蟻の巨大な体躯を軽々と持ち上げる。そのまま兵隊蟻を横倒しにすると、香坂はその体に隠れるように腰を下ろした。

「こちら香坂。藤山、応答しろ」

 索敵担当を呼び出して、同時に香坂は頭部装甲の情報表示を切り替えた。部隊の人員の位置関係が外の風景に覆いかぶさるように表示される。

 装甲兵隊の各員は香坂を戦闘にしてすぐ傍に居た。だが厚く立ち込める砂塵のせいでその姿を見ることは出来ない。

『藤山です。副隊長』

「中距離エコーで周囲の状況を確認しろ。敵が本隊が接近してきている可能性がある」

『了解っ!』

 恐らく接近してきているだろう。既に開戦から10時間が経過し、機械虫たちを視認出来なくなってから2時間が経つ。砲火の阻止効率より敵の進軍効率は確実に上回っている。香坂はヘルメットの裏側に表示されている残弾数を睨みつけていた。

「こちら香坂。隊長、応答願います」

『岩神だ』

「今しがた接敵しました。藤山に索敵を依頼しましたがおそらく敵本隊が接近してきているものかと思われます」

『そうか』

 岩神はそっけなく答えた。

「命令はまだですが、後退可能ラインまで下がった方が良いと思いますが」

 香坂が続けて意見を述べると、岩神は黙り込んだ。

 この人は戦いたがっているのだ。香坂はそう思った。普段は物静かで慎重な人間に見える岩神だが、戦場ではいつも必要以上に前線に残ることを選んだ。何がそれほどまでにこの人を駆り立てるのだろう。香坂にはそれが不思議だった。

『こちら藤山、敵1km以内に1000以上です』 

『こちら指令本部。敵本体接近の情報を確認。岩上隊、双葉駅臨時駐屯所まで帰投せよ』

 藤山が言うのと同時に、司令部からの通信が入った。

 通信はもちろん、索敵の結果から何発銃弾を放ったかまで全ての情報は、統合作戦処理室へと送られ、リアルタイムで細かく分けられた部隊の行動の支持材料に使われている。

 ほんの少しだけ岩神は黙っていた。

 既に戦況は変わってきている。長距離射程の武器で、正面から撃ち合う装甲兵の出番はもう終わったのだ。これからは敵の攻撃を避けつつ近接兵器で戦う突撃兵の出番になる。香坂は装甲の中でしめつけられるような閉塞感を覚えながら、じっと岩神の言葉を待っていた。

『撤退だ。駐屯所まで帰投する。隊形を維持しつつ警戒移動を開始せよ』

 最後に岩神は口惜しそうにぽつりと言った。


 駅前広場のあちこちで、兵士たちは休息をとっている。辺りには遠い銃声と、補給部隊長の命令とそれに応じる声ばかりが響く。かすかに聞こえる兵士たちの声も、風にかき消されるような押し殺した声で、そこには酷く陰鬱な調子が聞き取れた。

 岩神は一人で、噴水の前にあるベンチに腰を下ろしていた。

 何も持たず、ただじっと自分の手を見つめている。香坂はいつもどおりの岩神を見つけると、またいつもどおりに笑顔を作って歩み寄った。

「隊長。飯とコーヒーですよ」

 香坂の手には補給物資の弁当と缶コーヒーが有った。

 ちらりと顔を上げた岩神は、まるで感情を失ったような濁った瞳をしている。だが香坂は別に気付かなかったように、岩神の隣に腰を下ろすと弁当と缶コーヒーを差し出した。

 促されるままに、といった様子で岩神はそれを受け取った。

「あまり食欲がない」

「駄目ですよ。いつもはそりゃ、短期戦だから食わなくたって平気っすけど。今回のは本物の戦争なんだから。戦闘がいつ終わるか分からないし、次にいつ飯食えるかもわからないんすから」

 敬語で喋りながらも、叱るように香坂は言った。

 いつもは気丈に見える岩神は、ただこくんと頷いた。その様は随分と弱々しげに見えて、香坂は目を細めた。しかし考えてみれば岩神は自分より七つも年下で、まだ二十台の娘なのだ。実際には、これが年相応だということなのかもしれない。

「聞いたか?」

 考えていると、岩神はそれだけ言って香坂を見つめた。

「何ですか」

「阿具京一郎が死んだ」

「ああ、聞きました。元々病気で、だから辺境からこっちに戻ってきたそうですね。あんな人が戦場じゃなくて、病院で死んじまうなんて嘘みたいな話っす」

 肩をすくめて香坂は呟いた。岩神はじっと黙っていて、間をあけて頷いた。

「あぁ、本当にな」

 そう言ったきり、再び岩神はぼんやりとした瞳で遠くを見つめた。

「それが、どうかしたんですか?」

 香坂の問いに、岩神はためらうような表情を見せて、下唇をかんだ。

「最初はあの男を憎んでいた」

 岩神の言葉に香坂は頷いた。

「だが実際にあの男と剣を交えて、その気持ちは消えた。あるいは、その人とは思えないような強さに憧憬を抱きさえしたかもしれない。好きだったなんて言うつもりはないが、すくなくとも奴は恨みの対象としてだけでも、私の中で大きな存在だったに違いない」

 岩神は自分の言うことをひとつひとつ確かめるようにゆっくりと喋った。

 それほどまでにショックだったのだろうか。そう思った香坂に、岩神は顔を上げると皮肉に笑ってみせた。

「何もな、感じなかったんだよ。それこそ、朝のニュースで今日雨が降ると言われたのと同じような気持ちだった。私が全てを失うきっかけになったと、ずっと恨んでいた男が死んだのに、へえ、という感じだった」

 何も言えずに香坂が頷くと、岩神は表情を消してどこか遠くを見つめた。

「もう私には、虫どもと戦う以外に何も無いんだろう。大人しい少女だった頃の私は、虫に埋め尽くされた惑星の上で食われたんだ。圧倒的な恐怖と、絶望が私の感情の全てを壊してしまった」

 そう言ったきり岩神は黙り込んだ。

 これほどに饒舌な岩神は初めてだった。香坂はずっと不思議だった岩神の戦う理由を知った。そしてただ哀れだと思った。どれだけ憎んでも相手はただの虫なのだ。謝る訳でも、奪った何かを返してくれる訳でもない。

 岩神はぼんやりと辺りを見回している。香坂も同様に辺りを見た。

 見慣れたはずの昼の駅前広場が、今はまるで異質なもののように見えた。砂塵でうっすら濁って見えたり、遠くから間断無く銃声が聞こえてくるせいばかりではない。単なる曇りである筈の空さえ何か不吉なものに思える。

「戦場に帰ってきたんすね、俺は」

 気付けば呟いていた。岩神がゆっくりと振り返る。

「昔、辺境部隊に居たんすよ。まあ補給科だった嫁と結婚したんで、配置転換しましたが」

 岩神は何の感情も見せず、かすかに頷いた。

「そこには、戦場の申し子みたいな奴ばっかが居ましたよ。同期にもすげえ奴が居て、確か最前線の突撃隊に配属されたはずです。まあ、そんな奴を見てきたから言うんですが、たぶん、隊長は兵士に向いてないっすよ」

香坂が穏やかに言うと、岩神は驚いたように目を見開いた。

 ニッと香坂は笑ってみせた。

「戦争は楽しんでするもんだ、ってそいつは言ってましたよ。それ以外の気持ちがあるなら、戦争には向いてないって。だから俺は向いてない、とも」

 言いながら香坂は立ち上がった。そして大きく伸びをする。

「飯、食っておいて下さいよ。向いてなくたって戦争しなきゃならんのですから」

 岩神はしばらくしてから、小さく頷いた。

 それでも岩神は弁当に手を付けようとはしなかった。香坂はそれ以上何も言わず、ゆっくりと歩き始めた。公園に座る多くの兵士達は小さな声で囁き合うようにして喋っている。そこには恐怖や不安だけがさざめくように見て取れた。

 自分は戦場に帰ってきたのだ。改めて香坂はそう思った。


 * * *


 急勾配のトンネルの中では、激しく銃声が反響していた。

 辺りはとても暗く、その中で銃火だけが断続的に光っている。

 由梨はトンネルの途中に作られた装甲板にぴったりと体を寄せていた。トンネルは元は兵員輸送用の列車が通る為のもので、装甲板は路線内での防衛を目的として作られている。だが、それは前の戦争当時の装備であり、機械虫の攻撃を想定されたものではなかった。

「このままじゃ不味いわ。2号機、この装甲板がどれくらい持つか分かる?」

 由梨が横を向くと、ちょうど2号機は銃撃を中止して、装甲板の内側に頭を引っ込めた。

 同時に大きな衝撃と音が由梨たちが身を潜める装甲板を連続で叩いた。思わず由梨は身を固くして歯を噛みしめた。

「おおざっぱに言うなら、長く持ちません」

 少し後に衝撃は収まり、ライフルからマガジンを落としながら2号機が呟いた。由梨は頷く。装甲板は目に見えて歪曲していた。

「そりゃそうね、3号機! 聞こえる!?」

『聞こえます』

 耳に装着した無線機に怒鳴ると、すぐに応答があった。

 3、4、5号機は由梨たちと線路を挟んで、ちょうどトンネルの反対側の装甲板に隠れていた。距離としては大してなかったが、トンネルの中では銃が放つ火花に、瞬間的に浮かび上がるばかりで、良く見えなかった。

「この主線以外に山頂へ向かえるルートが分からないかしら。最短距離は取れなくなったけど仕方がないわ。敵の主力級が侵入してこれない細い道を」

『ここから二十メートルほど後退した位置に保守用の側道があります』

「わかった。敵を近づけずに命令を待って」

『了解』

 通信が切れると、向こう側の装甲板の銃撃が更に苛烈になった。

「これで良し、後は」

 由梨は呟いて、装甲板から下を見た。

 そこから三十メートルほど下った位置には、投げ込んだ発炎筒が赤々と辺りを照らしている。そして中型と呼ばれる、それでも人より大きな虫たちが見えた。それは機械虫の主戦兵力と呼ばれる五匹の兵隊蟻と、三匹の中距離射撃を請け負う尺取虫の小隊だった。

