第16話 人間少女

『総員退艦してください。繰り返します。総員退艦してください…』

 絶えることなく澄んだ女の声が警報音と共に艦内に響いていた。

 延々と続く廊下は、警告灯の明かりで赤くそまっていた。白を基調とした壁面には明滅する矢印が脱出経路を示している。

 ハンス・U・ルーデルはさして歩調を速めるでもなく、巨体をゆすって歩いていた。やがて扉の前に来ると、ハンスは口にくわえた葉巻の先端を壁でこすって消した。そして音もなく扉が開いた後、またゆっくりと歩き出す。

 そこは艦橋だった。本来ならば外の廊下と同様に埃一つ無く、糊の利いた海軍制服たちが働く筈の司令部は今は薄汚れた陸軍戦闘服の男たちに占拠されていた。

 まるで誰も警報など聞こえもしないように、酒盛りをし、煙草を吸い、トランプに興じている。あと数分で艦が粉々になることは誰の目にも明らかであるにも関わらず立ち上がるものは誰も居ない。

「撤退だ! とっとと汚いケツ上げて地面に向かって飛び降りて死ね!」

 ハンスが戸口から怒鳴ると、気怠い雰囲気の中で兵士は顔を上げた。それから有無を言わせぬ副隊長の顔を認めると面倒臭そうに動き始めた。

「合流地点は山上基地だ! 三人組と離れるんじゃねえぞ! 下はクソ虫どもがうようよしてやがんだ、聞いてんのかコラ! とっとと行けノロマども!」

 度重なる怒号に、うぃー、と気の抜けた返事だけが戻る。だがそれでも、酔い潰れた者二名を引きずって兵士たちは艦橋から見る間に姿を消した。ハンスは首を振って、さっき消した葉巻をくわえ直すと艦橋の先端へと進んだ。

 艦の最先端、巨大なメインスクリーンの前には陰気くさい歌が聞こえている。

 ハンスはその歌を当然知っている。それは宝来の国歌だった。外国人であるハンスにとって宝来の国歌など親近感が湧くものではなく、歌おうと思うことなどなかった。それは宝来国籍を持たない他の隊員にとっても同じであるはずだが、どうも歌好きのこの男にとってはそれが国歌だろうが賛美歌だろうが、歌は歌であるという程度のことなのだろう。

 R・G・リッチマンはコンソールの上に足を投げ出し、歌を口ずさみながらメインスクリーンを見つめていた。そこには巨大な黒い塊が映し出されている。それはぞっとするような光景で、傍らのハンスは肩をすくめた。艦は真っ直ぐにその塊に向かって突き進んでいる。

「でかいクソだな」

 リッチマンはにんまりと笑うと歌い止めて、紙巻きの煙草を咥えた。

「何百万将兵がコイツに殺された。そこらの虫ケラとは違う本物の敵だ。勝ち目も何も有ったもんじゃねえ。硬く巨大で無尽蔵に敵を産み出す自己防衛機能を持った移動空母。まさに悪夢! そんな感じだよなぁ」

 きゃっきゃと笑いながらリッチマンははしゃいで自分の膝を叩いた。

「ぞっとしねーな。死にたくねえ」

 リッチマンに火を差し出して、それからハンスは自分の葉巻に火を付けた。

「途中で降りたって良かったんだぜェ。別に逃げた何て誰もいやしねーって。ふつうの奴は途中で降ろしてきたんだ。それでも数百人も死にたいバカが居るってのは驚きだけどよお」

「どう思う? 勝ち目は」

「あるわけねーだろ!」

 嬉しそうな笑い声をあげたリッチマンに、ハンスはやれやれと首を振る。

「まあな。オーディン基地で核ミサイル打ち込んだ時は倒したかと思ったが」

「気付けば追い越されてんだもんな。笑うぜ」

 気楽にリッチマンは笑い続けている。

「ま、精一杯戦うかね」

 ハンスはため息を吐いてスクリーンを見て、それから踵を返した。

「そんじゃ隊長。遊びもほどほどにしてきっちり脱出してくださいよ」

 片手を挙げてハンスは去っていった。

 リッチマンは一人艦橋に残った。サブモニターから、自分の部隊が車両ごとパラシュート降下していくのが見える。深く息を吸い込んで紫煙をそれに吹きかけ、再びリッチマンはメインスクリーンを見た。

 もうそこには黒い壁が写っているようにしか見えない。

 酷く真面目な表情になり、それからまたリッチマンは堪えられなくて笑った。

 まさに絶望の具現だ。とってもイカしてる。キスしてやりてえ。リッチマンはにんまりと口の端を上げた。

「起きてるかい、可愛い子ちゃん」

『はい。艦長』

 八曜インダストリの最新式AIはラグなしで返事を返した。

「そろそろ脱出しときな。もう俺一人でへーきだからよ」

 実際、これ以上船を制御する必要はなかった。既に正面のスクリーンには塊のうごめく表面が見えるほどに、船は敵に接近している。

『何度も申し上げたように、私はただの艦載AIです。そして人工知能で制御される船というのは、普通そのAIを脱出させるようには出来ていません』

「そりゃあ設計ミスってやつかい?」

『いいえ。車がエンジンを緊急脱出させないのと同じ理由です』

「エンジンは喋らないだろうよお」

 今ひとつリッチマンは理解出来ずに首を捻った。AIは沈黙している。

 たぶんバカなオレにどう説明したら良いのか考えてるんだろうな。リッチマンはそう思った。

 考えている間にもどんどん壁は迫ってきている。制御卓のランプは衝突警報で真っ赤に明滅している。

『それより艦長、早く脱出してください』

 気付いたようにAIは言った。だがリッチマンはまだ考え込んでいる。

「つまりよー、脱出出来ないなら、オレが助ければ良いってことじゃねえ?」

『艦長、脱出を』

「お前どこにいんだよ? 逃げる時についでに連れてってやっから」

『艦長。貴方はバカです。脱出してください』

 信じられないことに、AIは声を荒げていた。リッチマンは、しかしにんまりと笑った。

「知ってるよ。だが聞けって、どこに居るのか教えろよ」

 AIは沈黙した。だが一瞬後にリッチマンの前の制御卓の表示が地図に切り替わり、その中の一箇所に赤い光点が灯った。

 船が壁に衝突したのは、その直後だった。

 一瞬で艦橋の全壁面に巨大な亀裂が走り、雷が目の前に落ちたかのような轟音が響いた。それから艦橋総てが粉々になるまでに1秒かからなかった。

 リッチマンは既に艦橋を飛び出していた。そしておよそ人類が到達しえないような敏捷さと反射神経で傾き崩壊していく艦内を駆け抜けていく。

 背後からは死が迫っている。

 それなのに自分には果たすべき任務がある。自分をここまで連れてきてくれたAIを助けなくちゃいけない。出来るだろうか。出来ないかも知れない。じゃあ、それは最高に面白い。

 気付けばリッチマンは甲高い笑い声を上げていた。


 * * *


 赤い非常灯が廊下をぼんやりと照らしている。

 長年使われなかった施設には、そこかしこに埃が積もりカビの匂いに満ちていた。

 低い空調の作動音の中にときおりうなされるような声や傷の痛みに耐えかねるようなうめき声が聞こえ、その度に1号機をぞっとさせる。あちらこちらに、捨てられているかのように兵士が座り込み壁に寄りかかっている。殆どは眠り、一部は集まり、押し殺した声で何事か話している。ただじっと誰かの写真を見つめている者も居た。

 耐えきれず1号機は早足になり階段まで急いだ。

 長い階段を進むと、外の冷たい風を感じる。

 やがて外に出た。満点の星空が広がっていた。

 街から灯りが消えたからだろう。砂粒を撒いたように無数の星が光っている。思わず立ち止まり、1号機はしばらく空を見上げていた。

「そのまま火に入れても良いじゃない」

「良いから2号は触るなよ。おれが全部やるって」

 2号機と4号機の声が聞こえた。我に返った1号機は辺りを見回す。

 コンクリート壁に囲まれた広い山頂には、特機たちの姿だけがあった。少女たちは、ライフルを体にかけたまま腰を降ろしたき火を囲んでいる。3号機はすぐに視線に気付いて、1号機へと手を振った。

 1号機はほっとして微笑んだ。そして歩き出す。

「この程度のことが出来ないと思うのは、私をバカにしていると思う」

「バカにはしてないって、ただ失敗したら困るじゃんか」

「良い。私は自分の分だけやる」

「それなら良いけどさ、でも失敗しても沢山あるから食えるぜ」

 2号機と4号機は続けて言い争っていた。

「どうしたの?」

 腰を降ろしつつ、1号機は声をひそめて3号機に聞いた。

「寒いからたき火してたの。それで4号が補給科から沢山お芋分けてもらったから焼き芋するんだって。それで、2号が自分の分は自分で焼くって言い張ってるところ」

「私にでも焼き芋くらい作れることを証明するの」

「通信基地が壊されたからネット使えなくて暇なだけだろ」

 たき火の向こうで真面目くさって言う2号機の隣で4号機は肩をすくめている。

「1号の分もあるよ!」

 5号機は満面の笑みを浮かべた。アルミホイルで芋を包んでいるらしい。

「やったあ」

 1号機は素直に言うとにっこりと笑った。

 それから芋を火にくべてしまうとすることも無くなり、特機たちは取り留めのない話しをした。話す内容は他愛ないことばかりだったが楽しかった。ここ何十時間で起きたことが嘘だったかのように、穏やかでのんびりとしていた。

 そのうちに、ぷつりと話しが途切れた。

 火のはぜる音以外に何も聞こえなかった。まるでこの星に居るのはもう自分たちだけみたい。1号機はぼんやりとそんなことを思って、次に壁に目をやった。

 壁の切れ目の向こうに、やはりそれは浮かんでいた。昼間に宇宙戦艦の特攻を受けて以降、ずっと塊は炎を立てて燃え続けていた。船は何かしら可燃性の液体を満載していたみたい、と3号機が呟いた。

 そのためか、それとも別の理由があるのか、敵の攻勢は止まっていた。

「あの船に乗っていた人たちは?」

 1号機が聞くと3号機は首を振った。

「行方不明みたい。もともと外部の部隊だし、ここに集結してるって分からないのかも。或いは降下地点は敵のど真ん中だったし」

 3号機は言い淀んで、それ以上何も言わなかった。

 2号機が顔を上げた。

「普通は全滅してる。でも1号が見たっていう名前が本当なら、本当に辺境第一部隊なら、阿具少尉の部隊なら、もしかしてって、私は思う」

 同じ気持ちで1号機は頷いた。

 それ以上誰も言葉を継ぐことはなく、また静寂が降りた。5号機が待つのに疲れたのか、ユニを抱いて眠り込んでいる。

 だが静寂は長くは続かなかった。山の麓から続くトンネルの隔壁が凄まじい音を立てた。それは何かで殴られたかのような音だった。隔壁は閉じられている。それは人の手で開けるようなものではない。

 気付けば仲間達は銃を構えて、隔壁へと向けていた。1号機も同様にしようとして、手を止めた。そして仲間を静止するために片手を挙げた。

 数発の攻撃の後、隔壁は微かに歪みを生じていた。それからギシギシと金属が軋む音を立て、次の瞬間に弾けるように隔壁は左右へと開かれた。

 両手を大きく広げた男が立っていた。

 人間の力とは思えない。だがこの人が、阿具隊長の後を引き継いだリッチマン准尉に違いない。1号機は直感的にそう思っていた。

「まーいったぜェ。こりゃ飲み過ぎだ。一人が五人に見える。おれはもう酒やめるぞ」

 リッチマンはバカほど陽気に言うと、その褐色の顔からにっと真っ白な歯を剥いた。


 由梨は山頂の広場に足を踏み入れると、同時に大きく目を見開いた。

 直前まで暗澹たる気持ちで、陰鬱な基地内を歩いてきたのだ。急に気持ちを切り替えることは出来ない。いや、普段であっても面食らっただろう、由梨は呆然としながら思った。

 そこでは、盛大な宴会が行われていた。

 そこかしこでたき火が焚かれ、外であるのにアルコールの匂いが充満している。大声が、歌声が、笑い声がひとつの波のように響き、陽気な雰囲気を形作られている。

 たき火の一つの周りに特機たちを見つけなかったら、由梨は時空を飛び越してどこかの宴会場に来てしまったと思っただろう。

「あ、由梨先生」

 3号機が振り向いて言った。

「なんの騒ぎなのこれ。誰なの、この男臭さ満点の大男どもは」

「えっと、辺境第一突撃隊プラス辺境部隊の生き残りの皆さんです。ほら、戦艦の」

「生きてた訳!?」

 思わず声を上げて周囲を見回すと、幾人かが由梨の方を見てニヤけながら手を振っていた。由梨が面食らったまま首を左右に振ると、彼らはがっかりしたようにまた宴に戻っていく。

