第十六夜 怪物
目蓋を開くと、目の前には空を泳ぐ何匹もの魚が見えた。
いや、空ではない。魚はちゃんと水のなかを泳いでいる。
水底から頭上の魚を見上げていたせいで、空を泳いでいると勘違いしたのだ。
不思議な感覚だった。水の底にいる筈なのに、水の冷たさも、息苦しさも蓮司は感じない。どうやら水のなかに巨大な空気の層があり、蓮司はそのなかにいるようだった。
薄暗い水底は、外界の陽光が蓮の葉の隙間を通り抜けることで照らされている。この空間は少し肌寒いが、その光のお陰で丁度良い気温を保っていた。真夏だというのに陽の暖かさが心地よい。このままもう一度、目蓋を閉じてしまいたくなるほどに。
だが、その欲求を遮るひとつの影があった。
頭上の巨大な水槽に、魚ではないものの影が写ったのだ。
人の形、骸骨のようなものが水のなかを移動していく。それが幾つも頭の上にあるのだ。
あまりの光景に完全に目が覚め、蓮司は思わず起き上がった。体の感覚で、これが夢ではないのだとすぐに認識した。また、なにかの怪異に巻き込まれているのだ。
「なんだ……ここ……」
蓮司は慌てて、周囲に視線を巡らした。どうやら木造の建物のなかにいるようだった。
座敷に似た室内で、床に壁、柱まですべてが木で出来ている。天井だけがなぜかなく、代わりに頭上には、どこまでも広がる巨大な水があった。扉も襖もない部屋だったが、自由に出入りが出来るらしく、部屋から部屋へと続いている。この部屋自体それなりに広いこともあり、建物全体は思っている以上に巨大な気がする。
この数日で、幾つもの不思議にでくわしたが、これが一番の異常だった。なにをどうすれば、ひとつの建築物を水底に沈め、人間が生きられる環境に出来るのか。
ともかく、脱出しなければならない。
そう思ったところで、蓮司は別の部屋から人の声がするのを聞いた。
その声には聞き覚えがある。父と母の声だ。
蓮司は慌てて声の方へと向かった。幾つか部屋を通り過ぎ、天井のある部屋とない部屋があることがわかった。三つほど部屋を過ぎると、声の場所に辿り着く。先程の部屋と違い、縁側のある部屋でそこからは建物の外が見える。この建物は水辺に囲まれているらしく、柵の向こうでは数え切れないほどの彼岸花が咲いていた。
その縁側に、父と母が立っていた。父がこちらを振り向いた。
「蓮司、ようやく起きたのか。疲れて寝るのは良いが、あんまり長く寝てるともったいないぞ。せっかく旅行に来たんだから」
父の言葉に、呆気に取られた。
「なに言ってんだ、父さん。ここがどんな場所かわからないのか。早く逃げないと」
「逃げるって、なにから?」
母が振り返った。その手に抱かれているものを見て、蓮司は怯んだ。
彼女の両腕のなかには、あの赤児がいたからだ。
「蓮司ったら昔みたいに変なことを言って。大人をからかう癖がぶり返したの?」
違う。いまも昔もからかってなんていなかった。昔は過去を、現在はいま視ているものを話しているのに、母も父も理解してくれない。
かつては自分が異常だったが、いまはこの二人が異常だ。
「彩を連れての旅行は初めてなんだから、楽しみましょう。ほら、いい景色でしょ」
そう言って、母は縁側の外へと顔を向けた。
外には無数の彼岸花が咲いている。確かにこの世のものとは思えない。まるであの世だ。綺麗と言えば綺麗だろう。だが自分たちがいる場所は、こんな所ではない。母が抱く赤児も、彩ではない。あの子は生まれることなく死んだのだ。
それを伝えようとするが、それより先に、背後から兄の声が届いた。
「蓮司、起きたのか」
啓の声に振り返る。あとから入ったのか、部屋の出入り口に啓はいた。
無事だったのかという安堵とともに彼まで二人のようになってしまったのかと張り詰める。だが直感的に違うと感じた。二人と違い、啓は表情に色濃い疲労を宿していた。
「……兄貴は、兄貴のままだよな」
「正直、ここにいると頭がおかしくなったんじゃないかって思えるけどな」
啓の言葉に、蓮司はほっとした。正気なのは、自分だけではないのだ。
だが安堵の直後、いきなり過去視の眼が機能した。啓の過去が脳裏に叩き付けられる。
暗い路地のイメージが浮かぶ。人のいない路地で、啓は腹部を血塗れにして倒れていた。兄の周囲には、あの怪異がいる。鼠の姿ではなく、刃の形になった筋繊維が、元のミミズ擬きに解けていく瞬間だった。