 虫たちは上からの撃ち降ろしの弾丸を受けながらも、少しずつ進んで来ていた。

 阿具が居れば倒せない敵では決してないだろう。由梨は小さく舌打ちをした。

「1号機、応答しなさい!」

『こ、こちら1号機です』

 答えた1号機の姿を、由梨は肉眼で捉えていた。

 逃げ遅れた1号機は、敵の小隊からすぐ目と鼻の先にある装甲板の裏側に隠れていた。

「1号機。これから全力で敵に射撃を加えるわ。貴方は一気にこっちまで駆け上がってくるの。出来る?」

『が…がんばります。いえ、やります』

 1号機はひどく自信無さげな声で言った。

 何を言えば良いのだろう。京一郎ならこんなとき何を言って1号機を励ますのだろう。由梨は一瞬考えたが、頭を振った。そんなことを考えている暇はない。

「みんな聞いたわね。リロードして、三つ数えてからに全力射撃を加えるわ。重点目標は尺取。行くわよ、三、二」

 一瞬銃撃が止み、ぴったりのタイミングで一斉に再開した。

 同時に1号機が体勢を低くしたまま駆けだした。だがそれは明らかに慌てすぎているように見えた。そして、由梨が注意を促す間もなく1号機は足を絡ませて地面に倒れ込んだ。

「…1号機っ」

 2号機が息を呑んだのが聞こえた。

 由梨は既に装甲板を飛び越えていた。走り出した由梨の足に尺取虫から放たれた鉄針がかすった。それでも由梨は一直線に倒れた1号機に向かって走っていた。だが1号機へと辿り着く前に背後からの援護射撃が弱まった。 

 その瞬間、凄まじい音を立てて装甲板をなぎ倒しながら兵隊蟻が突進を始めた。

「1号機伏せなさいっ!」

 叫びながら、由梨は夢中で飛びついていた。

 1号機は立ち上がった後、呆然と振り向いた。そこに間髪入れずに由梨が1号機にタックルをする。そしてそれまで1号機が立っていた空間に蟻の大顎が音を立てて閉じた。

「由梨先生、頭上げるなよ!」

 4号機の怒鳴り声が、銃撃の間を縫って聞こえた。

 同時に再装填を終了して、苛烈な銃撃が由梨の上を通過して敵に向かって加えられた。由梨は1号機を引きずり、頭を上げずに匍匐前進で壁際まで進んだ。そして傍に有った脇道に1号機を押し込み、自分もそれに続く。

 脇道に入ると1号機は立ち上がろうとして、ふらついて座り込んだ。そして真っ青な顔をして肩で息を吐いた。その表情には恐怖が色濃く見える。

 由梨は自分も脇道の壁に寄りかかるように座ると、目を細めて、銃弾の残りを確認してから無線機に手を触れた。

 どうやら脇道は緊急用の通路のようだった。大人なら並んで通れないほどの狭い通路は敵から身を隠すのには好都合だったが、その位置からでは敵も味方も見えなかった。

「誰か応答して」

 呼びかけから暫くの間は、銃声だけが響いていた。ただ銃声はかすかに上の方へと遠ざかっているように思えた。

『2号機です。3号機たちに合流しました。現在3号機の発見した側道前まで後退しています。こちらは、このまま側道を通って山頂へと向かった方が適当だと考えます』

 ほっと、由梨は胸をなでおろした。2号機の状況判断は的確で、与えようとした指示を既にこなしている。

「…分かった。この状況じゃここから出てそっちに合流するのは無理だわ。貴方たちは敵を避けてそっちを進んでちょうだい。指揮は貴方に任せたわ2号機。大丈夫ね?」

「どうですかね。指揮経験は由梨先生と同じくらいですが」

 無いってことか。由梨は再び目を細めた。

「信頼する。私たちに何があっても、気にせず山頂を目指すこと。良いわね」

「やめてください。今の私は仮定でも、誰かが死ぬことなんて聞きたくもないんです」

 それでも戦場では人は死ぬ。由梨はそう思ったが口には出さなかった。

「分かった。上で会いましょう」

 そう言うのと同時に、数匹の蟻が銃撃を受けて火花を散らしながらも脇道から見える位置にまで前進してきた。その中の一匹が体を動かし、通路の中の由梨たちを見る。

「立てるわね、1号機。行くわよ」

 手榴弾のピンを引き抜きながら、由梨は1号機の方を向いた。

 1号機はまだ青い顔をしながらも今度は何とか立ち上がった。

 蟻は真っ直ぐに明らかに自分の体より小さい通路に向かって突進してきた。衝突と同時に通路全体が震え、左右の壁にヒビが入る。

 由梨は手榴弾を蟻の体の下に投げ入れると、走り出した。

 背後で爆発音が聞こえた。だが由梨と1号機は振り向かずに、細い通路を走っていった。

 全力で走りながら、何故か由梨は鈍い痛みを腹部に感じていた。


 廊下に、銃声はひっきり無しに続いていた。

 2号機は銃撃の途切れる間を見計らって、銃を4号機に差し出した。すぐに4号機は今撃っている銃と渡された銃を取り替えて、壁の隅からの銃撃を継続する。

「きりがねーよ。なあ、これって簡単な任務じゃなかったのかよ」

 銃声は廊下中に反響していたが、インカム越しに4号機の声ははっきりと聞き取れた。

「簡単な任務よ。廃棄された基地のシステムを再起動するだけだもの」

 2号機は弾倉が空になった銃に弾を込め直すと、手元の端末に戻った。端末からはケーブルが伸びていて、背後の扉のコンソールへと接続されている。

 二人は閉じた扉を背にして、袋小路へと追い詰められていた。

「誤算だったのは敵と遭ったことだけよ」

「でっかい誤算じゃねえか」

「文句言わない。思い通りにことが運ぶことの方が少ないのよ」

 言いながら、2号機は本当にそうなのだろうと思った。

 いつか阿具と別れる時が来るのだと思ってはいた。それぞれが大人になり、阿具はきっとまた戦場へと戻っていくのだと分かっていた。その途中に沢山の障害があるだろうとも思っていた。軍は自分たちをみすみす逃がさないだろうし、不要になれば口封じさえ有り得ると覚悟していた。

 その為に、2号機は沢山の用意をしたつもりだった。

 偽造身分証明書の入手ルートも確保したし、あらゆる交通機関のシステムに、嘘の名前でも乗れるようにバックドアも用意した。数え切れない決済システムに幾らでも使えて払わなくても良い特別な権限を確保した。その気になれば、今日この瞬間にも2号機はまったく別の人間にだってなれる。

だが、戦場でも無い場所で唐突に阿具が死んでしまうなんて考えなかった。

 2号機はぎゅっと唇を強く噛みしめた。不意に銃声が遠のいて、周りはより暗く、自分だけしか居ない世界に落ちていってしまいそうな気がした。だから、唇を噛んで耐えた。

 自分が、こんなにも弱いなんていうことも誤算だ、2号機はそう思った。

 気を抜けば、すぐに泣き出して駄目になってしまいそうに思える。今はただ任務のために動き続けているだけで、なんとか自分をつなぎ止めることが出来た。

 2号機は壁から身を乗り出している4号機の後ろ姿を見た。

 きっとみんなもそうなのだろうと2号機は思う。

 阿具が死んでからまだ二四時間も経っていないが、任務が始まってから、誰一人として阿具の事を口に出さなかった。阿具少尉が居てくれたら、阿具少尉ならこんなときだって、そんな風に何度も考えそうになって、そのたびに2号機は唇を噛んだ。

 考えないことだ。2号機は背後の扉のロックを解くべく文字を追うことに集中した。強く噛んだ唇の端から血が出て、口の中に鉄の味が広がっていた。

「ねえ、何かしたいことあります?」

 唐突に、インカムから5号機の声が聞こえた。

「…何だって?」

「したいこと。この先したいことですの。私はレディになりたいですの」

 怪訝に4号機が聞き返すと、5号機ははっきりと答えた。

 5号機は通路の天井を這う大きなパイプの上に身を潜めて、敵を狙撃している。3号機は観測手としてその傍らに居るはずだ。

 二人とも2号機からは姿を見ることが出来なかったが、定期的に響く大きな銃声とそのあとに続くユニからの撃破報告からその戦果は確認出来た。

「それは何か戦闘に関係のあることなの?」

「ええ。私、怖くなったら好きな物を数えるんですの。でももう全部数えたから」

 たしなめようと思った2号機に、5号機は恥ずかしそうに答えた。

 どうするべきだろう。2号機は答えかねて、端末を操作しながら考えていた。

「おれ、店持つ」

 2号機が答えを出すより早く、4号機は答えていた。

「定食屋。ふつうの料理作るんだ。おしゃれとか、高級とかじゃない。残弾少!」

 ぽつりぽつりと喋る合間に、4号機は怒鳴った。2号機は素早く銃を手渡す。

「でも近所の人が来るような定食屋。場所は…場所は、そう。いつだったか行った温泉みたいな。グレネード!」

 手榴弾のピンを引き抜いて手渡しながらも、2号機は4号機の話に引き込まれていた。

 4号機がこれほどはっきりと自分の夢について話したのは初めてかも知れない。みんな4号機はそういうことをしたいのだと知っているのに、いつでも4号機は言葉を濁していた。

 4号機は手榴弾を受け取ると、すぐさま廊下の向こうに向かって投げつけた。

「ひまわりが一面に生えてるような、そういう園芸惑星。そういう所のちっちゃな店」

 壁から戻って、爆風が過ぎてから4号機は言った。

「笑うなよ」

 恥ずかしそうな4号機に、2号機は頷いた。それからすぐに4号機はまた身を乗り出して銃撃を始める。

「わ、私は…もっと大勢の人の前で喋りたいな。緊張とかしないで。人を楽しませるお喋りが出来るようになりたい」

 3号機はひとつひとつ確かめるようにゆっくりと言った。

「司会とか、アナウンサーとか、DJとか。あんまり、自信、ないけど…」

「きっと大丈夫ですの。3号機なら、良いDJになりますわ」

 DJの意味が分かっているのかは怪しいかったが、5号機は請け負った。

 思わず2号機は微かに笑みを浮かべた。とても奇妙だと思った。こんな戦場の中、生きて帰れるかも分からないのに、夢の話をしている。だがその夢のひとつひとつがとても愛おしくて、そうなれば良いと思えた。