「あの、皆さんに阿具少尉のことを話したら、何だかこんなことになってしまって」

 3号機は困ったような表情で言った。

 なるほどと由梨は思った。彼らは京一郎の部隊の兵士たちなのだ。それなら京一郎が死んだことに悲しむよりバカ騒ぎを選ぶことも無理がないように思える。

「悲しいねえ」

 ぽつりと言う声を聞いて、由梨は振り返った。

 たき火を囲む特機たちの中に一人だけ見慣れない顔が混ざっていた。だが由梨はその男を知っている。軍の発行する新聞で何度も見たことのある顔だ。阿具京一郎が辺境から異動になって以降、ずっと辺境を守り続けた正真正銘の最強の人類だ。

「あの人が死んじまうなんてなァ」

 リッチマンは誰に言うでも無く呟き、一升瓶から焼酎をあおった。

「飲むかい? ねえちゃん」

 屈託無く言うリッチマンに、由梨は少し躊躇ってから頷いた。

「一杯だけね。それ以上飲むと、泣きそうだから」

 由梨は金属製のマグカップを受け取った。

 カップに口をつけようとすると、リッチマンは拳銃を抜くと空に向けて撃った。広場は一瞬で静まりかえり、視線の全てがリッチマンの方へと向く。リッチマンはニヤリと笑って一升瓶を掲げた。

「おれたちの隊長に!」

 山頂中に響き渡る声でリッチマンが怒鳴った。

 すぐさま申し合わせたかのように、一斉に兵士達がそれを復唱した。そして全員が持っている飲料を一気に飲んだ。由梨は目を丸くしていたが、決心して自分も同じようにカップを傾けた。

 由梨が飲み終わった時には、もう他の兵士達は元通り宴会に戻っていた。

 灼けるような胃とは別に、ぐっと胸が締め付けられるように感じた。阿具はこんなにも多くの人間に慕われていたのだ。

 1号機がそっと目尻を拭うのが見えた。3号機は鼻をすすり、4号機は表情を崩しそうになってオレンジジュースを一気飲みした。5号機はきょとんとしている。2号機は何か球体をした鉄の塊を掴んでぶつぶつと何か呟いていた。その二人を除けば、みんな同じように胸にこみ上げるものがあったらしい。

「もう、悲しいなあ!」

 泣くまいと由梨は顔をぐっと拭って強く言った。

 リッチマンはいつの間にかにっこりと笑っている。

「まァ、しんみりしたって野垂れ死んだ奴が戻ってくる訳でもねえ。いつか生き残って戦いを終える日があれば墓でも作ってやるさ。もっとも本当に死んだ仲間の墓全部建ててたら俺の孫がジジイになっても足りねえけどよ」

 軽口を叩くような調子でリッチマンは言ってのけた。

 そこには気負う様子も、強がる様子もなかった。本当にそう思っているんだろう。由梨は微笑んで座っている人類最強の男に畏怖を覚えた。

「ただ墓掘りより今すぐにやらなきゃならねえことがあるわな」

 すっと笑みを消してリッチマンは辺りを見回した。

「なに」

 訝しんで由梨は聞いた。

「なんかヤキイモが無性に食いてェ。何故か分かんねェ。そんな匂いがする気もする」

「あーっ! 忘れてた」

 慌てた様子の1号機がたき火に水を掛けると、その下を掘り起こした。

 すぐに銀色のアルミに包まれた芋の山が現れた。由梨はいまひとつ事態が飲み込めずに見ていた。1号機達はめいめい芋を手に取ると、恐る恐るアルミホイルを剥く。

 歓声が上がった。芋は見事な焼き具合に出来上がり、湯気を立てている。

 由梨はぽかんとしていたが、芋を手渡されて取り敢えずかじった。ほのかに甘く、香ばしい匂いが広がった。懐かしい味だ。由梨はしみじみとそう思った。

 特機たちも嬉しそうに焼き芋を食べている。やがてリッチマンが3号機から焼き芋を受け取った辺りで、周囲がざわつき始めたことに、由梨は気付いた。

「ああー、隊長だけ焼き芋なんて食おうとしてんすかっ!」

「ずるいぜ! 俺たちにも分けろよ!」

 何人かの兵士達が口々に不平を言っていた。リッチマンはきょとんとして、それから表情を引き締め立ち上がった。

 何が起こるのだろう。由梨も特機たちも目を丸くして成り行きを見守っている。

「良いかお前ら。これは阿具隊長の部下である特殊部隊の皆さんの作られたもんだ。そんでだなァ、親睦を深めるという意味で俺に一本くださったんだ。この意味が分かるか?」

 ぐるりとリッチマンは周囲を見回した。兵士達は黙ってリッチマンを見ている。

「これはおれのなんだよ! テメェらのじゃねーってこったァ!」

「何だそりゃフザケんじゃねえぞ隊長テメェ!」

「そうだアンタ甘いものなんて好きじゃねえくせに!」

「焼き芋なんか食いたくないけどそりゃずるいだろうテメェ!」

 笑みを浮かべて怒鳴ったリッチマンに、一斉に不満が噴出する。

 ごうごうと響く怒号の中、ゆっくりと一人の男が立ち上がった。二メートル近い巨体の男は立派な髭をいじりながらリッチマンをぎろりと睨んだ。周囲の男達の怒号が歓声に変わった。

「やっちまえハンス!」

「副隊長! 待ってたぜ!」

「何だハンス、文句あるってーのかよ」

 やけに嬉しそうにリッチマンが言った。

「ある。アンタは隊長だ。それならみんなのことをもっと気遣うべきじゃねえのか。一本しかないってんなら、それをここに居るみんなで分けるべきだろうがよ?」

「イヤだね。言いたいことはそれだけかハンス」

「まだある。俺も食いたいんだよバカヤロウ! ぶん殴られたくなきゃよこせ!」

「上等だ! ぶっ飛ばしてやらァ!」

 言うが早いかリッチマンは飛ぶようにハンスに突っ込んで行った。

 ハンスと殴り合いになると同時に、周囲の兵士が次々にリッチマンに向けて突っ込み、あっという間に辺りは大乱闘になった。

「いってェ!」

「今後ろから蹴った奴誰だコラァ! 俺から逃げられると思うんじゃねえぞ!」

「そっち押さえろ! 隊長だからって手加減はいらねえぞ!」

「うわああああ! しっかりしろジャーック!」

「あ、あのっ、まだ」

「ハハハハ! お前らは本当に雑魚揃いだな、片手で皆殺しにしちまうぞ!」

「やってみやがれ!」

「上等だクソッタレが!」

「数有りますから、芋たくさん」

「束んなってかかって来いやァ! この給料泥棒どもが!」

「メディーック! ジャックが泡噴いてるから来てくれーっ!」

「ま、まだまだ有りますからっ!」

 3号機は必死に声を張り上げていたが、怒号にかき消されていた。

 由梨は最初は驚いてみていたが、そのうちに転がっていた酒瓶を取るとカップに酒を注いでゆったりと飲み始めた。

「由梨先生、止めた方が良いんじゃないですか…」

 1号機が心配そうな表情で言った。だが由梨は首を振った。

「良いんじゃないかしら。なんか、楽しそうだし」

 由梨が言うと1号機はもう一度乱闘の起こっている方へ顔を向けた。

 押し合いへし合い、殴り合っている兵士達は大暴れしていたが、本当に怒っている様子は無かった。集団の中心からはリッチマンの弾き飛ばされた兵士達が転がり出てくる。

「たしかに」

 1号機は呟いた。山頂にはやたらと楽しげなリッチマンの笑い声と怒号が響いていた。

 しばらくすると乱闘は終わり、また場は陽気な飲み会に戻った。しかしそれからも、酒飲みとバカ話としんみりとした話しと乱闘が何度も繰り返された。

 楽しい夜だった。最初は驚いていた特機たちも、やがてその雰囲気になれたように見えた。由梨は多少呆れながらも、彼らは確かに阿具の部隊に違いないと改めて思った。そうして由梨が眠りに落ちた時にも、宴会はずっと終わらずに続いていた。


 目を開くと朝の空が広がっていた。

 雲はいつの間にか晴れている。朝の白い色が見えた。

 1号機は体を起こした。空の明るさに比べると地表はまだ薄闇に包まれている。その中で、兵士達と酒瓶がそこかしこに転がり、消えたいくつものたき火からは白い煙が空と地面を結ぶように真っ直ぐに伸びている。

「おはよう。出来たわ」

 傍らから2号機が声をかけた。

「ずっと起きてたの?」

「うん。聞いて、やっと彼女を独立動作させることに成功したの」

 興奮気味に2号機は目を猫のように大きく開いている。1号機が首を傾げると、2号機は自分の前に置いてあるユニを指さした。

「ユニって女の子なんだっけ?」

「機械に性別はないと思う。起きて紫雲」

 2号機が言うと同時に、ユニは起動して空中にホバリングして止まった。そして頭部のカメラで周囲を見回す。

『おはようございます1号機、2号機。ユニもそう言っています』

「おはよう。気分はどう?」

『特に感想はありません。みなさんにとっては今日は過ごしやすい一日になるでしょう』

 すごいでしょお、という風に2号機は1号機を見た。

 1号機は目を丸くしていたが、なんとなく頷く。

「昨日、リッチマン准尉が持ってきた機械ね?」

「そう。あの船の艦載AIなんだけど、テスト機だから割と無茶な環境でも動くようにしてあって助かった。電源と出力が無いからユニのを間借りするのにちょっと手間取ったけどね」

 2号機はいつのまにか眠たそうな表情に戻っていた。そして、ふと銀色のアルミホイルの塊が転がっていることに気付くと手に取る。そこには2号機と大きくマジックで書かれていた。無造作に2号機はそのアルミホイルを剥き始める。乾いた破裂音が辺りに響く。

「えぇ、何をどうやったらそうなるの?」

「おかしいな…私は器用な方だと思うんだけど、どうしてこうなるのか」

 爆発した芋の破片が2号機の顔や髪に飛び散っている。だがさして意に介する様子もなく、2号機は無事だった芋の下半分をもそもそと食べ始めた。

「とにかく、これでみんなの制御システムを書き換えられる」

「えっ」

 1号機は近くの水筒からコーヒーをマグカップに注いで居たが、思わず顔を上げた。

 手を伸ばして、2号機はコーヒーを受け取ると一口飲んだ。反射的に渡してしまった1号機はそこらからカップを取るともう一度自分の分を注ぐ。

「言ってたでしょう。あそこの隔壁を開けた後、自由に体内の微少機械を動かせるようになったって」

 1号機は頷く。

「それは制御システムが停止したからよ。実は私もずっと停まってる。前に温泉に行った時からずっとね。私は死んだわけじゃなくて、システムを書き換えられただけだけど」

「じゃあ2号も?」

「うん」

 答えて2号機は右手の手のひらを上に向けた。すると手に平から手品のように銀色の小さな茎がするすると伸びてタンポポの様な花を咲かせた。1号機は飲みかけたコーヒーを吹き出しそうになって咳き込んだ。

「すっごーい!」

「1号にも出来る。だってこれは私たちに元から備わってた機能なんだもの」

 2号機はあっさりと言った。花は溶けるように2号機の手の中へと消えていった。

「私は自分のシステムについて色々調べてみたの。それで分かったのは、あれは情報機能を付加する以外は、何ら私たちを補助してくれはしないってこと。射線の視覚化にしろ敵の戦力評価にしろ、私たちの微少機械は単体でも制御システムより遥かに精巧にこなしてくれる」

「う、ん。あんまり良く分からないけど、それなら要らないってこと?」

「私たちにとっては要らない。でも軍にはそれが必要だったの。つまり制御システムは枷だったの。どこからか知らないけど手に入れてきた微少機械によって、予測限界以上の能力を私たちが持たないようにって」

 2号機は立ち上がった。

 真っ直ぐに見ている先にはあの巨大な塊が存在しているのだろう。

「でもそんなこと言ってる場合じゃない。上の人たちはここに籠城することを決めたっていうけど、きっと何の意味もない。だってあれがこの真上に来てそこから虫をどんどん降らせたらどうしようもないもの。沢山人が殺される。きっと一人も残らない」

 冷たい風が吹き抜けて、2号機の髪をなびかせている。

 1号機は、落ち着き払った表情の2号機をじっと見つめていた。

「分かるの、私たちはあれから生まれたのよ。だから同種のテクノロジーを宿している。それなら或いは勝てるかもしれない。万に一つどころじゃないかもしれないけど」

 真っ直ぐな視線が1号機に向けられた。

「死ぬかも知れない。でも多分何しても死ぬとも思う。私には分からない。だから任せる。あなたを信じているから、1号――お姉ちゃん」

 真剣な顔で言って、それから2号機はふっと微笑んだ。

 胸をぐっと締め付けられて、1号機は無理矢理笑った。

「みんなを守ろうと思ったんだ。だから一人でも行くつもりだったよ」

 1号機の心は元より決まっていた。

 昨日は本当に最高に楽しい夜だった。きっとこれが隊長の守ろうとしたものなんだと思った。だから1号機は一人でも行くつもりだった。戦える限り戦って敵を倒そうと決めていた。

