第十五夜 曼荼羅

 銀のジッポに火が灯る。その火を煙草に移し、口に咥えたまま息を吸うと先端がジリジリと焦げ付くのがわかった。一条がため息を吐くように、口内で味わっていた煙を吐きだすと、煙はそよ風に吹かれて雲のようにかき消された。


 まだ陽も昇りかけの朝、ビルの屋上で煙草を吸いながら、一条は神楽坂の街へと視線を移す。


 曇り空のせいか、陽の光はまだ弱く、街の目覚めには少し遅い。


 いつもならこの時間帯でも人を見かけるのに、今朝はだいぶその数が減っている。


 気分を変えようと憩いの場に来たのに、まったく効果を為していないのが口惜しい。


 昨夜、夜通し千駄ヶ谷を捜索しても、結局蓮司を見つけることは出来なかった。


 それどころか、成瀬家を訪ねても誰ひとりとして家に残っていなかった。蓮司と同じく、彼らも縁を断たれて見つけ出すことが出来なかったのだ。これ以上は闇雲に捜しても意味はない。そう考えて、一条たちは一端、神楽坂の事務所に戻ることにした。


 ぽつり、と頬に雨粒が落ちた。空は雲の濃さを増している。雨に振られると思い、一条は事務所に戻ろうと歩き出した。


 だが屋上の出入り口に着くより先に、そこから誘がひょこっと顔を出した。


「ああーっ! 一条さん煙草吸ってる! そんなんじゃまた妹さんの好感度下がりますよ!」


「……べつにいいだろ。あいつはいないんだし」


 悪さが見つかった学生のような気まずさで、一条は吸殻入れに煙草を投げた。


 元々禁煙を始めたのは、妹である祭塚逢花に煙草臭いと苦言を言われたのがきっかけだ。兄の利世にも吸い過ぎだと警告され、仕方なく禁煙をすることにしたのだ。


「そんなこと言ってると、いつまで経っても止められませんよ。それと朝食の時間です。和泉ちゃんが作ってくれました」


 一条は誘とともに階段を降り、二階の事務所へと向かった。灯籠堂が事務所を構えるこのビルは三階建ての雑居ビルで、一階が古本屋で二階が灯籠堂、三階が灯籠堂の倉庫になっている。一応地下室もあるが、そこは古本屋の領域だ。


 古本屋の方は、このビルの管理者が趣味で経営しているものだ。元々ここの管理者とは外法対策局に所属していたときからの付き合いで、そのお陰で相場の価格よりだいぶ安く事務所を構えることが出来ている。


 事務所に入ると、部屋の中央のローテーブルにサンドイッチの山が皿に盛りつけられていた。


 キャベツとベーコンを挟んだものや適当なジャムを挟んだもの、綾人のためにフルーツを挟んだものまである。冷蔵庫に残っていたものを片っ端から使用したようなラインナップだ。


 台所では和泉がまな板の汚れを水で洗い流している所だった。ソファには綾人が座っており、この数日間の間に神祇省の資料室からかき集めてきた資料を張り詰めた表情で読み込んでいた。