「2号機はどうしますの?」

 5号機は言った。

 2号機は考えた。いくつもの思いがぐるぐると自分の中を駆け巡った。嬉しい思いや、悲しい思いが沢山溢れる。だが今度は、2号機は唇を噛まなくてもなんとか平静を保っていられた。今はこの姉妹たちの為に、その夢の為に、泣くわけにはいかないと思った。

「2号機?」

 心配そうな5号機の声が聞こえた。

 うん、と2号機は答える。

「泣きたい。戦争が終わったら、おもいっきり泣いて布団の中で過ごしたい。弱音を吐いて、うじうじして、いじけて、一日中パジャマで、ご飯じゃなくてお菓子ばっかり食べていたい」

 心から2号機は言った。そしてしばらくの沈黙のあと、みんなが口々に、うん、と答えた。きっとそれは自分も同じだということなのだろう。それきり誰も喋らず、ひたすら目の前の敵と戦っていた。2号機も黙って背後の扉の解錠に打ち込んだ。

 ほどなくして背後で扉がロックを解除されて開いた。2号機は端末をポケットに収める。

「だから、今は弱音を吐かない。泣きもしない」

 立ち上がって2号機は言った。

 同じように、だが今度はずっと力強く、特機たちは、うん、と答えた。


 この戦闘で、人類の敗北は決定的になる。たしかに阿具はそう言っていた。

 そうなのかもしれないと由梨は思う。たった十何時間で航宙艦隊は突破され、攻撃衛星の殆どが沈黙し、自分たちが出発する頃には敵は降下を開始していた。そして今、確かに前線から離れていたはずのこの基地にまで敵が到達している。

 この状況で、自分にいったい何が出来るというのだろうか。

いや、もう自分には何一つ出来ないのかもしれない。あるいは最初から自分には何も出来やしなかったのかもしれないが。

「由梨先生! しっかりしてください!」

 さっきから耳元では1号機が悲壮な声を上げていた。

「大丈夫よ、まだしっかりしてるわ」

 答えて、微笑んだ。由梨は上手く1号機を安心させてやれれば良いと思ったが、どうやらそれは失敗のようだった。

 由梨は通路に腰を降ろしていた。脇には、1号機が今にも泣き出しそうな表情で由梨の顔を覗き込んでいる。1号機は厚手のタオルを由梨の腹部に押し当てている。

 本来は白いタオルは、今は赤く染まっていた。

「わ、私が逃げる時にもたついたから…」

 なんとか泣くのを堪えているのか、1号機は肩を震わせていた。

 尺取の放った鉄針が由梨の腹部を貫通していた。戦闘時におけるアドレナリンの影響で、由梨は痛みを感じず気付かなかったのだ。由梨がそれに気付いたのは、2号機たちが”我、逃走ニ成功セリ”というメッセージを最後に、双方向通信圏外出たあとだった。

 戦闘経験の少ない人間のやりそうなことだ、由梨は阿具ならきっとそう言うだろうと思った。

「そう、貴方が戦闘に集中しないで、いつまでも落ち込んでいたせいよ」

 由梨は手を伸ばして1号機の頬に触れた。1号機はびくりと体を震わせて由梨の顔を見た。

「でも仕方ないよ。死んじゃったしね、京一郎。ほんと、嘘みたい」

「由梨せんせえ…」

「誰でもミスするわ。弱さに負けるときもある。怒ってないわ。私みたいな普通の人間が、まるで京一郎にでもなったみたいに、一人でいったのも不味かった」

 腕を上げているだけでも疲労を感じ始め、由梨は手を下ろした。血に濡れた手で触れたせいで1号機の頬には血のあとが付いていた。

「聞いて1号機。大事なのは、先のことなの。過去と向き合うことは必要だし、過去を背負わなければいけないときもある。でも今はそうじゃない」

 体中から力が抜けていくようで、由梨は大きくため息を吐いた。だが由梨はしっかりと1号機の顔を見据える。

「先に進むの。私を置いて」

「そんなこと!」

「やるの1号機。ここに居ても、貴方は何も出来ないわ」

「でも…」

 由梨は左手で1号機の手首を掴み、一方で腰から拳銃を抜いた。

「行きなさい、命令よ」

 1号機はもうどうして良いのか分からないようだった。ショックから正常な判断の出来ない状態にあるのだろう。だが行かせなくてはならない。ここに留まっていれば、最悪の場合、二人とも死ぬことになる。

「大事なのは、ね。1号、悲しむことじゃなくて、過去から学ぶことよ。失敗を悔やむのは別の機会にしなさい。今は最善を尽くして、京一郎から学んだように。京一郎なら、きっと私を置いていくわ。あの人はいつでも最善を尽くしていた、そうでしょう」

 阿具の名前を出した時、1号機の目に微かに生気が戻ったように見えた。

「隊長殿、みたいに」

「そう、貴方は、そうしなければならないの。だから行きなさい」

 銃を構えたまま、懇願するような表情で由梨は言った。

 1号機は迷うように目を閉じて、そして酷く悲しげな表情を浮かべた。そして立ち上がると廊下を走り出した。由梨はもはや見送るだけの元気もなく、ただ手を降ろした。脱力した手から銃が転がり、鈍い音を立てて壁で止まる。

 不意に喉にせり上がるものを感じて、由梨は咳き込み血を吐いた。受け止めた鮮やかな赤を見て、手が震えた。かすかな痛みしか感じないのに、傷は内臓にまで達しているらしい。

 本当は一人にして欲しくなかった。1号機がずっと傍で手を握っていてくれたら、どれだけ安心出来ただろう。

 だが、もう由梨はもう死ぬまで弱音を吐くつもりはなかった。そう決めたのだ。

 あとどれくらい生きられるのだろう。由梨には良く分からなかった。血をどれほど失えば人は死ぬのか、いつか習った気がする。だがよく思い出せない。そのときには、自分が失血で死ぬなんて考えても居なかったからだろう。

 瞬間、由梨ははっと目を見開いて顔を上げた。

 そこには行った筈の1号機が、いつのまにか戻って立っていた。

「1号機…アンタって人は」

「違います、由梨先生。私が隊長殿から教わったのは、仲間を置いていくなんてことじゃありませんでした」

 失望に満ちた表情を浮かべた由梨に、1号機はさっきより遥かにしっかりした目付きで言った。そして訝しむ由梨に手を差し出して、そのまま自分の背へと担ぎ上げた。

「何をしているの、1号機…」

「私が、隊長殿から教わったのは、それが困難であってもやるべきことはやるってことです。私が由梨先生を助けます。大丈夫、私、毎日すごく沢山走ってるんです。体力も特機の中で一番あるから」

 決意を感じさせる声で1号機は言い、走り出した。

 由梨はもはや反論する気力もなく、ただ1号機に担がれていた。こんなことは馬鹿げている。そう思いながら、由梨は微かな安堵を覚えた。1号機はとても強くなったのだ。阿具京一郎と出会い、そしてきっと多くのものを受け継いだのだ。

 1号機の背中で揺られながら、やがて遠のく意識の中で由梨は遠い戦場を見た。

 自分が仲間を置いて逃げた戦場だ。岩神の手が離れていき、彼女の人生と莫大な数の将兵の命を奪った戦い。由梨は離れていく地上と、莫大な数の蟻に囲まれた部隊を見ていた。

 今がずっと逃げてきた過去と向き合う時なのだろうか。由梨はぼんやりとそう思った。


 * * *


 地上を厚く覆う砂塵の間から、一瞬だけ空が見えた。空は灰色をして、今にも雨が降り出しそうに見える。分厚い装甲の内側から感じることはなかったが、換気ユニットが発する低い振動音が絶えないことからも湿度が高いのが分かった。やがてまた砂塵は空を覆い、世界は灰色に染まった。

 それでもまだ、岩神は空を見ていた。

 岩神の目には、決して消えることのない光景が焼き付いていた。空に消えていく輸送船と、自分に向かって伸ばされた手。すぐそこにあって、だが決して届かない手だ。岩神は今まで何度もそうしてきたように思わず手を伸ばしかけ、そしてぎゅっと拳を握った。

 自分は、あのときからずっと誰も居ない世界に取り残されたままだ。本当はあの時自分は死んでいて、今の人生が死の間際に見た夢だったとしても、やはり自分は何も感じないだろう。あれから、ただひたすら戦うだけの日々を送ってきた。あの頃から何もかわりはしない。

『輸送隊は積み込みを完了した。大規模な敵主力部隊の接近が感知されている。警護に当たっている各隊は可及的速やかに指示される兵員輸送車に搭乗せよ。移動開始まで五分』

 戦況は複数の重車両連隊の壊滅から加速的に悪化し続けていた。壁を失った防衛軍は、敵の物量に瞬く間に押し退けられ、前線が維持出来なくなっていた。

 負けるだろう。岩神は冷静にそう思った。本隊が正面から戦って、半日も経たずに押し負けたのだ。戦力差は明白だったし、援軍が来る望みもない。もしかしたら人類は絶滅するのかもしれない。だが、岩神にはそれさえどうでも良かった。

『伊東、三○七号車に搭乗完了』

『荻、石川両名、搭乗しました』

 次々と岩神隊の兵員は搭乗の報告をしてきた。だが岩神はそれでも空を見ていた。

「青空が見えれば良いのに」

 呟いた後で、岩神は顔をしかめた。青空が見えたところで今更何になるのか、岩神は良く分からなかった。ただ、戦い続けた最後の日が青空の下で終わるなら、それは悪くないことのように思える。