そのイメージはすぐに消える。だが、予想のしない過去視の気持ちの悪さにふらついてしまう。そして兄の腹部には、先程過去視で見た傷痕のイメージが重なって見えた。
そうだ。啓はもう死んでいるのだ。いま目の前にいる兄は、屍鬼という、怪異による死を隠すための存在に過ぎないのだ。
「迷惑な話よね」
あの赤児が喋り出した。その途端、父と母からは表情が消えた。まるで人形のように。
蓮司は緊張に身を堅くする。緑が死んだとき、赤児はあの怪異で自らの姿を象った。
あの怪異を操っていた。啓を殺したのは、こいつなのだ。
「あの呪術師がいなければ、啓兄さんも余計なものは見なくて済んだのに。けど、なにより面倒なのは、蓮兄さんよ。その眼があるから、いつまでも自分のままでいる」
怒りがこみ上げ、蓮司は叫んだ。
「俺も、啓も、お前の兄なんかじゃない!」
啓が敵意を込めて赤児に言った。
「答えろ。お前は何だ。お前が本当の彩を殺して、成り代わったのか!」
赤児はつまらなそうな顔で鼻を鳴らした。
「記憶を書き換えると、そういった過程も消えて面倒ね。いいわ。思い出させてあげる」
赤児がそう言った途端、啓は膝をついた。呻き声をあげながら彼は頭を抱えた。蓮司は兄の側へと駆け寄った。
「兄貴、大丈夫か。お前、兄貴に何したんだよ!」
「いま言ったでしょ。記憶を戻してあげたの。一条だったかしら。あの呪術師が渡した護符のせいで、啓兄さんに手を出すのは難しいけど、元々かけていた術を解くくらいのことは出来る。どう? 思い出したかしら」
いつの間にか、啓は呻くのを止めていた。兄は信じられないという顔をしていた。
自分の体を見て、自分が死んだ原因になった部分に触れ、最後に、あの赤児を見た。
「あぁ、自分が死んだことも思い出したの。ごめんなさいね。本当は彩が死んだところだけ思い出させるつもりだったけど、あの呪術師の護符のせいで、いまはそういう細かい調整が……」
「ふざけんな! だったら、俺はいまなんで生きてんだ! 死んでなんかいない! どうやったかは知らないが、お前が見せた幻覚に……」
「うるさいわよ」
そのひと言で、啓は電池の切れた人形のように崩れ落ちた。前のめりに頭から倒れる。
床にぶつかる直前で、なんとか蓮司は啓が頭をぶつけるのを防いだ。
「……本当に面倒。記憶を戻したら戻したで叫び出すなんて。けど自分が実は死んでる、なんて、信じないのは当然か」
兄に呼びかけるが、返事がない。体を仰向けに横たわらせ、そこで気付いた。
啓は息をしていない。表情のない虚ろな瞳で、ほうけたように口を半開きにしている。
兄は死んでいた。前触れもなく、唐突に。
「なんだよこれ! どうなってんだよ!」
「電池を切ったのよ」くすくすと赤児が嗤う「啓兄さんは死んだわけじゃない。霊力の供給を小さくしただけ。また元の供給量にすれば、動けるようになるわ」
蓮司は赤児を睨みつけた。
「お前はいったい、なんなんだ」
赤児は赤い唇をにんまりと釣り上げた。
「屍鬼よ。怪異によって一度死に、蘇ったもの。ただ、曼荼羅で生まれた他の屍鬼たちと違って、私には自我がある」
「自我? 屍鬼に自我はないのか。そんな筈ない。だって兄貴も先輩も……」
「それは貴方の勘違い。そういう風に見えただけよ。あぁ、啓兄さんについては別だけどね。私も、彼も、特別に調整された屍鬼のうちのひとつなの。彼にも、私にも、自分の魂がある」
なら、自我の残るこの赤児は、他の屍鬼と違い、自ら死ぬようなことはしないということだろうか。そして自我があるからこそ、こうして自らの意志で行動をしている。
「目的は? お前が俺達の家に来た目的はなんだ」
「幸せになることよ」
あまりに平凡な、誰もが望む答えに蓮司は呆気に取られた。
「そのために、貴方たちの家族になりたいの」
赤児の釣り上げられた唇に、蓮司は悪寒を感じた。それを振り切るように言った。
「意味がわからない。なんで俺達の家族になることが、お前の幸せになるんだ」
「さっき話したわよね。私はそこで倒れる貴方の兄と同じで、怪異によって殺されたの。元は貴方達と同じ、人間なのよ」
自分たちが同じであることを強調する。同情を引くように。だが、すでに決定的に違ってしまっていることは、これまでの行動を見れば明らかだ。
