第四夜 灯籠堂
重い目蓋を開けると、かすむ視界には見知らぬ部屋が広がっていた。
夢うつつのまま体を起こすと、やや硬めのソファの感触を手に感じた。
目の前には背の低いテーブルがあり、そのテーブルを挟んで向かい側には、もうひとつソファが置かれている。壁際には本棚が並び、分厚い紙の資料が幾つも納められ、その隣にある棚には大量の書籍が並べられている。どうやら、ここは何処かの事務所らしい。
蓮司の耳には、少女が鼻歌を歌う音も聞こえてきた。
ついでに、ガスコンロで火が燃える音とヤカンの湯が沸騰する音も。
音の方に顔を向けると、台所の前にひとりの少女が立っていることに気付いた。
黒いセーラー服を着た肩ほどまで黒髪を伸ばした少女で、手足が長く、後ろ姿だけでもスタイルが良いことを感じさせた。すでに夏休みにも関わらず制服を着ているということは、学校の部活にでも行く前なのだろうか。
不意に、後頭部に鈍い痛みを感じた。触れてみると、頭の後ろに少し腫れている部分があることがわかった。それだけでなく、体のそこかしこが妙に痛む。
そこまで考えたところで、蓮司は昨夜、自分が追われていたことを思い出した。
慌てて起き上がろうするが、バランスを崩し、ソファから転げ落ちた拍子にローテーブルの端に頭をぶつけた。あまりの痛みに側頭部を手で抑えたまま悶えてしまう。
蓮司が起きたことに気づき、黒髪の少女が振り返った。
「あ、起きたんです……って大丈夫ですか? 側頭部を抱えて。悪いんですか、頭が?」
言葉の順序のせいで、なにか馬鹿にされているようにも聞こえたが、恐らく、そういう意図はない。ないのだろう。蓮司は「大丈夫」と返事をし、ソファに腰掛けた。
「でも丁度良かった。もう少しで珈琲できますから、待っててくださいね」
少女はガスコンロの火を止めると、ヤカンの湯を器に載せた珈琲フィルターに注いだ。
「ここは、何処なんだ」
「灯籠堂。神楽坂に事務所を置く修祓社です。世間で言う所の祓い屋みたいなものですね」
祓い屋という胡散臭い単語と、少女の妙にかしこまった口調に眉を潜めていると、少女が珈琲を手渡してきた。
「わたしは紫堂誘。貴方は、成瀬蓮司君ですよね。失礼ですけど、荷物の中身から調べさせて
もらいました。こちらも身分のわからない方をおいそれと泊めるわけにはいかないので」
泊めてもらった立場だ。特に不満はない。蓮司は気にせず、彼女からもらった珈琲を口にした。熱い珈琲が舌に触れた瞬間、思わず含んだものを吹き出しそうになった。
まだ珈琲を飲みなれていない歳とはいえ、それでも過去に呑んだものと比べれば暴力的すぎる苦さだ。口のなかもジャリジャリするし、まともにフィルターを扱えているかも疑わしい。荷物を探られたことよりも、この珈琲を飲まされたことに不満を言いたくなった。
「やっぱり苦いですか? 一条さんにもよく言われるんですよねー。お前の珈琲は苦すぎる。もっと豆に愛情を注いだらどうだって。練習はしているんですが、正直、意味がわかりません。豆に愛情を注ぐってどうすれば良いんでしょう。撫でたりとかすれば良いんでしょうかね」
「あんた、俺を練習台にしたのかよ」
「まぁまぁ、苦いのなら牛乳をどうぞ。少しはマシになりますよ」
誘は台所の側の小型の冷蔵庫から牛乳を取り出し、蓮司に渡した。相変わらず口のなかはジャリジャリするが、最初に比べればマシな味になった。
誘の方も台所に寄りかかり、あの珈琲を薄めもせずに平気な顔で飲み始めた。
改めてみると、紫堂誘はとても綺麗な女の子だった。歳は十代後半といったところで、可愛さよりも美しいと感じさせる顔立ちをしている。こうして珈琲を飲む横顔はとても絵になり、これで窓辺にでも座らせれば、深窓の令嬢と言われても疑わないだろう。
話したときは可愛らしい印象を受けたが、それは彼女の話し方と表情がそう感じさせたのかもしれない。そのお陰で、美人特有の気後れをあまり感じさせなかった。