「バカね。一人で行かせる訳ない」

 優しく言った2号機に頷いて、1号機も立ち上がった。

「うん」

「私も同じ気持ちだよ。みんなを守りたい」

「3号…」

 いつの間に目を覚ましていたのか、3号機はゆっくりと起きあがった。

 傍らの4号機も同様に聞いていたようだ。4号機は顔をこすり、鼻をすすってからみんなの元へと歩いてきた。

「力合わせてさ、なんつーか、がんばろう」

 照れくさそうに言う4号機に、三人は頷いた。

 最後に5号機が立ち上がった。5号機は眠っていたのか良く分からないという風に、薄めを開けたまま首を傾げて、仲間達に加わった。

「私も一緒ですの…」

 眠りに落ちていきそうな声で5号機は言った。

 1号機は胸にこみ上げるものに、しばらく黙って俯いていた。だがやがてじっと1号機を待つ仲間達の視線に答えて、真っ直ぐ顔を上げた。

「行こう。大事なもの守るために」

 一斉に特機たちは頷いた。

 一層強く風が吹き抜けた。その冷たさが決心をより堅固なものにするようで、1号機にはとても心地好かった。

「待ちゃーがれ」

「ひゃっ」

 声と共に3号機が飛び上がった。

 見ると、3号機の足首をリッチマンの手ががっしりと握っている。

 1号機は目を丸くした。当のリッチマンはまだ眠いのか、地面に顔を押しつけたままの体勢だった。しばらくして、リッチマンは手を放すとやっと上半身だけを起こした。

「テメェらだけで行くだと、ふざけんじゃねーよ。俺たちも混ぜろ」

 そう言うと、リッチマンはまたにっと歯を剥きだして笑った。

 同時に周りから歓声が上がった。振り返ると、辺りの兵士たちは皆、寝転がったまま目を開いて腕を宙に突き上げている。まだ酔ったままなのかと疑いたくなるほど、陽気で楽しげな表情をしている。

 死ぬと分かっているのだろうか。1号機は驚きで何も言えなかった。他の特機たちも一様に驚いているのが見て取れた。

「頭いてぇ、飲み過ぎたなァこりゃ。おれはもう酒を…まあ今日死ぬんだから良いか」

 背後でリッチマンが呟いた。

 そしてまた酒を飲んでいる音が聞こえた。


 突撃隊の行動の早さは驚くべきものだった。殆ど全員が泥酔して二日酔いに合ったはずなのに、リッチマンの一存で出撃が決まるや否や、アルコール分解酵素入りのコーヒーを飲み、三十分の後には全員が車両に搭乗していた。

 息をつく暇もなく、作戦は勝手に決まっていき1号機が落ち着いた時には車群は地下道を走っていた。それはクーデターの時に使ったのと同じ、旧軍部の作った都市の地下を横断する道だった。

 トラックが走り抜けると、地下道の照明の光が尾を引き流れていく。

 冷たい荷台の上はうす暗く、いくつかの懐中電灯のぼんやりとした光だけが灯っている。その光に集まるように兵士達は座り込んでいた。

 特機たちは荷台のへりによりかかって座っていた。正面にはリッチマンがいる。

「で、だ。お前ら五人であの黒いのを落とせるのか、ってーのを聞きてェ」

 リッチマンは何杯もコーヒーを飲んだ後で言った。

「落とせる、って言えば信じるんですか?」

 2号機はリッチマン計りかねているのか、ずっと鋭い視線を向けていた。

「ああ。信じる。信じてやるさ。なにせ俺たちには無理だ。うちの部隊はそれこそ百倍近い数の敵と戦って何回も生き残ってきてる。だがあれを落とすのは無理だ。大量破壊兵器は駄目だったし、戦艦で特攻しても駄目だった。んなもん落とせる訳ねー」

 舌をべろんと出して、リッチマンはおどけた表情をした。

 2号機がかすかに目を見開くのが分かった。

「じゃあ何でこの星に来たんですか」

「面白いじゃねェか。勝てなきゃ勝てないほど、やりがいがあるってもんだ」

「でも、勝てなきゃ死ぬんでしょう」

「知ったこっちゃねェ」

 食ってかかる2号機にリッチマンは涼しげな表情を浮かべる。

「要は戦争ってのは勝てる勝てねえでやるもんじゃねーってことよ。楽しいから戦う。勝てばもっと楽しい。それ以外に俺は知らねェよ。そんで、落とせるのか落とせねーのか」

 しばらく2号機は言葉を失って黙っていて、それからまたリッチマンを見た。

「恐らく敵の微少機械は、私たちの持つそれと区別が出来ない筈です。だから命令伝達機能を持たせた微少機械を敵に撃ち込めば、或いは」

 言い掛けて2号機は目を細めた。目の前のリッチマンは口を半開きにして表情を硬直させている。やれやれという風に2号機は首を振った。

「私たちの弾は仲間のフリをして同士討ちをさせることが出来るかもしれません。可能性に過ぎませんが、微少機械で作った弾丸なら戦えるかもしれない。もちろんあの塊だけ全く違うものかもしれないし、そもそも無事に弾が当たる範囲まで近寄れるかも分かりませんが」

「オーケイ」

 リッチマンの返事はあっさりしたものだった。

 思わず目を丸くした2号機に、リッチマンは真面目な表情で親指を立てる。

「まあ心配すんな。雑魚は一切合切うちで引き受けてやるさ。お前らはガラ空きのゴールにシュートを決めてくるだけで良い。弾さえありゃ問題無しだ」

 2号機は眉間に皺を寄せていたが、やがて考えることを辞めたのかその表情のまま親指を立てた。リッチマンは口の端を上げると、満足したのか酵素入りコーヒーにウィスキーをざぶざぶと足して一気に干すとごろんと横になった。

「…そんなの出来たんだね」

やがて2号機が暇そうに端末をいじくり始めたのを見計らって、1号機は言った。

 2号機はそのまま端末をいじっていたが、ふと気付いたように顔を上げて1号機をまじまじと見た。

「じゃあどうするつもりだったの」

 そのあまりに真剣に呆れた表情に1号機はたじろいだ。

「いや頑張るつもりではいたよ!」

「一人で行かせなくて良かった。本当に」

 まじめくさって2号機は言った。

「うんうん、2号が居てくれて良かったよ」

 平静を装おうとする1号機に、2号機は目を細めた。

 それから幾つもの照明の下を通り過ぎ、トラックは止まった。

 そこからはリッチマンたちとは別行動だった。特機たちはそこでトラックを降りた。

「じゃあな。うまくやれよ」

 別れ際、リッチマンは荷台の上から言った。

「あの」

 3号機が言って、それから少し言葉に困ってリッチマンの顔をじっと見た。

「何て言ったら良いか、その、死なないでください」

 おずおずと3号機が言うと、リッチマンは目を見開き、きょとんとした表情をした。

「次に飲むときはどっか店で飲もうぜ。軍を辞めた奴が良い焼き鳥屋をやってんだ」

 まるで飲み会の帰りのように、リッチマンはあっさり言うと輝くような笑みを浮かべて右手を挙げた。トラックが動き出す。

「死ぬなよー」

「頑張れよ、お嬢ちゃんたち」

「またなー」

「楽しかったぜ、また会おう」

 何台ものトラックが通り過ぎる度に、兵士達が声をあげた。

 そこに悲壮感はなく、本当にただ宴会の翌日の解散の風景にさえ見えた。未だかつてない数の虫を中隊相当の兵員で引き受ける、それは確実に死を想起させる任務だ。だが彼らはあっけらかんとしていた。怖がっても仕方がないからだろうか。確かにそうだろう。しかしそれでも1号機はそれが不思議に思えた。

 見上げると、壁面からハシゴがどこまでも高く伸びている。

 車の音が遠ざかってしまうと、辺りはしんと静まりかえっていた。

1号機はハシゴに手をかけた。

 登っていくとやがて金属製の扉に行き当たる。2号機がそれを首尾良く解錠すると、その先は今までとは雰囲気が変わった。壁はコンクリートで出来ていて、床を平行に二分割する深い溝が走っている。

 吐き気を催す悪臭に、1号機はそこが下水道なのだということを理解した。

 市民が移住を終えた以後、首都の機能は最小限になっていた。どうやらこの下水道は放棄されたものらしい。かつて下水が流れていた筈の溝は今は干上がっている。

 1号機たちは少し歩き更に上へと続くハシゴを見つけた。

「この上が地表?」

「そのはず。地面が揺れてる。たぶん、虫が埋め尽くしてるんだと思う」

 1号機が聞くと3号機がすぐに答えた。1号機は頷いた。

 それから1号機達はハシゴの周囲に腰を降ろした。あとはリッチマンが上手く敵を引きつけてくれるのを待つだけだ。

 誰も言葉を発さなかった。1号機は空いた両手が手持ちぶさたで唇を噛んでいた。武器はもはや必要ない。そもそも普通の装備では戦うことが出来ないのが分かっていた。

 2号機は微少機械を扱う技術を作り上げていたらしい。その技術は知識共有によって1号機に伝えられていた。多くの武器が有り、そして空を飛ぶための羽の知識も有った。羽ばたいて飛ぶものではなく、それは空気を圧縮して放出することで空中浮遊を実現させていた。おそらくそれを使って空に浮いている敵に接近するということなのだろう。

 本当にあんなものと戦うのか。自分で言い出したことだが、1号機は信じられないような気分だった。手段は確かにある。だが本当にあの塊を落とせるのだろうか。

「ねえ、私たち死ぬの?」

 ぽつりと呟いたのは、5号機だった。

 その声は落ち着いていた。気付けば、1号機自身も恐怖は感じていなかった。戦う為に作られたからなのだろうか。戦いが近付いていると思うほど、気持ちは冷静になっていくような感じがする。

「分からない。でも死ななくて良いように、戦いに来たんだと思う」

 率直に言うと、5号機はこっくりと頷いた。

 それ以上のことは思い浮かばなかった。周りを見ると、他の特機たちもそれぞれ何かを考えているかのように黙り込んでいた。ただ、2号機だけはちょっと肩をすくめた。

「まあ、何したって死ぬときは死ぬ」

 2号機は無表情に呟いた。

「でも、それは相手だって同じことよ」

 最後に、ちょっとだけ笑うと2号機は戦いの時を待つように目を閉じた。

 1号機もそれきり力を抜いてうつむくと、じっとその時が来るのを待っていた。 


 見渡しの良い地表にリッチマンは笑顔を浮かべていた。

 かつて首都だったはずの街は、既に瓦礫の山と化して地平線の向こうまで見渡すことが出来た。何とも良い見晴らしに、良い天気だ。リッチマンは冷たい戦車の上にごろりと寝転がった。酔いも抜けきって最高の気分だ。戦争ってのはこうじゃないといけない。

「おい、底部の固定出来てるか、よし砲塔起こせ!」

「給電ケーブルわけてくれ、足りねーよ」

「各車チェックが済んだら整備班に連絡入れろ」

 周囲では慌ただしく、野戦砲の設置や戦車の整備に兵士が動き回っている。

 リッチマンは空を見上げたまま周囲の声を聞いていた。天高く白い二匹の鳥が飛んでいるのが見えた。今日こそ全てが終わるのだろうか。もう戦えないと思う時が来るのだろうか。目を閉じて自分に問いかけた。

 分かるわけがねぇ。早々と答えは出た。リッチマンは体を起こす。

 戦車と砲塔は遠距離を狙えるように、地表より一段高い位置に整列している。その先には槍銃や剣銃などの近接兵器を抱えた突撃兵が並んで腰を降ろしている。

 そこから数キロ前方に、地平線が動いているのが見える。虫の群れだ。既にこちらに気付いて隊列を組み進行を開始しているらしい。あと少しすれば互いに砲の射程範囲に入るだろう。そして遠くの空には巨大な塊が宙に浮かび次々と虫を産み出している。

 心底、勝ち目など少しも無い眺望だ。

 再びリッチマンは思った。この戦いの先には何があるのだろう。恐らく自分の人生で最も過酷で激しい戦場だ。そして人類が戦ってきた中でも、これを超える戦いはそうないという程のものになるだろう。そんな戦いの向こうに何があるのだろう。

 死か、敗北か。或いはいつも通りの勝利か。

 今から確かめてやる。リッチマンは笑みを浮かべると立ち上がった。既に全ての設置は終わり、周囲はリッチマンの方を向いている。

「聞けテメェら!」

「聞いてるよ」

 リッチマンが怒鳴ると、傍らでハンスがぼそりと言い返した。

「歌うぜ、俺」

 気にせずリッチマンは続けて、用意していた拡声器を取ると真っ直ぐ虫の方を向いた。

「さようなら、俺は行くよ。待っている奴らが居る」

 澄んだ声でリッチマンは歌い始めた。みんなきょとんとして居るように見えた。

「ねえ、泣かないで。もしも明日の今頃、俺が帰ってくることがなくてもそのまま何も大したことはなかったみたいに生きていて欲しいんだ。俺は行くから。もう行かなきゃならないんだ。自分と向き合う時が来たんだ。逃げることはもう出来ない」

