第九夜 火葬

 ビルに挟まれた路地は、地獄絵図とかしていた。


 絨毯のように地面を埋める獣たちは無尽蔵にすら思える。殺しても殺しても尽きることはなく、死んだ仲間を餌食に鼠たちはさらに進軍の勢いを増していく。


 文字どおりキリはなく、果てることのないケダモノの群れには怖気を感じる。


 その怪物たちを、綾人の造り出した墨の獣が、正面から押しとどめていた。


 彼は両手を地面に置き、腕に刻んだ墨の刺青を、呪術で地面に伸ばすことで、筆を使うことなく墨絵を描き続けている。犬や猫、蛇の絵は三次元への形を得ると、主人の敵である鼠の大群へと次々に襲いかかる。獣たちの戦いは熾烈だ。墨の蛇に噛み殺された鼠の死骸は、すぐさま仲間の鼠に食い荒らされ、栄養として彼らの力になっている。生臭い匂いと醜悪な光景に、蓮司は酷い吐き気を感じた。このまま逃げ出したい気持ちになり、つい足が後ろに下がる。


 敵を押しとどめる墨の境界線は、鼠たちに少しずつ爪や牙で削られている。綾人も新たに境界線を造り、墨の獣で鼠を蹴散らすが相手が墨を喰らう速度の方が早い。


 この醜い獣たちに襲われるのも時間の問題だ。もはや二メートルほどしか蓮司たちが歩ける距離はない。数百どころか千にも届きそうな鼠に襲われれば、きっと骨も残らない。


 そう考えていたとき、恐怖で感覚が鋭敏になっていたのか、蓮司はすぐ近くで鼠の鳴く声を聞いた。振り向くと、数十センチ先にある墨の境界線が今にも食い破られそうになり、その隙間から鼠が侵入しようとしていた。


「綾人、鼠がっ!」


 綾人は舌打ちして、決壊寸前の境界に呪術で墨を伸ばした。彼の手元から見えない筆が引かれたかのようにコンクリートの上を墨の線が走っていく。体の半分まで結界のなかに割り込ませていた鼠は、走るように引かれたその線によって胴体を真っ二つに両断された。鼠は絶命し、結界の外に残された下半身はすぐさま仲間の鼠にガリガリと食べられる。


 だがそれだけでは終わらなかった。壁面に張り付く鼠たちは、一箇所に集まったかと思うと急に互いを貪り始めた。目を逸らしたくなる醜悪な光景だが、敵の目的がわかり、蓮司は愕然とした。ただ食い合っているわけではない。鼠たちの傷口から筋繊維が糸のように伸び、互いに結びついていく。無数の鼠が縫い合わさり、やがてそれは数え切れないほどの鼠を折り重ねた巨大な蜘蛛の姿へと変貌した。


「ヤバっ、あれはさすがにマズいかもっ!」綾人が初めて本気の焦りを露わにした。


 大蜘蛛が、ビルの壁から路上へと落下する。地面を揺らす着地音と共に、踏みつぶされる鼠の鳴き声が聞こえた。大蜘蛛は、仲間の鼠に構わず、真っ直ぐに蓮司たちの方へと走ってくる。


 綾人がちらりと、足下へと視線を向ける。彼の足下には、他の絵よりも精巧な大蛇の絵があった。鼠たちを一掃するため、他の墨絵を操りながら描いていたものだ。


「くそっ、まだ描き込みが甘いけど仕方ないか!」


 綾人が柏手を打つのと同時に、地面の大蛇が動き出す。大蛇は平面の絵のまま、流水のように地面を蛇行して進んでいく。大蜘蛛の前にまで来た瞬間、大蛇は魚が跳ねるように地面から立体化し、大蜘蛛の体へと巻き付いた。足を封じられた大蜘蛛が滑るように転倒する。