「昨日はすいませんでした。一条さんが無茶したせいで。後頭部、大丈夫ですか?」
「一条さんって、昨日、俺を助けてくれた人か? あの人は……」
つい言い淀む。昨夜の化け物とそれを退治した男は、常識の外にあるものだったからだ。
「この灯籠堂の社長です。手が少ないので、本人もバリバリ働いてますが。あ、昨日の怪異についてはご安心を。この事務所にいる限り、襲われることはまずないですから」
「怪異?」
また聞き慣れない単語だ。そう思ったとき、事務所の入り口が開かれた。
来訪者は、昨夜、蓮司を助けてくれた男だった。
昨夜は暗くて良く見えなかったが、社長というにはまだ若く、二十代の半ば程度の年頃だ。
赤茶色の髪をした男で、端正な顔立ちをしていたが、何処か粗野な印象も感じさせた。
無地のシャツの上から薄手のジャケットを羽織り、下にはジーンズを穿いたシンプルな恰好だ。首には銀のネックレスをつけ、片耳にはピアスをしている。右手首には緋色の数珠をつけており、それが妙に印象に残った。
社長というより、これから街に遊びに出かけに行く兄ちゃんのような恰好だ。
本当に働く気があるのかと疑問を感じたが、祓い屋という仕事は、見た目にはあまり拘らないのかもしれないと思い直した。
男は両手にビニール袋を持っており、「戻ったぞ」と誘に言うと、その中身を彼女に手渡した。一リットルの烏龍茶にティッシュ箱、それを受け取った誘は冷蔵庫、ローテーブルとそれぞれの場所に品を置いていく。最後に、近場の和菓子屋で買ったであろうどら焼きの箱を男性が開封し、ローテーブルに置くことで袋の中身はなくなった。
「弧塚のどら焼き! やたーっ! 一条さん買ってきてくれたんですね」
「一人で食うなよ。成瀬君も食べていいぞ。昨日は悪かったな。助けるつもりが、逆に怪我させちまった。俺は……」
「祭塚さん、ですよね。聞きました。あの、昨日のアレは、なんだったんですか?」
「なんだ誘、その辺りのこと話してないのか」
誘はどら焼きで頬を膨らませながら、コクコクと頷いた。どうやら口のなかに物を入れている間は、喋らないよう教育されているらしい。
「そうか。なら簡単な説明だけしとくか」
一条はどら焼きの袋をひとつ手に取ると、事務所の窓側のデスクまで行き、それを置く。どら焼きではなく、元々あった紙袋から金平糖をひと摘みすると続きを話した。
「昨日のアレは、総称として祓い屋たちの間では怪異って呼ばれているもんだ」
「……怪異」
「あの手の実体を持つ奴は珍しいけどな。たいていは眼に視えない所で、はた迷惑な現象を起こしてる。弱いもんだと特定の場所で暮らす人間の生きる気力を奪ったりとか、他には都市伝説の一部なんかもその一端だな。連中は人間の意識を元に形を造り上げるから、その手の噂話とは相性が良いんだ」
取り敢えずは、昔の妖怪の今風の言い方というところだろうか。そう考えれば、昨日出逢ったあの鼠の化け物は、比較的わかりやすい部類なのかもしれない。
「祭塚さんは、祓い屋、なんですよね。なら……」
「そ。あの手の不思議に対処するのを生業にしている。ここまで話せば察しはつくだろうが、俺がここに君を泊めたのは、なにも慈善事業のためじゃあない。営業のためだ。君が、なんであんなものに追われていたのか知りたい。教えてくれるか?」
目の前で話をしてようやく気付いた。親しげな語り口で表情も柔らかいものだったが、こちらを視る一条の眼差しはとても鋭いものだった。正直に話さなければ、力づくでも喋らされてしまうのではと思えてしまうような。
考えなくとも、自身を祓い屋と名乗る彼らは怪しい。昨夜助けられたという事実があっても、まだ詐欺師の類いなのではと疑っている自分が蓮司のなかにはあった。しかし、今は彼ら以外に助けを求められる相手がいない。