 事務所に戻ってから睡眠を取らせたとはいえ、綾人の疲労は色濃く見えた。蓮司を見失ったという責任が彼を駆り立てているのだろう。


 あまり根を詰めさせるのもマズいと思い、一条は綾人の肩を指先でトントンと叩いた。


「綾人、やっぱり一旦家に帰ったらどうだ。蓮司のことがあるとはいえ、お前はバイトだし、一度きちんと休んでからでも……」


 綾人は資料からは眼を離すことなく、首を横に振るだけでその提案を否定した。綾人の瞳に宿る意志は衰えていない。彼は微塵も蓮司を見つけることを諦めてはいなかった。


 その様子に一条は苦笑し、差し入れとばかりに金平糖の袋を綾人の前に置いた。綾人は袋を手に取ったかと思うと、逆さまにして一気に中身を口に流し込んだ。


 少しあげるだけのつもりだったのに全部食べられてしまった。残った空の袋を振ると、金平糖の欠片がからからと虚しい音を立てた。一条はちょっぴり哀しい気持ちになった。


「ちょっとー。せっかく作ったんだから、栄養補給はあたしの料理でさせてよね」


 和泉が洗い物を続けながら文句を言う。一条は謝りながら、ソファに座ってサンドイッチを食べた。誘が人数分のインスタントの卵スープにヤカンでお湯を注ぎながら言った。


「珈琲いる人はいますか。ついでに作っちゃいますけど」


「え、誘ちゃんが入れるの?」それまで資料から眼を離さなかった綾人が顔をあげた。


「あの、誘ちゃんがやらなくても、あたしがやるわよ。料理はあたしの担当だし。ほら、誘ちゃんは座ってていいから、ね?」


「……なぜ皆さんわたしが珈琲を入れようとすると頑なに止めさせようとするんですか」


「そりゃお前の作る珈琲がマズいからだよ。けどその方が目覚ましには丁度良い。淹れてくれ」


「ふふーん。マズいと良いつつ注文するあたり、一条さん、わたしの珈琲好きですねー。もぅ照れ屋なんだから」作れるのが嬉しいのか、誘は意気揚々と珈琲を作り始めた。


「それと綾人のぶんはなしな。いま珈琲酔いされるのは面倒だし」


 自分が被害を受けないとわかり、綾人はほっとした顔をした。


 綾人の珈琲酔いはダウナー系で、カフェインが効いている間は鬱気味になる。呪術の切れは上がるのだが、その分心が繊細になりすぎるのが面倒なので一条は止めたのだ。


 一条、誘、和泉に珈琲が行き渡り、それぞれ朝食を食べながら五法曼荼羅に関する資料を読み漁った。成瀬家を怪異に巻き込んだ者は、五法曼荼羅のバグにより発生した屍獣を操るものだ。他に、曼荼羅を悪用していなか調べることで、成瀬家の件の打開策、そして事件性を明確にすることで外法対策局への協力を得ようと考えていた。


 こうしている今も、成瀬家の人々の捜索は行っていた。千駄ヶ谷に無面の式神を放つことで、一条たちは自分たちの足を使うことなく、捜索活動をしているのだ。術者が現場にいる方が捜索の効率もあがるが、それをしないのは式による捜索では発見は難しいと判断したからだ。


 この数日、様々な依頼を受けた。


 岸本杏の殺害、成瀬蓮司の家庭問題、立花明乃の捜索。元々誘から依頼を受けていた紫堂家の当主殺害事件も含めれば、同時期に四つ依頼をこなしていたことになる。


 小規模な修祓社である灯籠堂が受けるには、質も量も少々多かったと一条も反省した。だがその代わりに、一条はこの複数の依頼に関連性を見つけ出していた。


 蓮司と明乃の捜索が滞っている原因は、二人とも縁を切られたことに起因する。縁切りは呪術師の捜査を妨害するのによく利用されるが、この二人のように人だけでなく物との縁まで徹底的に切られる例は稀だ。よほど縁の扱いに長けた術者でなければ、こうはいかない。


 それが都内で連続して起きた。一条の知り合いでも、そんな真似が出来るのは縁の扱いに特化した相川正樹くらいだった。二人の縁を切った犯人は、同一人物の可能性が高い。


 そしてもうひとつの関連は、屍獣と紫堂家の一件だ。


 屍獣は二年ほど前、紫堂家当主と紫堂秋水が殺害されて間もなく発生したものだ。発生時期が近いからという理由

で、あの怪異を紫堂家の事件に繋げるのは短絡的かもしれないが、それでも意識せざるを得ない要因がある。


 紫堂家は屍鬼造りの大家にして、この国の怪異を秘匿するための曼荼羅のひとつ、屍法曼荼羅の製作を中心的に行った家だ。あの鼠の怪異は屍鬼に近い存在で、日本国内の広範囲に渡って発生している。となれば、屍法曼荼羅の詳細を把握する公彦がいなくなったあとに、曼荼羅に意図的に手を加えられたという可能性も考えられる。