 綾人の結界に阻まれてやっと大蜘蛛が止まる。


 その蜘蛛を見て、蓮司は唾を呑み込んだ。


 大蜘蛛はすぐ目の前、その気になれば触れられる距離にいた。


 動きを止めた大蜘蛛に、墨の大蛇が大口を開ける。絵という架空の存在のためか、蛇の口角が異常に裂け、この巨大な蜘蛛ですら丸呑みに出来るほどの大きさに口を開いた。


 大蛇が大蜘蛛に齧り付く。口の端からさらに体を裂きながら、徐々に蜘蛛の全身を呑み込んでいく。だが、周囲の鼠たちがそれを許さない。鼠たちが大蛇の全身に齧りついた。蛇の鱗は硬く、鼠たちの牙はまるで通さない。


 しかし、全身鋼鉄のような蛇の体にも一箇所だけ柔い箇所があった。綾人が描き損じた部分。鱗のない白地の箇所に鼠が噛み付いたのだ。


 白地を中心に、幾匹もの鼠が大蛇の体をガリガリと削っていく。大蜘蛛を丸呑みにするより先に、体の半分を食い荒らされ、蛇は元の墨へと戻ってしまった。


 解放された大蜘蛛が、蓮司たちの前へと立ちはだかった。


 蓮司は絶望的な心地で、数メートルはある大蜘蛛の巨体を見上げた。


 もう墨絵の獣は残っていない。あるのは結界のみ。それが破られれば食い殺される。


 死の想像が、頭のなかを埋めていく。


 だがそのイメージを引き裂くように、男の声が届いた。


「しゃがめ、二人とも!」


 その声に従い、蓮司は頭を下げる。次の瞬間、一秒前まで蓮司と綾人の胴体があった場所を何かが走り、大蜘蛛に突き刺さった。それは全身が黒塗りにされた五本の日本刀だった。


 大蜘蛛に突き刺さった瞬間、刀は燃え上がり、数秒足らずで大蜘蛛を灰にした。 


 さらに蓮司たちを守るようにして、結界の外に幾つもの火柱が立ち上った。周囲一帯が焼き尽くされ、鼠たちの断末魔の鳴き声が聞こえた。


 灰に埋め尽くされた地面を歩いてきたのは、祭塚一条だった。


 一条はビルの壁中に張り付いた鼠の群れを見渡すと、呆れたように言った。


「ったく、とんでもない数だな。こりゃ怪異調査部の奴らが駆除に苦労するわけだ」


「綾人くんお疲れまでーす。大丈夫でしたかー?」


 彼の隣には、紫堂誘もいた。私服に着替えたのか、制服ではなく、黒のブラウスに白いロングスカートという恰好だった。


 彼らの姿を見て、蓮司はようやく自分が助かったのだと自覚出来た。綾人は彼らが来るまでの時間を見事に繋ぐことが出来た。しかし、その肝心の綾人はあまり嬉しそうではなかった。


「なんだよ今更来てさ。あともう少し遅かったら、あんな大蜘蛛ぼくが倒してたんだから」


 自分が倒せなかった相手を、あっさり一条が倒してしまったことが悔しいらしい。


 そんな綾人の頭を、一条はぽんぽんと撫でた。


「拗ねるな拗ねるな。バックアップもなしに良くやったと思うぜ」一条はそのまま誘を振り返った。「それでどうだ、誘。実物を視た感想は」


「いけます。この鼠たちは充分に屍鬼としての因子を内包している。わたしの干渉範囲です。動きを止めますので、一条さんは焼却を」


 一条は「あいよー」と返事をすると、緋色の数珠から数珠玉をひとつ抜き取った。


 数珠玉は発火したと思うと、全身黒の日本刀に変化した。その刀身を、一条は地面に突き刺した。彼の右腕には、淡く光る白色の刺青があった。その刺青の発光と同時に、一条の足下に法曼荼羅の図が浮かぶ。