周囲にいる人間が、少しずつ存在しない過去に浸食されるなかで、唯一、自分だけが以前と変わらぬ自分でいた。他者と認識が違うことで、自分はほんとうに頭がおかしいのではと思ってしまうこともあった。だから怪異という存在、そしてその存在を知るものがいるという事実は、蓮司にとってはむしろ希望ですらあったのだ。
蓮司は居住まいを正し、藁をも掴む思いで経緯を話し始めた。
「昨日の怪異から追われた理由はわかりません。けど、その原因と思える奴には心当たりがあります」
「それはどんな奴だ」
「妹です」
「妹さんが、どこかおかしいんですか?」
「違う。妹がいること自体おかしいんだ。俺に妹なんていない。いや、妹になる筈だった子はいた。けど、その子は
生まれる前に死んでるんだ。母さんの胎のなかで」
蓮司の家族は、三つ年上の兄と中小企業で働く父、そして中学校の教師をしている母の四人家族だ。兄の成瀬啓が二十歳なので、もしも妹の彩がここに加わっていれば、二十年分も歳の離れた兄妹になっていた。ほとんど親と子ほどもある歳の差だが、男系の家族に女児が生まれることを家族の誰もが喜んだ。特に娘を欲しがっていた母の佳世の喜びようは大きく、お胎の膨らみが少しずつ大きくなるごとに、娘が生まれる期待が大きくなっていった。
だが成瀬家初の女の子は、生まれることなく、その命を散らした。
母が階段を踏み外し、お胎をぶつけた衝撃で、あっけなく流産してしまったのだ。
その事故には、兄である啓も関わっていた。
啓は一階から二階へ上がる際、お茶を入れたコップを二階の自室へ持って行こうとした。その際、誤ってコップを落としてしまい、階段を水浸しにしてしまったのだ。啓はコップの破片を拾い、母がその手伝いとして濡れた階段を雑巾で拭いたのだが、その滑りやすくなった階段が原因で事故が起きた。
そこから先は酷かった。教師というストレスの多い仕事もあってか、母は心を病み、休職することになった。啓が事故の一端を担っていたこともあり、家では啓に八つ当たりをし、啓も罪悪感から母の不当な責めに反抗せず、成瀬家は少しずつ荒んでいった。
あの事故が起きず、妹が生まれていればと思わずにはいられなかった。
「その妹が蘇った。いまから一週間前のことだ。朝起きて、自室からリビングに降りたら、母さんが知らない赤ん坊を抱いてた。その赤児はどうしたんだって聞いたら、変なものでも見るような眼で言われたよ。なに馬鹿なこと言ってんの。あんたの妹でしょって。正直意味がわからなかった。彩は生まれることが出来なかったのに、皆そのことを忘れてるんだ」
なにより気味が悪いのは、その赤児が居着いてから驚くほど家庭が平和になったことだ。
蓮司以外の人間にとって、あの半年間はなかったものになってしまっている。幼い赤児と過
ごした幸福な記憶にすり替わっているのだ。もしも生まれていればとあれほど望んだのに、いざそれが叶うと、その状況が不気味で仕方なかった。
「けど俺が家を出たのは、あの赤児が理由じゃない。兄貴に、死相が視え始めたからだ」
「死相? 君には人の死相が視えるのか」一条が興味深げに尋ねた。
蓮司は迷った。このことは家族でも兄以外知らない。いや、信じてもらえなかったというほうが正しい。小さな頃から視えたから子供の悪ふざけだと思われたのだ。
だが目の前にいるのは、わけのわからないものに対処する専門家だ。話すべきだ。
「俺には過去と未来が視えるんです。過去の方は時々視界にあるものがイメージとsて視えて、未来の方はかなり限定的で、これから死ぬ人間の死相だけが視える感じです」
「へぇ。どちらか片方ならよく見るけど、両方視えるのか。珍しいな」
少し拍子抜けした。彼にとって、自分のような眼を持つものは、珍しいものでもないらしい。
「で、その眼でお兄さんの死相を視たと。どんな風に視えるんだ。それと死相が視えてから相手が死ぬまでの期間は?」