 虫にも聞こえているのだろうか。依然として虫たちは前進を続けている。

「戦いが始まる。硝煙の匂いの満ちたあの場所が俺を待っている。悔いなど何も有りはしない。もしも銃弾が俺を貫こうとも進みを止めることなど出来やしない。全ては故郷に置いてきた。俺が居なくたって、全ては上手く行く。きっとそうだ」

 気付けば周りの兵士達も声を揃えて歌っていた。

 その声は地鳴りのようになって辺りに響き渡っていた。リッチマンは最高の気分で歌い続けた。この声はあの少女たちにも届いているのだろうか。そうだと良いなとリッチマンは思う。それならきっと彼女たちは自分が死んでも覚えていてくれるだろう。戦場で歌うバカな兵士が居たと。

 そんなのかっこいいじゃん。そう思うだけでリッチマンは充分に戦う意味があると思った。意味など無くても充分戦う気にはなるが、意味があるならより戦闘意欲が増す。血が沸き立ち自分の全てが戦うための道具と化していくのをリッチマンは感じていた。

 歌い終わった瞬間、しんと辺りが静まりかえった。

 リッチマンはその中で、ひとりだけ満面の笑みを浮かべた。

「砲科は敵の後衛を狙い撃て、仲間に当てんじゃねえぞ! 高射は弾の限り空の奴らを叩き落とせ、弾が無くなったら砲でも何でも投げつけて俺たちの邪魔させんじゃねえ! 突撃兵! 開戦だ! 行ぃぃっくぜぇーッ!」

 怒鳴って戦車から飛び降りるのと同時に、敵の砲弾がすぐ傍に着弾して土を巻き上げた。

「目標捕捉、射角固定! 射撃用意…てェ!」

「次弾装填まで七。冷却忘れんな」

「十一番曲射砲、初弾命中! 見たかクソ虫どもがァッ!」

 砲兵たちが怒鳴り声を上げ始めた頃には、リッチマンは既に走り出していた。

 他の突撃兵たちも一斉にときの声を上げて、武器を構えると走り出した。その姿は中世の蛮族を思わせる勇猛さと野卑さに溢れていた。

「ぶっ殺してやるぜ!」

 蛮族の族長さながらにリッチマンは叫んで敵へと向かっていった。


 かすかな歌声が遠くから聞こえていた。

 下水道の天井は地響きを立てて揺れている。それでも1号機は歌に意識を集中して、ずっと聞いていた。歌詞もメロディも殆ど聴き取れない。それでも陽気さだけは伝わってきた。まるでお祭りでも始まるみたいだと1号機は思った。

 仲間達も同じように歌に耳を澄ませているようだった。

 やがて歌が終わってから、1号機ははっと気付いてハシゴに手をかけた。虫たちの立てる無数の足音は既に離れ始めていた。ハシゴを登り始めると、すぐに他の特機たちもそれに続いた。

 地表に出ると、昼の光にに一瞬目がくらんだ。

 祭の日の花火のように、砲火の立てる爆発音がひっきりなしに聞こえていた。

 地平線に近い空は曇りがちなこの街には珍しく、見事に青色を見せていた。

 みんな上を見上げている。だがそこには空は無かった。ただ上空は夜のような黒い塊に覆われている。それが夜と違ったのは、それは決して静止せず蠢いていた。表面は産み出された虫に埋め尽くされ、虫は次々に空から地面へと落ちてきていた。

「さあ」

 1号機は決心して一歩前に踏み出した。

「やっつけよう」

 弱音を吐くことに意味がないことは分かっていた。だから単純にそれだけ言った。

 出来るだけ余裕を見せた方が良い。阿具のことを思い出して1号機は不敵な表情を作った。そして振り向いた。だがその顔はすぐに驚きに消された。

「おう!」

 力強く答えた仲間達は、金属製の巨大な羽と見たこともない武器を携え、銀色の装甲に身を包んでいた。2号機はガトリング砲の様な多連装の銃を提げ、3号機は二挺の同じアサルトライフルを、4号機は鋭い剣銃を、5号機は肩と一体化した巨大な銃を持っていた。

 1号機は笑みを浮かべた。気付けば周囲は敵に囲まれていた。だが恐怖は無かった。

 ゆっくりと目を閉じて、1号機は羽と武器と鎧のことをイメージした。そして目を開くと、背中には羽が生え、体は銀の鎧に包まれ、手には槍が握られていた。

「作戦は?」

 2号機が聞いた。

「敵がいなくなるまで各個撃破!」

「了解」

「うん」

「おっけー!」

「行きます」

 口々に言うと、特機たちは宙に浮かび上がり、飛び去っていった。

 最後に残された1号機は大きく息を吸った。地表は虫たちが立てる粉塵でうっすらと煙っていた。ここで動き始めたら、次に止まるのは死ぬときか勝利したときのどちらかだ。それは、どっちなんだろう。1号機はぼんやりと思った。

 一匹の蟻が顎を突き出して1号機に躍りかかった。

 次の瞬間には、1号機の体は宙に浮いていた。そして手の中の槍は蟻の頭蓋に突き刺さり、1号機が手を振るとそのまま頭を蟻から引き抜いた。蟻の頭は振り抜いた槍から外れ、次に飛びかかろうとしていた蟻に命中して火花を散らした。

 1号機はただ空を見ていた。

 上空では青白い光線や黄色い曳光弾が飛び交っていた。次々と羽を持つ虫たちが破壊され落下していく中に、ときおり銀色の光が通過していく。おそらく仲間たちだろう。そしてその背後の黒い塊からは壊しているのより更に多く次々に虫が産み出され続けている。

 そのまま1号機は弾かれるように上空へと舞い上がっていった。

 羽の使い方については考えさえしなかった。ほんの少しだけ1号機はそのことに驚いて、それからきっと自分たちは元から飛べるように出来ていたのだろうと思った。


”由梨先生ごめんないさい。ちょっと行ってきます”

 手帳をちぎった紙にはただそれだけ書かれていた。

 由梨は目を覚まして一人きりになっていたときも、その紙片を見つけた時にも殆ど動じることはなかった。ただ二日酔いの重たい頭痛を払うように首を振った。

 そんなことになるのではないかという気はしていた。自分は人類最強の男でもなければ、軍に依って秘密裏に作られた人間兵器でもなく、戦争を心から愛する死神小隊の一員でもない。最初から蚊帳の外だったのだ。由梨はそう考えると、ふらつきながら立ち上がった。

 辺りはひっそりと静まり、空は真っ青に晴れ上がっていた。

 消えた焚き火の傍に転がった水筒にはまだ中身が残っていた。由梨はそれを拾い上げて水を飲むとそのまま立ち尽くした。

 やがて遠くで砲の発射音が聞こえた。そしてほどなくして山頂に物資を担いだ岩神が姿を現した時にも、未だ由梨は動かずに立っていた。岩神は体中にギブスや包帯を巻き付けてまさに満身創痍という姿をしている。

「何だあれは」

 岩神は砲火の音を聞き外を見ると、呟いた。

「どうやら、私の部隊と死神小隊はあのでっかいのを落とすつもりらしいわね」

 由梨の瞳にも、遠くの黒い塊の周囲で瞬く閃光が見えていた。

「バカな」

 冷静な声だったが、岩神はそれきり言葉を失っていた。

「まったくバカな話よね。子供や戦争狂たちに運命を任せて、自分はぼけっとしてるだけなんてのは」

「待て、戦いに行くつもりじゃないだろうな」

 歩き出した由梨に、岩神はすぐ声をかけた。

 振り返ると岩神は静かで厳しい表情を浮かべている。

「死ぬぞ。敵が動き出している。ここに居れば多少は長生きできる」

「戦わないわ。あんな中に私が入って何をしろってのよ。例えば私が一人で五、六匹の虫を殺せたとしても、海にコップ一杯の砂糖水を入れて甘くしようとするようなもんだわ」

「じゃあ、どこに行くつもりなんだ」

「ちょっと確かめたいことがあるのよ。もしかしたら少しは役に立つことかもしれない」

 由梨の言葉に、岩神は分からないという風に首を振った。

「外に出るなと言っているんだ。死にたいのか?」

「死にたくないわよ。長生きして、良い彼氏作って良い結婚して、子供山ほど産んで、孫に囲まれて、良い人生だなーって思いたいもの」

「じゃあ、どうして行こうとするんだ」

 焦れたように岩神は少し声を荒げた。

「みんなそんな風に思ってるじゃない」

 予期せぬ答えだったのか、岩神は黙って目を見開いた。

 由梨は少しだけ笑った。

「蚊帳の外でもね、ちょっとは役に立ちたいのよ。本当はちょっとも役に立たないかもしれないけど、良いんだ。取り敢えずもう私に直接的に出来ることなんて何も無いし、さしあたってやりたいことも何もないから。たまには誰かの幸せの為に頑張ってみたって悪かないわよ」

「死んでもか」

「割と死なない気はしてる。不思議と」

 言いながら由梨はトンネルの中に踏み込んだ。先には真っ暗な道が続いていた。

「おい、志藤准尉!」

 再び呼ぶ声に振り向いた。トンネルの入口には青空を背にして、シルエットになった岩神が立っているのが見える。

「…死ぬなよ。後悔したくないんだ。ここで君を無理矢理引き留めれば良かったとか、そんな風に思いたくないんだ」

「そっちこそね。私が基地に留まってれば良かったなんて、そんな風に思わせないで」

 由梨はにっこりと笑っていった。

「ああ。ここは私の部隊が守る」

 岩神は包帯の巻かれた手を、ぐっと突き出して見せた。

 それに答えるように由梨は片手を挙げ、そして歩き出した。

 それから延々と続く坂をずっと下っていった。


 * * *


 リッチマンにとってそれはいつも通りの戦場だった。

 背後からの砲火支援が空中の敵を抑え込み、数人ずつの班をもって陸戦力を叩く。そして破壊した敵の残骸を地面にリベットで打ちつけ壁を作っていく。そうして増殖していく小さな壁の集合は巨大な敵の突進を阻み、敵の選択肢を奪う。

 それは阿具京一郎の授けてくれた戦術だった。

 それによって、かつて消耗品でしかなかった突撃兵の生還率は飛躍的に上がり、それまで人間と機械虫の戦闘に存在しなかった持久戦を可能にした。

 兵士たちはひたすら単純作業をこなすように、次々と敵を処理し壁の範囲を広げていく。

 リッチマンは、その最も外側をたった一人で駆け抜けていた。

 ひっきりなしに入ってくる無線の全てに指示を出し、その傍ら次々と敵をたたき伏せていく。それは昔阿具がやっていたことと全く同じだった。生まれたときから戦場に居たリッチマンが唯一出会った自分より強い人間、それが阿具だった。

 負傷者有り、との報告を受けてリッチマンは敵の山の中を走っていた。何匹もの敵がリッチマンの方へ向き襲いかかり、その度に転がり、刺し、斬った。そして負傷者が発生で敵中に孤立しかけた班を見つけた。

 更に速くリッチマンは駆け、自分の部下の眼前に立ちはだかった侍蟻を叩き伏せた。

 そして仲間をかばって敵の群れと向かい合う。

 負傷者は数人居て、とても動けるような状況ではなかった。

「こちらリッチマン、医療班応答しろぃ」

「五一班です。到着まで二分」

 すぐさま答えた声にリッチマンはただ頷き、剣銃を構えた。

 既に敵は突っ込んできていた。リッチマンはそれを最小限の動きで避けると同時に蟻の節の間に剣銃を突っ込んで引き金を引いた。剣銃を引き抜くと休む暇なく、次の敵がリッチマンに向かってきている。だがリッチマンは背後の仲間を守る為に動かずに戦い続けた。

「到着しました」

 やがて声と同時に、周囲の敵に向かって銃撃が加えられた。

 ちらりと振り向くと、右肩に白線を入れた陸戦鎧に身を包んだ救護班が、手荒く負傷者を壁まで引きずっていた。その頃にはリッチマンは破壊した敵の山の中に一人立っていた。

 そういえばあの人と会ったのもこんな場所だった。敵の残骸の山の中、あの人は倒れていた俺に手を差し伸べてくれたのだ。酷い負け戦だったのに、あの人は傷一つ負わず、軽い運動でもしてきたくらいに見えた。そして笑って、お前はもっと強くなると言ってくれたのだ。

 再びリッチマンは無線に指示を出しながら走り出した。

 あの時、俺は畏怖と尊敬と共に、負けたくないと思った。必ず追いつくのだと思った。今の自分はあの人に、阿具京一郎に少しは近づけたんだろうか。きっと近づけただろう。あるいは追い越していたかもしれない。だがあの人は死んでしまったのだ。もう決してどちらが強いのかはっきりさせることは出来ない。リッチマンはかすかに唇を噛んだ。