「ねぇ、酷いとは思わない。私も、啓も、普通に生きていた。なのに、なんの前触れもなく、理不尽に命を奪われた。これがただの事故ならまだ許せたかもしれない。日常的に溢れた死なら、気をつけることで遭遇する確率も下がるもの。それで死んだのなら、運が悪かった、迂闊だったって、まだギリギリ自分を納得させることも出来た。けど、私たちを殺したのは怪異。呪術師たちと違って、私たちは怪異の存在なんて知らない。なんの対策もさせてもらえなかった。せめて存在することだけでも知っていたら、危険な場所は避けて歩くこともしたかもしれないのに。それなのに、呪術師たちは死んだ人たちの死体を、今度はその怪異を隠すために使っている。これ以上の無法があるかしら」
淡々と赤児は語り続けた。言葉から感情こそ読めないが、これはきっと本心なのだろう。彼女が人間だったときに、心底から思った言葉の筈だ。
「けど、私は運が良かった。才能があったの。ただの屍鬼にはならない特別が。だから、他のひとたちみたく、ただの人形にならずに済んだ。彼に見出せてもらえた」
「……彼?」この赤児以外に、黒幕がいるということだろうか。
「彼のお陰で、私はやり直すチャンスを貰えた。今度こそ、幸福になる機会が。けど……」
浮かれるように話していた赤児が、また理知的な態度に変わった。
「けど、最初からやり直すには、家族が必要でしょ? だから貴方達には、私を育てる家族になってもらいたいの」
「ふざけんな! これだけのことしておいて、そんなこと許されると思ってんのか!」
意味がわからなかった。どういう思考をしていれば、そんな答えに行き着くのか。
「許されるか許されないかなんて、どうでも良いわ。だって、貴方は受け入れるしかない」
その言葉が終わるとともに、啓が息を吹き返した。呼吸をしていなかった反動か、啓は激しく咳き込んだ。だが呼吸は戻っても意識までは目覚めない。啓の瞳は虚ろなままだ。
「啓兄さんは私と同じで、特別な屍鬼。自意識を持っている。けどだからと言って、そっくりそのまま同じというわけじゃない。いまこうして、啓兄さんが意識を失っているのは何でだと思う? さっきまで啓兄さんが普通に話せていたのは、誰のお陰だと思う?」
赤児の顔つきが笑みに歪む。赤ん坊がするとは思えないような酷薄な顔だった。
「むかつく? 腹が立つ? 憎らしい? けど大丈夫。家族になったら、嫌なことは全部忘れさせてあげる。私自身も、これまでの過去を忘れて、最初からやり直す。そしたらどう? 貴方も望んでいた家族が出来上がるわ。父がいて、母がいて、兄がいて、私という妹がいる。なにひとつ欠けていない。もう母さんが彩の死に嘆くことも、啓が死んだという事実を知ることもない。私の前の彩が生まれていたら出来ていた筈の幸福な家庭が形になるの。不都合なことさえ見なければ、人間は幸福になれるの。不幸に気付かなければ、私たちは不幸ではないのよ」
もう蓮司には、目の前の彩を名乗る赤児が、人の形をした怪物にしか見えなかった。
思考があまりに隔絶している。とても元は同じ人間とは思えないほどに。
だが、彼女を拒絶すれば兄は死ぬ。そんなものをどう拒めというのか。拒絶する理由があるとすれば、偽の彩への嫌悪感と自分が不都合なことを忘れてしまうという恐怖だけだった。彼女の言う通り、不都合なことを忘れれば楽になれる。だというのに、こんなにも忘れることを恐怖している自分がいる。
母が彩を抱きながら、部屋の出入り口へと移動する。彩は蓮司に視線を向けたまま言った。
「それに、わたしを受け入れてくれたら、貴方の大切なものをひとつ返してあげる」
母の背後から、誰か来るのがわかった。恐らく侍女役の屍鬼。着物を着たその女の両腕には、白い布を被せられた、人間くらいの大きさの物体が抱えられている。
その人物が近づくに連れて、動揺が激しくなる。
侍女が横に立つと、蓮司の母が物に被せられていた布をはぎ取った。
中身を見て、蓮司の呼吸は止まった。眼は侍女が抱えるそれに釘付けになった。
女が抱えていたのは、大橋緑の遺体だった。
車に轢かれたことによる傷は消えている。
だが青ざめた顔に生気はなく、彼女からは命を欠片も感じられなかった。
「私を受け入れたら、啓兄さんだけじゃなく、彼女も屍鬼として動かしてあげる」
赤児はまた、歪に口角を釣り上げた。
「ねぇ、どうする?」
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