「死相は傷痕や痣、血痕なんかが相手の体に重なっているような感じです。死相の形は全員バラバラ。実際の死因とも関係ない。だけど死相が視えた人間は、二週間以内に必ず死んでいる」
「二週間以内、か。それで、君のお兄さんに死相が視えてから何日経った」
「一週間です。ちょうど、あの赤児が来た日に視えるようになった。何か希望とか、兄貴が助かる心当たりがあって出たわけじゃないんです。ただ、あのまま家にいたら駄目だと思った。皆記憶がすり替わって、俺だけが本当の過去を憶えてる。けどその記憶も少しずつ薄れていって、あり得ない筈の思い出が頭に浮かぶようになった。どうすれば元通りになるかなんて関係ない。とにかく出なきゃって、本能的に思ったんだ」
不幸な記憶が幸せな記憶に置き換えられる不気味な感覚。荒んだ家庭になってしまったけれど、一週間前までの過去は確かにいまの自分を形成するものだった。それが端から塗り潰されるのは、いまの自分が書き換えられていくようで怖かった。
「祭塚さん、あの手のわけのわからないものを退治する専門家なんですよね。お願いします。俺の家族を助けてもらえませんか。もう俺じゃどうすることも出来ないんです」
膝においた手を握りしめ、蓮司は頭を下げた。
一条はおもむろに席を立つと、デスクへと向かい、そこに置かれた資料を手に取った。
「あまり期待せずに聞いてみたが、予想よりもずっと面倒そうだな、君の事情は。紫堂家の問題に岸本杏の件、昨日の怪異に成瀬家の存在しない筈の赤児。この夏は忙しくなりそうだな」
「なら受けてもらえるんですか、依頼」
「もちろん。いつもなら前金を貰うところだが、君はまだ学生だし、いまの状況じゃそんな金用意出来ないだろうから、問題を解決したあと、ご両親に請求させてもらうってことで良いか?」
蓮司は頷いた。親の許可もとらずに契約をして良いのかとも思ったが、他に手段はない。
「じゃあこれ契約書。今すぐでなくて良いから書いといてくれ。あとはこれからどうするかについてだが……俺は正樹のとこ行かないとだしな」
「え、これだけ話を進めておいて行かないんですか」
誘がツッコミ、蓮司は異議を申そうと契約書から顔をあげた。
そのとき事務所の入り口が開けられると同時に、屈託のない少年の声が響いた。
「おはようございまーす! 一条さん、殺人現場に出くわしたんだって! そんなミステリー溢れるところになんでぼくを誘ってくれなかったのさ……って、その人どなた、依頼人? 」
「お、いい所に来たな。紹介するよ。こいつは六倉綾人、ここでアルバイトをしている。綾人、彼は成瀬蓮司君。今度の依頼人だ」
「へぇ珍しいね。このくらいの年齢の人が依頼なんて。よろしくね、蓮司君」
子供のように邪気のない笑顔で綾人と呼ばれた少年は言った。
いきなり名前の方で呼ばれたので、蓮司は少しだけ驚いた。
綾人は男の蓮司でも、美少年と断言できる顔立ちをしていた。もしも彼が笑顔を向ける相手が年頃の女性なら、その笑顔に一撃で撃墜されていることだろう。睫毛が長く、どちらかといえば中性的で綺麗な顔立ちをしており、髪の手入れにはあまり拘らないのか、首もとまで伸ばした髪は、所々が寝癖で跳ねていた。
「それで何が丁度良いの、一条さん」
「俺はこれから和泉と合流して、正樹に会わきゃならないんだ。誘と一緒に、成瀬君の家の調査に行ってくれるか」
「え、わたし? わたしが綾人君の面倒みなくちゃいけないんですか!」
「ちょっと誘ちゃん、その言い方だとまるでぼくが面倒な奴みたいじゃないか」
「面倒だから言ってるんです。えーわたしが和泉ちゃんの所じゃ駄目ですか?」
「俺の分のどら焼き、お前にやっても良いけど」
「やります! 是非やらせてください!」
「誘ちゃんチョロい。チョロいなー」
蓮司は本当に彼らに任せて良いのか不安を感じながら、彼らのやり取りが終わるのを待った。
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