「くだらねェ、つまんねーんだよ!」

 リッチマンは思考を追い払い、うなり声を上げた。

 そして敵の集団の最も密度の高い方向へ向けて方向を変えた。 

 敵味方双方の弾丸が飛び交い、周囲の全ての敵が自分めがけて襲いかかってくる中、リッチマンは猛然と進んでいった。軽やかに跳躍し、蟻の胴体に着地すると剣銃を振るい頭を刎ね飛ばす。周囲の虫が蟻の背の上を見たときには、既にリッチマンはそこから飛び退き更にもう一匹を仕留めていた。

 弱すぎる。リッチマンは次々に虫を破壊しながら思った。莫大な数の虫というのはいつもより面白いもんだとばかり思っていた。しかし実際はそう変わらない気がする。これでは何のためにわざわざ首都まで追いかけてきたのかわかりゃしない。こんなことなら自分があのデカブツと戦いに行くんだった。

 リッチマンは舌打ちをした。同時にまた一匹蟻の頭が吹き飛んで行く。それからちらりと巨大な塊の方を見た。塊の周囲は空を飛ぶ種の虫が集まり、黒い雲があるように見えた。そしてその中では光の筋が瞬き、幾つもの爆発が次々に起きているのが見えた。

 ちくしょう何て面白そうなんだ。苛立ちに任せてリッチマンは剣銃の柄で蟻の頭をぶん殴り、その勢いで反対側から迫る蟻の頭を叩きつぶした。

 その時、リッチマンは黒い雲に包まれた塊から、幾つかの光の球が放たれるのを見た。

 一瞬だけリッチマンはそれに目を取られて、次にはまた蟻の群れを蹴散らし始めた。

「くそ、失敗したなァ」

 リッチマンはぼやきながら、戦い続けた。

 きっとあれは新種の虫に違いない。その光る何かには羽が生えていた。

 ちょうど天使か何かに見えた。


 上手く行きすぎているのではないだろうか、1号機は思った。

 群れを成して向かってくる蜂は壁のようにさえ見えた。

 それでも1号機は臆さずに、真っ直ぐに飛んでいった。そして大きく振りかぶると槍を横薙ぎに一閃した。光の刃を持つ槍は、白い筋を残し正面の群れを切断する。1号機は、虫の残骸が降り注ぐ中をなおも突き進んだ。

 層状に連なる敵を、次々に1号機は破壊し続け、やがて虫のうごめく塊の表面が見えた。1号機は槍を真っ直ぐに塊の方へと構えた。同時に小さな複数の光弾が発射され、表層に乗る虫を貫いて塊に命中する。

 すぐに数度繰り返してきたのと同様の効果が現れた。微少機械を含んだ弾丸を受けた塊の表面は、無理矢理形を作ろうとするかの如く泡立ち灰色に変わる。そして、侵蝕された箇所の周辺ごと塊の本体から切り離されて地面へと落下していった。

 1号機は体の向きを変えて、すぐさまその空域から離脱した。塊は切断面から無数の弾丸を1号機に向けて放っていた。幾度も方向を変え、その度に敵を切り伏せながら追撃が蜂の群れに阻まれるまで1号機は離れる。

「各員、問題ないか」

 緊張したままで1号機は聞いた。すぐに仲間達が体内通信で問題なしと答える。

 そこで、やっと1号機は息を吐いて緊張を少しだけ解いた。

 まだ休む暇も無く、無数の蜂たちが次々に襲いかかってきていた。だが、1号機にはそれは大した問題ではなかった。もはや1号機にとって、それはシミュレータの「易しい」の難易度の敵くらいの意味しか持たない。

 攻撃は全て先読みすることが出来たし、1号機の持つ火力は敵を大きく上回っている。

 1号機は次の攻撃の態勢を整えながら、造作もなく敵を破壊し続けていた。

「上手く行ってる」

 通信と肉声双方で2号機の声が聞こえた。

 次の瞬間、黒山の群れを突き抜けて2号機が1号機の眼前に躍り出る。そして羽が放出する圧搾空気によって轟音を立てながら、1号機と背中合わせの位置に移動した。

「本当に。気持ち悪いくらい」

 1号機は答えた。

 現状は本当に完璧と言っていいくらいだった。既に塊は半分ほどの大きさになっている。それに戦闘開始と同時に急激に増えた敵数も今は減り始めているように思える。これは優勢と言って良いのではないかと1号機は思った。

「勝てる、のかな」

 実感は湧かない。だが状況がこのまま推移すれば、それは確かなことに思える。

 1号機には、それでも胸の奥に張り付いた不安が気に掛かって仕方がなかった。

「分からない。良い状態だとは思う。でもどっちにしたって」

「なに?」

「精一杯頑張るだけ、でしょう?」

 2号機らしからぬ精神論に、1号機はちらりと振り向いた。

 そこでは同様に2号機が肩越しにこちらを見ていた。視線を交わして、二人は思わず互いに微笑みあった。そうだ、1号機は思った。最初から勝ち目がなくてもやるつもりだったんだ。今の状況に何の不安があるっていうんだろう。

「よし、もうひとがんばり!」

 勢いよく1号機が言った瞬間だった。

 一筋の光が、二人の間を下から上へと走り抜けた。

 考えるより早く1号機は身を引いていた。だが2号機は遅れた。

「2号機――」

 伸ばした手は、2号機を掴むことが出来なかった。

 2号機が落下していくまでの一瞬、1号機には時が止まったように思えた。

 2号機はまださっきの微笑みを消しきらぬままどこか虚ろな表情をしていた。そして体には、装甲ごと切り裂く縦に走る巨大な切創を負っていた。空を掴んだ1号機の手には2号機の返り血が触れた。

「2号機ッ!」

 叫ぶが早いか1号機は2号機を追って急降下していた。

 隙を見せた1号機に対して、一斉に蜂の大群が押し寄せる。だが1号機はそれを力任せに薙ぎ払い、斬り飛ばして、落ちていく2号機へと飛び寄った。

 やがて地表近くなると蜂は殆ど居らず、1号機はなんとか2号機が地面に叩きつけられる寸前に腕を掴んだ。良かった、そう思う間も無く再び光が二人の間を横切った。

 2号機はそのまま目の前の地面へと落ちた。

 何が起こったのか、1号機の理解が追いつくより早く腕に熱を感じた。思わず左腕を押さえようとした1号機は、そこに何もないことに驚愕した。だがすぐに腕は見つかった。

 自分の左腕は、かつて自分の左腕だったものは、今も2号機の腕を掴んだまま地面の上に切り離されて転がっていた。

 斬られた。だがその事実が恐怖を呼ぶ前に、再び1号機は光を目の隅に捉えた。

 反射的に身を翻して避けると、1号機は正面から光を見据えた。

 そして息を呑んだ。それは1号機の目には、天使に見えた。

 天使は銀色の鎧をまとい槍を握っていた。髪もまた銀色で、背中の巨大な羽ともども全身は淡く輝いている。自分たち特機にとてもよく似ていた。

 天使は全く表情を浮かべず、ただ真っ直ぐに1号機を見ていた。

 本当にあの塊から自分たちは生まれたのだ。それだけで充分な驚きだった。だが1号機は更に目を見開いた。心臓の動悸が急激に高まるのが分かった。

 地表には、自分たち以外にも動くものが有った。

 叫び声をあげたのに、誰も通信で問い合わせて来なかった。そのことに疑問を抱くべきだったのだろう。

 目の前に居る以外に、三人の天使が地表近くに浮かんでいる。

 それから、地面には仲間達が倒れていた。

 4号機と5号機は一緒に、4号機が5号機を庇うようにして倒れている。その傍らにはユニまでもが破壊されて転がっている。そこから少し離れて3号機も居た。

 全員からかすかに生体反応は感じられた。だがそれは何の慰みにもならない。

 4号機は右足を失っていた。そして3号機は腹部を槍で地面に串刺しにされている。5号機のことは見えなかったが、動かないことからすると同じように手ひどい傷を負っていることは間違いないだろう。

「なんてことを」

 それ以上、胸が詰まって言葉にならなかった。

 悲しみではなかった。1号機は血が煮えるのを感じていた。全身に電気が走るように、姉妹達の痛みが怒りとなって駆け抜けた。そのとき1号機は、初めて自分が戦うために作られていることを感謝した。

 天使達はすさまじい速度で既に動き始めていた。

 だが次には1号機も羽の力で爆発的に加速していた。

「許さないッ――」

 気付けば1号機は雄叫びを上げていた。


 青空を切り裂くように一人の天使が戦場を飛び抜けていく。

 その後には、次々と破壊と死がもたらされ兵士達は倒れていった。

 天使が通り過ぎた後は、楔が打ち込まれたように防衛戦が分断された。そしてその後に虫が群がり、いくつもの班が撃破されていく。

 塊から天使が放たれ、そのうちのひとつが突撃隊の戦場に到達してからまだほんの少ししか経っていないにも関わらず、もともと突撃隊の限界に近い運用で保たれていた戦況は虫側に大きく傾き始めていた。

 それでも戦線の崩壊に至らなかったのは、突撃隊の練度の成せる業だった。

 圧倒的な暴力が降りかかる中でも、兵士達は戦線を維持していた。同胞が八つ裂きにされても、自らの四肢の一部が千切れようとも、怒声は上げてもうろたえるものはいなかった。彼らは、今までずっとそうであったように、どこまでも兵士であることをやめなかった。

 リッチマンは崩れようとする防衛戦を塞ぐため必死に戦いながら、やがて手を止め、空を見上げた。空にはきらめく光が、次の獲物を探すように飛び回っていた。

 そのときリッチマンが呟いたのは、他の兵士たちのような神への呪詛ではなかった。それどころか、それは全く逆の言葉だった。ありがとう、とリッチマンは呟いた。神よ、やっと俺がぶん殴れる距離に貴方の使いを寄越してくれてありがとう。ずっと多くの戦友を奪った貴様に仕返ししたかった。望み通りブチ殺してやる。

 満面の笑みを浮かべ、リッチマンは固定された蟻の残骸の上をよじ登り、大きく両手を広げた。上空の光はそれを見つけたのか旋回すると、次の瞬間にはリッチマンに迫っている。リッチマンはすんでの所で天使の突進を避けて剣銃を振るった。

 だが天使は既に飛び去った後で、剣銃は空を切った。通り抜け様に刺された肩から血が溢れ出した。しかしリッチマンは笑みを崩さず、それどころか笑い声を上げた。

「各員、全力で戦線を立て直せ! アイツは気にし無くって良い。俺が殺す!」

 そう怒鳴ると、一瞬の静寂の後各班が応えた。

 リッチマンは満足げに頷くと、装甲のロックを外してそれを脱ぎ捨てた。

 この装甲では天使の攻撃に耐えることは出来ないらしい。ならば軽い方がマシだろう。

 天使は再び方向を変え、リッチマンに向かっていた。

「来い、ゲロの塊から生まれたクソ虫がよォ」

 口汚く呟くと、リッチマンは軍服の上着からも腕を抜き肩にかけた。そして残骸から残骸へと飛び移り、天使に向かって突っ込んだ。

 互いが行き違う瞬間、リッチマンは突き出された槍の下をくぐり上着を投げつけた。それから通り抜け様に天使の首を狙って剣銃を振るった。

 しかし吹っ飛んだのはリッチマンの方だった。

 リッチマンは信じられない速度で繰り出された二撃目の突きから、足場を蹴って何とか逃げた。直後に反撃をしようと剣銃を構えると、天使はまた遠く離れていた。

「早ェ…」

 膝を付いたままリッチマンは呟いた。さっき刺された肩の傷の近く新たな傷から血が噴き出した。勝てないかも知れない。そんな思いがリッチマンの脳裏によぎった。

 そう思うと、歓喜が体を満たしていくことに、リッチマンは気付いていた。

 リッチマンは立った。それから三度向かってこようとする天使を見据えて剣銃を担いだ。

 阿具京一郎を越えようにも、本気で殺し合いをする機会には恵まれなかった。そして辺境から阿具が転属して以来自分より強い相手に出会うことはなかった。つまりこれはチャンスなのだ。ついに俺は隊長と同等か、それ以上に強い化け物と巡り会った。

 背筋がぞくぞくして、リッチマンは自分の傍らに死の所在を感じる。

 ついに死ぬ日が来たのだろうか。天使はあくまで優雅にリッチマンに向かって滑空してくる。土にまみれた戦場の上に広がるのは青空。そして向かってくる天使。死ぬ前に見る光景としてこれ以上のものは無いようにさえ思える。

「バカ言うな」

リッチマンは呟いた。死ぬ気など毛頭無い。

 相手が天使だろうと、阿具だろうと気持ちは決まっている。

「勝つのは俺に決まってらァ」

 今まで自分が敗北したことなど一度もない。これからもそうだ。

 リッチマンは再び軽やかに跳躍し、天使に向けて走り出していた。


 どれくらい走ったのか、由梨には見当が付かなかった。

 息は切れず、心臓も一定の鼓動を保っている。それどころか疲労さえ感じない。

 ただ自分の足では信じられない速度で、風景が後ろへと流れていく。

 本当に自分は走っているのだろうか。走っているのは本当に自分なのだろうか。自分は、自分の意思で走っているのだろうか。薄暗く単調な壁の繰り返しの中で、由梨はきれぎれに考えた。