 何をくだらないことを考えているんだろう。首を振って、岩神は後ろを振り向いた。

「隊長、全員搭乗完了しました」

 いつの間にか、後ろに大きな影が立っていた。砂塵に覆われて姿は見えなかったが、ヘルメットの内側のスクリーンには香坂と表示されている。

「撤退か、今さらどこへ逃げるって言うんだ」

「柊山上基地だそうっすよ。あれは旧軍部の作った要塞っすからね、多少は持つでしょう」

 香坂の声には、他の兵士たちに感じられる絶望感や恐怖は微塵もなかった。

「落ち着いているな、みんな怯えているのに」

「そうでもないっすよ。俺だって死にたくはないです。ただ、俺が死んだら、家族には遺族年金が出ますからね。戦争が終わって能無しの俺が働きに出るより、そっちのが良いかもしれないっすから」

 まるで人ごとみたいに香坂は淡々とした口調だった。

「俺個人としては、ガキの顔も、嫁さんの顔も見ずに死ぬのは怖いですよ。でもまあ、俺よりガキの方が大事っすからね。遺族年金が出れば、大学にだって入れられます」

「…そうか。だが子供には親が必要だ」

「器量よしの嫁ですから、再婚しますよ」

「簡単に言うな。家族は無くなってしまったら、もう元には戻らないんだ。子供がどれほど大きな傷を抱えることになると思っているんだ」

「いや、まあその。そりゃ、ショックはあるでしょうけどね」

 香坂は語気を強めた岩神に驚いているようだった。

 岩神自身も、自分が感情的になっていることに驚いていた。そして家族のことを思い出して、不意にやりきれない気持ちになった。

『移動開始まで1分、搭乗を完了していない兵員は至急最寄りの車両に搭乗せよ』

 沈黙の隙間を縫うように、耳元からは淡々としたオペレータの声が流れる。

「行きましょう隊長、置いて行かれたら大変っすよ」

「…ああ」

 言うが早いか岩神はブースターで加速して走り出していた。


 岩神と香坂が乗り込んだのは、補給科の幌付きのトラックだった。中には、多くの物資と軽装の補給兵たちが先に乗っていて、岩神と香坂は最後尾に座った。

 荷台の中では、誰もが陰鬱な表情を浮かべ、誰に向けられているのか分からないが、小さな囁き声が聞こえた。補給科だからという訳ではないだろうと岩神は思った。今やどこの部隊もこんな風に不安に包まれているのだ。

 家に帰りたい、そう呟いたのは若い女の兵士だった。階級章は新兵を現す三等だった。その表情は恐怖にこわばり、目には涙が浮かんでいる。自分もきっとこんな風だったのだろう。岩神はそう思って、胸を締め付けられるような感じがした。

 自分も家に帰りたかったのだ。だが三年を経て帰還した頃、家族はもう居なかった。もともと心臓を患っていた母は、自分の戦死を聞いてすぐに死んでしまったらしい。父もそれから二年後に母の後を追って自殺していた。

 やりきれない思いから岩神は唇の端を噛んだ。

 どうしてあの時、死ななかったのだろう。帰える場所なんて戻ってもなかったのに、どうして生きてしまったのだろう。自分はただ家に帰りたかっただけなのに、この先もずっと、帰る家もないまま生き続けていくのだろうか。

 取り留めのない思考は、金属がひしゃげるような音で遮られた。

 気付くと、向かい側に座る香坂はトラックの中にあった巨大な機関砲を担ぎ上げていた。その視線は真っ直ぐ、トラックの後ろに向けられている。

 砂塵が疾走するトラックによって切り分けられていた。そして今まさに踏み潰されつつある歩兵戦闘車と前進してくる巨大な数匹の蟻が見えた。

「私にも機関砲をよこせ! 早く!」

 岩神が怒鳴るのと同時に、トラックは段差に乗り上げ大きく跳ねた。積み上げられた物資が荷崩れを起こして荷台中に散らばる。岩神は思わず舌打ちをして、荷台の方を振り返る。そして大きく目を見開いた。

「バカッ立つな!」

 力の限り岩神が叫んだ時には、既に手遅れだった。岩神の隣に座っていた少女は散らばった荷を拾おうと立ち上がっていて、再びトラックが跳ねた時に大きく体勢を崩した。

 岩神は手を伸ばした、少女も同じように岩神に向かって手を伸ばした。だが、手は空を切った。少女の体はそのまま荷台から投げ出されて、地面に転がっていく。

 岩神はすぐに荷台を見回した。そしてリュック型のジェットパックを見つけて、つかみ上げると、荷台の縁の足をかけた。

「駄目っすよ隊長!」

 香坂の声が聞こえた時には、岩神は既に跳躍していた。

 そして背中のブースターに点火すると、近接戦闘用の手斧を腰から引き抜いた。殆ど何も考える暇はなかった。だが岩神は勢いのまま、少女の目の前に迫っていた蟻の頭を正確に叩き落とした。

「使い方は兵学校で習っただろう。死にたくなければすぐ車両と合流しろ」

 背後の少女へとジェットパックを投げつけて、岩神は周囲を睨み付けていた。

 先頭の蟻を倒したことで、周囲の蟻たちは地面に足をめりこませながら急停止して、岩神を半ば取り囲むんでいた。

「あ、…あの」

「行け。命令だ三等兵」

 有無を言わさぬ口調で言うと、少女は上擦った声で了解と答え、ジェットパックを担いだ。良く見ると、額から血を流して体を震わせている。きっと何が起こったのかもまだ理解していないだろう。それでも少女は、すぐにジェットパックを起動すると、滑空して輸送車の走っていった前方へと滑空して離れていった。

 岩神はまだ立ち尽くしたまま、左手で銃を、右手に斧を構えた。

 装甲兵の背後のブースターは、ジェットパックとは違い長時間の稼働には向いているが高速で動くのには向いていない。つまり高速で遠ざかっていくトラックに追いつくことは出来ない。飛び降りた時点で分かっていたのだ。自分はもう戻ることは出来ない。

 それでも岩神は後悔していなかった。それどころか、晴れやかな気分でさえ有った。

 きっと自分は些細な感傷の為に、命を落とすのだろう。それはきっと誰から見ても、とてもくだらない死に方に違いない。だが自分にはそれで良かった。岩神には、間違っていた幾つかのことが、これで元に戻るかもしれないと思えた。

 帰るべき場所のある少女は救われ、帰るべき場所の無くなった自分はここで死ぬ。いや、もともとあの時、虫に覆われた惑星の上で自分は死んでいた筈なのだ。だから、何も失われはしない。むしろ少女が助かるなら、自分の生きてきたことにも価値が有ったということじゃないか。岩神は次第に愉快な気分になっていた。

 私は笑っているのか。あの人と同じように。岩神はそう思って、そして目を丸くした。

 自分は確かに戦場でさも嬉しそうに笑う男を知っている。だがそれは生き残った後の記憶ではない。自分が戦場に自ら赴くようになる前のことだ。

 自分がただ一人取り残された戦い。あの時、傷だらけになって死にかけていた自分を、その男は助けてくれたのだ。現れるや否や、素手で虫たちをなぎ倒し、倒した虫の体を引きちぎり、その破片で更なる死骸の山を築いていったあの男。死にかけていた自分に、何故か自分の手首を切って私に血を飲ませた男だ。

 待て、どうして自分は助かったんだ。体はズタズタで、地面に水溜まりが出来るほど出血していたというのに。そもそも、あれは一体誰だったんだ。岩神は今までずっと忘れていた昔の光景に、体を硬直させた。 

 だが、虫が突進してきて思考は中断された。岩神は身を翻す。

 もはや岩神は余計なことは考えなかった。ただでやられはしない。あの時と同じように、最後の最後まで一匹でも多く殺してやる。笑顔を浮かべたまま、岩神は銃の引き金を引いていた。

 

 * * *


 弾む息と、軍靴が床を蹴る音だけが響いている。

 視界は全く効かない。だが、由梨にはそれが死が近付いているからなのか、そもそも見えないのか、良く分からなかった。たださっきから息をすることがひどく辛かった。まるで空気が鉛に変わってしまったのように、重く苦しい。

 どこまでも道は変わらずに続いている。由梨にはそれを見ることが出来なかったが、たださっきからずっと真っ直ぐ進んでいることだけは分かった。どこまで続いているのか、もしかしたらどこまでも終わりなんて無いようにも由梨には思えた。

 1号機は物言わず、ひたすら走っていた。きっと自分を助けてくれようと必死なのだろう。

 だが、持ちそうにないと由梨は思う。戦場に吹く濃い砂塵のような眠気がやがて自分を飲み込もうとしている。それに落ちたらきっともう目覚めることは出来ないだろう。そして、直に自分は抗えなくなるだろうということが分かっていた。

「…1号機」

 出来るだけ1号機に顔を寄せて、由梨は言った。

「由梨先生、喋っちゃ駄目です」

「聞いて1号機、お願い」

 懇願するように言うと、1号機はためらう様子を見せながら口をつぐんだ。

 何かを言うべきだとか、伝えなければならないと思った訳ではない。ただ由梨は喋っていたかった。そうでないと、この暗闇の中はあまりに寂しすぎた。

「そう…私、私ね。ずっと逃げてたんだ。怖かったの。何の取り柄もない私だけが生き残って、沢山の人を見捨てて、自分だけが生き残ることを選んで人を死なせたって、それを認めるのが怖くって、ずっとずっと逃げてたんだ」

「でも、由梨先生は」

「私、沢山人殺しちゃった…本当はまだ何十人も乗れたんだ。もうすこし待ってても、きっと上手く逃げられたのにそうしなかった。操船してた奴のせいにして止めなかった」

 自分で認めると、急にそれは明白な事実になって自らの罪になったように思えた。

 だが、きっとそれは昔から自分の罪だったのだと由梨は思った。ただ自分が逃げていたというだけで、罪は確かに存在していた。

「どれだけひどい目に遭っても仕方ないよね。でも良いの、本当に、それでも良いの。この先何万回死ぬことになっても、地獄で灼かれたって良いの。私は、私の罪を認める。逃げたりしない、そう決めたの」