 呪術師ではない蓮司には、彼が何をしているのかわからない。


 しかし、その場に満ちる力が確かにあるように感じられた。


 誘が両腕を左右に広げる。彼女の手からは、紅い蝶が花咲くように現れた。


 幾羽も現れた蝶は、街路を羽ばたいていく。蝶の羽が空気を叩き、鱗粉を撒き散らすごとに鼠たちは生命力を失くしたようにくたりと動かなくなった。


 街路一帯の鼠が動かなくなると、一条が日本刀を持ち上げた。


 刀の刀身に、ひび割れるような緋色の亀裂が走る。


 刀身が地面に突き刺さった瞬間、そのひび割れは周囲の地面からビル壁にまで広がった。


 地面の亀裂から、火山のように火柱が立ち上る。


 大気が熱を帯び、街路が火に包まれる。醜い獣は、炎によって一切合切が焼き尽くされた。


 火が消えたとき、街中に残されたのは、白い灰だけだった。まるで噴火のあとのように空気中には灰の粒子が入り乱れていた。


「ま、こんなもんか」


 そう呟くと、一条の手の日本刀が綻ぶようにして黒い灰になった。その灰は意志を持つかのように飛び、一条の腕の数珠へと戻る。


 一連の出来事を、蓮司は惚けたように見ていた。まるで現実感のない光景。しかし確かに、現実に起きた出来事だ。とんでもないものを見たという心地で、蓮司は灰かぶりとなった街中を見た。


 ふと、灰のなかに白ではなく、薄い桃色ものが見えた気がした。目を細めてみると、それは花の花弁のようだった。灼熱地獄のあとにそんなものが残っているのを不思議に思っていると、一条が蓮司に問いかけた。


「蓮司君、大丈夫だったか、何処か怪我とかないか」


「は、はい。大丈夫です」


「ならよし。それじゃ戻るとするか」


 一条がその場で地面を踏み鳴らすと、一瞬にして世界が色を取り戻した。


 空が晴れるようにモノクロの世界に色がつき、焼け跡と灰は幻夢のように掻き消え、街を行き交う人々が周囲に戻っていた。


 そのあまりの変化に蓮司は驚き、周囲へと視線をやった。


「全然変わってない。祭塚さん、さっきの戦闘とか、なんの問題もないんですか? あんなに鼠が現れたり、炎が吹き出したりしたのに」


「さっきのあれは特別製でな、位相をずらして対象を彼岸よりの空間に隔離する結界なんだ。ようは一般人にバレないよう巻き込まないよう作られた代物。結界内で見たビルも、現実の影でしかないってわけだ。あの規模なら神祇省のバックアップか、十数人は呪術師が必要な代物の筈なんだが……」一条は何かを確かめるように瞳を閉じた。次に目を開いたとき、彼は当てが外れたように残念そうにした。「駄目だな。この近辺に曼荼羅で接続した跡はない」


「周囲にわたしたち以外の呪術師がいた様子もありません。どうやったんでしょうかね」


「人畜無害な筈の屍獣がヒトを襲ったことも問題だ。これは神祇省にも報告しとかないとな」


 呪術の話はわからないが、自分の見解を確かめようと、蓮司はこっそりと綾人に尋ねた。


「なぁ、さっきの結界だっけか、あれが造られた方法がわからないから、犯人についても見当がつかないってことで良いんだよな」


「うん合ってる。さっき、一条さん目瞑ったでしょ。あの時、曼荼羅の利用者のログを辿ったんだ。けど、使用記録がないから困ってる。現場にも他の呪術師なんていなかったからね」


「ログって、なんか呪術師っていうイメージと合わない単語だな」


「フフ、文明と同じく、ぼくら呪術師も日々進歩しているのだよ」


 なるほど、と納得をしていると、 蓮司にはわからない話を続けながら、一条と誘が歩き出した。蓮司もその後に続く。話のなかで沸き上がる疑問を解こうかと思ったが、それよりも恐怖から解放された疲労の方が勝り、蓮司は口を閉じた。


 そんななかでも、言うべきことは思い出し、蓮司は綾人に言った。


「ありがとう、綾人。助かったよ」


「ふふん。もっと感謝してくれて良いんだぜ、蓮司君。なんせぼくは君の命の恩人だからな」


「つっても綾人ただの時間稼ぎだしなー」


「なにおぅっ! 見てろよ。次があれば、ぼくの絵で全部蹴散らしてやるからな」


 そんな取り留めもないやり取りで、ようやく現実に帰れた気がした。


 慌ただしい、密度の濃い一日だったように思う。


 呪術師の事情も、怪異の事情も、よく知りはしない。


 それでも今日の出来事が、問題の解決のために、役立つものであれば良いと思いながら、蓮司は街を歩いた。

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