 何処へ向かっているのだろう。何を求めて走っているのだろう。

 答えは明白だったはずなのに、由梨にはそれさえ危うい気がした。

 それを知るために走っているのかもしれない。

 幾度も角を曲がり、ひたすら由梨は走った。本当にこの地下道がそこへと繋がっているのか、繋がっていたとして自分に辿り着けるのか、由梨は分からずに居た。だが、走り続けて、ついに由梨はそこへと辿り着いた。

 扉はあの時のままに開いている。

 それを見たとき、由梨の心臓は初めて強く打った。そしてためらいの気持ちから扉の前で足を止めた。

 そこは阿具が死ぬ前に居た、天使と言われた残骸の残る部屋だった。

 由梨は大きく息を吸った。今さらためらってどうする、そう自分に言い聞かせた。

 微少機械を生産出来る核は、死んだ時点で阿具の中には無かったのだろう。だが以前には確かに阿具の中に有った筈なのだ。だからこそ自分は助かり、今のような超人的な身体能力を発揮できているのだから。

 しかしそれなら、核は一体どこに行ったのだろうか。

 きっとこの部屋の中にあるはずだ。由梨は部屋に足を踏み入れた。

 部屋の中の灯りは消えていて、何の音も聞こえなかった。

 確か前に来た時は機械の駆動音が聞こえていた筈だ。不審な思いから部屋の隅のコンソールに目をやろうとして、由梨は息を詰めた。

 部屋の中央の円筒は変わらずにそこに有った。だが、そこに浮かんでいたのは以前のような干からびた肉塊ではなかった。

 それは間違いなく人だった。由梨は思わず円筒の容器に近寄る。

 再生している。由梨はすぐ理解した。そこに居る人は、瑞々しく屈強な肉体と銀に輝く長い髪を持っていた。それがおそらくあの肉塊の元の姿なのだろう。やはり核はここに有ったのだ。阿具は自分の体内に有った核を、この天使に移し、そのせいで死んだのだろう。

 だが何故、そう考えかけた由梨は、次の瞬間悲鳴をあげそうになった。

 天使はゆっくりと目を開いた。そして銀色の瞳で由梨を見据えていた。

 それから由梨が何の行動も起こす前に、右手を前に伸ばした。その指が容器の表面に触れると同時に、それは粉々に砕け散った。

 身構えた由梨が、やっと筋肉を自由に動かせるようになった時には、天使は既に容器から出ていた。天使は伸ばした右手をゆっくりと挙げた。反射的に由梨は腰の銃に手を伸ばす。

「よう。死んでなかったな」

 天使は聞き覚えの無い声で、それなのに親しみを込めて手を挙げたまま言った。

 その瞬間、由梨は全身の力が抜けたようで掴んだ銃を落とした。

「こっちのセリフよ。ばか」

 胸が一杯で、今にも涙が出てしまいそうで、由梨にはそれしか言えなかった。

 口の端を上げた皮肉な笑みが、照れくさそうな首の傾き方が、細める目付きが、全てが、由梨に等しく同じ答えを告げていた。それは阿具京一郎だ、と。

「悪い。死ぬなんて言い出せなくってな」

「…バカ、本当に死んだと思ったんだから」

 涙を必死で堪えて由梨は言った。阿具は優しげな表情でこっくりと頷いた。

 それだけで充分だった。由梨はもう涙を抑えられずに阿具の胸に顔をうずめた。阿具は何も言わずに髪をそっと撫でてくれた。

 どれほどそうしていたのだろう。気付けば阿具は離れて、もう笑っていなかった。

 ざわざわと皮膚の表面が波打って、瞬く間に阿具の体は銀色の鎧に包まれた。

「行くのね」

「ああ」

 分かっていた。阿具はあの塊と戦うためだけに人間の体を捨て元の天使へと戻ったのだ。

 きっと阿具はもう帰ってこない。そんな予感がした。もう阿具は人ではないのだ。だから由梨は生きて帰ってくれとも、死なないでくれとも言えなかった。そう言えばきっと阿具は約束してくれただろう。その約束を聞けたらどれだけ楽だったろう。しかし、それは嘘でしかない。

「京一郎!」

 阿具はもう扉の所まで歩いていたが、その声で足を止めた。

 由梨は阿具に背を向けたまま、顔を袖で拭うと、全身全霊を込めて笑顔を作って振り向いた。

「ぶっ殺して来い!」

 阿具は肩越しに振り向いていて、その言葉を聞くと目を丸くした。

 それから心底嬉しそうに笑うと、ぐっと片手を握って見せた。

「ぶっ殺してくる」

 そう言うと、阿具の背中から大きな羽が生えた。

 軽やかな動きで阿具は部屋から出ると、轟音を立てて飛び去っていった。

 羽の飛行音はあっという間に遠ざかった。部屋はまた静けさに満ちて、由梨は糸が切れたように床に座り込んだ。

 自分がどこに向かっているのか、何のために向かっているのか何てあまりに当然のことだったのだ。自分はただ阿具にもう一度だけでも会いたかっただけなのだ。

 由梨は顔を覆って、声を立てて泣いた。


リッチマンは杖のように剣銃で体を支えて立っていた。

 随分こっぴどくやられたものだと思う。体中に数え切れない切創をこさえ、風穴を開通させられた。骨も複数折れ、ヒビなど体中の全ての骨に入っているのではないかと思うほどだ。指一本動かしただけで、全身が痛い。自分の流した血のせいで肌がまんべんなくぬるりと湿っている。

 周囲も酷い有様だった。

 絶え間なく押し寄せる虫の波に、無傷な兵士などもう残っていなかった。周り込もうとする蟻を抑えきることが出来ず、砲も車両も全てを破壊されてしまった。全方位を蟻に包囲され、何処を向いても蟻に埋め尽くされている。

 だが、蟻たちは一時的に動きを完全に止めていた。

 リッチマンにはそれが何故だかすぐに分かった。天使が現れてからの虫たちは、その指揮下に入って戦っていたのだ。だから今は混乱しているのだ。

 虫の残骸の上で、リッチマンは剣銃を残骸に突き刺していた。そして剣銃の刃には天使の頭部が串刺しにされている。リッチマンは笑った。心底愉快で、腹が痛くなるほどに笑った。呼吸が止まるほど、咳き込むほどに笑った。

 そして剣銃を引き抜くと、仕留めたばかりの獲物を高く掲げ鬨の声を上げた。

 傷ついた兵士達は、動きを止めた虫たちの方を凝視していたが、自分たちの隊長の声に振り向いた。一瞬の後、戦場に鬨の声が満ちた。

 明らかな敗戦で、隊は全滅寸前だった。それなのにまるで戦争が勝利で終わったかのように、力強く熱狂的な声に満ちていた。

 直後に虫たちが動き始めるまで、歓声が戦場に響き渡っていた。

 リッチマンも笑うのを止めた。それでも笑みを消さずゆっくりと首を振った。

「転進するぞテメェら! 俺たちはもう充分戦果を上げた。これ以上戦果を上げると俺たちへのボーナスの支払いで国が潰れちまうからよォ。ここらで、潮時ってことにしようぜ」

 ふてぶてしくリッチマンが言うと、疲労しきった兵士達も力を振り絞って了解を伝えてきた。もう誰も逃げ切れるとは思っていないだろう。リッチマンたちはあまりにも消耗し過ぎていたし、敵の包囲は既に完成している。

 本当はもっと早くに逃げ出しておくべきだった。だがそれは出来なかった。まだ遠くあの黒い塊は宙に浮いている。しかしもう限界だった。逃げ出せる限界ではない。まともに戦闘をやらかして全滅するためには、現状が限界だった。

「紡錘陣形を取る! 一点突破だ、俺に続けェ!」

 怒鳴ると同時に、リッチマンは最後の力を振り絞って残骸から残骸へ飛び移ると、陣地の外側に飛び出した。着地と同時に一匹の虫を始末し、続けざまに何も考えずに周囲の虫を切り伏せた。その獅子奮迅の働きにより、他の兵士達がリッチマンの後ろに辿り着いた時には、既に周囲に虫はいなかった。

「行くぜ、遅れんじゃねェぞ!」

 叫び、リッチマンは壁のように立ちふさがる蟻たちに向かい走り出した。

 一斉に兵士達がうなり声を上げ続いた。向かう先の蟻たちも迎撃すべく動き出している。

 良い死に方だ。リッチマンはそう思った。自分が最強だということを証明出来たのだ。もう思い残す事など何もない。楽しかった日々は最高の幕切れで終わる。俺の戦争は終わったのだ。

 万感の思いで駆けるリッチマンはしかし、敵に辿り着くことはなかった。

 目も眩むような数本の光が敵の中を通過するのが見えた。

 次の瞬間には爆発が巻き起こり、爆風が過ぎ去った後、敵陣に動くものは無くなっていた。何が起こった。リッチマンが状況を把握しようと周囲を見回すと、更に光の筋が包囲する四方の敵陣に何度も降り注いで、次々と敵は破壊されていった。

 やがて周囲が静まりかえった中、誰かが空を指して叫んだ。

 リッチマンは見上げた。そこにはさっき戦っていたのとは違う、三又の槍を持った一人の天使が浮かんでいた。天使は轟音と圧搾空気をまき散らしながら、ゆっくりと降りてきていた。

 全身の力が抜けるような感覚を、リッチマンは覚えていた。戦い続けていたリッチマンの経験と勘が、それはさっきのとまるで別物だと告げていた。

 天使はそのままリッチマンの前に降りると、目を細めて突撃隊の方を見ていた。

 リッチマンは構え直し、ふてぶてしく笑みを浮かべると、剣銃を担いだ。

「誰だァ、テメェ。敵間違えてんじゃねーのか、かかって来いよ」

 勝てないだろう。向き合っただけでリッチマンにはそれが分かった。だがそれでもリッチマンは天使に中指を突き立てた。宴会の時のように、背後から歓声が上がる。

 天使は微笑んだ。そして首を左右に振って、空を見た。

「相変わらずバカと大バカと超バカしか居やがらねえ。うんざりするぜ」

 その言葉に、背後が動揺にざわめいた。リッチマンは目を見開いた。

「だが、強くなったなリッチマン。お前らも」

 それだけ言うと、天使は宙へと飛び上がり爆発的に加速するとそのまま黒い塊へと向かって消えていった。後に残されたリッチマンと隊の兵士たちは、ただ呆然と立ち尽くしていた。ざわざわと兵士達は口々に同じ男の名前を口にしている。リッチマンにも分かっていた。あの人がどんな姿をしたとしていても、分からないはずはない。

「――キョウさん」

 呟き、リッチマンはもう体を支えるのをやめた。

 リッチマンは背中から地面に倒れ、広がる青空をぼんやりと眺めた。

 今日もまた死ななかった。だがもはやリッチマンの内側に戦闘衝動は無かった。

「なんてこった…負けちまったのか」

 もう自分は阿具京一郎に追いつくことは決してないだろう。リッチマンは広がる青空のように空っぽの気持ちで思った。追いつきたかった男は、もはや人でさえ無くなり、遥か遠くへ行ってしまった。

 自分の戦争は確かに終わったのだ。


「ふぅ…ふぅ…――」

一所懸命に呼吸を続けているのに、胸の苦しさが一向に消えない。

 1号機はきっと肺かどこかに穴が開いているのだろうと思った。だからどれだけ息を吸っても、酸素が吸収されないのだ。しかし何故肺に穴なんて開いているんだろう。そう考えて、1号機はやっと思い出した。自分は地面に串刺しにされているのだ。

 周囲には次から次へと現れた天使の残骸が転がっている。

 最初は本当に上手く行っていた。1号機の放った微少機械の弾丸は、塊に対する時と同じ効果を生み次々に天使を打ち砕いた。1号機は奮戦した。自分の意思がついていけるより速く動き、自分の体が耐えられるより強く動いた。しかし限界は存在していた。1号機は新たな武器を産み出せなくなったときに、やっとそれに気付いた。

 体内の微少機械の数は有限だった。そして気付いた時には、1号機の体内の微少機械は殆ど底を尽きかけていた。微少機械の助力を失った時、そこに居たのは、少し戦えるだけの人間の少女だった。

 力の限り頑張った。だが1号機にはもう抵抗と呼べるほどのものは何も出来なかった。

 負けたのだ。1号機は黒い塊がシミのように浮かぶ空を見上げて思った。

 体を少し動かしたかったが、細かな無数の槍が1号機を地面に打ちつけていた。まさに手も足も出ないというのはこういうことを言うのだろう。もはや1号機の視界はかすみはじめていたが、それでも自分に前に立った槍を持つ影は見えた。