 由梨は何度も大きく息を吸いながら途切れ途切れに喋った。

「どうして、ですか。そんなことで由梨先生が自分を責めることなんて無いのに」

「私、あの人と、ずっと一緒に居たかったんだ」

「隊長殿と?」

「逃げないことをね、あの人から教わった気がするんだ。あの人を見て、あの人と一緒に居る貴女達を見て、ああ、この場所に居るには逃げてちゃ駄目なんだなって思ったの」

 頭に砂が詰まっていくように、意識はどんどんと曖昧になり、由梨は自分が何故喋っているのかも良く分からなくなっていた。だが由梨は続ける。

「あの人は、まるで突然消えるように死んでしまって、でも決して私はあの人を消したりしない。私が、ずっと逃げてるままだったら、私にとってあの人が居たことなんて何の意味もなかったことになっちゃう。それだけは、嫌なの」

 言葉を探しながら、ひとつひとつ口に出して、やっと由梨は理解した。

「私、京一郎のこと、大好きだったんだ」

 それを口にしたとき、由梨はやっと悪い夢のようだった阿具京一郎の死を現実のこととして受け入れることが出来た気がした。既にこんな言葉は何の意味も持たなくなってしまったのだ。生きていれば、決してこんな風に口に出すことはなかっただろう。

 由梨は大きく息を吐いた。喋っているうちに、いつの間にか体中から力が抜けて、今にも眠りに落ちてしまいそうだった。暖かいはずの1号機の体温が、もう良く分からない。さっきまでは寒く、体の芯まで凍り付いていきそうに思えたのに、その感覚すらもうぼやけていた。

 ただ、撃たれた場所だけが、ひりひりと熱を帯びて痛んでいる。

「由梨先生?」

 腕から力が抜けたことに気付いたのか、1号機は不安げな声を出した。

 由梨は自分の頬を1号機に押しつけた。かすかな暖かみを感じて、由梨は少し安堵を覚える。最後まで泣かないで、取り乱さないで、死ねそうだと思った。

「大丈夫よ1号機…話して少し疲れちゃった。ちょっとだけ、眠るね」

 そう言って、息を吐くと意識が遠のいていくのが分かった。

 死というのは、こんなにも安らかなものなのだろうか。まるでまどろみに落ちていくときと変わらないじゃない。由梨は微かに訝しんだが、もうそれを追及するだけの体力も無かった。

「由梨先生…由梨先生!」

 すぐ傍の筈なのに、とても遠くから1号機の声だけが聞こえていた。


 強くなりたいとずっと思っていた。妹たちを守れるように、沢山の人々を助けられるように、強くなるんだと、1号機は思っていた。阿具京一郎と出会い、阿具京一郎を見て、多くのことを学んだつもりだった。すこしは強くなれたつもりだった。

 それなのに、ちっとも涙が止まらなかった。

 1号機は声も立てずに涙を流したまま、ずっと真っ暗な通路を走っていた。背負った由梨は、どれだけ呼びかけてももう返事をしない。1号機は怖くて仕方がなかった。現実は、受け入れようが、受け入れまいが関係なく、厳然とした態度で自分から大切なものを奪っていくのだと今朝知ったばかりだ。それなのに、今また由梨までも奪われてしまうのだろうか。或いは、既に奪われているのだろうか。

 自分はちっとも強くなってなんか居なかったのだ。

 自分は何も出来なかった。そんなことは嫌だと強くなったつもりだったのに、本当にそれはただつもりだけだったのだ。こんなに弱い自分じゃあ、誰も守れない。妹たちも死なせてしまうかもしれない、誰も救えないかも知れない。

 そう思うと、涙が止まらなかった。

 泣きやむことさえ出来ないことが、悔しくて辛くて悲しくて、また涙が出た。

 もう手遅れなのかもしれない。そう知りつつも、1号機は全力で駆けた。

 やがて道が二手に分岐して、1号機は足を止めた。それと同時に端末は友軍の位置情報を受信し始める。情報は1号機の強化視界に転送される。

 右を行けば、2号機たちと合流できる。表示された情報によれば2号機たちは交戦中だった。1号機は今すぐに駆けつけたかった。助けに行かなければならないし、何よりもみんなと会って安心したかった。

 だが、山頂への道は左だった。

 1号機には分かっていた。現状では基地の確保を最優先させるべきだ。基地の防衛システムを起動することが出来れば、最終的にみんなを助けることにもなる。それに2号機たちの戦力からすれば、今すぐに駆けつけなくても何とか持ち堪えるはずだ。

 それでも1号機には決められなかった。

 山頂まではまだ距離がある。自分が、たった一人で山頂に行けるのだろうか。この先敵に出会ったら、どうすれば良いのだろう。1号機には分からなかった。何しろ自分は弱いのだ。今度だって上手く行くか分からない。それならみんなと合流して賢い2号機に決めて貰った方が良いんじゃないだろうか。

「何をぐずぐずしてるのよ」

 唐突に背後から聞こえた声に、1号機は悲鳴を上げそうになった。

「よく寝たわ。さあ、シャキッとしなさい1号機」

 由梨はそう言うと、軽々と1号機の背中から飛び降りて、背負っていた突撃銃を脇に抱えなおした。1号機は目を丸くして由梨を見ている。由梨は視線に気付くと微笑んで首を振った。

「ちょっと寝るって言ったでしょう」

「でも由梨先生、傷が…」

「思ったより血が出たからびっくりしちゃった。でもどうやらもう平気みたいよ。血も止まったし、血が出た分、前より体が軽いみたいだもの」

 そう言って、由梨は軽く飛び跳ねてみせた。そこに負傷しているような様子は見えない。

 しかし由梨の出血は少しなどというものではない。陸戦装備のボディアーマーの下、白を基調とした軍服が、由梨のものだけ腹部から下は足元まで真っ赤に染まっていた。

 1号機はにわかには信じられずしばらく由梨を見ていたが、確かに新たに出血している様子はなく、無理をしている風でもなかった。携帯端末を見れば、由梨の表示は『健康』とされている。

「2号機たちは私が助けに行く。1号機はこのまま山頂を目指して頂戴」

「わ、私が一人ででありますか?」

「そう。だって戦闘力は貴方の方が私より数段優れているしね。もしも途中で敵に遭遇したら、私じゃあ逃げきれるかも怪しいけど、貴方なら戦えるわ」

「でも…」

 1号機が答える前に、由梨は1号機の頬を両手で包んだ。そして顔を近づける。

「大丈夫よ1号機。貴方は教わったんでしょう? 困難なことでも、やるんだ、って」

 囁くような由梨の声に、1号機はこくりと頷いた。

 そうだった。自分は確かに隊長殿を見て、そうするべきだと思ったんだ。

「了解しました。山頂へ向かいます!」

 1号機は言うが早いか、走り出した。だが、すぐに立ち止まって振り返る。

 由梨はまだ元の場所に立ったままで、不思議そうに1号機を見ていた。

「死なないでください、由梨先生!」

 心から1号機が言うと、由梨はきょとんとした後に、笑って頷いた。

 それから1号機は踵を返して駆けだした。もう迷いは無かった。出来るか出来ないかではなくてやるのだと決めること、それが阿具から学んだことだったのだ。

 自分は妹たちを、由梨先生を、みんなを助ける。

 1号機はそう決めて、それきり振り返らなかった。


「どういうことなのかしら」

 1号機が行った後で、由梨は壁に寄りかかって呟いた。

 自分は死ぬのだと思っていた。確かに敵の弾は自分の腹部を貫通していたし、出血は止まる見込みがなかった。それなのに生きている。しかも痛みは全くない。体の重さも消え失せ、さっきまでが嘘のように体が軽い。

 由梨は軍服の間から自分の腹部に手を触れてみる。ぬるりと血の感触の中、腹のあちこちを手で探した。だが、ない。さっきまでは有った銃創が見つからない。

 不可解さから由梨は目を細めて、やがて首を振る。

 今重要なのは、何故生きているかじゃないと由梨は思った。運良く生き延びたこの命を何に使うかだ。

 由梨は走り出した。心なしか、いつもより早く走れるように思う。

 そして気付いた。撃たれて生き延びたのは初めてではない。前にも一度、阿具に撃たれたことがある。あの時も、嘘のように傷が消えて、撃たれたことは夢だと思った。だが、それは夢じゃなかった。

 核は微少機械を作る。微少機械は肉体構造を再配置する。阿具はそう言っていた。それは本当に阿具が言ったように、話したくなったから聞かせただけだったのだろうか。 

 ちがう。由梨は思った。撃たれた後、自分は阿具に血を飲まされたのではなかったか。何故血を飲ませたのか、それは血に微少機械が含まれていたからではないか。つまり、微少機械が自分の血を浄化し、傷を埋めたということなのではないだろうか。

 再び由梨は首を振った。

 それはやはり今はどうだっていいことなのだ。

 ただ、由梨には暗闇の中でも道が見えたし、あるいは目を閉じても空気の流れで空間を把握できるだろう。全力で走っているのに息は切れさえしない。自分は微少機械によって人ではない何かになったのかもしれない。しかし重要なのはそれで何をするかということだ。

 阿具が遺した全てを守る。自分にあるのはそれで全てだった。

 由梨は走った。ひたすら早く。一切の畏れを捨てて。

 それでもなお、由梨の頭は考え止まなかった。それならば何故阿具は死んだのだろう。体を修復できる微少機械を生産する核を体内に持って、多臓器不全で死に至ることなど有り得るのだろうか。そんなことは有り得ない。では仮定が間違っているのだ。

 核は阿具京一郎の中にはなかった。

 由梨は結論を最後に、更に加速した。硝煙の匂いが、虫の動く音が由梨には感じ取れた。

 では核はどこへ行ったのだろう。その疑問だけが由梨の心の底に張り付いていた。


 2号機たちは、通路の奥の巨大な隔壁の前に追い詰められていた。

 その隔壁のロックは簡素なものだった。ただ、それはそもそも急に開くようには作られていなかった。隔壁内部の数百に及ぶシリンダーがひとつずつゆっくりと回転する振動を背後に感じながら、2号機は舌打ちした。解錠の自己最長記録を更新してしまった。