 本来の屍魂の術は、死者の肉片を繋ぎ合わせ術をかけることで、人造生命を造る術だ。


 ある意味で、電気を使わない和製フランケンシュタインの怪物ともいえるだろう。


 屍法曼荼羅はその製法工程を短縮、より簡易にすることで単一の死体のみで屍鬼を作り出し、死相持ちとして活動させる。本来の屍鬼と違い、強靭な肉体も特異な能力も備えていない、性能だけでいえばただの人間と変わらないものだ。屍獣はその屍法曼荼羅に元々の死者の肉片を素材にする、という製法を加え、対象を人間ではなく小動物にしたものだろう。


 問題は、その屍法曼荼羅を利用して、相手が何をしようとしているかということだ。


 そうした考えを頭で纏めながら、一条は誘の珈琲を呑んだ。強過ぎる苦みが舌を襲い、思わず顔をしかめた。どうすればこれほど珈琲をマズく淹れられるのか。


 本当に、誘は珈琲をマズく作ることに関しては天才的だ。その証拠に、和泉も「じゃりじゃりするー」と愚痴りながら珈琲を呑んでいる。不思議なのは、作った本人が満足そうに珈琲を呑んでいることだ。誘の味覚はまともだが、どうも珈琲に関しては舌が馬鹿になるらしい。


 誘は珈琲を呑んだあとに水饅頭を食べ、頬に片手を添えてうっとりと言った。


「はぁー。こんなときに不謹慎かもしれないですが、やっぱり甘いものは良いですね。幸せの味です。あ、和泉ちゃん、わたしの珈琲どうです? 今回は自信作ですけど」


「……現実の味がするわ」


 ようするに苦いということだろう。よくわかる。が、そんなことよりも曼荼羅についてだ。


 曼荼羅とはそもそも瞑想のために発明された霊的な装置だが、長い時を経て、呪術師たちは曼荼羅を単に瞑想の道

具としてだけでなく、結界の一種としても利用するようになった。


 密教においては、仏像や文字、神々を視覚的に用いることでその世界観を表現している。


 ある種の秩序を構築する際に利用しやすいことから、境界としての結界ではなく、物理法則から離れた異界を構築する際に、呪術師は曼荼羅を使うのだ。


 そしてその到達点、日本を守護する結界として造られたのが五法曼荼羅だ。


 日本全土に敷かれた曼荼羅は大まかに分けて五つ。


 屍法曼荼羅、収斂曼荼羅、心王曼荼羅、識曼荼羅、有為曼荼羅、この五つの曼荼羅を作り上げるのに、多くの呪術師の家系が関わり、それぞれの英知を積み上げた。


 屍法曼荼羅は、怪異によって死んだ人間を屍鬼化することで怪異による死の秘匿、そして死霊を式神化することで国内の霊的防衛力の強化を。


 収斂曼荼羅は、土地や一般人が宿す霊力の余剰分を徴収し、曼荼羅の機能の維持と神祇省職員や修祓資格を持つ呪術師への供給を。


 心王曼荼羅は、認識操作と怪異発生箇所への人払い、精神干渉によって、一般人の怪異や呪術の認知度を下げる役割を。


 識曼荼羅は、インターネットに挙げられる怪異関連の画像や映像の規制、及びネット上に掬

う多くの怪異の排除を。


 有為曼荼羅は、それら四つの曼荼羅の統括・制御を。


 これら全ての曼荼羅を合わせて、五法曼荼羅という。それに手を加えられたということは、呪術社会の秘匿の要となるシステムに皹を入れられたようなものだ。


 これを報告して、霊地計画局はどう動くだろう。調査か、それとも黙認か。


「曼荼羅に手を加えられる呪術師となれば、数も限られる。まず間違いなく、霊地計画局に関わりのある奴だ。あそこにいた人間が、一番曼荼羅に手を加えられる機会は多い」


「悪い顔。一条君、霊地計画局に犯人がいること、期待してるでしょう」


「まぁな。もし霊地計画局に犯人がいたら、必ず動きがある。対策局に連絡入れて注意してもらえば、じきに誰かしら見つかるだろうな」


 今まで資料に釘付けだった綾人がようやくそれから眼を離し、サンドイッチを手にした。


「一番良いのは、曼荼羅に手を加えたのと蓮司君を攫った奴が同一人物なことだね。それならすぐに居場所を聞き出せるし。けどそれも、霊地計画局に犯人がいればの話だけど」


 綾人はそれほど都合の良い展開は期待していないらしい。当然と言えば当然だ。どちらにしても電話をかけてしばらくすればわかることだ。ソファから立ち上がり、一条はデスクに置かれた電話に手を伸ばした。報告するのは、曼荼羅についてと、成瀬家についてだ。神祇省の認可にない屍鬼がいるとなれば、彼らも蓮司の捜索に手を貸してくれる可能性がある。