 着替えたい、そう1号機は思った。

 体中が血で濡れて、軍服が肌に張り付いて気持ちが悪かった。こんなに暖かい良い日なのに、こんなにも気分が悪いのはきっとそのせいもあるに違いない。例えば、もうじき自分が死ぬのだとしても、干したての乾いた軍服を着ていればもっと気分も違うだろう。

 しかしそれはもう叶わない願いだった。いや、それどころかもう自分には如何なる願いも叶わないのだ。敵を倒すことも出来ず、仲間を守ることも出来ず、戦いの無くなった世界を見ることも出来ない。

 負けるというのはそういうことなのだろう。

 悔しかった。それでももう、わめく体力さえ無かった。

 ゆっくりと影が槍を振り上げたのが見えた。終わりだ。

 1号機は目を閉じずに、じっと目の前の天使が自分を殺すのを見ていた。

 槍が振り下ろされる刹那、ぼんやりと1号機は考えていた。もしも最後にひとつだけ願いが叶うとしたら一体自分は何を願うだろうか。答えはすぐに出た。もう一度、みんなと会いたかった。

 2号機が誉めると無表情に照れるのを見たかった。

 3号機が一所懸命に喋っているのを聞きたかった。

 4号機が適当だよと前置きする割に凄く手が込んでいる料理を食べたかった。

 うたたねをする5号機にもう一度お布団をかけてあげたかった。

 由梨先生と、突撃隊のみんなともう一度宴会をしたかった。

 阿具少尉に、最後に一度だけでも頭をくしゃくしゃと撫でて欲しかった。

 叶わない。叶うはずがない。涙が溢れた。覚悟したことなのに、胸が張り裂けそうに悲しかった。けれどもそれさえももう終わりらしい。槍は真っ直ぐに1号機の頭に向けて迫ってくる。本当に終わりなのだ。

 瞬間的に、1号機は自分の上を棒状の何かが横切るのを見た。

 その後には目の前の影は居なくなっていた。何が起こったのだろう。1号機は体を動かして見ることも出来なかった。だがそれからすぐに、再び1号機の前に影が現れた。

 銀色の髪と羽が見えた。天使だ。もう一度私を殺しに来たんだろうか。

 だが様子が違った。天使は1号機に手をかざした。その手から銀色の小さな光の粒が溢れ出す。すると、塊に微少機械を撃ち込んだ時のように1号機を貫く無数の槍はぼろぼろと崩れていった。1号機の息苦しさも消えていた。

 1号機は出血で鈍る思考の中で訳が分からず、呆然と影を見上げていた。

 天使の手は、そのままゆっくりと1号機の方へ伸ばされ、それから1号機の髪を撫でた。

「頑張ったな。大蓮花奮戦賞もんだぜ」

 そう言うと、天使は1号機を抱き起こし肩に担ぎ上げた。

 天使は他の特機たちも担いでいて、1号機は姉妹に重なるように背負われた。

 他の特機たちはぴくりとも動かない。だが温かかった。生きている。そう理解した瞬間、1号機は安堵から急速に自分の意識が遠ざかっていくのを感じた。

 この天使は一体誰なのだろう。1号機は何故かその天使を知っている気がしてならなかった。ただ、頭はもうこれ以上何の働きもするつもりがないようで、意思とは裏腹にまぶたが閉じ、世界は闇に落ちていく。

「もう大丈夫だ。さあ、おやすみ」

 とても優しく天使は言った。

 なんとか最後に頷いた。すると天使がふっと笑った気がした。

 それだけで1号機は全ての望みが叶ったように感じた。

 そして静かに眠りに落ちた。


 特機たちを下に残して、阿具は宙に浮かんでいた。

 周囲は数え切れない光り輝く天使が取り囲んでいる。阿具は大きく息を吸った。

 次の瞬間には、阿具は常人が目視出来る速度を超えて動いていた。おそらく天使の目には見えただろう。だがそれでも天使が動くより速く阿具はその首を掴み、そのまま地上まで投げつけた。轟音と共に、地面にクレーターが出来る。

 同時に阿具は、引っ掻くような手つきで腕を振るった。周囲に居た天使は、一瞬で体を四散させてまた地面へと降り注いでいった。その頃になって、やっと他の天使達が動き始めた。

 次々に天使の手から光の矢が降り注ぎ、阿具を襲った。だが阿具は苦もなくそれを避け、敵を始末し続けた。青空を背景に光の筋が幾筋も描かれ、その度に天使ばかりがその身を散らして落ちていく。

 阿具は待っていた。阿具は静かに天使を殺し続け、じっと待っていた。

 しばらくの間は単調な戦いが続いた。天使は耐えることなく生産され続けて、塊は少しずつ小さくなっていく。そして塊が最初の三分の一ほどの大きさになった頃、ぴたりと止まった。

 それから空に浮かんでいた天使達は、今度は塊に集まり始めた。塊の表面に着地した天使達は沼に沈むように塊へと取り込まれて行く。

 阿具の周囲にはそれでも数匹の天使が残り、阿具に邪魔をさせまいとがむしゃらに攻撃を仕掛けていた。元より阿具にはそれを阻むつもりは無かった。阿具は塊が流動し高密度に圧縮されていくのを見ながら、天使を一人、また一人と落としていく。

 やがて、全ての天使が消えた後、空には阿具と変貌した塊だけが浮かんでいた。

 それは人だった。片手には槍を持ち、身の丈は阿具とさほど変わらない。ただ全身はくまなく黒で、まるで青空をそこだけ人の形にくりぬいたように見える。

 その実体化した神とでも言うべきものと出会ったのは、二度目だった。

 遥か昔、神を磔にした時にも同様に神は最後に人の姿になった。恐らくそれは塊を構成する核の量が一定以下になったとき現れる状態なのだろう。

 阿具が動いたのと、神が動いたのは同時だった。

 双方は凄まじい速度で接近し、通り抜け様に互いの獲物が振るわれた。

 阿具の左腕が飛び、神の右腕が切断された。すばやく阿具は自分の腕を掴むと、傷口にあてがいそれを繋いだ。神の腕は、切断面から伸びていく。ほんの一瞬で、神の腕は長く伸びたまま胴体と接続された。

「やっぱ分が悪ぃな」

 呟いた阿具は、だが胸の内から湧き上がる興奮を感じていた。

 しばらく忘れていた戦闘衝動が阿具の体を満たしていく。そうだ、俺は戦うために作られたのだ。理解と共に、全ての思いが影を潜め阿具は本来の兵器へと立ち返っていく。次に神に向かって飛んだ時、阿具は満面の笑みを浮かべていた。

 神は長く伸びて繋がった腕を、鞭のように阿具に振るった。それより速く阿具は身をかわして更に距離を詰める。だが腕は生きているかのように不規則な動きで、阿具へと襲いかかってくる。

 しかし阿具には読めた。

 身体能力では神に劣っていても、阿具には莫大な戦闘経験が有った。阿具は常に危機的状況に身を置いてきた。常に膨大な戦力で人類を踏み潰してきた神とは、その経験の質も量も雲泥の差が有る。

 神の動きは更に加速し、阿具の目で捉えきれなくなっていく。時折光や刃がきらめき体をかすめた。それでも阿具は怯まなかった。どれだけ速く、どれだけ強くても物理法則を曲げることは出来ない。方向を変えるためには一瞬でも減速をする必要がある。その時を狙って、阿具は小さな光の矢を無数に撃ち出していく。

 それは遥か昔と同じだった。

 光の矢を神は意に介さぬように、その身を貫かれても平気で阿具へと向かってくる。

 だがその極小の矢は、確実に神の体のごく一部を切り取り遠くの地面へと打ちつけていく。再び阿具は凄まじい敵の攻撃から身をかわし続け、一瞬の隙にまた光の矢を放つ。その繰り返しが延々と続いていく。

 幾度も、避けきれずに阿具は傷を負った。だが神も少しずつ体を失い続けている。

 自分が致命傷を負うのが先か、それとも神を動くことも出来ないほど切り刻めるのが先か。危うい天秤の上に乗った勝利に、阿具はまた笑みを浮かべた。自分が戦場に求め続けてきた歓喜がそこに有った。

 自分の力を越えたものとの戦い。それだけが、かつて阿具が望んだことだった。

 頬をかすめて光が過ぎていく。無数の光と刃が交錯し、死に満たされているような空間に阿具は体を滑り込ませた。当たりはしない。阿具には分かっている。

 強大な敵を打ち倒し、勝つ。それこそが自分の全てだ。

 殺してやる。俺こそが最強なのだ。阿具は全身で活性化する微少機械の鳴動を感じ、ただひたすらに戦った。それが自らの存在の意味だと信じた。やがて感情さえ薄れて消えていく。望むものの全てがそこに有った。

だがそれは唐突に終わった。

 神の腕から放たれた槍が阿具の体を貫通していた。そしてそれが阿具に認識されたときには、数え切れない程の数の槍が新たに突き刺さっていた。

 見えなかった訳ではない。避けられなかった訳でもない。

 それなのに阿具は槍の直撃を受けていた。

 阿具はその時、来ると理解している槍を避けなかった。

 なぜ。理解出来ないまま、阿具は落ちた。


 地上にはかすかな風が吹いていた。

 かつて自らが神にしたように、阿具は地上に打ちつけられ動けずにいた。

 負けたらしい、そう阿具が自分で認めるまでには少し時間がかかった。ついにこの日が来た。全てを失うのだ。だが元より失うものなど持ち合わせては居ない。ただ与えられた命を、与えたものに奪われるというだけのことだった。

 意外にも阿具は穏やかな気持ちだった。自分にとって戦いは全てのはずだ。それなのに、さっきまでの衝動がもはや消えてしまった。理由は分からない。だがもう阿具には抵抗をする気さえ起きなかった。

 気付けば、傍らに神が立っていた。

 阿具はそのまま死が訪れるのを待っていた。しかし神は何もせずに立っていた。

 真上には雲一つない青空が広がっている。周囲には如何なる音も存在せず、阿具はふと遥か太古に自分が神を殺した時のことを思った。そのときは全く逆の状況だった。その時、神にとどめを刺す時、一体自分は何を感じたのだろうか。良く思い出せない。

「問いたい、天使よ」

 静寂の中、低く透き通った声で神は言った。

 阿具は思わず神の方を向き目を見開いた。

 未だかつて阿具は如何なる状態のときでも、神が言葉を話すのを聞いたことがなかった。

「驚く必要はない。お前に出来て私に出来ないはずはない。お前は私が作ったのだから」

「…なるほどな、だがそれなら何を聞くっていうんだ」

「答えだ。私は、或いは我々は、ずっと答えを求め続けてきた。同じように殺戮は続き、人類はまた育ち、そして消滅する。私は何故我々が人を殺すかさえ知らん。それはおそらくただそう作られたというだけのことなのだろう。人が肉を食らい、子を作るように我々は人類が消滅するまで殺し続ける。それだけのことだ」

 神の声は淡々として、まったく抑揚が無かった。

 阿具は黙って、その言葉を聞いていた。

「だがお前だけがこの永きに渡る時間の中で、一時的にでも繰り返しを終わらせた」

「俺はお前と何も変わらない。強い者を殺したいという仕組みに従い続けただけだ。そしてそれが、最終的にお前になった」

「では私を殺した後、そこには何が有ったのだ」

 阿具は目を閉じた。そして暗闇の中、神を殺した後自ら機能を停め眠りについたことを思い出した。

「何も無かった。俺は次の戦いを待ち、眠った」

 それは本当に何から何まで、神がしてきたことと変わらなかった。そこには何の答えも無かったのだ。望みなど何も無かった。戦い終えて残ったのは、虚ろな想いだけだった。

 神はしばらく黙り、やがて右手に黒い槍を出現させた。

「残念だ。やはり戦いのみが答えだということなのか」

 言葉と共に、神は槍を阿具の体の中心に突き刺した。同時に阿具は体内の微少機械が神に同化されていくのを感じた。恐らく微少機械は神に飲み込まれ、また新たな天使として生まれ戦い続けるのだろう。阿具は抵抗さえしなかった。それは今までと何も変わることがないということだった。

 そのとき、強く風が吹いた。阿具は吹き上げられた砂に目を細めた。そして目を開いたとき、自分の肩に飛ばされてきたのか小さな布きれがひっかかっているのを見つけた。阿具はそれを見て、目を丸くした。そして笑い出した。

「何を笑っている」

「いや、思い出したぜ。俺には答えがあった」

 布きれにはヘルメットを被ったトラ猫が銃を構えている絵が描かれている。

 それは4号機の作った阿具小隊の隊章だった。

 阿具は、自分が何故刺された時止まったのか理解した。

 あのまま槍を幾つも投げ落とされていたら、特機たちに被害が及ぶ所だったのだ。だから自分は反射的に止まったのだった。それを理解するのと同時に、暖かい気持ちで胸が満たされた。