 怒りに任せて2号機は通路を上ってくる虫の群れに銃撃で押し返していた。

「喋って良い?」

 唐突に、隣で接地させた機関砲を撃つ4号機が言った。

「私語厳禁って軍法には書いてないけど、常識なのよ」

「ふうん。ねえ、良いだろ?」

 2号機は思わず目を細めた。そして突進する体勢を取った蟻を見つけると手榴弾を投げつける。

「まあいいか。なに」

「さっき、5号機が言ってただろ。大人になるって」

 通路中に銃声が反響している。辺りにはむせかえるような硝煙の匂いが立ちこめ、砲火のせいでかすかに煙ってさえいた。酸欠にならないだろうか、2号機はぼんやりとそう思った。

 4号機は一言話したきり、しばらくそのまま黙って敵を撃っていた。やがて2号機には4号機が何に対してか、小さく肩をすくめるような動きをするのが見えた。

「大人になればさ、悲しいことにも耐えられるのかな」

 その言葉は4号機が言ったとは思えないくらいに、あっさりと静かに発せられた。

「わからない」

 2号機は出来るだけ考えて、結局それしか思いつかなかった。

 しかし、4号機はそんな2号機の答えにがっかりした様子もなく、うん、とだけ答えた。

 それから2号機は、更にじっと考えた。

「でも」

 考えがまとまらないまま2号機は話し出していた。

「生きていくなら悲しいことにだって耐えなきゃならない」

「そうか。そうなんだよな」

 抑えた口調のまま4号機は呟いた。

「きっとこんなに悲しい気持ちだって、いつか消える。足の小指をぶつけても痛みはいつまでも残らないみたいに。何年も前のことを思い出せても、そのときも感覚をはっきり思い出せないみたいに。ゆっくり、うすれていくんだと思う」

「うん、でも、今はそんな風に、たいちょを忘れちゃうってこともすごく悲しいよ」

 言葉の最後は、かすかにゆらいだ。きっとそれ以上喋っていたら4号機は泣き出しそうだったのだと2号機は思う。4号機はそれきり黙って銃を撃ち続けた。

 2号機も4号機と同じ気持ちだった。

 今はまだ、はっきりと阿具の顔も声も思い出せる。だが何年もすればきっと阿具のことを思い出すことさえ少なくなって、自分は何事も無かったかのように生きていくのだろう。それを想像すると、2号機はとても悲しかった。

 だが同時に、そうやって悲しみを忘れられることを有り難いとも思った。

 自分はいつまでも死んだ阿具のことを悲しんではいられないのだ。それが例え薄情なことでも、それで強くいられるのであれば、一日すごく悲しんだ後で阿具のことを忘れたって良かった。まだ守らなければならないものがある。それを全て失ったら、それからどれだけでも悲しんでやろう。でも、と2号機は思う。これ以上何も失うわけにはいかないのだ。だから強くならなきゃならない。

 ぎゅっときつく唇を噛みしめ、2号機は正確に敵を狙い続けた。

 だが敵は時間と共に徐々に増えているようにさえ見える。やがてそれがはっきりと分かる数になった時、敵の動きが変わった。2号機はすぐにその意味を理解した。

「敵は密集体型を取って進攻してくる! 弾幕張って!」

 通路の反対側に陣取る3号機たちに怒鳴ると、2号機は銃のマガジンを交換した。

 特機たちは同じように動いて、次に密集し始めた敵に狙いを付けた。動きと動きの合間にとても短い静寂が訪れる。何かを考えるには短すぎる静けさの後に、敵と味方は同時に動いた。

 静寂はさっきより遥かに激しさを増した銃声でかき消された。

 曳光弾が暗闇に筋になって飛び、命中した無数の弾丸が虫の甲殻で火花を立てる。弾は瞬く間に無くなり、2号機は銃撃の振動とマガジンの交換の間の短い静止を幾度か往復した。そして最後に腰に手をやったとき、そこには換えのマガジンはもう無かった。

 それから短い間に立て続けに、特機たちの銃弾が切れた。通路の反対側では、5号機と3号機が弾薬を搭載しているユニに手を伸ばし、4号機は背嚢を降ろして慌ててひっくりかしていた。

 鉄くずと化した同胞を乗り越えて、なおも機械虫たちは進んで来ている。

 だがそれではきっと間に合わない。2号機は腰から折りたたみ式の槍を取り上げた。手を振り槍を伸ばすと、柄と垂直に十字型の刃が立ち最後に先端が鋭く尖った。

 こんな尖った棒きれで、銃撃をものともしない虫と戦えというのか。当然のように知っていた陸戦の知識が、本物を前にしてみると余りに現実感が無く2号機は奥歯を噛みしめた。けれどやるしかない。敵は否応なく迫ってきている。

 2号機が決心を固め立ち上がった瞬間、白い影が機械虫へと天井の通風口から降った。

 最初2号機には何が起こったのか分からなかった。

 それが軍服を着た人間だと気付いた頃には、影は落ちると同時に仕留めた蟻から槍を引き抜き、二匹目の首もとを突き刺していた。続けて三匹目が影の背後から襲いかかった。だが影は逃げようとせず、振り向くと力任せに腕を振るった。蟻の首は槍と共に千切れて、巨大な鎚となって三匹目の頭を地面に叩きつけた。

 何故か、2号機は不意に胸をしめつけられるように感じた。

「由梨先生…だよな?」

 4号機が横で銃のマガジンを握りしめたまま呟いた。

 呆然とする気持ちは、2号機にも良く分かった。現れた由梨の格好をした軍人は、とても人間であるようには見えなかった。2号機たちが呆気に取られていたのは、ほんの数秒であるにもかかわらず、信じられない効率で敵を始末していった。それも、予備兵装である折りたたみ槍とナイフだけを使ってだ。

 決して早い動きではなかった。それなのに由梨はひとつの動きをするごとに、確実に一匹かそれ以上の蟻を始末していく。とにかく周囲の全ての動きが、未来の動きも含めて、由梨には見えているようだった。

 だが、2号機はその動きを初めて見た訳ではなかった。2号機は息を呑んだ。そして、どうして急に胸をしめつけられたのか理解した。その動きは、阿具の戦い方とそっくりだったのだ。自分は阿具が助けに来てくれたのだと、ほんの少し思ってしまった。

 考えている間にも、由梨は次々に虫を始末しやがて十匹近く居た最後の一匹が倒れた。それからゆっくりと由梨はこちらに向かって振り向いた。思わず2号機は、手元の槍を握っていた。

「ごめん、待たせたわね。誰も怪我してない?」

 にっこりと笑った由梨は、軍服が真っ赤に染まっている以外はいつも通りに見えた。2号機は由梨が怪我をしているのかと少し戸惑い、それから頷いた。

「いえ、助かりました。指揮権お返しします」

「うん。1号機が先に行ってるわ。私たちも早く追いかけましょう。隔壁はもう開く?」

「あと数分も有れば」

 由梨は2号機と話しながら、隔壁の前まで歩き、また2号機の方を見た。

 どこも変わらないいつもの由梨だが、何か違和感があった。よほど不審気な表情でもしていたのだろうか、由梨は2号機を見ると、また微かに笑みを浮かべた。

「やだ。大丈夫よ、ちょっと出血したけど、もう傷も塞がってる」

 由梨はそう言うと2号機の頭を撫でた。

「残弾はまだある? あ、5号機、大丈夫? 疲れてきたら何か食べても良いのよ、でもお腹は一杯にしないように。ほら3号、弾は私が補充するから索敵を怠っちゃだめ」

 固く握りしめた槍から、力が抜けた。そうか、と2号機は気付いた。違和感がするのは、由梨がまるで何百回も戦場に立ってきたかのように、落ち着き払っているからだ。

 由梨はまるで学校に居るときのように、きびきびと指示を出して動き回っている。

 2号機は指揮を取る責任から解き放たれ、思わず座り込んだ。

 そしてまた唇を噛んだ。2号機が気付いたのは、違和感の正体だけではなかった。

 きっとこの先、自分は色々な人や言葉に阿具を思い出して悲しくなるのだろう。そしてそれは消えない。阿具のことを全て忘れることがないように、悲しみは薄れることはあっても、消えてしまうことはないのだ。

 ずっと悲しみを抱えて生きていくっていうのはどういうことなのだろう。2号機には良く分からない。だが、今はただ悲しかった。さっき由梨がしてくれたように、阿具が頭を撫でてくれることはもう無いのだ。

 膝を抱えて泣き出したい衝動に駆られながらも、2号機は4号機の手からマガジンを受け取って銃に弾を装填すると、一瞬だけ目を閉じた。そして次に目を開けた時、全ての悲しみが、一時的にでも消えてくれるように祈った。

 まだ今は泣くわけにはいかないのだから。


 泣くわけにはいかない。1号機は自分でも何故か分からないが、うっすらと思った。

 実際、状況は泣き出しても良いくらいだ。山頂へは、ただ真っ直ぐ進むだけになっていたが、最後の扉へ続く勾配には敵が待ち受けていた。間接攻撃可能な虫を含む二個小隊、1号機は軍の規定でこの敵数に安全に対処出来る基準を正しく知っている。

 間接支援に特化した特殊兵科を含んだ三個小隊にてあたれ、そう教科書には書いてあった。だが現状では自分一人で、この十数匹の虫を始末しなければならない。ほんとうに、泣き出すどころか逃げ出したっておかしくないと1号機は思う。

 だが1号機は泣かなかった。それどころかそんな気さえなかった。

 敵の射弾のうち二発は、それぞれ脇腹と肩を貫き、一発は左太ももに突き刺さっている。数えきれぬほどの小傷を負い、一度は危うく腕を切断されそうにもなった。だがそんなことは大した問題じゃあない。1号機は大きく息を吸った。体中で微少機械が活動しているのが分かる。出血は既に止まり、穴は埋まり始めている。今負った怪我のせいで死ぬ可能性は無い。つまり何の問題も起こっていないということだ。