 受話器を取り、外法対策局に繋がる番号をひとつひとつ押していく。その動作に、一条は違和感を感じた。番号をひとつ押していくごとに、何か後ろめたさのようなものを感じるのだ。連絡しなければならないのに、連絡してはいけない気持ちにさせられる。その感覚は、番号をひとつ押すごとに強くなっていく。そして最後の番号にまでなると、ほとんど身内を殺さなければならないのと同じなのではと思うほどの抵抗感を感じるようになった。


 指がまるで動かない。呼吸が乱れる。ただ電話をするだけなのに異常なことだった。


「どうしたの一条くん? だいじょうぶ?」


 和泉が心配して問いかけてくる。


 質問には答えず、冷や汗をかきながら一条は震える指でボタンを押した。耳に当てた受話器から通話音が鳴り始める。だが、それが途中で途切れた。通話音も人の声もせず、ただ砂嵐のような音だけが聞こえる。あり得ない。確かに捜査局の番号を押した筈なのに。


 もう一度、あの抵抗感に耐えながら番号を押す。だが繋がらない。携帯でも試してみた。繋がらない。縁の繋がる緒方にも念話で声をかけようとした。それも繋がらない。


 デスクの前に立ったまま、一条は愕然とした。どの方法を試しても、誰かに曼荼羅の異変と成瀬家に関する報告をする行動が不可能になっている。心の抵抗感、物理的な連絡手段の機能不全、不可解な縁へのジャミング。それらが邪魔をして、誰かに声をかけることを許さない。


「一条さん、ホントに大丈夫? 汗凄いよ」綾人が心配そうに言った。


「お前たちも電話かけてみてくれ。それが駄目なら、他のやり方でもいい」


 戸惑いながらも、誘たちは携帯を使って外法対策局や霊地計画局への通話を始めようとした。


 だが、和泉も綾人も一条と同じ精神的な負荷がかけられたようで、途中で指が止まっている。三人のなかで唯一誘だけがそうした抵抗もなくすべての番号を押せたが、結局電話することは出来なかったようだ。


「駄目です。いくらかけても電話できません。綾人君はどうですか?」


「電話どころか、かけようとする段階で指が止まるよ。こんなの初めてだ。ねぇ、もしかしてこれさ、曼荼羅からの

干渉受けてない?」


「いやいやまさか。それはないでしょう。だってあたしたち呪術師……けど、これだけの無意識の段階で精神的負荷をかけられたとなると……」和泉は表情を堅くして考え込んだ。


 綾人の言う通り曼荼羅の影響だろう。それも複数の曼荼羅から同時に干渉を受けている。


 恐らく、より犯人に近い情報を持つものほど干渉が大きくなる類いのものだ。だから、最初は気付かないほど微弱な干渉でも、真実に近づくほど大きくなり、誰かに助けを求める段階になれば、手遅れなほどの干渉を受けることになる。いまの一条たちがまさにそれだ。蓮司の件を捜査局に伝えなかったのも、無意識の段階で干渉を受けていたせいかもしれない。


 一条は呪具の入った鞄を手に取った。


「誘、一緒に来い。直接神祇省に行くぞ」


「わかりました」


「和泉たちはここで待機。他に連絡手段はないか探ってくれ」


 頼んだぞ、と言ったあと、一条は事務所を出た。焦燥が胸を焦がす。もし神祇省にまで行けないのなら厄介だ。最悪、自分たちだけで五法曼荼羅を相手にしなくてはならなくなる。


 それは現在の呪術社会のシステムそのものと戦うということを意味していた。

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