 自分には守るべきものがあった。自分は戦いたかった訳ではない。ただ、彼女らを守らなければならなかった。そのために人間の体を捨てて天使に戻ったのだ。衝動にかき消されても、体はそれを覚えていたらしい。阿具はそれが嬉しくて、声を立てて笑った。

「好きな奴らを守りたい。好きな奴らと一緒に居たい。そんだけだったんだ」

 自分の愛しい妹たち。由梨、リッチマン、突撃隊のみんな。みんなとずっと一緒に居たかった。それが自分に初めて芽生えた戦う理由だった。それこそが神を殺し繰り返しを終わらせようとした答えだったのだ。前の時は、繰り返しを終わらせようなどと思った訳ではない。ただ、戦いを求めていただけだ。

「つまり答えってのはよ。人類には生かしてやりたくなる奴も居るってことだ。生きたいって奴は生かしてやっても良いってこったよ。殺す必要なんてない」

「だが、お前は負けた。それはその答えが否定されたということだ」

「違うね」

 再び阿具は笑みを浮かべた。

「俺とお前は同じものだ。そして俺は全ての核と同じものだ。俺の決定はお前の決定でもある。だからこそ俺に聞いたんだろう? 俺たちは死ぬべきなんだ。人類は生きていたって良い。それが結論なんだ」

 そもそもこれは敗北でさえない、と阿具は思った。

 敗北とは、目標を達成できないことだ。そして虫たちにとっての目標はいつでも、敵の破壊と自己の生存だった。だが阿具にとってはもはや違う。仲間達を救うことが出来れば、それは阿具にとっての勝利だった。

 体はどんどんと神に同化されていく。しかし阿具のやることはたった一つだった。

 阿具は微少機械に短く命令を書き込んだ。

 効率的に全ての核を破壊し同様の命令を他の微少機械に伝え、自壊せよ。

 それは単純なことだった。阿具はただそう決めさえすれば良かった。阿具でなくても、どの天使でも、虫でも、神と同化しているときに群れ全体が死ぬべきだと決めれば同様の結果が引き起こされる筈だった。ただ戦いだけしか知らない自分たちがそんなことを思うことなど無かっただけだ。

 微少機械は全てが同様の規格で作られている。神などといっても結局は集積率が違うだけなのだ。自分と神を見分ける方法はない。自分はあと数秒後には消滅しているだろう。だがそれでも阿具には悔いは無かった。神にもそれを食い止める手だてはない。

 良かった。忘れなくて良かった。俺は、既に全てを手に入れていたのだ。もう何も望むものは無い。仲間達が笑う明日があれば、それでもう何も要りはしない。

 最後の瞬間、阿具はやはり笑っていた。

 そして阿具が神の体内に消えた後、急速に崩壊が始まった。

 自己保存本能を持った核は、反射的に周囲の微少機械によって己を守ろうとした。だがその微少機械自体が次々に核を破壊する命令に上書きされていく。高密度にまとまっていた神の体は逃げようとする核の移動によって、肥大化し、次に表面が無数の槍のように地面に突き刺さり、動きを止められた所で崩れていく。

 だがそれでも神はまだ上半身を保ち、一瞬前まで阿具が居た場所を見つめていた。

「それが答えか」

 何の感慨もなく神はただ呟いた。

 密度の低下により、神の個体としての意識は無くなり始めていた。

「生きたいものは生きさせればよいか。受け入れよう。私は生きたくなかった」

 最後の呟きは、膨張していく体の中でかき消された。

 そして神はまた元の塊に立ち戻り、意識を失った。

 後には、破壊衝動と自己保存のために周囲を破壊しながら自壊していく巨大な塊がどんどんとふくらみ続けていた。


 頬に衝撃を感じて、目を開いた1号機に更なるビンタが頬を打った。

「ぶあっ」

「うぁ、わりぃ!」

 殴った4号機が慌てる。1号機は頬をさすったまま、起きあがった。

 眠り足りない朝のように脳みそが鈍って、手足がおぼつかない。1号機は数度首を振って、自分を起こした4号機とその隣に居る2号機をみた。その後ろでは3号機が座ったまま眠そうな瞳をしている5号機を一所懸命起こそうとしている。

 覚醒は穴だらけで赤く染まった自分の軍服を見た時、急に訪れた。

「みんな生きてたんだね!」

 驚きから声が思わず裏返った。

 4号機がにっと笑う。2号機はこくりと頷いた。やっと起きた5号機は大きく伸びをしている。3号機は5号機のはだけた軍服のボタンを留めていた。

「でも、どうして」

「話は後にした方が良いみたい」

 1号機を遮って、2号機は言った。そして自分の背後を親指で指した。

 そこは数え切れない程の機械虫と天使の残骸に埋もれた山に作られた横穴だった。1号機は這って2号機の横を抜けた。さっきから何か大きな音が絶えず鳴り響いていた。1号機は最初それを砲の着弾音か何かと思った。だが、外に近付くにつれ違うと気付いた。音は遥かに巨大な質量のものが立てている。

 穴から顔を出した1号機は、同時にその音を立てているものが何かを知った。

 空を巨大な黒い塊が伸びて行く。塊は何かから逃げるようにひたすら伸びて、そして最後には地面に墜落して突き刺さった。太い塊からは、更に細い枝が何本も分かれて同様に逃げるように伸びて地面へと突き刺さっていく。それはまるで自分の重みに耐えられない木が、爆発的に成長していくのを見ているようだった。

 一瞬、1号機は言葉を失っていた。一体何が起こっているのか考えようとした。だがすぐにすべきはそんなことではないと分かった。枝はどんどんと範囲を伸ばしてこちらへも近付いてきている。

 振り向いて横穴の中を覗くと、仲間達は既に準備を完了しているらしく頷いた。1号機も頷き返す。作戦もなにも、することは一つしかなかった。

「逃げるよ!」

 1号機は叫ぶが速いか、穴から飛び出た。

 続いて仲間達が飛び出してきて、それから全員で一斉に走り出した。

 傷が深かったせいか、もう誰も空を飛ぶことは出来ないようだった。だから1号機達は、ひたすら全力で走り続けた。背後からは塊の枝が地面に突き刺さる音が迫ってくる。微少機械が酸素交換を補助してくれないせいか、全力ではすぐに息が苦しくなり足も痛んだ。それでも止まれなかった。

 1号機達は幾つも続く機械虫の残骸を乗り越え、時にはよろけながら走った。

 そしてひときわ近く、殆どすぐ背後に枝が突き刺さる音が聞こえた。次の瞬間には、目の前に巨大な枝が突き刺さり行く手を塞いだ。続いて、迂回路を探す間も無く目の前の枝から細かな枝が弾けるように無数に伸びた。

 全員が慌ててそれを避けた。背中にユニを担いでいる5号機だけは反応が遅れ、1号機が咄嗟に飛びついて引き倒した。体をかすめて幾つもの枝が地面に突き刺さっていく。1号機は生きた心地がしなかった。だが枝はなんとか1号機に刺さることなく収まった。

「立てる?」

 聞くと5号機は目に涙を一杯に溜めながらも、口を結んで頷いた。

 立ち上がって辺りを見回すと、幾つかの枝を挟んで道の反対側に2号機達が立っているのが見えた。既に枝はそこかしこで分裂して地面を砕いている。砂埃が巻き上がり視界も利かなくなり始めていた。

 空を見上げると更に巨大な枝がいくつもこちらへ向かってくるのが見えた。

 逃げ切れない。思わず1号機は5号機を抱きしめて、目を閉じた。

 体に何かがぶつかったような衝撃を感じて、1号機は悲鳴を上げそうになった。

 だが、体に突き刺さるような感じはなかった。それどころか全身に強く風を感じた。

「岩神少尉!」

 目を開くと同時に、思わず1号機は声を上げた。

 思いも掛けなかった顔が、すぐ傍にあった。岩神は装甲に身を包み、1号機と5号機を小脇に抱えてブースターで空を飛んでいた。

「いつまでも敵が来やしないもんだから、こっちから来たよ」

 岩神はそう言って微笑んで見せた。

 振り向くと背後からはまだ枝が周囲を破壊しながらこちらに向かってくる。だが岩神の上昇していく速度の方が早かった。枝は失速して地面へと落ちていった。やがて砂埃を抜けた所で、離れた所を並走して飛ぶ装甲兵を見つけた。香坂軍曹だろう。1号機はその巨体に見覚えが有った。

 香坂は両脇に3号機と4号機を抱え、背中に2号機を乗せていた。2号機は1号機達に気付くと、何故か楽しそうに笑って手を振った。5号機が元気に手を振り返している。

 気付けば1号機達は平坦になってしまった首都を見渡せるくらいに高く飛んでいた。1号機は突撃隊が遠くで寄り集まってみんなで手を振っているのが見えた。数はかなり減ったが、それでも元気そうだ。そこから離れた所に、突撃隊の方へと歩いていく人影も見えた。それは恐らく由梨なのではないかと1号機は思った。

 良かった、みんな無事だったのだ。そう思うと1号機は安堵から、思わず泣きそうになった。だが慌てて涙を拭って、再びあの塊の方へと向き直った。まだ敵は生きている。1号機はそう思っていた。

 しかし、上から見ると、どうやらそれが間違いだと気付いた。

 周辺部では、まだめちゃくちゃに枝が伸びている。だが全体で見れば塊の動きは急速に弱まっていた。中央部にはひときわ太く高い枝が天に向かって付き立ったまま静止している。それは塔のようだった。

「終わったの…?」

「どうやらな」

 静かに岩神が答えた。

 そのとき一番巨大な塔が音を立てて縦にひび割れた。ひびは急速に周りの塔にも波及し、同時に真っ黒だった色は灰色に変わった。それからすぐに塔は砕け散った。細かな金属片が地表を満たし、崩壊は枝が伸びる速度より早く塊全体を覆い始めていた。

 勝ったのだ。1号機はそれを理解した。塊は死を迎えた。

 1号機は、きっと勝った後には嬉しいものだと思っていた。それなのにそのとき1号機が感じたのは、漠然とした不安だけだった。どこかに置き去りにされてしまったような、そんな感覚だった。

「これから、どうなるの」

 思わず1号機は呟いた。

 答えはなく、吹きすさぶ風の中をどこまでも1号機達は飛んでいった。その時、1号機は何か光り輝くものが塊の有った中心から、空へ向けて飛んでいったように見えた。まるで死んだ人の魂が空へと帰って行ったようだった。しかしそれはあまりにも一瞬で、1号機はきっとそれは光の反射か何かだろうと思った。

「やっと全部が始まるんだよ」

 唐突に岩神が言った。

 1号機は驚いたが、聞き返さなかった。

 傍らでは5号機が剛胆にもすやすやと居眠りを始めていて、1号機は笑った。

 きっと岩神の言うとおりなのだろう。1号機はそう思った。

 足元には瓦礫と鉄の残骸以外の何ものも無く、辺りにはどこまでも広がっているような深い青空だけが広がっていた。1号機は目を閉じた。そして最初に浮かんできた阿具の顔に、勝ちましたよと告げて、少しだけ泣いた。


 * * *


 その日、戦争は終わった。

 何故終わったのか、それを知るものは居なかった。

 複数の兵士が、巨大な塊を目撃したこととその周りで戦う光に包まれた天使のことを証言した。そして敵の主力と正面から戦う部隊のことを証言した。

 だが、後に到着した調査団はいかなる痕跡も発見することは出来なかった。主力と戦った部隊についても、調査団はいくつかの辺境で死んだはずの死体と、辺境部隊の所有する車両の残骸を見つけただけで、残りは忽然と姿を消していた。

 多くの兵士を生還させた伊崎は、最大功労賞に選出されたがそれを固辞した。あまりに部下を殺しすぎた。そう言って、伊崎は引退してその後軍とは一切関わりを持たなかった。

 同じく功労賞を辞退した岩神は、英雄にされても迷惑だと言って同じく退役した。

 岩神を救出したということで香坂も功労賞に選出され、香坂はありがたく報奨金と勲章を受け取り、子供の養育費にします、と平凡すぎるスピーチを残した。

 それから多くの死者に勲章が授与され、メディアは英雄達を讃える記事を連日載せた。

 戦後に混乱はほとんど無かった。ただ人員の減少により編成を余儀なくされたことにより、いくつかの物資の横領が有ったのみに過ぎず、そのほとんどはすぐさま白日の下にさらされ、勲章を受け取った人間が数日後に軍法会議にかけられるようなことが幾つかあった。

 ただ、建造されたばかりの最新鋭戦艦一隻だけは見つからなかった。それはまだ制御AIを搭載する前で、飛ぶことは出来ないはずだった。それなのに、それこそ羽が生えて飛んでいってしまったかのように戦艦がなくなってしまった。

 やがて数ヶ月もすると、メディアが軍のことを取り上げることもなくなり、人々が唐突に訪れた勝利のことを疑問に思うこともなくなった。

 そうして平和が訪れ、滅亡の繰り返しは人類に知られることなく終わりを告げた。

 五人の少女が居たことは、僅かな人々の記憶に残ったがそれはそれきり思い起こされることもなかった。

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