「8…」

 数えながら、頭だけになった尺取虫から槍を引き抜く。

 既に銃は捨てている。1号機は阿具が剣銃を使っていた理由が分かった様な気がしていた。複数の虫を相手に戦うのに、銃はあまりに精度が低く脆弱に過ぎるのだ。敵の攻撃を受けない自信があるのならば、近接兵器の方が信頼性も高く遥かに安全だ。

「分かってきた」

 そう呟いて、1号機は槍を構えた。

 眼前にはまだ数匹の蟻が残っている。間接支援を行える敵は優先して始末し終えた。あとは敵の顎や足に捕まりさえしなければ良い。それは傍に居ない敵の攻撃まで予想することに比べれば遥かに容易だ。

 体勢を低くして1号機は一番近くに居る蟻に向かって走り出した。同時に視界の中に、敵の行動予想と自分の到達可能距離がグラフィカルに映し出される。だが1号機はそれを気にも留めない。

 敵が多い以上、行動力はこちらが下回る。それならば、必要とする行動を減らすしかない。1号機は見ることも、聞くこともしなかった。初期配置さえ分かれば、虫たちの行動は全て予想可能だった。

 一匹の蟻の首を切り落として、振り返った1号機は一呼吸分動きを止めた。

「…9」

 目の前に迫る他の虫たちは完全に予想通りの位置に居た。1号機は再び走り出した。

 自分でもこんなことが出来るとは1号機は思っていなかった。だが、何発かの銃撃を受けて危機を感じた時、何も考えられなくなってから不意に敵の次の動きが見えた。

 きっとこれは予想ではないのだろう。1号機は思う。これは記憶だ。自分の脳の拡張部分に納められている幾多の人々の戦闘記録から、近似した状況は幾らでも見つかった。

 論理思考も行動予測値の計算も要らなかった。ただ1号機には何十手も先が、映像として現実の世界に被さって感じられた。学校で熟練の兵士が語っていた、危ないほうに行かなければ死なない、なんていう言葉の通りだった。きっと数多くの戦闘をこなしてきた者には、どう動けば次にどうなるということが頭ではなく体で分かっているのだ。

 1号機は敵を次々と倒していった。もはやこの程度の数では負けることはないとさえ思えた。事実、敵は1号機の前に為す術もないように見えた。

 だがそれは間違いだった。

 最後の敵の核を槍で貫いた丁度その時、1号機は胸の辺りに違和感を覚えた。

 すぐさま違和感は、認識され衝撃へと変わる。1号機は自分の胸から尖った蟻の足が突き出しているのを見た。どうして。最初に思ったのはそれだった。そして答えを考えるよりも早く足は引き抜かれた。1号機は背後を振り向く。

 そこには半ば首を落とされた虫が這いつくばったまま微かに動いていた。

 仕留め損なった。1号機は槍を構えながらそう理解した。再び蟻は攻撃しようと足を動かしていた。だがそれより遥かに早く1号機は的確に蟻の首を落とした。そして槍を振るった勢いでふられるかのように、壁にもたれかかると、片膝を付いた。

 もはや辺りでは何も動くものは無かった。

 自分のものとは思えないほど大きな呼吸音が、静寂の中で響いていた。冷たい汗が1号機の頬を伝い落ちる。床に目をやると既にそこは血で濡れていた。

 1号機は反射的に血溜まりから足を引っ込めようとして、それが自分の血なのだと気付いた。そして、やっと自分の胸の傷を抑える。

 微少機械が体内で必死に傷を修復しているはずだった。だが出血は止まらない。あまりにも傷が大きすぎたのだろう。修復するより早く血が傷口より溢れていた。1号機は不意に湧き上がってきた恐怖に歯を食いしばり、吐き気を堪えた。

 危機が存在しないかのように思えたのは間違いだったのだ。ただの新兵に過ぎないのに、まるで自らが幾多の戦場を生き残ってきた古強者か何かであるように錯覚していた。後悔などしても仕方がないのは分かっている。それでも1号機は未熟な自分を酷く呪った。

 1号機は強い兵隊とは何なのかを悟った。つまりそれは戦場で不測の事態に対応出来るだけの余裕を持ち、決して油断をしない者のことなのだ。敵を倒せるのは、彼らにとって当たり前で、それでも起こり得る予想外の事態も乗り越えられる者だけが、生き残れるということなのだろう。自分はそうではなかった。

 失血の為か、ショックの為か急に目眩がした。1号機は槍を杖のように突いて、何とか立ち止まり、そして坂道の先を見つめた。行く手は真っ暗で殆ど何も見えない。だが目的地はその暗闇の向こうにあった。

 距離にして百メートル少しが果てしなく遠く見えた。あんなに長い距離歩けるのだろうか。1号機はそう思いながらも踏み出している。

「行かなきゃ」

 自分を鼓舞するために呟いた。

 血はきっと今に止まる。いや、もし止まらなくたって、人工血液の酸素交換の仕組みは人間より遥かに効率が良いし、微少機械には造血作用を担うものも有る。大丈夫な筈だ。必死に自分を言い聞かせながら、1号機は体を引きずるように歩いていく。

 やがて失血の為に薄れ行く意識の中でも、1号機は止まらなかった。


 どれほどの間そうして居たのか分からない。次に気付いた時、1号機は大きな扉の前に居た。そこで完全に意識を失っていたらしく、両手を隔壁の隙間にかけたまま、膝を床についていた。

 視界はぼんやりとしていたし、辺りの暗さと相まって何も見えなかった。1号機はそのままの体勢で力を込めて隔壁を左右に開こうとした。だがかすかに動いたきりそれ以上隔壁は開かなかった。どうも鎖か何かで無理矢理閉じられているらしい。

 再び1号機は隔壁を開こうとした。今度はさっきより強く。その勢いに鎖がピンと張って音を立てた。それから更に手に力を込めた。隔壁の角が手袋の上から食い込んで痛み、腕の筋肉がきりきりと音を立てる。

 いつのまにか槍はどこかに置いてきてしまったらしい。

 1号機はもう隔壁を開ける方法を持っていなかった。だが開かなければいけない。ここが確かに最後の障害であるはずなのだ。ここを開けば山頂に辿り着き、基地のシステムを起動することが出来る。

 全身全霊を込めて隔壁を引いた。気付けば1号機は叫び声を上げている。脳裏にはぼんやりと守らなければならない姉妹たちの居る風景が浮かんだ。手袋は破けて、手から血が染み出した。だが開かない。力が足りていない。

 もっと力が有れば。強く1号機は思った。

 ぎしぎしと骨が軋み、筋肉繊維が引きちぎれていくような気がした。筋肉の量も、骨格の強度も足りていない。叫び声に祈りと怒りを込めた。どうか開いてください。何故開かないの。お願いだから開いて。早く開け。

 限界だ、もう腕が壊れる。そう理解した瞬間にも、1号機は少しも力をゆるめなかった。それどころか、より強く力を込め、祈り、怒った。同時に全身を流れる人工血液の中で、一斉に微少機械が1号機の意思を介した。

 莫大な数の微少機械が、本来持つ単純な役割を捨てて腕と肩に集まる。そして骨格を覆い、壊れた筋肉繊維をつなぎ止め更に強化した。手から微少機械が溢れ出し薄い金属の皮膜に変わり傷を塞ぎ手を保護した。

 金属の引きちぎれる音が弾けて、次の瞬間には隔壁は勢いよく左右の壁に収まっていた。

 光に目が眩む。1号機は目を細めた。

 空が見えた。雲に覆われて今にも降り出しそうな空だ。それでも長いトンネルよりも遥かに外は明るかった。すぐ傍に小さな建物が有った。基地はこの山の内側を掘り抜いて作られているのだ。恐らくそこから地下へと繋がっているのだろう。

 まだ1号機は立てなかった。1号機はぼんやりと自分の手を見た。手に出来た金属の皮膜は青白く光っている。どういうことなのだろう。はっきりとしない頭で1号機は思った。

 微少機械は、傷を埋める手伝いをするとか、酸素の交換効率を上げるだとか、そういう機能に従って反射的に動くだけのものなのだ。それが確かに1号機の意思を理解して動いていた。今も、手の中の結晶化した微少機械を思うとおりの形に変えることが出来た。それどころか1号機には微少機械と自分の意思が接続されているという感覚さえあった。

 やがて差し込んでくる光に徐々に意識が鮮明になるにつれ、1号機は新たに違和感を覚えた。

 何にこんなに違和感を感じるのだろう。特に不思議なものは見えない。そう思った瞬間、1号機は特に何も見えないという異常さに気付いた。そこには端末通信用のアイコンも情報強化視界も存在していなかった。空を見上げても仰角は表示されず、距離も見えない。

 見えないだけではなかった。音は重み付けされることなく平等に聞こえ、筋肉に一定値の付加をかけ固定することも、痛覚や触覚を一時的に麻痺させることも出来ない。全ての特機が特機である為の機能が消えていた。

 1号機は神経を集中させた。そしてやっと拡張記憶の中にシステムログを見つけた。それもいつもの様に視覚上に表示されるのではなく、ただ記憶として1号機の頭の中に残っていた。

 ログは延々と体機能の低下を訴え、仮死モードに移行しようとして失敗を繰り返していた。そして最後に体機能の停止を確認しバックアップデータを保存してと終了していた。

 どうやら自分は死んだらしい。奇妙なほど冷静に1号機は考えた。体機能の停止とはつまりそういうことだ。そして1号機には機能を再起動させることは出来なかった。2号機なら出来るかもしれないが、生命と直結している制御システムは一度動き出したら死ぬまで止まることはない。だから起動方法などというものは教えられていない。

 頭を振って、1号機は混乱する頭を整理した。

 そしてすぐ答えは出て、立ち上がった。自分は間違いなく生きている。そしてやるべきことがある。それならば行かなければならない。1号機は外の世界へと踏み出した。

 山頂は中央に低い建物がある以外は、周囲を分厚い壁に囲まれていた。

 高い位置に吹く風はトンネル内の澱んだ空気よりずっと冷たく1号機は身を固くした。遠くからはひっきりなしに迫撃砲の発する音が聞こえてくる。急がなければ、そう思って1号機は少し早足になった。

 山頂を囲む壁には、周囲の状況を伺うためか細いスリットが等間隔で入っていた。

 外はどうなっているのだろう。1号機はちらりとスリットから都市の方を伺い、そして思わず足を止めた。

 そこにはかつての首都は存在しなかった。

 都市の殆どは瓦礫の山へと姿を変え、所々から破壊された車両のものとおぼしき黒い煙が上がっている。敗戦。目にした状況から直感的に言葉が浮かび、慌てて1号機はその考えを否定した。

 自分が急げばまだ間に合うはずだ。1号機はそう信じようとした。

 だが、再び歩きだそうとした1号機はそのまま動けなくなった。感じたことの無い、まるで自分のものとは思えない奇妙な感情がその身を支配していた。それを畏れることは生まれた時から決められていたかのように。それにひざまずくことが生まれていた時から決められていたかのように。

 都市より遥かに巨大な黒い塊が、分厚い雲の中よりゆっくりと降りてこようとしていた。

「何、あれ」

 恐怖を押しとどめようとして1号機は呟いた。

 だが同時に1号機は直感的に思った。

 自分はあれを知っている、と。


 * * *


 撤退により戦闘が無くなったからだろうか、いつのまにか地上の砂塵は薄れて視界が利くようになった。姿を現した町並みは、殆どがただの瓦礫の山と化して、所々から黒煙が上がっているのが見える。かつて首都だった筈のそこは、遥か昔より廃墟であるのかのようだ。

 砂塵が晴れたおかげで、岩神はセンサー類が破損してからも、目視だけで何とか戦うことが出来た。だが、もうその必要もないらしい。岩神は血混じりの唾を吐き、何の感慨も無く正面の敵を見ていた。

 そこには形容するのに重戦車を引き合いに出される、巨大な王蟻が居た。

「もう充分か…」

 岩神は口の中で呟いた。背後には無数の虫たちが破壊され転がっている。たった一人で敵の主力級を沢山殺したのだ。自分は充分に、自分でも想像し得なかった善戦した。心底から、充分だと思えた。

 無数の銃撃を受けた装甲は元の美しい曲線が見えなくなるほどに波打ち、何発かは貫通して体に食い込んでいる。蟻の顎に捕らえられ左膝は砕けた。装甲服が外骨格で支えて居なければ立っていることも出来ないだろう。

 今までもこんな風に、幾つもの傷を受けて戦場から戻ってきた。だが今回はもう生き残るために何をすれば良いのか分からない。重火器の全ての弾を使い切り、戦斧はひしゃげて使い物にならない。まともな武器はもう残っていなかった。

 王蟻がゆっくりと動き出した時にも、岩神はナイフを抜く気さえ起こらなかった。

 分厚い装甲はあらゆる音を遮断していて、世界からは音が失われている。

 目の前で王蟻は、光線兵器を展開すべく羽を広げ始めていた。岩神は奇妙にゆっくりと進んでいく時間の中で、終わりが来る事をじっと待った。

 何も感じない。岩神はぼんやりと思った。

 ずっと体の中にざわめくような感覚があった。傷を負った時、敵と遭遇した時、自らを助けてくれるように動いていた何かが体の中にあった。それを感じた時、敵の動きは手に取るように分かり、信じられない運動能力が発揮できた。それどころか、少しの負傷なら立ちどころに直った。

 しかし、それは辺境からの帰還から時間が経つにつれそれは薄れはじめ、同時に怒りを含む激しい戦闘衝動も無くなり始めていた。そして今、岩神は自分の内側に如何なるものの存在も感じられずにいた。

 あるべきところに戻るだけなのだと思う。ただの少女だった自分が、あの戦いから帰ってきてからまるで兵器のようだった。一時も気持ちが休まる時はなく、ずっと深い悲しみとそれから生じる敵への怒りだけが身を包んでいた。

 それも終わりなのだろう。全ての思いはもう消えた。

 岩神は思わず微笑んだ。とても安らかな気持ちだった。

 だが、岩神が見たのは自分に向かって光の筋が放たれる瞬間ではなかった。何の音もない風景の中で、突如王蟻の横にキャタピラの先端と砲塔が見えた。現れた戦車はそのまま止まらずに王蟻に衝突すると、無理矢理に前進し反対側の壁に王蟻を激突させた後、主砲を放った。

 2発、3発と砲火が光る度に王蟻は壁に打ちつけられ、最後に動かなくなった。

 唖然として岩神は事態を見守っていた。やがてハッチが圧搾空気を吹き出しながら開く。

 撤退命令が出た後なのに、なぜ主力戦車がこんな所に来たのか。疑問はすぐに解けた。

「香坂か…?」

 呟いてから、自分の声さえ殆ど聞こえないことに気付き、岩神は頭部装甲を解除した。

「遅れました。死んでなくて良かったっす」

 にかっと笑みを浮かべると、香坂はハッチから飛び降りた。

 岩神はまだ信じられない思いで、香坂をまじまじと見た。見つめられた香坂は、岩神が怒っていると思ったのか多少怯んだ表情を浮かべる。

「いや、この戦車、放置されてた奴っすよ」

 何を思ったら良いのか、分からずに岩神は黙っていた。香坂は居心地が悪そうにしている。

「まあ何て言うか、ガキに恥ずかしくないように生きろって言ってるんで、俺は隊長を助けに来たんです。ってか、隊長が最初に無茶して敵の前に降りていくからじゃないですか!」

 勝手に香坂は喋り続け、岩神は思わず小さく笑った。

 すると香坂は目を丸くした。そういえば、ずっと長いことこんな風に笑ったことなど無かった気がする。よほど驚いたのだろう、香坂は表情を硬直させている。

 私は笑えるんだ。そう思うと不意に気が抜けたように感じて、岩神はそのまま地面に仰向けに寝転がった。対空砲火の照らす空は未だ晴れずに分厚い雲に覆われていた。いつのまにか、辺りはうす暗くなり始めている。

「隊長! 大丈夫っすか!」

「ああ、何の問題もない。良い気分だ」

 言ってみて、本当にそうなのだと岩神は実感した。王蟻の前に立った時に感じた安らかな気持ちは続いていた。もはや戦いたいなんて微塵も感じなかった。

「帰ってきたんだな、私は、故郷に」

 それは今や廃墟へと姿を変えていたが、岩神にはどうだって良かった。

 やっと辛くて仕方のない戦いから解き放たれた。その思いに岩神は浸り、しばらく動きを止めていた。それから香坂をほったらかしにしていたことに気付いて、上体を起こした。

 香坂はきょとんとしたまま立ち尽くしている。

「腹が減ったな、香坂。とっとと引き上げて夕食にしよう」

「え…いや、はい!」

 嬉しそうに香坂が言って、岩神は頷いた。

 今度はまともな生き方が出来るかもしれない。岩神は何とはなしにそんな気がしていた。まだ自分は若く、時間はどれだけだってある。きっと何だって出来る。

 そう思うとまた笑みを浮かべそうになった。だがその時、ふと岩神は辺りがやけに暗いことに気付いた。夕刻だからでは説明が出来ない程、周囲は唐突に闇に包まれていた。

 見回すと、香坂が空を見上げて動きを止めている。岩神は呼びかけようかと思って止めた。香坂の表情は酷く歪んでいる。それは恐怖の表情であるように見えた。

 岩神は不安を覚えた。冷静な香坂がこんな顔を見せるのは一体何が見えるからなのか。ためらいがちに、岩神は空を見上げ、そして香坂と同じように動きを止めた。

 そこにはあるはずの空が無かった。ただ頭上には真っ黒な何かに覆われていた。それが何なのか岩神には想像も付かなかった。放たれた対空砲火がその表面に弾かれ火花を立てている。火花が照らす表面は、何か生き物の皮膚のようにうごめいていた。

 なぜ最強の軍備を誇る辺境が短期間で全滅したのか。その理由について岩神は深く考えていなかった。だが空を覆う暗黒を目にして、岩神はそれを理解した。

 岩神は動けなかった。ずっと忘れていた、辺境の戦場に無くし来た感情がじわりと岩神の中に蘇える。それは少しずつ広がり、やがて岩神の全てを蝕んだ後、そこに留まった。恐怖。岩神はしばらくの後、やっとその名前を思い出した。


 * * *


 頬に落ちる水滴に1号機は我に返った。

 都市の空を覆った巨大な塊からは、雨のように虫たちが降り注いでいた。だがそれが輸送船ではない。今まさに虫たちは造物主より生まれ出でているのだ。1号機は何故かそう分かっていた。

 自分もあれから生まれたのだ。直接的にではなくても、あれが作り出す物の中から自分は生まれた。1号機は感覚的にそう理解した後、動けずに居た。

 あんなものに、どうやって立ち向かえば良いんだろう。もはや負けて殺されるしかないのかも知れない。そんな思いが1号機の中によぎった。それに反論するだけの材料もなく、その気力も残されていなかった。1号機は壁に手をついた。

 その時、鼓膜が破れそうな轟音が響いた。

 振り向くと、雲を引きずった紫色の戦艦が凄まじい速度で山の横ぎりぎりを通り過ぎた。それは軍の兵器のデータを持っている1号機も知らない形だった。兵器というには余りにも趣味に走りすぎているとでも評価されそうな、とても美しい船だった。

 戦艦はそのまま通り過ぎると、一直線に黒い塊の方へと飛び去った。

 後にはすさまじい風が吹き抜け、轟音は離れていく。

 1号機は呆然としたまま、今目にしたものの意味をゆっくりと飲み込んだ。美しい紫の船体には、場違いな赤色のペンキで大きく手描きされていた。

『一番の中の一番。辺境最強にしてご機嫌な死神小隊』と。

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